『霜夜の契り』
「待たれよ」
低く軋るような声を背中に聞いたとき、大島はあとで思い出してもいっそわれながら気の毒なほど、うろたえて返事もできなかった。ただ、寒さにこごめていた背を、尻から脳天へかけて槍ででも串刺されたようにして、びくりと引き反らせた。腰を抜かさなかっただけ幸いであったろう。
だが、横で一緒に歩いていた男が、
「はて」
泰然と足をとめ、
「どなたですかな」
ゆっくりと振り向きながら、しかし不意打ちにそなえてぬかりなく腰を落として構えていたのは、さすがに剣客の心得であったといえようか。
声をかけたほうにも、それはわかるのだろう。手甲をはめた左腕を佩刀のそばへ引きよせて、歩幅せまくじりじりとこちらへ歩んでくる。人数はおなじく二人。が、おそらく近くにさらに何人か伏せてあるだろうことは、こういう場合の、こういう手合の常識である。大島はおもわず生唾を嚥みくだした。相手方の雪を踏む音が、ほの青い浅春の夜にいやに高く響く。
「御無礼ながら」
と、年嵩のほうの一人が言った。
「役儀をもってお尋ねつかまつる」
と明かしたかれらの身元は、果たして幕吏であった。用は知れている。とすればやはり、彼もその後ろに控えている若い男のほうも、それ相応の遣い手であろう。腕に覚えといえるほどの技倆をもたない大島は、不覚にも膝のわななく思いがした。
藩姓名を、といわれて、あ、と意味のないつぶやきを洩らす大島の声は上擦った。いかにも失策であった。大島の身分に何らやましいところはない以上、堂々と答えるべきであったろう。ただ彼は、横にいる男のために、幕吏の譴責が彼の素性におよぶことを憚ったのである。
「お答えいただけませぬかな」
幕吏の眼が、いやな底光りをはなった。
「対州藩士、大島友之允」
とようやく答えた声は、この虎口を前にすでに芯を砕かれていた。
「なるほど」
男の目がかすかに笑う。が、すぐにそれを引っ込めて、大島の隣で何心ないふうに足元の雪を蹴っている男を睨まえた顔の蒼白さは、男たちの目的がはじめから大島ではなく彼のほうにあったことを示していた。
「して、お手前は」
尋ねる幕吏の声に緊張がみなぎっている。
「私ですか」
答える声はこころもち冷ややかだったが、この期におよんで動じたふうのないのはさすがであった。
「同じく、林竹次郎と申す者です」
「同じくといわれるは、対州侯の御家中か」
「いかにも」
「しかし、お国の言葉とはちがうようですな。たとえばこちらの大島殿とは……」
「ああ、」
ひやりと首をすくめた大島とはまるで対蹠的に、男は鷹揚に笑って、
「私は父の代から江戸の定府でしたから」
「江戸言葉とも、失礼ながら」
「左様、ちがいましょうな。弊藩は小国ながら他国者の出入の多いところですから、私も知らず蒙求を囀るようになったものでしょう――いや、こう申すとずいぶん手前味噌になりますかな」
男は、ひょっとすると本当に対馬藩の江戸藩邸育ちではないかと――すべての事情をのみこんでいる大島すら錯覚するようなあざやかさで言ってのけた。
が、公儀の捕吏というものは、それもこの京師動乱の巷で体を張っている連中は、大島の希うほどおぼこくはない。
「まことに申すも憚られることではあるが」
と例の軋るような声で言いかけた口調は、その言葉とは裏腹にすこしも恐縮する気配はなかった。
「お手前に少々不審がござる」
「これは」
男はやはりゆったりと破顔する。が、細めた眼のうちに、抜身のようなぎらりとしたものが宿っていた。
「不審とは、いささか聞き捨てなりませぬな」
「御不快はごもっともと存ずるが、当方も役儀ゆえ」
「して」
男は大きく溜息をついたが、その実さほど困ったふうでもなかった。こういう危地を、大島の知らないところで彼は幾度くぐりぬけてきたのだろうか。
「御不審のかどは、いかように晴らせばよろしいでしょう」
「ここでは埒が明き申さぬ」
すすみ出てきたのは、若い捕吏のほうだった。
「立ち話では、お手前も体面が悪しかろう」
若者は、いずれ旗本の末席か、そうでなくとも御家人くらいの身分はあるのだろう。こちらをどうせ陪臣(またもの)とみたのか、年ににあわぬ尊大な口をきいた。それでもいわれたほうの男はやっぱり微笑して、
「さあ、私はべつに」
のったりと答えている。
「誰に見られて困るということもないが……お手前がおっしゃるのは、つまり、何かな、同道せよと仰せかな」
「いかにも」
若い男は湯気のたばしるような足摺りを見せた。年かさのほうが手でそれを制したが、彼は諾(き)かず、
「いかにも御同道願いたい。否と仰せられるか」
「さ、それは」
男はここではじめて大島をふりかえった。目許にただよう幽かに剣呑な風情は、修羅場を知る男のそれであった。
「かように仰せだが――いかがですかな、大島さん」
「いや、」
返答に詰まったのは、捕吏に迫られてのことだったか、それともいつにない男の気魄に、おもわず我をうしなったのだったか。
が、とりあえず場を繕うばかりの返事をしようとする前に、
「しかし、同道してどうします」
おうけいたしかねますな、と、男はいかにも気軽に捕吏に抗弁していた。切れの長い、いつも淡い憂いに曇っているような眼のふちに、あいかわらず微笑をたたえたままで。
「このまま御一緒したところで、我々は藩姓名を保証するような何物も持ちあわせてはおりませぬ。いたずらに拘留が長引いては互いの迷惑だ。御不審ならば藩に照会してくだされば済むこと。そうではありませんか」
大島が聞いていてさえちょっと憎らしい気がするほど、彼は道理の立てようも明晰に、滔々とこたえた。無論それで相手が素直に敬服するはずもない。特に若いほうは、彼の言いおわらないうちから顔を紅潮させ、眦を裂いていた。
「さような遁辞でわれらを欺かれるおつもりか」
甲高い声は、男がはや冷静さをうしなったことを示していた。捕吏として、すでに半ば獲物に敗けたも同然である。若さであろう。
「お手前方に不審と申すはほかでもない。昨今洛中へ長藩士が、」
とは、この場合いうべからざることであったろう。年嵩のほうがあっという顔をしたが、まにあわなかった。
「ご存じでござろう、朝敵長州の賊徒どもが」
と言ったとき、大島の隣で殺気が動いた。が、彼はあくまで表情を変えず、それゆえにか捕吏も気がつかぬまま、かっかとのぼせて言いつのる。
「昨秋来の禁をやぶって入京している。諸藩のなかにはこれを匿う動きもあるやに探知している」
「ほう」
と男は眼をほそめた。捕吏はひるまない。
「よってわれらもこうしてお尋ねしておるのです。どうも貴殿には、長州の訛りがあるようだ」
訛りが、といったが、おそらくは声をかけるより早くそうと睨んでいたものだろう。捕吏はもはや疑う余地がないといった自信を示して、傲然と背を反らした。左手は、大刀の鞘をつかもうとしている。
「なるほど、私が長州者と仰せか」
男の声が夜気をふるわせて冷たく光った。
「埒もない。さればお手前方は、寡君対馬守が、御公儀の仰付に背いて賊徒に戮力するとお疑いか」
長州者を庇うと仰せあるからは、と捕吏二人を睨めまわした眼つきが、大島の立つ角度からはしかとは見えなかったが、あきらかに武芸者のそれであろうことは、彼の体がはなつ空気で感じられた。
「御公儀の御諚にしたがわぬはこれすなわち謀叛である。寡君に謀叛のお疑いをお著せあるからは、相応のお覚悟がおありとお見受けいたすが、いかがか」
「何を、」
若いほうの捕吏がぎっと口の奥を鳴らした。紅い唇からのぞいた歯の案外皓いのを、大島はどこやらぼんやりと、遠くを望むような思いで眺めた。若い男の目は血走っている。今はたしかに危地であるはずなのに、誰よりも殆いはずの男のあまりにも迫らざる態度が、大島に夢のような感覚をあたえていた。
「よさんか」
と、すでに鯉口を切りつつあった若者の手を、年長の男が押さえた。黒い袷の袖口からにゅっと出てきた腕は、痩せて眼の落ち窪んだ貌には不似合いなほど太く逞しかった。もし彼と抜き合わせることになれば、大島はその血潮で彼の大刀を染める羽目になるだろう。 「ですが」
若者が抗弁するが、年嵩のほうはきっと口を引き結んだまま、手を離しはしない。無造作に摑んでいるようで、かなり強い力がかかっているらしいことは、腕に浮いた筋の格好で知れた。
本当は、彼とて自分たち二人を引っ括りたいのだろう。しかし二人とも一応は対馬藩士を名乗っているし、大島にかぎってはそれが本当であることは、おそらくかれらにもわかっているだろう。ならば、自分たちを罪人あつかいにすることは、おいそれとはできまい。自称対馬藩士の彼が言ったように、幕府が対馬藩までを朝敵視したと宣伝されては、あとが面倒である。吹けば飛ぶような領地ではあるが、格式は十万石以上とされ、貿易の実入りも多く、物産は豊富で、諸藩との付き合いもさかんである。藩内は上下ともに隠然反幕の気運がみなぎっているとはいえ、表だって指弾されるような行動はとっていない。それでも、長州者の一部をはじめ反幕的な勢力が対州の援助をあおいでいることは、いわば公然の秘密のようなものである。それをもし今幕府が対州藩との間に軋轢をおこし、対州これに反撃するというような事態にでもなれば、内心幕府に隔意のある勢力は、雪崩をうって対州側につくことにもなりかねない。
だから、その幕府の吏員たる目の前のかれらは、これ以上大島らを訊問するわけにはいかないのである。
その道理は無論、大島にもわかってはいたが。
もののはずみということがある。捕吏たちの腰に帯びた刃が、いつ火花を散らして鞘走らぬものでもあるまいと、大島は、隣であいかわらず涼しい目をして、白い横顔を浅春の夜気になぶらせている男を見た。ひどく深慮なたちであるくせに、こういうときにはずいぶん思い切ったこともする。なんだか空恐ろしくなって、片手に襟巻きを引き上げて顎をうずめた。きゅっと、捕吏の草鞋が雪を踏む音がする。じりじりと間合を詰められる間隔に、悲鳴を上げそうになる喉をぐっと襟巻でおさえつけた。
「そりゃあ、道理からいえば、路上に斬って捨てられることもそうはなかろうが」
火鉢を抱きかかえるようにして体を焙りながら、大島は溜息をついた。外出時間はそう長くはなかったはずだが、骨まで凍えたようであった。
「肝試しには季節がよくないようだ」
洒落たつもりで言ってみたが、われながらいかにも最前恐怖したきまりわるさの糊塗といった感じで、うまくなかった。こうして無事だったからよかったものの、と続けた言葉もなにやら女の愚痴のようで、なくもがなのぼやきだと思った。
「ずいぶん、ご迷惑をおかけします」
さっき路上でさんざん幕吏を嘲弄した男は、やはり微笑んだまま、しかし謹直に頭を下げた。
「迷惑じゃあない、迷惑ということはないが、あんた、桂さん、」
藩邸の自室へひきとってきて、大島は今日そこではじめて男の本名を呼んだ。
「自愛なさらなくっちゃいけない。あの調子じゃあ、いつばっさりやられるか、あんた、」 「そのときは運がなかったとあきらめますよ」
「運で片付けられてたまるか。あんたひとりの体じゃない」
「芸妓泣かせみたようなことを言うんですね」
「冗談じゃあないよ」
私は、もう、と大島は壊れた木偶のようにがくんと肩を落とした。
「生きた心地がしなかった。あのまま抜き合うようなことにでもなっていたら、あんたはそれは平気だろうが、私の腕ではとても、」
桂を気遣うつもりが、途中から自分の恐怖をむずかりつつ訴えていることに、大島は彼自身気がついていたが、といってあふれかけた情動をどうしようもなく、今さら動悸がするのを感じながら、ほとんど喘ぐように言いつづけた。
「情けないが、足が慄えたんだ」
すでにそれは愚痴であったが、桂はいやがる風もみせず、ただおだやかに微笑しながら、 「私だって往生しましたよ」
「本当かね」
「真剣の立合などしたことがありませんからね」
「しかしずいぶん余裕ありげだったじゃないか」
「まさか。とにかく言い負かされては終わりだと思ったまでですよ。掌なんか、汗をかいて、もう、」
あのまま柄を握らねばならないようなことにでもなっていたら、まともに打ち下ろすのはとうてい無理でした、という。大島を慰めているのでもあろうが、彼もやはり、常の心持ではないのにちがいない。舌が上滑りをして、熱しつつ空を撫でているような話しぶりであった。
互いに、意味もなくかわいた笑みを交わしあう。助かったのだという安堵が、異様な昂奮となって二人のあいだにとよもしていた。どちらかの袖がひっかかったのか、空の徳利が小さな音を立てて畳に転がる。すでに七、八合も空けているのに、気の張っているせいか、互いに酔った気色はない。それでも、吐く息のだんだんと湿って熱をもっていくのだけは、冷えたままの頬に不快なほどに感じられた。
あのとき、どうして手を伸ばしてしまったのだったか。
あとから何度考えても、大島にはわからなかった。
そしてなぜ、桂は抗わなかったろう。
同道せよと言ったとき、彼に傲然と拒絶の辞を張られて、青筋をたてて歯噛みしていた幕吏たちの顔を思い出す。たしかに理屈のうえからいえば、かれらに自分や桂は斬れない。けれども、あのいたましいまでのひたぶるさといおうか、ふと目ざましくさえおぼえた殺気はどうであろう。最後は静かに一揖して去って行ったかれらだったが、あのときどこかで野犬の一匹も吠えていれば――つまりあの危うい膠着を破るものがあれば、彼らは猛然と斬りかかってきたであろう。その感覚を大島はどう説明してよいかわからなかったが、ただもうあの場に臨んで肝にこたえた機微というものであったろう。
その余韻が今も、大島の血のなかでふつふつと滾っている。息のあがるような昂ぶりはすでに去っていたが、それだけに長く尾を引く疼きがあった。
さすがにあわや乱刃という経験は今回が初めてであったが、大島もそこは年の功で、藩政上、伸るか反るかの危ない橋を渡ったことはある。そしてそれを乗り切ったあとの、今のような感覚には覚えがあった。その処理の仕方も、当然知っていた。
だから、克艱のあとで、体が男としての生理反応を示したことそれ自体は、別に疑うには足らないのだ。若いころそうしてよく同志と登楼した大島は、それが自然な反応だとわかっている。だから今回も、桂にそうと打ちあけて、おそらくは同断であったにちがいない彼と連れだって、妓を買いにゆけばよかったのだ。
それを。
ふらふらと杯を離れた大島の手は、吸いよせられるように桂の両肩にかかっていた。彼の息はすこしふるえたようだったが、何もいわず、長い睫毛に縁取られた眼は、しずかに畳の上へ視線を落としていた。ふしぎな不安と好奇心とにかられて白い顎へ手をやり、そっと上向かせると、べつに愕いた顔も見せず、いつもよりこころもち潤んだ眼のはしに、揺らめくような微笑を泛べていた。
いいのか、とは、大島はいわなかった。言ったところで桂は否とは答えるまいが、ただ言ってしまえば、いま二人のあいだを流れる淡くゆるやかな湿り気が、霧のかき消えるようになくなってしまう気がした。それが寂しいというのではなかったが、しかしひどくきまりわるいことのように大島は思った。
だから、黙って彼に口づけた。
桂はゆっくりとそれに応え、やがてどちらからともなく深く貪った。桂の口内の肉は、およそ男としては不似合いなほど甘く、やわらかかった。
大島の血が、するどく烈しく滾りはじめる。
かんかんと火鉢の熾った室内、まして酒精のいきわたった体は、衣服を剥がれても寒くはないらしい。ともすれば急ぎがちな大島の手を、桂は巧みに身を捩りながら助けた。
(まずい)
と思わぬではなかったのだ。しかしそれ以上に、襟を寛げ、帯を解くほどにあらわれる白い肌が、大島の男を煽った。
無論桂の体は男の体である。それもみっしりと肉の詰まりきった剣豪の体である。それを指先で撫で、唇をふれることに、大島は何の嫌悪もいだかなかった。桂の息がしだいにみだれ、炭のはぜる音のまわりを甘く漂う。深く浅く上下する胸が、大島の手の動くごとに薄紅に染まる。それをもっとよく見たくて灯りを引き寄せた。わずかにあらがうしぐさを見せた桂は、しかし、鬢の毛の落ちかかった耳朶を舐めてやると、細く悲鳴をあげておとなしくなった。
(ああ、まずい)
愛撫の手を全身に這わせながら、大島はほとんど戦慄するおもいであった。このうえなく甘美なその歎きに、脊髄がすすり泣くように痺れた。
(ここに……)
と、大島の指先は桂の肉の裂け目に触れた。それは大島にもあるもののはずなのに、ただこの世の中で桂だけが、その熱い慾を爛れさせて穿った多淫のしるしのようにおもわれた。
ここを犯してしまえば、もはや抜き差しならぬことになる。
そう思うのに、大島の雄の衝動は、平生の彼の沈毅な思慮をたやすくふりはらった。
「桂さん」
何を伝えたいわけでもないが、ただ胸苦しさに突き上げられて名を呼んだ。桂の喉奥が小さく鳴ったようだった。
猛りきった情慾の切っ先を押しつけると、それは小さく慄え、やがて男の放縦さの前にひれ伏すように、あえかに口をひらいた。そのゆるやかな服従を、それでもゆるさぬとでもいわんばかりに、大島はさらに肉の奥を求めて腰を急かせる。桂は苦しいのか、何度か息を詰め、美しい眉根を寄せた。
「桂さん」
と、大島は何度も呼んだ。答えはなかったが、きつく大島を締めつける肉がしだいに潤いを増して、そのことがひどく甘やかに感じられた。
桂の両腕はいつしか大島の背をとらえ、揺さぶってやるたびに指先が膚に喰いこむ。鼻に抜けるかすかな声が、滴るような悦びを伝えていた。
(これほど感じるものか)
男が、男に抱かれて。
ほとんど感動にも似たおどろきを、大島は桂の体におぼえていた。
「あんたは慣れているんだな」
と、つい口にした。そういえばそんな噂を、かつてほのかに耳にしたことがある。くだらぬ讒誣と、そのときは聞き捨てにしたのだったが。
(まんざら嘘でもなかったわけだ)
しかし桂を蔑む気持はおこらなかった。むしろ彼を凜々しいと思った。志のためには女郎の真似すらあえてする。しかもそれがために彼の風韻は――彼に向きあう者に侵すべからざる感じを与える精神の格調と志操の堅さとは、すこしもそこなわれてはいないのだ。大島ももはやずいぶん世に旧(ふ)りている。人にまじわれば相手のおおよその人品は感得する自信があった。
桂の体は交接に慣れきっているが、彼の精神(こころ)は荒淫に泥んではいない。大島はそれを尊いと思った。実際、身を洗われるような思いであった。
それにしても、媾合の最中に「慣れているな」などとはいうべきではなかったであろう。けれども桂はまた桂で、そのあたりの大島の機微を察しきったように、べつに不快げなようすもなく、
「まあ、そうですね」
と荒い息の下で言った。
「いつも、こんなふうに……?」
かさねて問うと、彼は寒椿の雪中に頽れるような吐息をこぼしながら、
「いえ、」
とみじかく答え、しばらく大島のあたえる感興に身をゆだねたあとで、
「そうでもありません。今日は、ほんとうに、なんだか……」
ちがう、くるしい、と、その実さほど苦しくもなさそうに訴えて、やわらかく身をよじった。大島を銜えこんでいる粘膜が甘く蠕動する。導かれるままに深く突きあげてやると、堅い肉に鎧われた背が強く撓んだ。
彼が姓名を伏せねばならない時は、あとどれほど続くのだろう。彼や自分が身を挺している回天の大事が畢わるまでに、あと何度、今日のような危地を践むことだろう。そうして晴れてその大義が認められる日、しかし自分たちは生きてこの世にあるのだろうか。
(道塗に斃れることなど、なんの憾みでもないが)
仕事が残ればそれでよいのだ。桂も、多くの同志たちも同じ思いであろう。しかし。
しかし、もし。
(もしこの大事が成らざれば)
大島たちの恐れるのはその一点である。事もし成らざれば、先に死んでいった人々は、何のために溝壑に身を棄てたのか。かれらの骸はつめたい地下で、もはや何を慰めに瞑目すべきか。そして数々の窮地にようやく露命をつないできた自分や桂なども、事破れては甲斐なき命といわねばなるまい。
思えば自分たちは骨の軋むほどの荷を負って、荒野の薄氷の上を歩いているようなものだった。その痛苦と寂寥を、同志――同志のなかでもごくかぎられた志士のほかは、ついに知るまいけれど。
そうしたなまなかな余人の知らぬ志を、自分や桂などは深く胸のうちに蔵している。そういったら、自惚れになるであろうか。
けれども桂もまた、いうにいわれぬ寂寞を、今日はひとまず助かったのだという世間なみな安堵にまぎらして、肚の底にどうにかいやしているらしい。そうでなければ、降って沸いたようなこの奇妙な情事に、彼はそれほど乱れないであろう。
「かなわんな、あんたには」
溜息まじりに洩らすと、
「大島さんこそ」
濡れた吐息が返ってくる。互いの意がどこまで通じあっているのかはよくわからないが、大島はことさらそれをたしかめるつもりもなかった。ただ、自分たちは深く劇しく、同志なのだと思った。
夜半にまた、外はひときわ冷えたらしい。
降り積んだ白い雪の上に鈍く淀んだ日ののぼるころ、桂はそっと足音をしのばせて帰っていった。
次に会う日には、何事もなかったような顔をするのだろう。彼も、自分も。今日のことがあってもなくても、互いに志はゆるがないのだと、そればかりは大島は、確信にみちていうことができた。
(俺は忘れはせんが)
それでも今夜かぎりのことだと、ごく自然に思いきめていた。そこに名残惜しさも寂しさもない。もっと深刻な寂寞を、自分は桂と共有しているのだ。
「くれぐれも御身大切に」
布団に体を伸ばしたまま、襖の前へ立った背中に呼びかけると、桂はふりむいて、
「お互いに」
みじかく答えて、霜雪に日のさざめくような微笑を見せた。
[29回]
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