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【2026/04/05 18:03 】 |
伊藤・井上(井上×木戸)
いつも美味しい思いをしている世外先生が、
たまにはかわいそうでもいいんじゃないかと思いました。
ギャグのつもりで書き出したら、いつのまにかそうでもなくなってました。
いつでもいきあたりばったりです。

以下、よみものでございます。


『きずあと』
上着の衣嚢(かくし)に両手を突っ込んで正院の廊下をぶらぶらしていたら、後ろから肩を叩かれた。
「ご機嫌じゃないか」
その声にふりむいて、文字通り指呼の間に伊藤の笑顔をたしかめた井上は、
「……おぅ」
とみじかく答えた。
とってつけたような伊藤の晴れやかな顔は、微動だにしない。この表情のときの彼は、井上の記憶から判断するに、わりとそれなりに、怒っている。
「べつにご機嫌でもないやね」
言い訳するようにつぶやくと、
「俺は不機嫌なときに清元なんぞ唸りながら歩く奴を知らないけどな」
首をかしげながら、ひといきに言われた。その言葉に、えっ、と意味もなく手の甲で口をぬぐう。
「俺、唄ってたか?」
「ほう、自分じゃわからないほど夢見心地だったわけかな。ちなみに多分『明烏』だったぞ」
調子はずれでよくわからなかったけどな、とつけ足す。その間も、伊藤はもとから細い目をさらに細めて、戯画のような笑みを崩さない。
「えぇと……」
無意識に一歩後ろへさがる。目をそらして、尋ねた。
「どうかした……のか?」
「それを聞いてくれるのか?」
「え……」
いや、まあ、と口ごもったが、そうかそうか聞いてくれるのか、いい奴だなお前は、と肩に腕を回される。
「じゃあちょっと表へ出ようか」
と言われて、さして押しつけがましい口調ではなかったのに、これが気をのまれたということなのか、井上は反抗できないまま、黙って伊藤に従った。そうして建物の裏手に廻って、並んで壁によりかかるまでの間、もぞもぞと服の袖をいじったりしながら、きまりわるくその沈黙に耐えた。
「いい天気だな」
伊藤が空を見上げたので、井上もつられて顔を上げた。冬のことで、空気が澄んでいる。朝晩はめっきり寒くなったが、こうして日の照る昼間は、外套がなくてもさほどに冷えは感じなかった。
(あ、鳶が)
つがいなのだろうか。二羽、すこし回転の速度を違えて、ぐるりと輪を描いている。その輪がかさなって、ぶつかりそうでぶつからない。うまいものだな、と見ていると、その油断をつくように、
「大久保さんがな」
不意に伊藤が言った。
「どうなっています、と俺に訊くんだよ」
「どうなっているとは……?」
「別に俺が叱られてるわけじゃない。叱られる筋合もない。だけどあの落ち窪んだ目で、こうじっと見られてみろ」
「あ、ああ……」
わけがわからないまま、とりあえず頷く。
「なんだか俺も腑に落ちないままごにょごにょと謝って退がってきたんだが、しかし俺の知ったことじゃないからなあ」
「そうか……」
「俺に訊かれても困るんだよ」
「うん」
「だからお前に訊くんだが」
「えっ」
井上は思わず首を突きだしたが、伊藤はそこへ顔をくっつけるようにして、
「木戸さんはなんで参朝してないのかな?」
子供に尋ねるように、にっこりと首をかしげた。その顔に、影が濃くさしている。
「あ……?」
井上は戸惑いながら、伊藤と同じ方向に首をかしげた。それから今度はそれを反対に曲げて、
「木戸さん、」
とつぶやいた。
「来てない、のか?」
「とぼけるなよ」
「いや、知らねえって本当に。第一俺だってさっき来たとこだぞ」
「……じゃあなんで木戸さん来てないんだよ」
伊藤の顔から笑みが消え、ちよっと考えるような表情になった。はあ、と井上は溜息をついて、髪をかきあげる。
「知らねえよ。お前の話ってのは何か、それか」
「何だよ。つまらん話だみたいな顔するなよ。お前も大久保さんに睨まれてみろよ。本気で金玉縮み上がるんだからな」
「もとから縮み上がったような粗品じゃねえか」
「お前だって似たようなもんだろ!」
「俺はお前、いざ御勇戦というときが凄いのよ。昨日だって……」
いいかけて、あっと口を噤んだ。そうして、それが余計まずかったと思い至り、上目遣いで伊藤の顔色をうかがう。
「……どうした?」
伊藤が目を細める。
「いや……」
「ご自慢のご令息の武勇伝だろう? 聞かせてくれればいいじゃないか。女の話なんかいまさら俺を相手に憚ることじゃないだろう」
「そうだけど……」
「うん、女の話はできても男とどうこうする話はなかなかな。それでお前やっぱりゆうべは木戸さんと一緒だったな?」
二人で茶屋に上がるのを見た奴がいるんだよ、もっともそいつは少しも変に思わなかったらしいけどな。伊藤は自分の話にこまかく頷くように顔を動かしながら、井上を見据えている。
「俺は俺で品川でどんちゃんやってたんだが、何かの話のついでにそれを聞いて、よもや明日はと心配したよ。そしたら案の定木戸さんは休んでるわ、家に使いをやったらゆうべから留守だっていわれるわ、お前は妙に上機嫌だわ」
「……一緒だったけど」
「困るんだよなあ」
どん、と壁に体をあずけて、伊藤は溜息をついた。それは井上を責めるための演出ではなく、彼のしんからのものらしかった。眉を曇らせて、かきくどくように嘆いて言う。
「洋行の勅命も下って、もう出発までわずかじゃないか。こういうぎりぎりになって慌てて詰めなきゃいけない事務が何かと出てくるんだよ。お前だってわかるだろう」
「わかってるさ」
「別にお前が木戸さんに何かするにしてもな、木戸さんがいいならそれでいいさ。だけどそこはお前……」
頼むから加減してくれよ、と伊藤は言う。もちろんお前だけが悪いんじゃない、木戸さんももう少し考えてくれればと思うけどな。井上は生返事で聞いていたが、話がそのくだりまできたとき、ふと口許へ手をやり、
「いや……」
とひとりごとのように呟いた。
「やっぱり変だぜ」
「何が」
伊藤のうんざりした口調は無視して、
「だってゆうべ木戸さんもそう言ったんだ」
「はあ?」
「明日は早いからもうよせって。俺はまだあと三回ぐらいはと思ったんだけどな」
「そういう細かい話はいいから」
「いい加減になだめてやっちまおうとしたけど、拒まれて、だけどどうしてもこのままじゃ辛いからって言ったら、乱暴にしないって約束で、もう一回だけ」
「いや、だから」
「それで、俺はそれこそ上﨟のおひいさまを抱くようにしてだな」
「聞いてないからな」
「だから木戸さんが今日休むほどになるはずがねえんだっての」
「うん?」
ああ……と伊藤はそのへんの呼吸はさすがによく理解した。彼が考えているのを追って、
「そのまま泊まったけど、俺本当に何もしなかったぜ」
涙ぐましいと思わないか、と言ったが、伊藤の返事はなかった。わざとなのか、本当に考え込んでいるのか、腕組みをして上を向いている。その横で井上も腕組みして、
「眠れないだろうと思って布団も別にしたし。それで木戸さんは明け方に起きて出て行ったよ」
「そうなのか……?」
伊藤がこちらを見る。だから俺のせいじゃないだろ、と井上はむくれたまま頷いた。
「俺だっててっきり木戸さんは参朝してるもんだと思ってたんだぜ」
「じゃあ……どこ行ったんだろう」
「知らねえよ」
俺だってあの人のことはわからんことのほうが多いさ。井上は胸の前にしていた腕をほどき、頭の後ろで組みなおした。
「じゃあ」
と伊藤がもう一度いう。
「じゃあ、お前は?」
「あ?」
「お前はなんで上機嫌だったんだよ」
「なんでって……」
「あれだろ、あと……あと三戦するつもりが一戦ではぐらかされたんだろ? それでなんで妙にすっきりした顔でいるんだよ」
三戦が一戦、のくだりは口にしたくなさそうに、膨れっ面でごにょごにょと言ってそっぽを向いた。面白くなってきた、と井上は思った。さっきまで押しまくられていたのが俄然優位に立ちつつあるのも愉快だったが、それ以上に、この機会に伊藤に惚気てみせてやるのも悪くない。今日は彼のほうから尋ねてきたのだから、途中でどれだけいやがられようと、自分には滔々と聞かせてやるだけの道理がある。そうして何よりも、昨日のできごとを反芻するのが、この上もない愉しみにおもわれた。
「肌もつやつやしてるだろ?」
ほら、と自分で指さしてやると、伊藤は露骨に顔をしかめた。
「ヒヒジジイ。傷痕が脂でてらてらしてるぞ」
「そうそう、その傷痕よ」
お前さすがに察しがいいな、出世するぜ、と伊藤の肩を囲い込むようにして片手を壁に突く。もうすでに伊藤はげんなりと萎えかかっている。まあ、聞けよお前、後学のために。にやりと笑うと、
「露悪趣味は感心しないな」
土気色に曇った顔を、やるせなさそうに伏せた。
 
おもえば、ゆうべの木戸は、いつもより情が濃まやかだった。
まだ体を繋げる前、互いに座って向き合ったまま、かさねていた唇を離したとき、彼の手は井上の頬の傷に触れた。そっと慈しむように、あたたかな指先が何度もそこをなぞる。その手をとって口づけ、指にかるく歯を立ててやる。そのまま舌で愛撫を続けようとすると、やわらかく抗われた。何がいやだったのかと彼の目を覗き込むと、彼はその目だけでわずかに微笑んだ。潤んだ瞳が、かぎりなくやさしく、自分を拒んだのではないと伝えている。木戸の指は一度井上の唇にふれると、それから顎を伝い、首筋を撫でて、襟を割った。そうして井上の素肌をまさぐる。その手つきは、痴情を煽っているふうではなく、なにか慰めるように穏やかな、しかしどこか縋りつくような、ふしぎな動きだった。
「木戸さん?」
彼の背に腕を回し、しずかに抱き寄せる。もう少し淫蕩な仕草で戯れたかったが、木戸が今日はそういう交わりかたを好まないようなので、こらえることにする。その間も木戸の手は、井上の胸から腹、さらに背中や腿にまで伸び、点々と肌をさすっていく。
「傷が、どうかしましたか?」
井上は、その頃にはさすがに気づいていた。さっきから木戸がふれる箇所は皆、かつて自分が受けた凶刃の痕だったのである。
「ん……」
木戸はわずかに目をふせ、何やらばつが悪そうに微笑した。それから、
「お前、よく生きていたなあ」
両腕を井上の首にからめて、ぴったりと体をつけた。その背を、さらに強く抱いてやる。
「そいつはお互いさまですよ」
「俺は斬られたことはないぞ」
耳元で、感に堪えたような溜息を木戸が小さく洩らす。
「こんなつぎはぎで、よく死ななかったな」
「つぎはぎはひでえなあ」
「褒めているのさ。普通は死んでるだろう」
「まあ、俺も実際死ぬと思いましたがね。しかし噫天なる哉、命なる哉」
「死んだ場合に言わないか、それ」
「なんだっていいやね」
まあでもやっぱり天命だと思うんですよ、と言うと、お前のような男が天を信じるのか、と木戸が笑った。
「天も迷惑するだろうな」
「それなら天でも地でもこの際何でもよござんすがね、生きてもう少しいい目を見ろってえ何様かの思し召しでしょうぜ」
こんなふうにさ、と掻き抱いた木戸の首筋に顔を埋める。木戸の体が、すこし顫えた。
「縫うほうも大変だったろう」
「でしょうな。所はあれは、大したもんです。自分じゃ医者崩れの半人前だなんて言ってやがったが」
「なに、どうして名医じゃないか」
「俺の体が動かぬ証拠だからねえ」
しかし、縫われた俺はこうして生きてるが、と井上はつぶやいた。木戸につられたのか、妙な感傷が胸を浸して、その感覚に馴れない彼は、木戸の髪に指を差し入れて、ぐしゃりとかき乱した。
「その所も、もう死んだよ」
「ああ……」
井上の肩に頭をあずけ、木戸が頷く。
「お前は、よく生きていたな」
もう一度同じことを言った。
「こんなに斬られても、死なないことがあるんだな」
ひしと抱きつく指が、井上の背に浅く喰い込む。
「木戸さん」
「うん?」
「こんなにひっついてちゃ、俺は古傷の思い出どころじゃないんですが」
木戸に肌をくすぐられ、木戸の体温を感じ、木戸の匂いにふれて、井上のそこは硬く張りつめて、熱をもちはじめていた。ぐっと木戸に押しつけてやると、木戸は黙って微笑した。
彼の唇が自分の唇をとらえ、深く重ねられる。それを合図に、井上はやわらかく木戸を押し倒した。
 
その晩の木戸は、決して反応が鈍いというのではなかったが、いつもよりゆるやかに高まり、わずかな湿り気と情熱をそっと掌で囲ってあたためるように、おだやかに振る舞った。
井上も、彼にあわせてゆっくりと動く。粘膜の吸いつく感触を愉しみながら、内壁を緩慢に擦りあげていくと、木戸は切れぎれに溜息を洩らし、井上の頭を抱え込む。内部を直接的に刺戟されるよりも、体全体で触れあうことを求めているようだった。
「あんた、いつもと違うな」
何かあったのか、と訊いたが、木戸はそれには答えず、微笑を滲ませた声で、
「煩いか?」
と訊きかえした。
「いいや」
これはこれで、いいぜ。そう言って片手で肩を、もう一方の腕で腰を抱いてやる。繋がった部分を中心に、全身の肌がより密着するようにすると、安堵したような、心から嬉しそうな吐息がひとつ聞こえた。
「あたたかいな」
「そうか?」
温かいというより、木戸の中は熱く、またそこに侵入している自分の体もやはり熱いと思うのだが、木戸はそこではなく、ふれている肌全体のことを言っているらしい。
(そんなことは)
いまさらだろう、と思ったりもする。いつもは最中にそんなことを喜ぶ木戸でもないのだが、今日の彼は、やはりよほどいつもと違う。
(まあ、いいけどな)
井上はこんなふうに誰かを抱いたことはなかったが、これはこれで悪くないのだと知った。そこに受ける感覚は生温いが、そのかわり、体全体がひどく心地よい。何より、ゆっくりと木戸の表情の変化を楽しめるのがよかった。
(なげぇ睫毛だな)
その睫毛の下で黒い瞳が濡れ、ふるえながら閉じては開くのを、井上は情慾とはべつのところで、しみじみと観察していた。なんだか小綺麗な顔しやがって、と、ちょうど動かした腰の下で木戸が小さく声をあげたので、井上の意識もまたそこに戻ってくる。
(体はこんななのにな)
井上は木戸以外の男を知らないが、おそらく男の体は皆こうではあるまいと思う。
木戸の体は、ひどくよかった。
馴らしてやるとすぐに潤んでほころぶ粘膜は、しかし慄えながらきつく締まる。そのうねり、奥のほうの角度、襞のかたち、何よりこちらの愛撫への応えかた。すべてが実に淫蕩で、男の慾にかなっていた。一度抱けば忘れられる体ではない。
その体を、いつもはほとんど責め苛むようにして貪るのだが、今日はゆっくりと、ゆるやかに抱いている。安直には快楽を得られない抱き合いかたをあえて木戸が求めてきたことが、井上をひどく満足させていた。
「あ、あ……」
「よさそう、だな」
「ん……お前、は……?」
「いいよ。あんた、あったかいのな」
「そうか……」
時間をかけて高めあい、互いの全身にふれ、やわらかく抱きしめあったまま果てた。
 
「なんかあれはあれで、いざいくって段になるとけっこうすごいのな」
物足りないかと思ったけどよかったわ。なあ、と伊藤の顔を見ると、彼はもうげっそりして、虚ろな目をあさってのほうへ向けている。
「いや……そういう感想はどうでもいいから……」
「お前が訊いたんだぜ」
「これっぽっちも尋ねた覚えはないからな」
だけど、と伊藤はするりと自分の顎を撫でて首をかしげた。
「やっぱりどうかしたのかな、木戸さん」
「どうかって?」
「いつもと違ったんだろう? なんでだと思う?」
「そりゃあお前、いよいよ俺に惚れてきたんだろ」
「はあ?」
「よくある話じゃねえか」
妓(おんな)も馴染みになるとさ、と井上はゆうべから何度も反芻したその考えを、大得意で披露してやった。
妓も、一度や二度の共寝では肉の悦びを示すだけだが、そのうちに情が移ってくると、体を繋げるよりもむしろ手を握ったり口づけたり、あるいはただ肩を寄せて話したりといった淡いふれあいをもちたがる。そうしていざ事に及ぶときも、以前のような直接的な求め合いではなく、ただ抱き合って肌をふれているだけでひどく感じたりする。つまりはそういうことだ、と井上は言いたいのである。
が。
「馬鹿かお前は」
と伊藤は吐きすてた。
「妓と木戸さんが一緒だと思うのか」
だいたいそんなもの、妓のなかでもおぼこいのの反応じゃないか。十六、七の小娘じゃあるまいし、あの人がそんなタマか。どうしてお前はそんなにおめでたいんだ。
「そ、そこまで言わなくてもいいだろ……」
まくしたてられて、井上はさすがに悄然とする。伊藤にいわれたことは、彼自身もうすうす考えなかったわけではない。しかし意外の幸福にありついたよろこびで、つい伊藤にいわせれば「おめでたく」なっていた。
(だからってお前が怒るこたねえじゃねえか)
言おうとして、ぶいと口を尖らせてそれを飲み込む。伊藤は、伊藤なりに面白くないのだろう。自分のように慾情はしないにしても、彼と木戸との因縁は、自分よりもよほど深い。
「だけど……」
と井上は、まだ自説への未練をひきずって言った。
「だけど実際のところ、妙に情緒纏綿というのか、まあそんな感じだったのは本当だぜ。終わったあとだって、いつもはただぐったりしてるだけなのに、むこうからくっついてきたし」
それで俺もその気になって、もう一回ってんで拝み倒したんだからな。むくれたまま言うと、
「だからどうしてお前はそうやって……」
細かい話はいいと言ってるだろう、と伊藤が辟易の表情をしめすのにはかまわず、
「こう、また俺の傷痕を撫でてな」
自分の頬をかざして見せた。
 
「ずいぶん深かったな」
木戸は気怠そうに手をのばして、隣で息を整えている自分にふれた。
「今の? そうでもなかったろ?」
さっきまで自身を埋め込んでいた部分に指を忍ばせると、
「そうじゃない」
笑って、つ、と頬の傷をなぞる。
「この分じゃ口の中まで割れたろう」
「また傷の話ですか」
「嫌か?」
「そうでもないけど」
木戸の手をとって口づける。木戸は井上に手をあずけたまま、頭を沈めて、井上の胸や腹の傷痕に唇を押し当て、舌を這わせ、ときにかるく歯をたてた。すっかり塞がっているとはいえ、傷の上は余の場所より皮膚が薄く、敏感になっている。井上は時折息を詰めて、木戸の髪をまさぐった。
「どうしたんです、今日は」
「こんなに斬りまくられても、生きているものかと思ってな」
「それはさっきも聞いたけど……」
なぜ今さらになって、という問いに、木戸は答えず、黙って頭を動かしている。それからふとひとりごとのように、
「わからないものだな」
とつぶやいた。
――人の生き死になど。
やっと聞きとれるかどうかの、ひくい声だった。
(なにを言ってやがる)
井上は木戸の顔を見下ろし、物思わしげに寄せられた眉根にそっと口づけを落とした。
大体こういうときの木戸の感傷というものは、井上にはわからない。井上は生きているのだし、彼自身、あの遭難のことはただ苦しかったばかりで、人の生死がどうとか、なぜ助かったかだとか、妙に問題を小難しくして考えたことはない。
そんなことよりも。
「なあ、俺また……」
いつにない木戸の仕草に、ふたたび勃ちあがったそれを見せつける。
「仕方ないやつだな」
苦笑した木戸は、今度は傷を愛撫しつづけたまま、井上を迎え入れた。
 
「今さらめずらしくもないだろうになあ」
いつも見てる傷だぜ。自分の頬をさすりさすり、惚気るつもりで木戸の愛撫の話をしてやると、伊藤が急にはたと顔をあげた。
「ちょっと待て」
「まあそう嫌がるなよ。もう少し聞け」
「そうじゃない。そうだ、遭難だ」
「おう、あれはびっくりしたぞ。提灯片手に袖解橋のたもとへこう、差しかかった刹那をだ、」
「今日何日だ?」
「五日だろ。十一月の」
なんだ、どうした、と井上は壁から背中を剥がした。伊藤が真面目な顔でいるので、つられて真面目に考えている。
「日にちが、どうした。俺の遭難なら九月の二十五日だぜ」
「お前の遭難なんかどうだっていいんだ」
「何だとコラ」
「木戸さんの居場所がわかったぞ」
「えっ」
「行ってくる。お前は傷の顔拓でもとってろ」
「はあ!?」
言い捨てるなり駆けだした伊藤を捕まえようとして、足が意識に追いつかず、井上はその場でたたらを踏んだ。その間にもぐんぐん遠くなる伊藤の背中をわけがわからず見送りながら、
「何だってんだよう!」
叫んだ声は我ながら情けなかった。
 
「それで、招魂社の仮社殿前にひとりでいたってか」
着流しの片膝を立てて、井上は手にした盃をひといきに仰いだ。さっきまで何やかやと機嫌をとっていた芸者衆も、伊藤が言い含めて帰してしまった。あからさまにほっとした顔を見せて退がっていったのだから、今の自分のようすはよほど剣呑にうつるらしい。
「飲みすぎだぞ」
という伊藤は、さすがに馴れたふうで、井上の不機嫌を恐れるでもなければ、べつに体の心配をしているわけでもなさそうである。彼の不服は井上が座にあるだけの銚子を抱え込んでしまっていることで、
「一本こっちによこせ」
と手を伸ばして取りあげた。それから、
「まあ、考えてみりゃ俺等も迂闊だったよな」
迂闊というか薄情なのかな、と手酌で盃を満たしながらつぶやく。
「密航のときなんぞ、大村先生にはずいぶん世話になったわけだしな」
「そりゃまあ、そうだけどよ」
むきだしになった脹ら脛を自分でさする。そこにも薄い傷痕があり、ゆうべ木戸の唇がそれをなぞった。
「だけどそれこそ癸丑以来のお国の艱難を考えたらだぜ、そんなもん、毎日が誰かの命日じゃねえか」
「だからいつでも日に何度かは悄気てるんだろう、あの人は」
「埒もねえ」
ふん、と井上は鼻を鳴らした。
昼間駆けだしていった伊藤の行方は、彼には見当がつかなかった。自分だけが蚊帳の外で、ぶりぶりしている彼のもとに、夕方になって伊藤から連絡があった。片付いたからこれこれの料理屋まで来い、という。やって来てみてさてどういうことかと聞いてみたら、
「なに、あの人の考えそうなことさ」
と伊藤が苦笑した。いかにも種は簡単だという顔で、しかしその簡単な種に思い至らなかった自分としては、どうも面白くない。
「今日は大村先生の命日じゃないか」
言われてみて、はてそうだったかと考える。そしてなるほどそれはいかにも木戸の関心事であろうが、それならそうと、昨日そう言えばいいことではないか。
「それじゃまるで俺は……」
思わず歎息したあとを、伊藤がひきとる。
「当て馬にされたようなもんだよなあ」
「うるせえ」
「俺が後ろからそっと近づいてみたらなあ、社殿の前でこう、木戸さんはひざまずいて、なんだかすんすん泣いてたよ。あとでだんだん聞いてみたら、朝から大村先生の、鳩居堂か? 塾のあとへ行ったり、上野をぶらぶらひろったりしてたっていうんだな。そりゃもう一日中、大村先生大村先生だったんだろうぜ」
「もう黙れお前」
あの指先のやさしさも、切ない唇の感触も、今日が大村の命日でなければ、自分にはあたえられないものだったというのだろうか。
『こんなに斬られても、死なないことがあるんだな』
木戸の声が耳の奥によみがえる。
『人の生き死になど、わからないものだな……』
悟りきったふうでいて、その実どこまでもあきらめきれないといった感じの、寂しい、苦しげな声だった。あれはつまり、自分と大村の境涯とを較べていたのだろう。
(俺だって、紙一重だったんだぜ)
その紙一重のところを生き抜いたのは、つまりは運だと思うのだが、その一言で片付けてしまうことが、木戸にはできないのだろう。
大村は、死ぬほどの傷ではなかった。何せ彼は自力で風呂場まで遁げたのである。遭難後の彼を見舞った者の誰も、彼が死ぬとは思わなかった。
その点井上は生きているのがふしぎであった。彼自身も死ぬと思ったし、兄もそう見た。介錯してくれようという兄から彼をかばった母親にしたところで、十中八、九は駄目なつもりでいただろう。
その自分がこの世にとどめ置かれ、大村は死んだ。人の生き死になど、たしかにわからない。
「あんまりむくれてやるなよ」
ほれ、と伊藤が銚子を差してくれる。盃が盈たされてゆくのを見つめながら、
「べつに」
ぽつりと答えた。
「べつに大村先生と較べられたって、構やしねえけどよ……」
なぜ大村が死んで井上が生きているだとか、そういう八つ当たりがましい思いは、木戸にはすこしもなかったろう。それは井上にもわかる。ただ彼が悲痛に――いっそ苦々しいほどのことに思うのは、木戸がおそらく、なぜ木戸自身が生きているかという問いを、それも純粋に人の運命のふしぎさを思うのではなく、心のひび割れるような自責の哀訴として、底深くもちつづけているであろうことである。
「どうしたもんかねえ、あの人」
みじかくぼやいた言葉の意味が、井上とも木戸とも長い伊藤にはさすがにわかるものらしく、
「どうしようもないだろうよ」
笑いもせず、溜息をついた。
「お前は、死ぬなよ」
「なんだ急に」
意外な言葉に顔を上げると、伊藤は酒一口ぶんの間をおいて、
「せめてお前は、木戸さんとこうなった以上は死んでやるな。この先また斬られても、破裂弾を喰らっても帰って来い」
真剣な顔で言った。井上はややむくれて、
「そうしたら俺が木戸さんを看取らなけりゃならねえじゃねえか」
「その覚悟でいることだ。そうじゃなきゃもう手を出すな」
「なんでそんなことお前が決めるんだよ……」
「俺だから決めるんだ」
伊藤はぐいを盃を空け、また注いで、また空けた。
「なあ、」
井上は盃をもつ手を下ろして声をかけた。盃の尻が脹ら脛の傷に触れて、酔った体にそこだけがひいやりと醒めた感触を伝える。
伊藤の返事はない。そっぽを向いている彼に、井上はなおも言った。
「そのかわり、俺の死に水はお前が取れよ」
「何がそのかわりなんだ」
「俺だっていい加減なところで見送られる側にいきたいぜ」
順序からいってそれが穏当だろう。木戸の感傷が乗り移ったわけでもあるまいが、わずかに湿っぽく、な、と念をおすと、
「考えておくさ」
盃のふちを舐めたまま、伊藤が答えた。
遠くで三味線の音がする。その淡い音色のくぐもる中に、井上は片頬でかすかに笑いながら、伊藤にあわせて盃を干した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

明治4年11月5日の設定ですが、この日実際には木戸さんは参朝してます。
それも板垣君と連れ立って……w
夜は夜でヨッパ公……もとい容堂公および尾張慶勝公と今戸で酒を飲み、
「酔倒」して松子さん同伴で泊まってます。日記には大村先生のおの字もありません。
同日付で出している手紙が2通ありましたが、
一通は槇村氏宛で政治向の話と木戸さんの木屋町別邸の管理の話、
もう一通は俊輔宛で送別会(使節団壮行会)についての打合せでした。
日記で追ってみたら、8日に両国の中村楼で百人ぐらいで派手にやってるんですねすごいや。

で、ますじ……。

ますじのことは感慨胸に迫りすぎて書けなかったんだよきっと! 
忘れてたわけじゃないよ! 暮夜ひそかに暗涙を寄せてるんだよきっとそうだよ!www

拍手[31回]

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【2012/03/16 21:16 】 | よみもの
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