内務卿執務室の床は冷たい。
美しい彩りの絨毯が敷かれている上へ、靴を履いて、おまけに脚のながい椅子に掛けているのだから
冷たいはずはないのだが、木戸は足下からひいやりと氷の炎に炙られる気がした。
「それでは、木戸さん」
ああ。
この声のせいなのかもしれない、と木戸は相手に知られないよう秘めやかな溜息をこぼした。
「木戸さん」
怪訝そうに呼ぶ、大久保の声。
決して大きな声ではないのに、凛と張りつめて、刺すように響く。耳ではなく、胸へ。
「木戸さん」
「失礼、聞いております」
木戸は片手を目のあたりまで挙げてかるい謝罪の仕草をとり、大久保の追及をのがれた。
ここで深く尋ねないのは、大久保の長所なのかもしれない。気に留めたふうもなく、公務の話を
再開した。その、声の冴え。
冷えびえとしたするどさから身を護るように、木戸は白い面を伏せ、知らず眉間に皺をつくった。
「――ですから、あなたのお説どおりに文部を動かすとなりますと、工部および陸軍の計画が
頓挫せざるをえません」
「はあ」
聞いている、と答えたばかりだが、実際木戸はすこしも聞いていない。
聞かなくてもわかっていた。
いつもいつも、話は同じだった。
人智を開き、建国の基をかためるにはまず教育の力に俟たねばならない、それはお説の通りです。
けれども如何せん、と大久保はいうのだ。
国家多事の秋、予算がない。自分とて決して普通教育の重要性を理解しないのではないけれども、
この際焦眉の急は工業の発展と武備充実である。だから文部省に多くの予算は割けない。
それに固陋派の官員たちは教育改革に消極的、あるいは否定的でさえある。
無論かれらを啓蒙するのが我々の役目だが、無用の刺戟は避けたい。
改革はもう少しゆるくおこなうのが、現段階では得策といえるのではありませんか――。
物腰は慇懃だけれども、はなから自分の提案など容れる気は、大久保にはないのだ。
「内治優先」。
そのことばで辛うじて大久保と木戸の政見は一致しているようにみえるが、民政と教育に力を
入れたい木戸と、「富国強兵」策の大久保とでは、なかなか相容れない。といって互いの政策が
無用のものだとは思っていないのだが。要するに優先順位の違いなのである。
木戸は受け容れられないのを知っていて、しつこく大久保へ談判に及ぶ。大久保はそんな木戸の
機嫌をなるべく損ねないように、彼の意見を勘案するふりをする。そうして丁寧にこれを
あしらうのだった。
不毛である。
しかし両者は飽きもせず、きわめて熱心にこの化かしあいを続けていた。
木戸は彼の信念に賭けて訴えかけずにいられないし、そうこられれば大久保としてもあまり邪険には
できない。木戸の動機は情にあるが、大久保の応対は情ではない。政府はいま木戸に去られては
こまるのである。木戸の機嫌を適当にとっておくことが、大久保の政治であった。
そして、それがわからない木戸ではなかった。
(また、今日も同じだ)
木戸は何百度目かの自嘲をしてみる。
どうせ、こうなると知っていた。それなのになぜ、この冷たい部屋へ――内務卿執務室へ自分は
来たのか。そして大久保はなぜ、聞く気もないくせに、辞儀を低くして自分を迎え入れるのか。
(馬鹿馬鹿しい)
これが自分の政治家としての道なのだろうか。
癸丑以来、国事に奔走し、斃れていった多くの同志たち。かれらの懐いに対する、これが
自分の答えなのだろうか。
自分は、何も成してはいないではないか--。
だからといって、今さら退くことも許されていないのだ。辞意を告げるたびに、大久保はどこまでも
追ってくる。そしてこちらが冷や汗をかくほど鄭重に腰を折り、ことばを尽くして復帰を懇請してみせる。
しかしそうして戻ったあとは、以前と同じだ。自分が大人しくお飾りでいることが、大久保の
理想の状態なのだろう。その理想を実現するためには、大久保はどこまでも慇懃で、冷酷だった。
「大久保さん」
木戸はふと、大久保の話を遮った。その声には棘がなかった。天気の話でもするような何気なさだった。
「何でしょう」
大久保は一瞬眉をうごかしたが、やはり鷹揚にこたえた。
「私を、嗤いますか」
「はい?」
「あなたの目に映る私は、愚かでしょうか」
木戸の声は穏やかなままだった。口もとには微笑すら湛えている。そうしていると、むかし京の
美妓たちが袖引き合って眺めた「桂小五郎」の香気が、ほろほろとほのかに零れるようだった。
しかし、問いかけの内容はいかにも奇妙である。大久保は薩人らしく深く窪んだ目を、かるく
しばたたいた。
「愚かだなどと--」
何だかわからないままに、とりあえず大久保は否定する。ふ、と木戸が笑い声を洩らす。
「あなたも、まだまだだ」
「ええ。このとおりの非才の身です」
大久保は多少むっとしたのかもしれない。が、鉄面皮は崩さずに、用意していたような答えで応じた。
木戸はそれにはとりあわなかった。
「そんな話をしているんじゃありませんよ。あなたさっき、ちょっと困ったでしょう」
「……」
大久保には木戸の話が見えない。わずかに眉をひそめて、沈黙した。
「あそこで答えに詰まっているようでは、まだだめです。もっとうまく嘘をつくか、それでなければ
いっそ思いきり嘲笑うぐらいでなくては」
「おっしゃる意味をわかりかねます」
「そうですか、それはますますいけませんね」
木戸は楽しそうに笑った。事実彼はたのしかったのである。こんな些細なことでさえ、大久保を
翻弄できる機会は、普段の木戸にはないことだった。
(馬鹿馬鹿しい)
その愉しみを、あらためて彼は自嘲する。木戸はへんに嬉しくて、そしてひどく哀しかった。
(ああ、理想など)
癸丑以来の理想など、もはや自分のうちには枯れてしまったのではないか。同志たちのそれも、
あるいはどこかに置きすててきたのかもしれない。かれらに、そして若かった日の自分に応えようと
真剣に思うのなら、容れられもしない政策提示を、馬鹿のひとつ覚えのように繰り返すはずが
ないではないか。もはや自分のしていることは、体にしみついた惰性なのだ。
その惰性の向かう先に、大久保の懐柔と拒絶がある。
この冷たく厚い壁を意識することで、自分はどうにか、すでに空になった体に血を送り、いきて
いられるのかもしれない。
「あなたは、おやさしいのか、ひどい方なのか、どちらです」
寒々と皮膚が乾いてゆくような痛痒さに堪えながら、しかし夢見るように気怠い眼差しで、木戸は
大久保を見上げた。大久保はいよいよ木戸の言葉をはかりかねて、今度こそ露骨に顔をしかめた。
「困っておいでですね」
「……からかっておられるのですか」
「とんでもない。私はいつも大真面目ですよ。だから」
「だから?」
「そうそうあなたの思い通りにはなりません」
自分でもひやりとするような声がでた。それが耳に届いたであろう瞬間、大久保の表情が
わずかにこわばる。
「何を誤解しておいでか存じませんが」と言う声は硬い。
「私はいつでもあなたの驥尾について働くつもりでおります」
ふふ、と木戸はあでやかな模様の織り込まれた絨毯に目を落として笑った。
「あなたにとって、私はまだいくばくかの価値があるのでしょう」
「価値などというのも憚られますが、あなたの才学識見が必要なのは自明の--」
「ふふ、けっこうですよ。わかっております」
「そうでしょうか」
「お疑いですか。わかっておりますよ。あなたが思っていらっしゃる以上に、あなたの思惑は
理解しているつもりです」
「…………」
「ですから、こうしてちゃんと出仕しているでしょう」
大久保から向けられる探るような視線を、木戸は長い睫毛の下にひきこみ、じわりと融かすように
受け止めた。
「私が御入り用なら、あなたも私にとって価値のある方でいてくださいね」
さすがに高飛車な言葉に、大久保は面食らったらしかった。彼が返答しあぐねているうちに、
木戸は軽やかな身ごなしで席を立った。国の者が訪ねて来る予定ですので、これで失礼、と言って。
「楽しませてくださらなければ、お飾りになってさしあげませんよ」
木戸は踊るような足取りで振り返り、大久保の渋面を目におさめると、礼もせずに部屋を出た。
(ああ!)
彼は両腕で自分の体を抱いた。
横浜で仕立てた上物の背広の下の体は、ひどく冷え切っていた。その体が震えて叫び出さないように、
彼は腕に力をこめた。
馬鹿馬鹿しい。なんて馬鹿馬鹿しい。
木戸は自分のからだのなかにひろがる空虚を儚んだ。彼は烈しく瞋りたいとおもったが、それをどこへ
もっていって、どう演じるべきかわからなかった。
(ここは寒くてつめたい)
とても哀しかったので、彼は顔をゆがめた。それはひどく美しい笑顔なのだったのだが、彼は鏡を
もたなかったから、わからなかった。
[14回]
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