筆が紙を辷る音が、やけに耳につく。
時折虫の声が障子をすりぬけて聞こえるが、すでに盛りをすぎたそれは、いかにも弱々しい。老いさらばえた声を、一体誰に聞かせようと鳴くのか。
それにひきかえて、筆の音は、涼しげで小気味よく、それでいて厳粛でもある。こちらから見ると逆さまになるが、綴られてゆく文字の美しいのはよくわかる。
生真面目で、そのくせ洒脱。
この人そのままではないか、と俺は俯き加減の白い顔を見やって変に感心する。
と、その顔がこちらを見上げた。
「どうか、したのか」
稀代の名工が今生の名残にと腕を奮って彫(え)りつけたのだといったらぴったりするような、見事な均整と、表情のあやうさを保った顔。深い輝きをとどめた瞳が、俺を捉える。
「どうもしませんよ」
「笑ったようだったから……」
気のせいか、と彼はつぶやいて、片手で目頭を揉む。疲れているにちがいない。時勢は容赦なく彼に激務を強いていた。溜まった書類を処理するので、今夜は徹夜だろうと言っていた。俺はそういう煩雑な事務はどうしようもなく不得手だから、手は貸せない。
ただ、窓縁に行儀悪く腰掛けて、彼を見ていた。彼もさしてそれが苦にはならないらしく、一度「寝まないのか」と言ったきりで、あとは黙って自分の仕事に没頭していた。
「笑ったかもしれませんね」
俺はまんざら嘘でもなくそう言った。
「なんだそれは」
彼は苦笑した。筆は硯の上に寝かされている。一休みするつもりらしい。
「思い出し笑い、かな」
「意味ありげだな。また新しい馴染みでもできたのか」
「いえ、古馴染みですよ」
「こんなところで思い出していないで行ったらいいじゃないか。まだ夜は長い」
こういことにかけては案外に気安い。伊達に美しく生まれてはいないのだ。この人も相当に遊びを知っている。
俺は甘えた声を出してみせた。
「つれないなあ」
「なんだ、私はつき合わんぞ。この通り、行きたくても行けないんだ」
「そうじゃなくて」
「うん?」
「桂さんを、思い出してたんですよ」
俺は言いながら立ちあがって窓べりを離れた。端座したままの彼の背に自分の背を預けて胡座をかく。
彼は無言で首だけで振り向いた。その顔を蕩かすように俺は囁く。
「ゆうべは、ずいぶん可愛かったじゃないですか」
彼は袖で俺の顔を払うと、聞こえなかったようにそっぽを向いた。その耳が、赤く染まっている。
「いつもあんなふうに啼いてくれればいいのに……いてっ」
「この馬鹿っ」
「痛いなあ、殴らんでくださいよ」
俺は彼に打たれた頭を大袈裟に押えてみせる。
「好きですよ、桂さん」
「うるさい」
「そういう素直じゃないところも」
「もう帰れ」
「聞いてくださいよ」
俺は彼の横に回り込んで腕をとった。彼は振り払おうとしたが、俺の顔を見てはっとしたように動きを止めた。俺があまり真剣なのに驚いたらしい。
そうだろう。
国事を語るときでさえ、俺はどこまでも真面目ではいられない。しかつめらしく気張っている自分を茶化して嗤わずにはいられない。その俺が一点の嘘も衒いもなく、縋るように、喚くように、こうしてしんから自分を吐き出しているのを見るのは、彼はきっと、二度目のはずだ。
そう。
欲しくてたまらない、抱かせてくれと頼んだ、いつかの春の宵以来。
あのとき彼は、どんな顔をしていただろう。
「桂さん」
「……言わないでくれ」
彼の声が震えている。今度は照れているのではないと、噛み締められた唇が伝えている。
何もかもわかっているくせに。
聞くまいとするあなたはずるい。しかしそれなら、今さら聞かせて傷つけようとする俺は何なのだろう。
「昨日僕は血を吐いたとあなたに言った」
「晋作」
「なんでもないような顔をして聞き流してみせながら、死ぬほど乱れて、狂ったように僕を求めて……。醒めたふりをして、そういう、もうはっきりどうしようもないようなことを諦めきれない、やさしいあなたが好きですよ」
「晋作……」
「だから、こんなに仕方のないことなのに、僕は少しも悪くないのに、甘んじてあなたに責められてあげますよ。本当は、僕なんかよりあなたのほうがよっぽど我が儘だ」
「……いやだ……」
「好きです」
「どうして、おまえは……」
「好きです、桂さん」
自分よりも大柄の、彼の体を両手で支える。背が激しく波打って、俺の胸の中に、彼の嗚咽がくぐもって消える。俺が今甘い歓喜に酔っていることは、彼には伝えずにおこう。そうでなければ、彼はまた、俺を残酷だと言って泣くだろう。
ゆうべ、彼は気絶するまで俺を離さなかったくせに、今朝俺が目を覚ますと、すでに隣にその姿はなかった。
それから藩邸の廊下で会った俺に、彼は何喰わぬ顔で挨拶を寄越した。
気を喪うほどに深く激しく俺の記憶をその体に刻みつけることを望みながら、昼間の彼の理性は、遠からず俺が消え去るという現実から、目も耳も鎖してしまうことを選んだのだった。そうでもしなければ堪えられないのだと、激務に痩せた彼の後ろ姿が言っていた。
俺は彼を気の毒に思い、そして自分がそれほどの重量で彼の中に棲んでいることをひそかに歓びながら、しかし決して彼の悲愴な自己防衛策をゆるしてやらなかった。
夜になって暇ができた俺は、いつも以上の勤勉さでことさら職務に埋もれたがる彼の目の前にわざと居座り、甘い睦言のふりをして、彼の身を切るような言葉を投げかけるのだ。
彼を縛る自由など、もはや俺にはないはずなのに。
それでも俺を繋ぎ止めたがる彼は、死ぬなと命ずる彼はたしかに我が儘だが、どうせ酷く扱うなら、いっそ忘れてくれていいんだと言えない俺は、彼よりも弱いのかもしれない。
「桂さん、さあもう離れて」
肩をつかんでやさしく引き剥がすと、彼は涙に濡れた目を、もの問いたげに俺へ向けた。離れないとうつりますよ、と言うと、ひどく傷ついた顔をして、俺の胸を拳で叩いた。
「ひどいな、肺病人の胸を叩くなんて」
「おまえなんか、おまえなんか死ぬものか」
「そうでしょうか」
彼は俺の両袖を握り締めた。涙が俺の着物にしみを作る。いっそ肌まで染みとおって、消えない痕になればいいのにと思った。
「抱いてくれ」
飢えたみなし子が一杯の水を乞うように、哀れにさびしく、彼は俺に縋った。彼がそうするだろうことはもう充分にわかっていたくせに、俺はちょっと戸惑ったふうを装って、こまった顔で笑ってみせた。
「抱いてくれ、晋作……」
「しょうがねえなあ」
俺はそっと彼の頬に触れ、何かの儀式のようにゆっくりと唇をかさねた。
本当は、噛みつくように口づけて、着ている物を引き裂いて、押さえつけてめちゃくちゃにしたい。血と汗と飛び散った精でどろどろになって泣き叫ぶ彼に思うさま腰を叩きつけて、壊してしまいたい。
しかし俺はそうしない。
彼をいたわるからではない。ほかならぬ彼自身が、俺にめちゃくちゃに壊されることを望んでいるからだ。だから俺はあえてやさしく、こわれもののように彼を抱く。泣いて求めても応えてやらない。
わざと彼が飽き足らないように。
俺を忘れないように。
俺は慈しむように微笑んで、彼の白い体をゆっくりと揺すりあげる。切なそうに彼が啼くのを聞きながら、遠い夜を思い出した。
あのときあなたは、幸福だっただろうか。
『僕は今にきっと気が狂って、あなたを殺してしまいそうです。あなたはかまわないと言うかもしれないが、あなたを殺せば僕だって生きてはいない。さあ、どうですか。どうしますか』
『僕を惜しんでくれるなら、どうか黙って僕に抱かれてください』
あたたかな春の宵だった。
やっぱり今夜のように外はしんとしていて、桜の舞い散る音が聞こえるようだった。
あなたは今にも泣き出しそうに慄えながら、死ぬほど愛おしそうな目で俺を見上げた。
「好きだ……」
あのときは言わなかった言葉を、彼は俺の体の下で囁く。湿った吐息。まるで詫びるような声音で。
「好きだよ、晋作」
俺は乱れた彼の髪を撫でてやる。その手を取って、彼は俺の指に恭しく口づけた。閉じた睫毛の間から、涙が零れる。
「晋作」
可哀相な彼の顔をこれ以上見なくて済むように、俺はひときわ深く彼の中を突いた。
彼は悲鳴のような声をあげて身を震わせ、精を吐き出すと、ぐったりと静かになった。
簡単に彼の体を拭ってやってから、俺は肌着を引っかけてふたたび窓辺に立った。障子を細く開けると、秋の夜気とともに、月明かりが洩れてきた。
冷たく冴え渡る青い光。
この光がもういちど朧にやわらいで、桜の上に照る頃までは、生きていようと思った。
彼を振り返ると、いつか上海で見た石膏の像のように、静謐な孤独をまとって、まわりの空気ごと美しく凝固していた。情事のあとのくせに、彼は凛とした面(おもて)をさらして眠っている。
肺病病みの俺よりも、彼のほうがよほど死人のように見えた。
俺は俺などにはまったく似つかわしくない、敬虔な気持ちで彼の前に跪くと、
「どうか、幸せに」
永遠に彼は知らずにいるだろう祈りを捧げた。
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