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【2026/04/05 11:21 】 |
井上×木戸
なんでまた雪降ってんの?ばかなのしぬの?
全然春がきません寒いです。
でも「もう4月だしなー」という後ろめたさがあるため
暖房の温度設定は低めに抑えつつ、ほもで暖をとる毎日です。

で、「何を書くか」よりともかくただだらだら書くことを目的にしていたら
なんだかわけのわからんものができてしまいましたとさ。まる。
いつも一応はざっと終わりまで流れを考えてから書きはじめるんですが、
今回何も考えずに書きだし書きつらねしていったら、
なんだかこうなったんですねぇ。なんだろこれ……。
MOTTAINAI精神というか、むしろ自戒のつもりで晒しておきます。

……まあでもだいたいいつもこんなもんだという気もします。とっても。
ぜんぶ寒波のせいだよ!


以下、よみものでございます。


『ふりにし里に』
 骨董屋をひやかして歩いていたら、ふと一面の古硯が眼にとまった。
 蓋に孔雀、縁に牡丹の彫りがしてある大ぶりの硯で、華麗といえないこともないが、どうも博徒の背中の彫物のような、どぎつい、趣味のあざとさを感じさせる意匠だった。だからその硯に思わず手をふれて、「あ……」と小声でつぶやいたのは、べつにそれが気に入ったのではない。単に思い出したことがあったのである。
 が、骨董屋の主人はここぞとばかりに揉み手してほくそ笑み、
 「これはお目が高くていらっしゃいます。釈迦に何とやらでお恥ずかしゅうございますが、それは端渓で。明代のものなんでございます」
 えへへ、と卑屈な声を出した。
 (ひどいやつだな)
 端渓のはずがないし、ましてまさか明代の代物であるはずがないだろう。どこかそのへんから拾ってきたがらくたに違いないのだが、かといって木戸はべつに腹も立てず、
 「そうかね」
 と微笑した。
 (俺もまるきり江戸を知らぬでもないつもりだがなあ)
 と、妙に可笑しかった。
 彼は公休日の今日、平服でぶらりと散歩に出たのだが、それでも官員だというのは目端の利く江戸っ子には何となくわかるらしい。官員ならばたいていは薩長で、ということはつまりは田舎者である。
 (物の価もわからんと思っているらしい)
 何事につけても野暮でのんびりの田舎者は、頭のほうもうすのろだと思うのだろう。うすのろだから、がらくたを端渓だと信じて買うにちがいない。多分、そう値踏みされている。したたかなものだ、と木戸はいっそ歎声をあげたいような気になる。昨日今日天下をとった(と、かれらのほうでは軍記風に思っているのだろう)薩長の連中がいかに威張って歩いたところで、〈江戸〉の市井の連中にとってはいかにも垢抜けない、嗤うべき田舎者なのである。せいぜいがらくたをつかませてうんとふんだくってやればいい――見栄とか意地とかいってしまえばそれまでだが、さすが江戸っ子といわれる連中の、肝のふとさを見る思いがした。
 端渓先生はその後も怪しげな壺を見せては唐三彩だといったり、天竺渡りだという、そのわりに和臭芬々たる意匠の香炉などをしきりにすすめてきたが、木戸はどれも微笑を泛べたままほどほどにいなし、結局、掌ほどの硯をひとつ求めた。さっきの「端渓」ではない。そう遠くない頃の、名もない職工が削ったであろう一品で、縁に彫られた、ちょうど海をのぞきこむ格好の亀が愛らしい。価も相応であった。端渓先生はやはり不服らしく、愛想笑いのなかにも何やらむずがゆいような変な顔をしていたが、木戸が
 「また来よう」
 と言うと、へどもどと腰を折って見送りの挨拶をした。木戸はその様子を痛快がるでもなく、ただひとり自分の買物に満足して、次の目的地へ足をむけた。さっき「端渓」を手にしたとき、思い出した場所である。
 
 「で、わざわざこれを俺に?」
 井上はしきりに硯をひっくりかえしたり、亀を撫でたりしながら眼をまるくした。
 「気にしてたんですか? この間の……」
 「いや。忘れてたよ。急に思い出したんだ」
 「また忘れてくれればよかったんですよ」
 いいのに、あんなもの、と井上は彼にはめずらしく恐縮しているらしかった。自宅に突然木戸を迎えた彼は、その思わぬ贈り物を、ちょっと目の上へ捧げ持つようにして受け取った。
 「まあいいだろ。おかげで面白い亭主に会ったし」
 「亭主?」
 井上は立って床の間の棚の上へ硯を置いて、その床の間を背に座っている木戸をふりかえった。
 「骨董屋のですか」
 「ああ。面白いぞ、お前も行ってみろ」
 「掘り出し物でもあるんですか」
 「山出しの官員にだけ売ってくれる端渓があるんだ」
 「なんですそりゃ」
 まあとにかく今度からは気にしないでくださいよ、と井上は木戸に膝を寄せて座った。
 「あんたが割ったってわけでもなかったんだし。それにあのときはずいぶん愉しかったよ」
 「まあな」
 木戸は苦笑した。
 
 数日前、やはり井上の家に木戸は来ていた。井上の居室で、なにか用談をしていたのだったが、そのうちに話もだいたい済み、いつものように井上がのしかかってきた。場所は明かり障子のすぐ下の、文机の脇だった。肌をまさぐられて、快感を逃がすために思わず投げ出した腕が、机の脚にあたった。机は大きく傾き、載っていた硯が落ちた。墨液は入っていなかったが、悪いことに文鎮までもが一緒に落ち、それがちょうど硯の上へ来たのである。びいんと頭の奥に響くような高い音が鳴って、硯は縁から海へかけて、斜めに欠けた。
 「いいよ、どうせ使い古しだ」
 井上はちらと音のしたほうを見ただけで淡泊に首を振ったが、木戸としてはそうか、じゃあいいなというわけにもいかない。せめてすぐに片づけようとしたが、井上に押さえこまれ、振り払う間もなく快楽を与えられて陥落した。
 「何か後ろめたいことがあるときのあんたは、本当にいい顔するよな」
 それがたかが硯ひとつでもさ、と井上は笑う。いい顔といわれても自分では見えないのだから、木戸にはよくわからない。返答しかねて唇をむずむずいわせていると、不意に口づけられ、舌を入れられた。その熱さに体が顫える。
 「ああ、締まるな」
 「聞多、」
 性急に求められて、あとは夢中で応えた。
 
 「割れた硯なんざあんた、あれが端渓だって安いくらいだったぜ」
 巨細にその夜を回想しているらしい井上は、木戸の膝に手を置き、彼にだけわかる言葉でそっと法悦の思い出を囁いた。木戸は井上の首に腕を廻してかるく唇をあわせると、そのまま温もりを貪ろうと動きだす井上を押しとどめ、顎をとらえた。
 「隈」
 「は?」
 「隈ができてるぞ」
 親指の腹で、井上の目の下をなぞる。
 「ゆうべ寝なかったな」
 にやりと口の端で笑う。顔をあわせたときから、井上が眠そうなのには気づいていた。しかも、髪に寝癖がついている。木戸の訪問で昼寝から起こされたのであろうことは容易に想像できた。朝まで、どこか楽しいところにいたのだろう。
 「もう帰るから寝るといい。悪かったな」
 引き剥がそうとしたが、井上は離れない。
 「一日眠らないくらいで死にゃしませんよ。だいたいなんで眠らなんだかっていったら木戸さんのせいですぜ」
 「なんで俺のせいなんだ」
 「ゆうべあんたがつかまらなかったから」
 「知るかそんなこと」
 井上が反応をもとめて首筋へ吸いついてくるのを、木戸は笑いながら受け流した。そうしてふと、
 「なあ、近頃赤坂だとどこがいい」
 尋ねると、襟を寛げられ、鎖骨の上あたりへがりっと歯を立てられた。
 「いっ……!」
「なんでそんなことあんたに教えてやらなけりゃならないんだ」
「お前か俊輔が大御所じゃないか。俺は赤坂はまだよく知らないんだ。一緒に行かないか、奢るから」
「俊輔に聞けよ」
噛み痕がついたであろう箇所を、今度はねっとりと舌でねぶられる。ざわざわと妙な感覚が背を這い上がってきて、木戸ははあっと大きく息をつく。
「しばらく白粉の匂いも嗅いでないんだ」
つい言い訳がましい口調になったが、言ったことは本当である。このところ、会合やなにかで茶屋を使うことはあったが、それだと芸者を相手に遊び戯れるという雰囲気ではとうていなかったし、まして妓楼からはすっかり足が遠のいていた。
「お前や俊輔ならとうに死んでるところを、俺なればこそ耐えしのいでいるんだ。少しは気の毒に思ってくれてもいいだろう」
「よく言うぜ。赤坂のおかめなんか相手にしなくたって、祇園の名花をちゃんと家に生けていなさるじゃねえか」
「女房は女房だろう。女房と箸拳だの金比羅ふねふねだのやるのかお前は」
「あんたあんな遊びが好きなのか……」
しかしまあ、なあ、と井上が首をひねった。
「どうりで昨日も、木戸さんは、木戸さんはってしつこく訊かれたぜ」
俺だって久しぶりだったのにあの女どもときたら、と口をとがらせる。
「なんだ、どこへ行ったんだ」
「赤坂じゃないぜ、品川さ。土蔵相模」
「ほう」
それは懐かしい名前を聞いたな、と井上に肌をふれさせたまま、木戸はちょっと目を見ひらいた。旧藩の頃、江戸へ出ていた藩の若い連中がよく遊んだ場所である。どちらかといえば井上や伊藤、高杉といった跳ねっかえり連の巣だったが、木戸もかれらやもっと年長の周布あたりとちょくちょく通った。その当時のそれやこれやの記憶とあいまって、単に知った場所という以上の、なにか自分の血のにおいを嗅ぐような気のする店である。
「木戸さんは近頃じゃすっかりお見限りね、だなんて、俺が恨み言をいわれるんだぜ」
たまんねえよ、とうなじを吸われる。
「仕方ないじゃないか」
井上の髪に指をからませた。
「どこへ行っても、弾正台の馬鹿どもがうるさいんだ。お前、ゆうべ尾行(つけ)られなかったか」
「さあ……」
「連中ときたら三味線の撥まで買い取るからな」
「どうするんです、そんなもの」
「なに、俺が芸者に頼まれて撥になんだか腰折れを書いてやったのさ。それを遊興の証拠にっていうんで、大枚はたいて買い取っていったらしい」
「くっだらねえ」
「そう思うだろう?」
そんなに俺の書いたものが欲しいならじかにそう言ってくれれば、顔にでも書いてやるのにな。そう言うと、井上は木戸の首筋から顔をあげて哄笑した。
「玉無し、とでも書いてやればいいや」
「ひどいなお前は。俺はせいぜい『犬』ぐらいで許してやるつもりだったのに」
「そんなもんじゃあきたらないやね」
だけど、と井上の手が木戸の頬を撫でる。
「そればっかりでもないだろう?」
気怠さをふくんだ、なだめるような声に、胸の奥のつめたい部分をさすられて、木戸は目をあわせないよう、わざと睫毛をふせる。その瞼に、井上の唇が押しあてられる。
「土蔵相模じゃずいぶんいろんなことがあったからな。いろんな奴と一緒だったし……――俺も久々に行ったはいいけど、どうも生々しすぎてね。あんたの気持もわからんじゃないと思った」
あそこはどうも、思い出すことばっかり多くて、どうも、何だな。どうもばかり言って、井上は苦く笑った。この男でもそんな気分になることがあるのかと、木戸はおかしいよりもいっそ可憐(ひどくにあわないことばだったが)な気がして、井上の頬の大きな傷に口づけた。
「まあでも気が向いたら顔を出してやりなよ。あんたの馴染が泣いてるぜ」
井上の傷の上で、木戸はふ、とやわらかく笑った。
「馴染んだのもずいぶん前のことじゃないか。もう別の旦那がついてるだろう」
「それでも、あんたは特別らしいぜ。俺のさ、」
と井上の手が襟を割って、木戸の胸に滑りこむ。俺のゆうべの敵娼が、ほれ何といったっけか、あんたの馴染の妹分なんだと。姐さんがいつもお噂してるんですよって、あんたの話を聞かされたぜ。そう言いながら指の腹で乳首を押し潰された。井上の肩をつかんでその感覚に耐える。
(まだ相模にいるのか)
と、その妓を思いうかべる。顔かたちはもはやおぼろげだが、色の白い、可愛らしい女だった。まだ年季も明けず、誰に落籍(ひか)されもせずにいるのだろうか。
(もうよほどとうがたったろう)
と思う。歳など聞いたことがないが、木戸が通っていた頃も、格別若いほうではなかった。今、ちゃんと客がつくものだろうか。
情の深い女だった。
それもたぶん女郎の手管というのとは違う、生来の気質としてそうらしかった。ああしたたちに生まれた女が何の因果か客をとる生業をして、それで好いた惚れたの駆引を年中していては、とても身がもつまい。
(会いたくはないな)
苦界に送る年つきに、容色の褪せた女のようすを思いえがいてみて、木戸は物憂い思いにとらわれた。老けた女がいやだというのではない。ただそういう女はいかにもあわれっぽくて、想像するだにいたたまれない感じがした。勝手なものだ、と寒々しく自嘲する。その耳の奥へ、
 
「こんな晴れがましいところ」
 
と、よく知った声がよみがえった。
今では正式に彼の室におさまった松子を東京の家へ迎えたとき、彼女は何やらひどく落ちつかなげに、それでいて深沈とだまりこみ、わけをたずねた木戸にやっとそう言った。
「大した家でもないだろう」
と木戸は首をかしげた。そのとき買ったのは今の邸ではなく、ほんのありあわせの狭い家だった。煤けた梁や、節目がついた柱をふしぎそうに見回す夫に、
「そうやおへん」
下を向いて彼女は言った。
「ここからお城へのぼらはるんどすやろ?」
政府の官衙は旧(もと)の江戸城――今は「東京城」とひどく語呂のわるい称び名にかわっていたが――である。
「そうだな」
木戸が答えると松子は肩をすぼめて、
「天子様へも、お目通りしやはる?」
「そういうこともあるだろうな」
「そんなん、うち……」
深くうなだれた。そのままあとを言わなかったが、かるく叱りつけて訊いてやると、
「天子様の御座所へ、芸妓のいる家から行かはってええんやろか。うち、そない大それたおうちの奥さんやなんて……」
怖い、と、消え入るような声で言った。かつて幕吏に責め上げられても音をあげなかったほどの気丈な女が、しおしおと肩を落としているそのようすに、木戸は理由が理由なだけに言葉をうしない、
「もう芸者じゃないじゃないか」
と言うのがやっとだった。
松子がそんなことを言ったのは、それ一度きりだった。もともと陽気な女である。それに木戸の仲間の大官連中にも、芸者上がりを正妻に据えたのが何人もいるのを知って、どうやら安心したらしい。それでも、あの日少女のようにおどおどと、
「こまるわ……」
と眼に涙をためた妻の顔を思い出すたび、木戸は毎度はっと胸をつかれ、仮に松子はもう忘れたのだとしても、彼だけはいつまでもなんだか妙に切ないような、苦しい思いがした。
(芸者を廃めた女でさえ、ああして思いわずらうものを)
娼妓ともなれば、どれほどのひとに言えぬおもいをしながら、楼のうちに年をかさねていることか。だから買色というものが人倫のうえでどうこうとは木戸は思わないし、女郎屋が潰れれば妓たちはかえってこまるだろうと考えているのだが、といってやはり、なかにはずいぶん気の毒な女もあるだろうと思う。
(あの女には、適くまい)
土蔵相模のその妓に、通いそめた当時からそう思っていた。どうも娼妓に適くような女ではない。それがかえって女への興味になり、可憐さと、惚れられているという快感もあって、つい馴染んだ。体のほうも、悪くはない女だった。
(若かったな)
かすかに甘く、そしてあとをひく苦さに責められる思いで、そうふりかえった。
 
「木戸さん」
 
呼びかけられ、唇をかさねられて、木戸は我にかえった。
「横浜から通ってる男があるそうですよ」
わずかにまぶしそうに、目を細めて井上が言う。誰に、とは木戸は訊かない。ただ、
「たしかな男なのか」
小さくつぶやくように尋ねた。肩を抱き、背を撫でおろす井上の手があたたかい。
「夷人相手に店を大きくしたなかなかのやり手だと聞いてますが、山師のたぐいじゃなさそうですぜ。それが、どうかして請け出したいと言ってるらしい」
「そうか……」
「だが妓がまだうんと言わない。それでも、もう客をとれるのもそう長い先までのことじゃないからねえ。あそこの女将が口を酸っぱくして説いて、男のほうも、まあ拝み倒しさ。だんだんほだされつつあるような話だったよ。今にまとまるんじゃねえか」
「そうか」
井上の背を抱きかえし、肩に頭をあずけた。
「また、さみしくなるねえ」
耳の横で井上の声がする。
「そうかな」
「ゆうべ見聞きしただけでも、ずいぶんあそこの妓は入れ替わってたよ。高杉の馴染みも、久坂が気に入っていた妓も、みんなどこかへ行った」
「ああ……」
木戸はかたく目をとじ、井上の首筋に顔を埋めた。彼の温もりが、吸い込んだ息とともに肺に流れ、井上の記憶と木戸の記憶――それぞれにかさねた歳月が胸の奥でひろがって、その質量と湿度が、木戸を苦しくさせる。
そうして、井上がめずらしく吐いた感傷的な言葉が。
(この男はこの男なりに、色々あるのだろう)
おもえば井上の奔走時代も、木戸のそれにおとらぬほど劇的だった。彼はゆうべ木戸の肌にあぶれたから登楼したのだといったが、それではわざわざ土蔵相模をめざして行った理由にはなるまい。行けばおそらく、懐かしい以上に、過去がひりつく痛みを味わうことはわかっていただろう。
「お前、どうしてまたあそこへ行ったんだ」
と尋ねると、井上は木戸の頭を掻い込むように抱いて笑い、
「あんたはどうして今日ここへ来たんです」
と反問した。
木戸はちょっと思いめぐらすように視線を流して、
「お前に抱かれに来たのさ」
「ふん」
井上は笑ったが、嘘ではないつもりだった。骨董屋で、割ってしまった硯のことを思い出したのと同時に、井上に抱かれた夜を思い出していた。たぶんそのときにはもう、井上の肌が恋しくなっていた。土蔵相模の妓の境涯など、その時点では当然夢にもしらず、そこで頻繁に遊んだ昔を思うでもなく、ただ数日前の夜の交歓をふたたびあじわうために、井上の家の門を叩いた。
骨董屋からの帰り道を辿る木戸は、あの頃とは没交渉に歩いていた。それらの甘苦しさから逃れて、今そばにある快楽を追うために。
(それでも、こうして簡単に――)
過去は常にかれらの身辺に陥穽を仕掛けている。逃げたつもりでも、こうしていつでも、いともたやすく、かれらはからめとられるのだった。
「抱いてくれ」
と木戸は言った。
過ぎさってしまえば一瞬の火花のような動乱を生きぬいて、しかし実際に生きた感慨としては、ずいぶん長い時間を経てきてしまったように思う。その長い歳月に、見聞きしてきた出来事のおおさに、疲れた体だけがとり残されて今にある。その、体を。
(ああ、傷痕が)
昼の明かりの中では、井上の体の傷がよく見えた。この傷があるぶんだけ、この男はわかりやすくて好きだ、と思う。薄手のところは白く、深く斬られたところは赤黒く変色して、わずかに盛り上がっていた。この傷がまだ生なまと血の色を見せていた頃も、さらにもっと以前、傷などなかった頃も木戸は知っている。指折りかぞえればわずかに数年前のことだが、じわじわと皮膚が隆起し、色を変えてゆくほどの時間はいかにも長かった。
その傷痕をもつ男に――自分とおなじく歳月を経てきた体に、抱かれる。
「なあ、本当にいつか、あんたも土蔵相模に行こうぜ」
奢ってくれなくていいからさ、とすこしだけ冗談めかして井上が言う。ゆったりとのしかかってくる素肌の重みが心地良い。
「あんたが、昔を懐かしいと思えるようになったらさ」
 体の内へそろそろと注ぎこむように囁かれた。無言で微笑み、井上の背に腕をまわす。汗ばんだ男の肌に、懐かしいにおいを嗅いだ。
 
 「そういえば、ゆうべ聞いたんだけどさ」
 畳に腹這いになり、肩から襦袢一枚だけをひっかけて、井上は、おなじ格好の木戸の顔をのぞきこむ。
 「あんた、終わったあとも優しいんだって?」
 「うん?」
 木戸は一瞬首を傾げたが、すぐに意味をのみこんで苦笑した。
 「つまらんことを話してるなあ」
 「いやまったくですよ。おかげで俺はとばっちりでね、あんまり情がないじゃありませんかだなんて言われて」
 あーあ、と井上は大口をあけて欠伸をした。おかげですっかり夜が明けるまで、何やかやと話しかけてやる羽目になりましたよ。そうぼやく声がいかにも眠たげである。
 「何か怒らせるような真似をしたのか」
 「べつに。あっち向いて煙草ふかしてただけだよ」
 「それはお前が悪い」
 「俺はあんたみたいにまめじゃねえよ」
 「俺に対してはそうでもないじゃないか」
 いつも、果てたあとの倦怠のなかにいる木戸がうるさがっても、井上はしつこく木戸に構いたがる。そのことを言うと、井上は笑いもせずに、
 「だってあんたは女郎じゃないだろ」
 射るように、しかし静かに木戸の目を見た。そして木戸が答えないうちに、
 「いや、違うな」
 と首をひねり、
 「女郎か堅気かっていうんじゃなくて……あんたとは、ゆきずりじゃないから、な」
 「なんだそれは」
 「わかるだろ」
 あんたにはわかるはずだぜ、と井上の手が頬に伸びてくる。その温もりに胸をしめつけられる気がして、木戸はわざとはぐらかした。
 「お前とこうなって、まだ日も浅いじゃないか」
 それでも、わかっている。たしかに井上の言うとおり、木戸にはわかる。
 「あんたの服を剥いで、あんたの中に出すだけの間をあんたと寝てるんじゃない。俺は――」
 「聞多、」
 その先を言わせないよう、木戸は井上の首に手をまわし、顔をひきよせて口づけた。
 (知りすぎた)
 と思う。井上を、ではない。自分も井上も、ともに見すぎ、経験しすぎたことがある。その互いのすぎた部分を触れあわせ、砕いて溶かし、また身のうちに深く埋めてしまうために抱きあう。考えてみれば気の遠くなるような煩わしい営みで、それゆえにかれらは、たとえ今日かぎり別れたとしても、ゆきずりではありえなかった。そのわずらわしさに対するなにごとかの表現が、井上にとっては、事後の執拗なほどのふれあいなのだろう。
 が、わざわざそれを、木戸は口に出してたしかめたくはない。言ってしまえば、急に重く、硬くつめたくなる。
 「古びたものなんて、それだけじゃ何の値打ちもないからな」
 唇を離し、井上の頭を抱いたままつぶやいた。
 「何のことです」
 「あの骨董屋なら、いくらつけると思う?」
 じっと井上の目を見つめると、彼はその視線を深いところで受けとめるように、ゆっくりとまばたきをし、
 「商人のお歯には合いますまいよ」
 木戸の意をほぼ正確に察したらしい返答をした。それから、
 「――だから、」
 俺が貰おう。全部。そう言って木戸の二の腕のあたりを強くつかんだ。
 「そのかわり俺の分は、あんたが全部買い取るんだぜ」
 木戸は睫毛の影をかすかにゆらすほどの、淡い微笑みをもらした。
 「買い切れるものかな」
 「一生かかってなら何とかなるだろ」
 「なるほど」
 (それなら――……)
 あとどれくらいの歳月が、彼と自分のうえに降り敷くものだろうか。
 (遠いな……)
 気だるく、淡あわとしたかなしみをもって、木戸はその長い――たとえ数年と予測するにしても彼には長かった――ゆくすえを見渡した。
「おまえも、酔狂だな」
「粋と言ってくださいよ」
どちらからともなく、交情の余韻の去らない肌を寄せあう。首筋にかかる井上の息の熱さに、木戸はそっと肩をふるわせて唇を噛んだ。
「力、抜いてろよ」
井上の言葉に、折りかさねられた意味を――彼の、ひとにはわかりにくい思いやりを見る気がして、木戸は小さな気泡が弾けて消えるように笑った。
あと何度、彼の熱に溺れるだろう。
井上の肩の向こうに目をやると、床の間の違い棚の上から、さっき木戸が渡した硯が、羊羹色の鈍い艶をこちらへ放っていた。

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【2012/04/06 20:52 】 | よみもの
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