薄明の庭にようよう輪郭をあらわしつつある松の枝や灯籠の笠の上に、ゆうべのうちに積もったのだろう、青白く浮かび上がる雪が目に痛いほどだった。
(今年の梅は晩かろう)
両手を摺り合わせながら、あたたかな床へふたたび戻るべく、冷たい縁廊下を踏む足をいそがせる。と、行きには空だったはずの縁に面した一間に、火鉢をかかえた男が丸くなって座っているのに気がついた。
「俊輔」
どうした、と開いた障子からにょっきり首を出すと、まだ火を入れたばかりらしい火鉢に、肩をすくませながら炭をついでいた伊藤が顔をあげた。
「なんだ、聞多か」
またひとつ、炭を組み上げる。
「なんだじゃない。何してるんだ」
「雪でも見ようかと思ってな」
「こんな早くからか」
「目が醒めたんだよ。おまえは、厠か」
「もう寝ないのか」
「妓(おんな)がもう勘弁してくれとさ」
「その『寝る』じゃねえよ」
しかし雪なんかお前、と井上はだらしなくあくびをしながら、火鉢を挟んで伊藤の前に腰をおろした。ひとわたり障子の外を眺めやって、
「あんまりいい庭でもねえなあ」
「たいして売れっ子でもなかったそれ筋上がりの女将の店なんだから、庭だって別嬪というわけにはいかんだろうさ。何なら井上の御前が旦那になってやって、いい庭にしてやればいい」
「やだよあんなおかめ」
井上は伊藤から火箸をとりあげて、
「お前、へたくそだなあ。こう……」
等間隔に隙間をつくって、器用に炭を組んだ。
「こうして、こう。な」
あかあかと火が熾こる。
「巧いものだな」
伊藤が素直に感心する。
「お前は昔から何をやらせても、妙に勘がはたらくというのか……そのくせその気性が災いして、あと一歩でしくじったりするんだな」
「朝っぱらからいやなことをいうやつだな」
「惜しいといっているのさ。器量からいえばとうてい俺や黒田の後塵を拝むお前じゃないだろう」
「そりゃどうも」
片頬で笑って、火箸の先でかりかりと炭を掻く。
「俺は本心で言っているのさ。なあ、聞多、」
「よくしゃべるやつだなあ」
井上は火箸を投げ出し、うーんと大きく伸びをして、
「お前、どうした。やっぱり落ち着かないのか」
「何が」
「はぐらかしなさんな。お前みたいな瓢箪鯰でも、国家百年のここが切所だ、そりゃ緊張するだろう。笑やしねえよ」
「誰が瓢箪鯰だ」
「おまけに助平で」
「お前がいうな」
「気を鎮めようったってどだい無理な話さ。それを八つ当たりまがいに体でぶつけられちゃ、妓が閉口するのも道理だろうぜ」
「うるさいな」
伊藤は井上の置いた火箸をひったくった。が、それをどうするというのでもなく、膨れっ面を俯かせて、ぐりぐりと灰をかきまぜている。その仕草は子供じみているのだが、
(ジジイになりやがって)
しおたれた髭の先を見つめて、井上は思った。といってそれがあわれがましいというのではなく、何やら妙に可笑しく、いっそ嬉しい気がしたのである。
(人並みに怖気づくようになりやがった)
が、今さっき井上が自分で言ったように、伊藤の一種の不安定さは、それが当然というものである。
「長くかかっちまったなあ」
後ろに手をつき、天井を見上げて歎息する。ほとんど二十年越しだぜ。つぶやくと、伊藤がちろりと目を上げ、またすぐに伏せた。
「それは憲法自体はな、もう少し早くできてもよかったさ」
すこしこわばった声で、伊藤は言う。
「だが内容はどうも……俺はできるかぎり抑えたつもりだが、それでもまだ急ぎすぎている。今年はともかくも、来年から先を思うとあんまり殆いじゃないか」
「しかしもうこれ以上は延ばせまいよ」
「公議輿論、か。碁会所や井戸端の囀りを輿論だなんて新聞の馬鹿がおだてるから」
「まあ、なあ」
伊藤の握った火箸が、でたらめな線を灰の上に描いている。線と線のあいだにうまれるふしぎな形を見つめながら、それでももう降りられないぜ、と井上は言った。
「お前も、俺もさ」
「わかっている」
頷いて、伊藤は深く火箸を突き立てた。
来る紀元節に、憲法の発布式がおこなわれる。
維新からほどなく、とくに岩倉以下の外遊の頃から本格的にはじまった欧米の憲法調査のあとをひきついで、伊藤を先頭に吏僚たちが研究をかさね、ついに帝国憲法が完成した。来年には議会が開設される。伊藤も井上も、それから藩閥の徒として名指しされる連中の多くが議会開設は尚早とみていたが、八年前の詔勅のこともあり、もはや民権派に対してそこまでは譲歩せざるをえない状況になっていた。
ともあれ、苦心の末に憲法はうまれ、いま世に出ようとしている。
昨夜は、その前祝いだった。首相の黒田をはじめ、閣僚が全員うち揃って大いに飲みさわいだ。会はほどほどの時間に果てたが、そのあと伊藤と井上は連れ立ってこの料理屋に駕を枉げ、馴染みの芸者を呼んで部屋を分かったのである。
妓の肩を抱いて消えるまでは、伊藤はめでたいめでたいと陽気にはしゃいでいたのだが。
「何を笑ってるんだ」
伊藤に言われて、井上は親指の腹で唇をぬぐった。
「いやさ。お前や俺が固陋だの漸進主義だのいわれる世になったかと思ってな」
「かつてのアラビア馬が、か」
伊藤は苦笑した。
「思えば若い時分は無理を言ったものさ。先輩をみんな固陋だときめつけてな」
「お、反省してるのか」
「そりゃそうだろう」
「ふうん……」
日が昇りはじめている。庭がしだいに明るくなって、雪がちらちらとかがやきだす。井上はそっと顔をしかめるようにして、それへ目をやった。伊藤の視線が追いかける。
「こうして見ると、そんなにわるい庭でもないじゃないか」
伊藤がいうのへ、井上は薄く笑って首をかしげる。
「なんだ」
「いや」
雪が、まぶしい。朝日にゆるんだそれが、青々とした松の枝先から玉のような滴になって零れるのを見つめながら、
「今時分の京都は寒いだろうな」
自分でもおやと思うほどおだやかな声でつぶやいた。
「京都?」
と伊藤が問い返す。
「勅使が立つんだろう。京都と、染井に」
「ああ……」
「あれ、お前か?」
お前の発案なのかという意味を短い言葉に縮めて尋ねると、
「いや、陛下(おかみ)さ」
井上とおなじ湿度の声で、伊藤が答えた。
「憲法へ御璽を戴くにあたって、そも立憲論のおこりはいかにとの御下問があったからな。まあ陛下は実際ぜんぶ御承知なんだろうが、生身に経験してきた俺のいうことを聞いてやろうじゃないかという思し召しだろう。俺はそれはやっぱり木戸さんが大いに与って力のあったことだと思うからその通りに奏上したが、だからって勅使をお遣わしあれとか、そこまで押しつけがましいことはいわなかったよ」
「そうなのか」
笑いをひっこめて伊藤をふりかえる。鼻の奥にツンとこみあげるものがあった。
「そうさ。ずいぶん懐かしげに聞いてくださったが、色々思い出すことがおありなんだろう。まあ久光公の墓前にまでというのは憚りながら解しかねるが、左大臣だから仕方ない」
発布の当日にあわせて、木戸、大久保と旧大名四名の墓前に勅使下向の件が決定したという。誰のはからいかと思っていたが、まったく純粋の叡旨に出ることというのなら、地下の木戸も――それを名誉と感ずるよりも主上の憲法に対する叡慮の深さをおもって――瞑目するにちがいない。
「あの人は、若い頃から漸進論者だったな」
あたたかく燃えている火鉢に目を落として、井上はつぶやいた。ときどきぱち、と炭のはじける音がする。ああ、と伊藤が頷いた。
「俺が初めて会った頃、あの人はまだ今の俺やお前の半分ほどの齢(とし)だったがな、今になって思い返してみても、ずいぶん老成していたと思うよ。ただの慎重居士じゃないんだ。ものが見えているぶんだけ、どうしても急進にはなりえなかったんだろうな。齢に似合わない、堅牢なものだった。今――」
そこまで口にして、伊藤は口をつぐんだ。言いかけたことを後悔するように、くるしげに唇を噛んでいる。彼の嚥み下した言葉のさきが、井上にはわかる。
(今、かの人ありせば――か)
それをぬけぬけと言えないところが、伊藤の正直さだろう。伊藤と木戸との関係は、余人には窺いしれぬところがあった。因縁の深いだけによそ目には難解なこじれ方を見せた時期もあったが、ひとが面白おかしく取り沙汰するほど、芝居の筋のような確執劇があったわけではない。およそ芝居になりえないほど、両人の間柄は複雑にからまっていた。井上にさえそれはよくわからないが、しかし世上噂されたのとはちがう、当人どうしにしかわからない苦さや後悔があるのだろう。
――今にして木戸ありせば。
伊藤はおそらくしんからそう思っていながら、それを口にすることで痛むなにがしかの傷が、彼にあるのだろう。
(面倒なことだ)
井上は伊藤にも、泉下の木戸のためにも気の毒に思う。そうして、羨ましくもあった。
(俺なんざ、はるかに単純だな)
井上には、木戸に対して何の屈折もない。木戸を思い出せばただ懐かしく、生前存分には理解してやれなかった彼の苦悩がひたすら痛々しく、しかしそのなかで自分たちに見せていたやさしさをおもうと、同時に息がつまりそうなほどのいとおしみをおぼえる。木戸をおもうとき、井上の感情はつねに烈しかったが、しかし伊藤のように複雑ではなかった。
「木戸さんが、いればなあ」
その一言がいえない伊藤のかわりに、彼は屈託なく歎声した。歳月に洗われたそのなげきはさらさらと清くあまやかで、井上は自らその感傷に酔った。一度思い出してしまうと、次から次へと押しよせてくる過去の想いがある。その重量に堪えきれず、井上はごろりと横になった。
「なんだ、眠いのか」
伊藤がそう問うのには答えず、腹這いになって頬杖をつき、
「なあ、お前さあ、」
と、あべこべによびかける。
「木戸さんのこと、好きだったろう」
伊藤は下を向いた。顔中を皺にして、怒っているような、何かに耐えるような表情をしている。その苦痛をやさしく撫でるように、
「俺は、好きだったよ」
ゆっくりと井上は言った。自分の言葉に年甲斐もなく胸がしめつけられて、その感覚のやり場のなさに、だらしなく笑った。
「本当に、好きでしかたなかったよ」
「お前のいう『好き』は……」
「まあ、俺のはよこしまなんだけどな」
ははは、と腕の中へ顔を落として、
「そうじゃなくて、好きだったろう。お前も」
伊藤は黙っている。顔のどこかが破れるのではないかと思うほどの、すさまじい渋面をつくっている。彼の部下――というより自分以外の人間が見たらおどろくだろう。が、べつに慰めようとは思わなかった。かわりに、
「なあ、」
と、すっかり白く明るくなった外に顔をむけて尋ねた。
「今になって思うんだが、木戸さんもあれでけっこう、俺を好きだったよなあ」
「それは……」
伊藤はわずかに苦痛を解かれた声を出した。
「よこしまなほうで、か」
「どっちでも」
「そんなもの」
鼻で笑った声がした。
「どっちにしても今さらだろう」
「そうか?」
「好かれていないつもりででもいたのか」
「いないつもりっていうんでもないけどさ」
井上は自分の腕に顔をうずめ、笑いながら目をとじた。
「ただもう好きでしかたなかったから、向こうがどう思ってるかなんて、ふりかえって考える余裕がなくてな」
「ふん」
伊藤がいまいましげに――しかしどこかやさしげに溜息をついた。
「昔よくそうやって木戸さんの話を聞かされたな」
俺が聞きたくもないことまで、微に入り細にわたってさ。伊藤の歎きにまじる温みが、だんだんと井上のそれに似てくる。思い出が、かさなりあう。
「ああいうの、お前実はちょっと楽しかっただろ」
「馬鹿をいえ」
「まあいいって。久しぶりに聞かせてやる」
「よせよせっかく暖まってきたのに」
鳥肌が立つだろう、と言いながら、伊藤はその場を動こうとはしなかった。
井上はしかし結局、艶話はしなかった。ただ他愛ない昔話をして、伊藤がときどき黙って頷く表情を見ていた。が、頭ではべつのことを考えていた。伊藤にも、とてもそれは話せそうになかった。べつに重大な秘密でも何でもないのだが、口に出せばきっと、胸がつまる。
いつも、木戸が欲しかった。
往来をなにげなく歩いていてふと小石につまづくように、若い日の井上は、唐突にその衝動へ落ち込んだ。落ちてみて、わけのわからないまま、木戸にそう言った。あれほど突然で、あれほど馬鹿げたその告白に、木戸はただ、笑っていた。笑って、井上のその気持に対してはいいともわるいともいわずに、ただ受け容れた。おもえば井上自身がそうと気づくよりも前から、木戸はこちらの募らせていた熱情を知っていたのかもしれない。
思ったよりもずっと簡単に木戸を抱いたのに、そうしてあじわった悦びはひどく深かったのに、手に入れたという思いはすこしも残らなかった。だから会うたびにもとめた。いつも何度も、自分が疲れ果てて眠るまで、木戸の体を離さなかった。
無理をさせていた、と思う。
それでもめったに、木戸はいやだとはいわなかった。自分で慰んでおきながら、井上はいつもそれをどこかしら気の毒に思っていた。
「つらいか……?」
と訊いてみたことがある。
そのときも、もう何度目かの交合を木戸に求めていた。彼はぐったりとして、しかしそれでも井上から強いられる快楽に、苦しそうに反応していた。
「ん……?」
彼は微笑んで、かすかに首をかしげた。
「つらかったら、そう言いなよ」
汗に濡れた髪をかきなでてやりながら、できるだけの思いやりを――そのときの主観のかぎりでは真実思いやりだった――こめて言った。その問いは、今現在の体がつらいかというだけのつもりではなかった。こうして自分と抱き合うことが、こんなかたちで想われることが木戸にはつらいのではないか――いつも井上は、ひそかにそのことを恐れていた。
「なあ、」
木戸の鎖骨のあたりにこつりと額をあてて、
「俺いつもあんたに無理させてるけど、あんたの体をおもちゃにしたいわけじゃないんだよ」
その馬鹿馬鹿しい、しかしそうとしか弁明しようのないいいわけに、自分で胸がくるしくなった。木戸の体を抱きしめ、熱に赧らんだ頬に夢中で頬ずりする。
「好き、なんだ」
奥歯を噛み締め、その隙間から絞り出すようにして言った。
そう。
好きだった。
ただそれだけのために、木戸の体を責め苛み、息もできないほどにくるしめた。そんな身勝手が許されるほど、高尚な感情ではないはずなのに。それでも木戸を前にすると、ほかに接しようを知らない、若い、愚かしい自分だった。
「もう俺、どうすればいいんだろうな」
ひどいことはしたくない。痛がらせたり、悲しませたり、そういうことがしたいのではないのに。
抱きしめたまま、思いみだれてつめたくこわばっている井上の頬を、木戸の指が撫でた。
「いつもどおりでいい……」
その声が、腹に沁みるほど甘く、やさしい。
「お前の、いいように……」
「木戸さん、」
思わず腰を押しつける。井上の体の下で、木戸が切なそうにふるえた。
「お前は知らないだろうがな、」
吐息が、井上の耳朶をくすぐる。
「お前の腕は、いつも最後まで、やさしいんだ」
木戸の手が頬から肩へ、そして腕へ滑ってゆく。
「ほんとうに、やさし、くて……」
木戸は多分、笑っていたのだろう。顔はついに、見なかった。見ればきっと、自分は死んでしまうと思った。木戸の声が、花びらのようにほろほろと、自分の体へ落ちかかる。
「つらく、ないよ」
「木戸さん」
声をあげて泣きさけびたい思いがしたのは、なぜだったろう。泣くかわりに、井上は木戸の中で荒れた。
「……っ、ん、ぁ……、」
「あんた、いつか俺に殺されちまうぞ」
木戸の頭を抱えながら、いきり立った声でそう言った。
「そうか……」
と木戸が荒い息の合間に答える声がする。そうか、じゃねえよ、と井上はやるせなさのうちにつぶやく。
「いやだとか困るとか、ちゃんと言うもんだぜ」
「ん……、」
木戸の指が、井上の髪に絡む。そのあとを、彼の吐息が撫でてゆく。
「困らないさ」
声が、微笑んでいる。抱き合っているこの時間ごと溶かすように、全身で抱きしめられた。
「死ぬまで、抱いてくれるんだろう?」
「約束、やぶっちまったなあ……」
井上は溜息とともに、ごろりと仰向けになった。低い天井に、黒ずんで乾いた染みがある。
あれは、約束だったろうか。おそらくそうとはいえまい。木戸もきっとすぐに忘れたろう。それでも、木戸を思い出すたびに、あの夜聞いたこの上なく甘い――天上の楽の音のようなやわらかな声が、耳の奥でこだました。
(死ぬまで――か)
本当に彼はそれを望んだのだろうか。そうだとしても、そうでなかったとしても。
「嘘、ついたんだなあ、俺」
伊藤には、何のことかわかるまい。あの日のことだけは、実に他愛もないことながら、井上はそれこそ死ぬまで、誰にも言うまいと思っている。言えば、消えてなくなってしまう気がした。皮膚がおぼえている木戸の温もりも、抱きしめたときの胸が苦しくなる感じも。
「約束か……」
その内容を知らない伊藤が、ぽつりとつぶやく。わずかな沈黙のあとで、
「ああいう時世を生きてきたんだ。約束なんて守られることのほうが稀だったろう。あの人だって、そうだったろうさ」
「お前は?」
井上は、首だけで伊藤に振り向いた。
「お前はあるか? 守れなかった約束が。相手が誰でも」
――木戸さんじゃ、なくても。その言葉は呑み込んだ。
「さあ」
伊藤は唇のはしだけで笑った。
「忘れたね」
「忘れるのは、いいことだな」
「皮肉か」
「皮肉ならよかったな」
いつか、自分も忘れるだろうか。憶えているから苦しいのに、結局井上はいつも、忘れることをどうしようもなく懼れている。そうしておそらくは、伊藤も。
「お前は、よくやっていたと思うよ」
伊藤のほうへ腕を投げ出して言った。
「お前はいいやつさ」
「何を言いだしたんだ」
「俺はいつも不実だったな」
天井の染みはよく見ると濃く薄く、まだらを描いている。大小の斑点の集合なんだ。大層な発見でもしたかのように、意味もなくそんなことを思った。
「不実だったよ。いつかお前に、木戸さんとこうなった以上はあの人を看取る覚悟でいろと言われたろう。なるほどと俺は思った。肚をくくったつもりでいたのに、結局間に合わなかった」
木戸が彼の愛した鴨川のほとりに息をひきとったとき、井上は三カ年を約した洋行の途上にあった。もともと井上は木戸をも洋行に誘い、アメリカで落ち合うつもりでいたのだが、結局折からの鹿児島の騒動で木戸は政府を抜けられず、井上の出立がそのまま両者の永訣となった。井上の帰国はそれからさらに一年の後、大久保が紀尾井坂に斃れたあとだった。
「恨んでいるか」
伊藤が低くたずねた。
「まさか。見そこなうな」
あのとき、木戸を中央から離すまいとしたのは、大久保と伊藤だった。しかし、
「わかってるよ。あの場合木戸さんには、たとえ危篤でも辞めてもらうわけにはいかない。俺だって内地にいたら同じことをしたろうさ」
ただ、な、と井上はちょっと眩しいような思いで伊藤を見ながら言った。
「今度京都へ下される勅使は、お国の大事な御用向きだろう。それなら、現職大臣が行ってもいいんじゃねえか」
「いいわけないだろう」
伊藤が口をとがらせる。
「百歩譲っても内務相か司法相だ。憲法発布報告に農商務相を遣れるか」
「言ってみただけだよ」
片頬だけで、井上は笑った。
猫の額ほどの庭の、ほとんどどぶのようなきたない池や、ちぐはぐに剪定された木の枝、欠けた灯籠が――それらの疵が、雪に覆い隠されている。ゆっくりと高く強くなる陽の光が、雪のこまかな粒子に反射してちらちらとまばらに目を射る。それを遮るように井上は、寝巻の袖をかざした。伊藤の視線をも、同時にのがれるように。
「お前は、」
と袖の影の外で伊藤が言う。歳月に鍛えられた、渋みのある男の声だった。
「お前は当分政府を動くな」
「そうは言ったって、どうなるかわからないぜ。俺にはお前と違って敵が多いからな」
「千万人と雖も往くんだよそこは」
笑いもせずに、伊藤は言った。
「お前は、せいぜい死ぬまでここで働けよ。木戸さんの忘れ形見だと思って」
この国を、などとさすがにそこまで気障な言いまわしはしなかったが。
井上は黙って、雪の光に目をほそめていた。伊藤がかさねて言う。
「お前の約束とやらも、まあそれで許してくれるだろうさ」
ふん、と井上は鼻を鳴らした。伊藤を嗤ったわけではない。
「俺はいつも、許してもらってばかりだったよ」
出会ってから、ずっと。そして木戸を抱いてからは、一層。いつでも許されて、甘えて、傷つけることに狃れていた。
木戸にも、誰かに許されたいと思うことがあっただろうか。井上は、乱反射する陽のかがやきのなかで思った。
(それが俺に対してでなくても――――)
そうしてそのとき彼は、許されたのだろうか。
(ああ、いまさら、)
実に詮無いことを、自分は考えていると思った。なぜ木戸の生きているうちに、その血が、肌があたたかいうちに、一度でも考えてやらなかったろう。
しかしそういう自分の歎きすら予測しきって、それらありとある悲しみのすべてをを知りおおせて、木戸は逝ったようにも思う。
(どこまでやさしかったんだろうな)
一度ぐらい、酷くしてくれてもよかった。一度くらいは、木戸に傷つけられてみたかった。
しかし、それもこれも――…………。
庭から自分を照らす光が眩しくて、井上は両手で顔をおおった。
「泣いているのか」
伊藤の声に、
「教えてやらねえよ」
子供のように畳を蹴って答えた。
[33回]
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