まだ墨の香がたつような用箋の綴りを繰って、木戸はそこに記された人名をいちいち指でなぞった。
ひい、ふう、み……と唇のうちでつぶやく。
「いかがです」
正面に掛けた大久保から尋ねられて、木戸は顔をあげ、紙の束を大久保の手に返した。微笑とともに、だまって小さく首を振る。
「ご異存がおありですか」
御高見をぜひ、と無愛想ながらごく低姿勢に大久保が出るのを、木戸はふたたび首を振って受けながした。
「いいえ。ずいぶん大所帯になったものだと愕いたまでです」
「国を挙げて遊学する気で、という岩公のご意向でもあります。人数もやはりそれなりに要りましょう」
「承知しております」
私は何も申すことはありませんよ、と木戸はのびやかに答え、洋卓の上で両手の指をかるく組む。
「ただ、大隈君には気の毒をしたと思いましてね」
「まあ、それも仕方ありますまい」
「ええ。私もこの機会を誰に譲ろうという気もありません」
目許だけで、大久保に笑いかけてみせる。大久保の表情は動かない。
「結構です。大隈さんにはむしろ留守をお任せしたい」
急ぎ創業の基(もとい)を樹てねばならぬこのとき、彼のような尤物が東京を抜けては困りますから、と大久保は言う。
(これは空々しい)
木戸は大久保のその言葉に、呆れるよりもいっそ嬉しさがこみあげた。
「ごもっともなことです」
慇懃に相槌をうつ。
「私のような非才であれば、外遊も大いに可ですが」
「とんでもない」
大久保は言下に言った。相変わらず無感動な声である。
「あなたや岩公が留守なさることも、私が本当はどれだけ恐れておりますことか。ですが国家後来のことを深謀すれば、御両所の明智とご慧眼を以て西洋を実見され、翻って邦家を照らしていただくことが最善と、私はそれを願うばかりです」
「岩公はともかく、私はねぇ」
「なぜそんなことをおっしゃいます」
「あなたが多言を弄されるときは、たいてい嘘を仰せですから」
「心外です」
「おや。怒らせてしまいましたか?」
「落胆しているのです」
「面白い方だ」
目を細めると、大久保は深く窪んだ目でちらと見返しただけで、なにも言わなかった。
(そら、面倒だろう)
こみあげてくる皮肉な笑いを、さすがに露骨にあらわすわけにもいかず、木戸は奥歯で噛み殺す。
(面倒ならはなからつまらぬ追従をしないことだ)
けれど大久保のそういうあからさまな取り繕い方が、木戸は嫌いではない。嫌味なのか、はたまた彼なりの誠意なのか、木戸に対しては多分、後者のつもりなのだろう。しかしあまりにも彼の肚と乖離したその種のおべんちゃらは、結局は痛烈な皮肉になって、強い毒を放つ。しかもそれを大久保自身はかならずしも充分に自覚しておらず、そのため彼の挙措全体が巨大な皮肉として屹立している。そういう寒々した滑稽さが、木戸は可笑しくも馬鹿らしくもあり、屈辱をとおりこして、がさがさした痛快さをおぼえることがあった。
「私を渡航させてくださろうというあなたの御厚意、よく心得ておりますよ」
大久保の真似というわけでもないが、いかにも感謝しているという体を大袈裟につくって言った。大久保の瞳がわずかにゆれる。ああ、迷惑しているな、と思うと心が躍った。
「私がきめたことではありません」
と大久保が反論する。
「条公のお考えと、何より聖断に出でたことです」
「条公は私に行ってくれるなと仰せでしたよ」
「お気がかわられたのでしょう」
「条公と私を引き剥がしておくほうがあなたのお邪魔になりませんものね」
「失礼ですがそれは邪推というものです」
「あなたのお留守に私を野放しにしておくほうが剣呑だと判断なすった。またえらく買いかぶられたものです。私なんぞに何ができるとおっしゃいますやら」
「おっしゃる意味をわかりかねますが、ともかくもあなたのご賢断とご勇邁こそ、這回の使節にはぜひ望ましいとの御叡慮でしょう」
「なんでも御叡慮ということにしてしまうのは、かえって不敬というものですよ」
表面はあくまでも慇懃にやりあう。そのやりとりのうちに、木戸は自分の言葉が、声が、ぬらぬらとした光を帯びていくのを感じていた。その生々しい醜さを、これでもかと鼻先へ突きつけてやる。すると大久保はますます冷然としずかになってゆく。この作用をみとめるようになって、これが何年目だろうか。
(ついに倶に洋行するか)
実に奇妙なめぐりあわせに思えてならない。仮に同郷に生まれていたとしても決して親しくはならなかったろうこの男と、今こうして席をならべている。それもこれも、癸丑の黒船騒ぎに端を発したことだ。そもそもは攘夷から奇縁を結んだ自分たちが今、ともに海濤万浬を蹴って西欧に経綸のことを学ぼうとしている。
(どうも、壮挙だ)
使節団派遣という事業そのものに対しては、素直にそう思っている。はじめ大隈が、彼自身が渡航するつもりで言い出したのを、大久保が計画ごと攫って、さらにはよほど壮大にしてしまった。そうしてほかならぬ木戸自身も参加を希望し、大久保もまた、木戸に東京に居残られるよりも、ともに外遊することを望んだのである。残される側の三条は不安がったが、木戸はいい加減にこれをなだめて、とうとう出ることにきめてしまった。
(外に出れば、また色々のことがあるだろう)
個人の見聞ということはもちろん、維新創業の実を挙げ、国家の基礎をさだめるうえで、おそらく今度のことは、一大転機をうむにちがいない。それらすべての変革と建設の予感を、木戸は大久保の蒼白い、表情の乏しい面をとおしてつかむことができた。大久保が何を語るというのでもなく、ただ木戸にとって、大久保はその全身で建国の事業すべてを象徴している男だった。それだけに大久保の存在は物憂く、ときにおそろしく、しかしどうにも逃げられないという感じを起こさせるものだった。
その、大久保とともに外遊する。
無論木戸は年来の宿願であったこの行を楽しみにしていたが、やはりそれ以上に、大久保を通して、底知れぬ重さと涯ての遠さを感じているのだった。
「御用はいかにもして果たしましょうけれど」
その重くるしさが、かえって木戸の舌を熱する。
「私は、私なりに学びもすればものも申しますよ」
「無論のことです」
大久保は頷く。
「私などでは西欧を実見しても何ほどのことを学び得ますか、洵におぼつかない。むしろあなたに学ぶつもりで参るのです。しかし私一個のことはともかくとしまして」
黒く、どちらかといえば沈んだ瞳をひたとこちらにつけ、抑揚のうすい声で大久保は語る。よくもまあ、と木戸は苦笑する思いだった。歯の浮くような――その言葉はいかにも浮薄にきこえた――ことを平気でいう、その肝の太さに感心する。
――あなたの御慧眼をとおして西洋を見、御高説によってこれを解する機会を得るとしますれば、これは国家の大幸です。
大久保はそんなことを言った。日頃無口な大久保にしては長すぎるその口舌に、否、長さはいいとして、その内容に辟易した木戸は、なにか言いかえしてやろうかと思ったが、ふと、そうまでして自分の機嫌をとり結ばねばならないと思っているらしい大久保の、それはそれでまさしく「国家の大幸」を願っているのであろう心事を思いやり、ただ憫笑で報いた。それをどう取ったのか、大久保はなおも何か言おうとしたが、
「いいでしょう」
溜息とともに木戸は遮った。
「今さら行かぬとは申しませんよ。何もご心配には及びません。行って余計なこともいたしませんから……何でしたら一札入れましょうか」
「とんでもない、そのような……」
「私は洋行がしたい。あなたは私を自由にさせたくない。結構です。しかし私はあなたが思ってらっしゃるよりも強欲ですからね。あなたの――あなたと岩公の手綱にかけられる損料が、洋行だけではいささか安い気がするんです」
木戸が言いおわらないうちに大久保は唇をひらいたが、言葉が追いつかなかったのか、わずかに空気を噛んだだけで、ふたたび口を引き結んだ。それから二、三度ゆっくりまばたきをして、ふたたび木戸の目を見据えた彼は、今度は眼のはしだけでかすかに、しかし新月の夜の沼のように深く笑った。
「何を御所望ですか」
大久保の言葉に、木戸もまた眼を細めて笑う。
「一方的に捕らわれるのは不本意です。あなたも私に捕まってくださらなくては」
「よくいらっしゃいました」
その夜、染井の別邸の離れに、木戸は大久保を迎えた。
本邸にくらべて使用人の数も少ないこの邸は、夜ともなれば静かである。まして今夜は、大事な用談があるからと離れは無人にしてある。その静寂のなかに、全身で溶け込むようにして大久保は座っていた。行灯のうす暗い灯をうけて、両眼だけが光っているさまが滑稽である。
「お食事は?」
可笑しさと、これから起こることへの期待で声が弾む。
「すませて参りました」
という大久保の声が、普段どおり深沈としているのも木戸には愉しい。
「菓子でも上がりますか?」
「いえ、結構」
「そうですか。じゃあ……」
木戸は立って奥の間との続きの襖を空ける。
「こちらでお相手ねがえますか」
すでにのべておいた布団を指して微笑むと、大久保が頷く。
「そのつもりで参りました」
そう言うと、彼は律儀に行灯の火を落としてから立ち上がった。煙が一筋上がったと見えたあとは、まったくの暗闇になった。その中を、大久保の足音だけが近づいてくる。彼の影かたちを、表情を、黒々した夜のなかに思いえがきながら、木戸は妙に背筋がざわつくのを感じた。闇が、こちらへ迫ってくる。
なぜ大久保は来たのだろうと、あらためて考えれば不思議に思わないでもない。
誘ったのは木戸だし、措辞の上では取引を装った。しかしそれもこれも所詮は座興である。大久保が乗らなかったとして、それを理由に政務のうえで大久保の邪魔をしてあるくほど木戸は人間がさもしくない。また、今日大久保が来たからといって、今後なすべき主張を引っ込める彼でもない。そこのところは、大久保もよくわきまえているだろう。そうでありながら、なぜ今夜大久保は来たのか。彼の律儀さの証明であるのかもしれないし、ひょっとするとあれで座興を愉しんでいるつもりなのかもしれない。以前やはり座興のようにして体を重ねた夜が、彼は彼なりによかったのだろうか。しかし、
(どうでもいいことだ)
と木戸は思った。
大久保に抱かれたい。
大久保が欲しい。
だから今夜大久保をこうして迎え得たことは嬉しかったが、その実、大久保の側の理由は、木戸にはどうでもよかった。初めて抱かれた夜からそうだった。大久保はあべこべに、なぜ木戸が誘ったのか聞きたがったが、木戸は大久保が乗った理由も知りたくなければ、自分の誘った動機も知らせたくなかった。
というよりも、うまく言う自信がなかった。言って大久保に理解できるとも思えなかった。
だから、惚れたのだと言った。大久保は結局最後まで信じなかったが、それもどうでもいい。まんざら嘘でもないようなところはあると思っているのだが、それもやっぱり、話しても伝わらないことだろう。べつに伝えたくもない。
木戸にとって重要なのは、自分を大久保に向かわせる理由をこしらえておくことだった。
無論、わざわざつくらなくても理由はすでにある。それも豊富にある。かれらが身を置いている世界は実に複雑で、正が負になり、ときに負が正になり、悪趣味な回り灯籠のようにちかちかぎらぎらと変わるその世界を、しかしどうにか瓦解させないために、木戸は大久保と離れるわけにはいかなかった。彼と手を結んだ経緯も、今まがりなりにもともに働いていることも、それを説明する理屈は無数にあるが、そのどれもがお誂えむきに複雑で悪趣味で、木戸は暮夜ひとりで昔のことを思うときなど、ふとそれらの理屈のいやらしさに耐え難くなる思いがする。
政治とは、そういうものなのであろう。過去の人になった盟友たちの誰もが彼には懐かしかったが、それは単にそのときが恵まれていたというだけのことだろう。書生にすぎなかった過去はともかく、為政者に友人など、本来はいないのかもしれない。
そう肚を決めてはいても、しかし、ならばなぜ大久保と手を組みつづけるのかと思う。彼と自分とでは、建国の理想も、政見もずいぶんと違う。そもそもそこに臨む視座がまるでちがっている。結局は、ただ現今の体勢を崩さないためという、消極的な理由しかないではないか。しかもその体勢がかならずしも正義かと考えだしてしまうと、木戸はもう、くずおれるようにして苦悩の淵に沈んでいかねばならなかった。それが――今の自分の立場でそういう思索に溺れてゆくことの危険さを、木戸はよくわかっていた。
だから、大久保に抱かれる。
大久保との因縁をいっそうんと下卑た、肉の執着に変えてしまえば、かえって縛られていることはたやすい。
飛躍している、と自分でも思う。そうしてその飛躍の間を、言葉で埋めることはどうも難しい。だから理由も告げずに、ただ懇願する。
「抱いてください」
と。
そうして誘っておきながら、大久保の底意のはかりがたさが(興味もないのだが)、いつでもわずかに、恐ろしい。
黒ぐろとした気配を濃厚に感じて、木戸はそっと身を竦ませる。闇のなかからぬっと手があらわれて、その両肩を抱いた。自分には彼がよく見えないのに、彼には肩の位置がわかるのだろうか。口づけられながら、正確に測ったように歩かされて、布団の上に押し倒された。
「木戸さん」
唇が離され、耳許に彼の息づかいを感じる。いつかの夜の感覚がよみがえり、肌が粟立った。
「よろしいのですか」
と大久保が尋ねる。闇ではかえって木戸のためらいが見えるらしい。
「今さら何をおっしゃるんです」
大久保の首に腕をまわし、わざと呆れたように笑った。
「ここで突き放されてはたまりませんよ」
「本当に?」
「ええ。あなたがどうしても気乗りしないとおっしゃるなら仕方ありませんが。ただ、ひとりでしますけれど、見ていてくださいますか?」
「そんな勿体ないことはさせませんよ」
私が頂戴します、と言って、大久保は木戸の胸に手を入れた。
大久保の指が、内部で蠢く。
木戸は大久保の髪に指をからめてその刺激に耐えた。時折ぐっと髪を引っ張ってしまうが、その動きを咎めるでもなく、大久保は巧みに指を動かし、また木戸の肌に口づけを落として、時折歯を立てた。
「あ、」
乳首を噛まれて木戸の体が跳ねる。無意識に収縮する粘膜が大久保の指を喰い締め、中でくの字に曲げられた関節が熱い肉に埋まる。
「大、久保さん……」
木戸は手を伸ばして、大久保の襟をつかんだ。
「寒い、です」
「はい?」
「あなたも、脱いでください」
大久保は、さすがに羽織と袴は解いていたが、長着をしっかりと着込んだままだった。布越しにふれる温もりはもどかしかった。
「ああ、」
そうでした、と大久保が起きあがり、木戸の中から指が引き抜かれる。ん、と木戸は吐息を洩らした。抜くときもしっかりと弱い箇所へ当てていく男の細心さが憎らしい。
帯を解きながら、
「ああ」
と大久保はもう一度言った。
「そうでした。これをあなたにさしあげようと思ったのです」
懐から袱紗に包んだものを取り出すと、木戸の鼻先へもってきた。
「なんでしょう」
木戸は半身を起こして、袱紗の垂れ下がった角に触れる。
抱きしめあったときの感触で、大久保が懐に何か入れているのは気づいていた。細長い、矢立かなにかだと思っていたが……。
「開けてみても?」
「どうぞ」
「手ぶらでおいでくださればよろしいのに」
痛みいります、と大久保からそれを受け取って、袱紗をひらいてみる。長さは五、六寸というところだろうか。大きさの割にずしりと重く、銅か鉄のようである。
「これは……」
袱紗をとりのけて、手にとったそれを目の上にかざす。木戸の眼は暗闇にだいぶん馴れて、輪郭はほぼわかったが、こまかい意匠まではよく見えない。
「文鎮、ですね」
大きさと形状からそう言ってみると、
「ええ」
大久保が頷いた。
木戸ははっきりとは利かない眼のかわりに、指先でその形を知ろうとした。
「なにかの、動物でしょうか」
変わった意匠である。足と、尾があるような気がする。
「麒麟ですよ」
「めずらしいですね」
「唐わたりで……宋朝の頃のものだそうです」
「それは貴重なものを。よろしいんですか」
木戸は骨董がすきである。ついでに揮毫も頼まれれば気軽にひきうけるほうなので、文具にもひととおりの趣味があった。おもわず眼をかがやかせると、大久保は
「ええ」
と、ふたたび頷いた。
「ありがとうございます」
木戸はどうにか眼を凝らしてみたり、撫でさすったりしたが、やはり完全には形がわからない。
「惜しいな」
と洩らした。
「この凹凸は、鱗なんでしょうね。この細かいのは、たてがみかな」
「さあ、どうでしたか」
「覚えてらっしゃらないんですか」
「私はこういうものにかけてはてんで不調法ですから」
そんなことはどうでもよろしい、それよりも、と木戸の耳に口を寄せ、
「脱ぎましたよ」
閨でしか聞かせない、低い、男の声で言った。
「……ええ」
覆いかぶさってきた体を、両腕で抱く。指先でなおも弄んだままの文鎮が大久保の背に触れ、その冷たさに彼が身じろぎする。
「お気に召しましたか」
苦笑まじりに問われる。
「ええ、とても」
でもやっぱり明るいところで見たいんです、とむずかってみせると、
「暗がりでもはっきり見る方法がありますよ」
大久保が木戸の腕をはずし、文鎮をとりあげた。膝を立てられ、あ、と思う間もなく、秘部にひやりとした感触が押し当てられる。
「大久保さん……!」
「頭から、挿れてさしあげましょう」
「やめ……、」
「大丈夫ですよ」
さっき馴らしてあげたでしょう。ひどくやさしい口調で、大久保は言う。
「あ……」
大久保の肩に爪を立てた。硬くて冷たいそれが、襞を押し割って入りこんでくる。痛みはなかったが、複雑な凹凸が粘膜を引っ掻いて、思わぬところを刺戟する。
「これが、前脚」
「や、……あ、」
「胴が、うねっているでしょう。鱗の形がわかりますか?」
大久保は、蘭学者が舎密学の実験でもしているかのような、冷静な声で木戸に問いかけてくる。
「大久保さ……、」
「おかしいですね。痛いですか?」
「苦、しい……」
変なんです、とその感覚を訴えると、ああ、と大久保は微笑んだ。
「生殺しなんでしょう。大丈夫です、すぐに」
「や……」
「ほら、後ろ脚」
「ひ……っ!?」
「ちょうど、当たるでしょう」
「あ、あ、」
体の中を、冷たい獣の蹄に嬲られる。蹄はいたって獰猛に、木戸の弱点を確実に突いてくる。硬く無機質な感触が、ひどく熱を煽った。そして何より、大久保のその声が。
「よく見えるでしょう。麒麟が空を駆けている格好ですよ」
「あ、み、見えます……」
「あなたの中は敏感ですから」
「ん、……っあ、」
「すこし、跳ねさせてみましょうか」
歪な塊が抽き挿しされる。何度めかに指を添えて挿れられて、木戸は背をしならせて身悶えた。
「あ、当たる……あちこち、当たって……!」
たてがみ、鱗、脚と、木戸の中で暴れる獣には、無数の突起がある。そして、長くしなやかな大久保の指。あるいは冷たく、あるいは熱いそれらが火照った粘膜を蹂躙し、大久保の声とともに木戸を翻弄する。
「ひ……っ、あ、回して、回してくださ……っ」
大久保にしがみつき、あられもない言葉で懇願する。
「こうですか?」
大きく掻き回されて、体をのけぞらせて高く喘ぐ。
「そう、それが好き、です……」
大久保は巧みに緩急をつけて回転させる。ときに指はひとり離れて動き、いいところをばらばらに剔られて、木戸は爪先で布団を掻いた。思考がどろりと濁り、それが次第に薄くなり、白く霞む。もうだめだ、と思ったとき、勢いよくその淫具を引き抜かれた。
「あ……?」
快楽を奪われた寂しさに、眼を潤ませて大久保を見上げると、
「まだ我慢してくださいね」
挑むような眼で微笑まれた。
「私も愉しませていただかなくては」
大久保の声が鼓膜の奥に落ち、その意味を理解した瞬間、木戸は嬉しさを精一杯露わにして微笑み、大きく脚をひろげた。
大久保の猛った熱が、体の奥に押し込まれる。ぐ、ぐ、と腰を進められるごとに、甘い痺れが下肢を浸す。
「ああ、やはりあなたの中はいい」
本心なのかどうかわからなかったが、大久保の溜息に、木戸は中で締めつけて応えてやる。大久保に抱かれるのが好きだ、と思う。互いの肚は読めなくとも、この瞬間の快楽は本物だった。抱かれたあとが虚しいのは前回の交情でわかっていたが、それでも洋行という一大転機を前にして、いま一度抱かれておくことは、木戸にとってぜひ必要だった。
「大久保さん……」
ねだるように背を抱くと、肩のあたりを抱きかえされ、ゆっくりと揺さぶられた。
「あぁ……」
文鎮よりも圧迫感のあるそれは、押しひろげるように木戸の中を撫でてゆく。木戸の好きなところを擦るとき、大久保はぐっと先端で穿つような動きをした。以前に一度、それも互いにしたたかに酔って寝ただけなのに、自分の体を大久保がよく記憶しているらしいことが、木戸をよろこばせた。
「そ、こ……」
みっしりと盈たされて、いい場所を押し上げられる。体は幸福に蕩けかかっているのに、自分の中にいるのが大久保だということが、何やらひどく滑稽で、木戸はくすくすと笑い出す。
「どうかなさいましたか?」
「いいえ、こっちのことです」
口許をおさえながら答えると、大久保に溜息をつかれた。
「あなたも無粋でいらっしゃる」
抗議するように一度ぐっと奥を突いて、
「こんなときにあさっての考えごとをするものではありませんよ」
「それは、失礼」
きつく揺さぶられた衝撃に息を詰めながら、
(ああ、馬鹿馬鹿しい)
と晴れやかに思う。
大久保と抱き合っていること。それが心地良いこと。自分が大久保に惚れたといい、大久保もまたそれにつきあうふりをしていること。
そうして、自分がどこまでも嘘をついていると、大久保が思っているらしいこと。
(ここまで体が欲しければ、もう惚れたといっていいのじゃないか)
女ではあるまいし、と木戸は思う。少なくとも惚れたつもりで抱かれてみれば、廟堂で大久保に騙されることも、騙されると知ってなお大久保の手をとり、とりながらまた彼の政見に否と叫びつづけることも、そういう複雑怪奇な挙動のすべてが、よほど楽になるだろう。
そう、思っていながら。
「あなたにこんなことで叱られるとは思いませんでした」
なるほど、いかにも自分は無粋だと木戸は苦笑する。たしかな感覚として肉体に与えられる快楽よりも、つかみどころのない主義や理想が、そんなにも大切なのだろうか。
「木戸さん」
呼ばれて、淫蕩な表情をつくってみせる。大久保もまた、意味ありげに笑う。
(さあ、もっと――)
もっと犯してくれなくては。早く、深く溺れたいという自分ののぞみを、今夜この男はどこまで叶えてくれるだろうか。
「ずいぶんと、余裕がおありですね」
動きを止めて、長い指に頬を撫でられる。その指に自分の手をかさねて、
「さあ、そうでもありません」
今は体の奥にある、大久保のそこに触れるときの手つきで、ねっとりと弄んだ。
「いいでしょう」
大久保の眸に険のある光が宿った。期待で苦しくなる胸から、熱い息を吐き出した刹那、片脚を高く抱え上げられる。
「あ……、」
ぐっとそのまま反対側に引かれ、上げた脚の側の背を横むきに持ち上げられる。敷布から剥がされた背中の後ろに、大久保が滑りこんで、ぴったりと胸をつけた。
「……っ」
繋がったままの姿勢の転換に、木戸の体がふるえる。大久保はもう一度、木戸の膝裏を抱えなおした。木戸はいま、横向きで寝かされて、やはり横向きの大久保に、後ろから犯される格好になっている。上側の脚は、後ろから廻した大久保の腕に高く抱えられて。
「こ、のままで……?」
肩越しに振り返ろうとするが、大久保の顔はよく見えない。が、「ええ」と答えた声で、彼がするどく微笑んでいるらしいことを知る。
「おそらく、いいと思いますよ。あなたの中の角度なら、ちょうど」
そう言って耳朶を甘噛みされる。貫かれている部分が、勝手にうねり、大久保を締めつけた。大久保が息を呑む気配がする。それから一拍おいて、抽挿が開始された。
「あぅ……あ、」
木戸は敷布に爪を立て、目を見ひらいた。大久保がさっき言ったように、角度のせいなのか、それとも木戸のなかで大久保がさらに怒張しているのか、一度引いて、ふたたびずぶりと肉の中を進んできた彼は、思わざる深さに到達した。
「ひ……っ!」
木戸は唇を噛み締める。大久保はその深い動きを、二、三度おざなりに馴らしただけで、あとはいきなり激しく突いてきた。
「や、あぁ……っ」
木戸の額に冷たい汗が噴き出す。
「や、め……抜いて、くださ……、」
「なぜでしょう」
「こ、んな、深……」
「ええ、」
「痛い……」
「すぐによくしてさしあげます」
「大、久保さん、」
恨みがましい目で睨みつけ、苦痛に涙を零しながら、
(ああ、さすがに大久保だ)
と、木戸は変に感心する思いだった。
(本当に痛いのに)
演技かそうでないかぐらいは、大久保にもわかっているだろう。しかし、彼はすこしも呵責の手をゆるめる気配がない。
(やっぱり、ちがうな……)
大きく揺さぶられながら、ふと、いつもの男のことを思い出す。
井上ならば、木戸が痛がればすぐにひるむ。無理やり犯されることもないではなかったが、そういうときでも、彼はどこかで、木戸を傷つけることをひどく恐れていた。
その点、大久保は。
自分を痛めつけることに恐れなど微塵も感じないのだ。木戸もとうにそれを知ってはいたが、昼間の大久保は、懸命にそれを韜晦している。いまはじめてそれをあからさまに、それもこんな場所で、こんなときに見せつけられて、木戸は妙に可笑しくてたまらなかった。
(わざと、なのか)
わからない。何もわからないなかで、大久保の息遣いだけが荒々しく、中で暴れるそれはますます硬く、ああ、彼にも自分の体はそれなりにいいのだなと、なんとなくそこに安堵する。
しかし、大久保はさすがに嘘はつかなかった。
揺さぶられているうちに、木戸の体が大久保の深さに順応しはじめる。
「ん…………」
痛みが次第に朧になり、突き上げられる衝撃が甘さに変わる。
「っあ……!」
体の奥の、自分でも知らなかった淫楽の水脈を、大久保に探りあてられる。
「あぁ……凄、い……」
背をのけぞらせて、大久保の蹂躙に応えた。
「大久保、さん……、」
「いかがですか」
「こん……、な、ところまで、」
「はい」
「今まで、誰も来たことな……っ、ああぁ、」
「光栄です」
大久保の動きが一段と速くなる。肉が搏ちつけられる音が、部屋の中に高く響く。初めての場所に受ける初めての感覚に木戸は身を慄わせ、膝裏を支える大久保の手に自分の手を添え、さらに脚を開いて、深い交わりをたすけた。
「あっ、あ、あ、」
揺さぶられるたびに、抑えきれない声が洩れる。手も足も頭も、快楽でぐずぐずに溶けてなくなって、大久保を受け容れている部分だけが、布団の上で淫らに揺れているのではないか。ふとそんなふうに思った。大久保の熱のまわりにだけ、淫慾そのものになった自分が、どうにか絡みついて存在している。
(ああ、もう……いい……)
瞼の裏が、白く透き通る。もう達しようかというとき、大久保も短く呻いて、自身を引き抜こうとするのを感じた。
「待っ……、」
木戸は大久保の腕を強くつかみ、同時に、すでに自分の意志に反して波打つような動きを示している内部で、どうにか彼に喰らいついた。
「どうぞ、このままで……」
「っ、よろしいんですか……?」
「せっかく、ですから、」
汗に濡れた自分の太股の上で、大久保の手に指を絡める。大久保が初めて暴いた自分の深い場所。その熟れた肉の奥へ、思いきり注ぎ込まれてみたい。
木戸がねだると、一度抜けてしまうほど腰を引かれ、それから捩じ込むように奥を穿たれた。衝撃に内部が痙攣し、慾のしるしが弾ける。同時に、中の深いところで、大久保が放ったのを感じた。
(熱い……――――)
脊髄が痺れて焼き切れるほどの快感に、木戸は全身をひきつらせながら泣いていた。
おどろいたことに、あれほど激しい情交のあとでも、大久保は完全には萎えなかった。
木戸の息が整うのを待って、彼はそれをゆっくりと引き抜く。左右に少しずつ腰をひねりながら、木戸の好きな場所を擦って。
「そ、そんな、抜き方……」
「あなたが締めつけるからですよ」
からかわれて、唇を噛んで苦笑する。たしかに、大久保の硬さと温もりを手放す惜しさに、木戸のそこは最後まで彼にしがみついていた。
「この間よりよかった……」
木戸は寝返りをうって大久保に向き合うと、さっきまで自分の中にあったそれを、愛おしむように撫でた。また少し、大久保が熱くなる。
「恐縮です」
彼は笑いもせずに答える。
「あなたは?」
と尋ねると、
「絶佳なおもてなしを頂戴しました」
生真面目らしく答える眼の奥に、しかし、彼と寝た人間にしかわからない、情火のゆらめきがある。
「大久保さん」
と、木戸はそのわずかな灯りを射るように見つめて言った。
「耶蘇教徒というのは、買色にかけてはずいぶんとやかましいことを言うそうですね」
大久保は黙って木戸を見返している。話の続きを待っているつもりらしい。
「ですから、」
と木戸は眼を細め、自分の髪をかきあげた。
「洋行中は、困ることも多いでしょう。あちらの新聞というのはなかなか勢力のあるものだそうですから、うっかり淫売宿になんぞ繰出して記事にされたら面倒です。かといってこればっかりは……うちの伊藤なんか干からびて死んでしまうかもしれない」
「それはお気の毒ですな」
大久保がようやく短く相槌をうつ。一度抜いて、ふだんの無口な彼にもどったのだろうか。
「ひとごとですね」
と笑うと、
「そんなことはありません」
木戸の手にそこを嬲らせたまま、謹直な顔で言う。
「私も男ですから」
「そうですか」
「お疑いですか」
「いいえ、それなら話は早いんです」
木戸はずい、と大久保に体を寄せた。鼻先が触れあいそうな近さで、
「でしたら、あなたが我慢できなくなったら、――いえ、我慢できなくなる前に」
掌で大久保のそれを握りこむ。
「どうぞいつでも、私を犯してください」
ね、と交合のにおいが滴るような顔を見せ、ゆっくりと舌なめずりする。相手が井上ならばとびかかって組み敷かれているところだが、大久保は顔色も変えず、身じろぎもしない。ただ、眸の光がほんのわずかだけ、殆さを増した。
そのまま黙って見つめあうつもりかと思ったが、ややあって、
「それは愉しみなことです」
眼もとだけで微笑んだ。それから、
「ですが、私にはそういう場合の機微がどうもよくわかりませんから……」
「何も機微なんかありませんよ。いつでも慰んでくださって結構です」
木戸は鼻白んだ。大久保はちょっと悩むような表情をする。
「それでも、まさか本当に『いつでも』というわけにはまいりますまい」
「それはまあ……」
そうですが、と言うと、大久保は真面目らしく頷いて、
「ですから、あなたからお誘いください。私は喜んで頂戴します」
木戸は一瞬眉根を寄せ、ぎろりと大久保を睨んだ。が、すぐに眉をひらいて、
「ずるい方だ」
と笑った。一度達したせいばかりではない虚脱感と、悦びの残り火のような、奇妙なくすぐったさが身の内に焦げついていた。
(いやなやつだな)
笑い出したいほどのからりとした寂しさで、木戸はそう思った。
「でしたら、大久保さん」
「はい」
「さっそくお誘いしても……?」
掴んだままのそこをやわやわと揉みしだき、大久保の顔に唇を寄せると、
「ありがたくお受けいたします」
恭しく口を吸われた。
肩に脚を抱え上げられて、正面から大久保を迎え入れる。
「あ……さっきと、違う……」
木戸は手を伸ばして、自分のそこが大久保を咥え込んでいるのをたしかめた。さっきの交わりとは、また違った場所に快感を受ける。むろん中の肉はさっきも今も隙間なく密着しているのだが、より強く剔られる箇所が、互いの角度とともに変移している。
二度目は長くもたないという意味のことを、大久保がかすれた声で囁いた。その切迫した響きにぞくりとする。締めつけて繋がりを味わい、中で存分にねぶるまえに、大久保が動き出した。
「あぁ、悦い……」
陶然と眼をとじる。一度大久保の精に濡れたそこは、さっきよりも滑らかに大久保の動きを受け容れる。突かれるごとに肉がやわらかく深くたわむような感覚に、布団の端をちぎれるほど握り締めて耐えた。
「大久保さん、」
あげる声が悲鳴にちかい。
薄目をあけて彼の姿をとらえようとするが、強すぎる快感に潤んだ瞳では、うまく表情を映し得ない。凶暴に動く男の輪郭だけが、網膜にぼんやりと滲む。征服されている苦しさが、脳髄に享ける熱を媒介に、悦楽に変わる。
「もっと、深く……」
と木戸は哀願した。
「奥に、来てください。さっきみたいに……さっきよりも……」
「壊れてしまいますよ」
やさしい声で大久保が言う。
「どうだっていいじゃありませんか」
そんなこと。そうでしょう? この場に似つかわしくないほどの明るさで、木戸は笑った。大久保のやさしさの底の、ひび割れるほどの乾きと、張りめぐらされた網の隙のなさをよく知っている。
(搦めとってみるがいい)
きつく、甘く締めつけながら、木戸は淫らに腰を振った。大久保の唇から呻きが洩れ、埋め込まれた肉が質量を増したのを感じる。その圧迫感の切なさに喘ぎながら、木戸はまだ見ぬ異国の街の灯りを思った。
(どこまでも喰らいついてやろう)
こちらも、逃がしはせぬ。
追いつ追われつなど、この男を相手に決して面白いことではない。だが、と、木戸は眼をとじて、この部屋の情景を思い描いた。自分がいま抱かれている褥の下の畳、さらにその下の床、もっと下の地面を思う。
この、土。
生まれかわり、死にかわりして、百姓(ひゃくせい)が踏みかためてきた、この土。
この国土と人民のあるかぎりは、甘んじてこの身ぶるいするような乾燥と寂寥に耐えねばならない。しかし、だからこそ時折は、こうして痴戯に耽ってもいいだろう。ただ肉欲の――あるいは女のような思慕のためだけに大久保と繋がっている。そう自ら信じさえすれば……――――。
大久保の熱――熱なのだろうか――が、さらに奥へめり込んでくる。快楽に全身の肉が爛れて崩れおちてゆくようで、
「もう、いく……!」
背をかけのぼってくる昏いよろこびに身をまかせて、木戸は今までのいつの夜よりも淫蕩に叫んだ。
[47回]
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