湯気に蒸し出された香りが、皮膚の下まで染みとおるような気がする。高い天井に吊された灯りが淡く反射している湯のなかで、井上は長い溜息をついた。
(総檜とは、野郎、贅沢をしやがる)
浴槽から洗い場の壁、天井を見渡して、むず痒いような苦笑を噛み殺した。
(こんなもの造って、またとばっちりで俺があれこれ言われるんだろうな)
もっとも、それに大して痛痒を感じる自分でもないのだが。まして今回のことは、どこといって後ろ暗いところがあるでもない。ただ、色々身辺が小うるさくなるのがいやなのだったが、その対策として、彼を巻き込んでおいたのは正解というべきだろう。
井上の隣で、彼――木戸は満足げに目を閉じて、おなじ湯に体を浸している。
「益田が風呂をつくったっていうんです」
年始の挨拶がてら木戸の家を訪ねたとき、そう言ってみた。はじめは「風呂くらいつくるだろう」と興がうすげだった彼も、それが来客用の大浴場で、浴槽だけで二坪に近いというと、露骨に羨ましそうな顔をした。
「奴さん、自慢したくてしょうがないらしいんで、俺に入れ入れというんです。あんまり無視しても気の毒だから、一緒にどうです」
誘ってみると、二つ返事で乗ってきた。風呂好きだと知ってはいたが、世間が「貪官汚吏」の自分と長州閥、さらには政商を一斉に白眼視している今この時期、連れ立って益田孝のところへ行こうという誘いに、こうもあっさりうんと言うとは思わなかった。こういうところは肚がふといといおうか、案外鈍感なのかもしれない。もっとも、自分も益田がいかがわしい男ではないのを見せておこう、ぐらいに思っただけで、木戸を抱き込んで庇護を乞おうとか、さもしいことを考えたわけではなかったが。
(風呂――風呂か……)
思ったより簡単に約束をとりつけてみると、余裕のできた頭で、今度は余計なこと(井上自身はそうは思わなかったが)を考えはじめた。
(益田がいうほど広い風呂なら……)
主人の益田は一緒には入らないだろう。それなら……――。
この数日、井上は実に愉しい日を過ごした。それなのに。
「のぼせませんか?」
洗い場から声がかかる。
「いや」
大丈夫だ、と木戸が目をあけて微笑する。それからふとその微笑をひっこめて、
「君、痩せたんじゃないか」
「そうでもありません」
「そうかな……」
(くっそ……)
頬を膨らませて、井上は目の下まで湯に沈めた。
お前なんなんだよ。なんでいるんだよ槇村。
木戸がいつのまにか槇村を誘ったと知ったとき、井上は思わず「はあ?」と素っ頓狂な声をあげた。
「槇村、ですか?」
「最近随分気の毒したからな。あれは何も悪いことをしたわけじゃないのに、裁判で絞られて……なんだかやつれたようじゃないか」
「それは……」
ひょっとしてあてつけなんですか、という言葉を井上はのみこんだ。俺はどうせ槇村より黒いし、槇村とちがってやつれてもいません。
(それにしても)
槇村の激励なら酒でも飲ませてやればいいじゃないか、と思う。あいつそんなに風呂好きか?
「近頃はよく食べていますよ」
と言う槇村が憎らしい。おう食え、食って膨らめ。そして破裂しろ。なんだこれみよがしにやつれやがって。どうせ俺は血色もいいし気鬱にもならないし毎日すこぶる健康だよ。江藤が怖くて実業がやれるか馬鹿たれが。その江藤ももう辞めていねえよ、どこ行ったあいつ。ついでにあいつも破裂しろ。
湯の中で次から次へと悪態をついてやる。顔を半分埋めてぶくぶく泡を出しているのを見て、
「井上さん、どうかしたんですか?」
と槇村が首をかしげる。
「る゛ーる゛ーる゛ー」
べーつーにー、と答えた。どうせ聞き取れないだろうが、どうでもいい。その変な音声にこちらを向いた木戸が、
「やめろきたならしい」
短く叱りつけた。
「…………」
むすっと黙ったまま、井上は湯から顔を出した。
(きたならしいって、俺がか)
俺の口が汚いってか。井上は叱られた口をへの字に曲げた。洗い場では槇村が、益田に借りた石鹸を泡立てて、頭を洗っている。
(この口で舐められてひいひい言うのはどこのどいつだよ)
あーあ、槇村に教えてやったら面白いだろうなあ。そんなことを考えて、せめて煮え立った腹をいなそうとする。いま湯の上に見えている首筋も、肩も、腕も、抱きあっているときの木戸はどこに触れてもひどく感じるのだと言ってやったら、槇村はどんな顔をするだろうか。おそらく木戸と向き合っていることに耐えきれず、そそくさと出ていってしまうにちがいない。
(そう、首筋の、あの窪みのあたりとか、うなじとか……)
横目でその体を盗み見る。湯気と汗に濡れ、すこし赤みがさした肌がどうにも煽情的でたまらない。槇村さえいなければ、と井上は唇を噛んだ。木戸はよほど湯加減が気に入ったらしく、うっとりした表情で湯気のむこうに視線をなげかけている。そのもの憂げな眼もまた、あのときの彼の表情に似ている。
(どうせ槇村には見えねえよ)
彼は今しゃかしゃかと小気味よい音をたてて洗髪している。顔まではよく見えないが、石鹸の泡をあんなに盛り上げているのだから、かたく眼を閉じているにちがいない。
(ずっと洗ってろ)
わけのわからない呪詛を槇村にふりかけると、井上はそっと木戸の横へ体を寄せた。木戸が、多少のぼせかかっているのか、ゆっくりと、けだるげに首をめぐらす。紅潮した頬と、ぼんやりとまどろみかけているような表情が、井上の慾を刺激する。なんだ、と目顔で訊かれて、唇の端だけでにっと笑った。湯の中で手を動かし、脇腹のあたりにふれる。
「よせ」
槇村には届かないであろう小声で、木戸は言った。
「俺はゆっくり浸かりたいんだ。邪魔をするな」
「だから、どうぞ浸かっててください」
井上も小声で答える。
「あんたは何もしなくていい」
片手を背中から回し、胸を撫でる。もう一方の手で太股に触れると、びくりと木戸の体が慄えた。
「おい……!」
井上は答えない。そのまま戯れていると、木戸がふいと首を振り、溜息をひとつ吐いた。それから、井上の悪戯を抑えようとしていた手をはずし、するりとこちらへ伸ばしてきた。
手は、井上の内股に触れた。
(お)
木戸の顔を見ると、凄いほどの艶めかしい流し目が、こちらを見返してきた。
「その気じゃないですか」
言ってやると、木戸のその眼が、湯気に霞むような潤みをまとったまま、陶然と細められる。一気に体が熱くなり、夢中で木戸の肌をまさぐる。一方、木戸の手はもどかしいほどあっさりした動きで内股を滑り、そこに辿りつくと、硬くなりつつある部分を素通りして、陰嚢にふれた。掌全体でそこを包まれ、井上は息をつめた。
木戸が首をかたむけて、井上の耳に唇を近づける。舌を見せつけるようにしながら口をひらき、湯の中では井上のそこをきゅっと握って……――。
低い声が、耳朶をくすぐった。
「潰すぞ」
と。
おそろしく冷たく紡がれた言葉の意味を悟った瞬間、井上は短く悲鳴をあげ、抜き手を切って湯船の端まで泳いでいた。
「……がはっ! ごほっ!」
そのまま勢いで上がろうとして尻餅をつき、湯を飲んで足掻く。騒々しさに、洗い場の槇村もさすがにびっくりしてこちらを見る。
「どうしたんですか」
「ああ、」
木戸が実にいい笑顔で手をあげた。
「悪いな、百足が浮いてたんだ」
「むかで……?」
槇村は怪訝な顔をした。泡の塊がひとつ、ぼたりと彼の足元に落ちる。
「もう流したよ」
木戸はにこにこしている。その横顔を戦慄とともに眺めながら、井上は湯船の端につかまって、ぜいぜいと肩を上下させた。
「百足に、愕いたんですか?」
槇村が首をかしげる。なあ、と木戸はさっきとはうってかわって、おだやかな声である。
「だらしないだろう?」
槇村に頷いてみせ、それからゆっくりと自分のほうへ向けられる、その微笑み。
(おっかねえ……!)
脅しじゃない。絶対に、絶対に本気だった。風呂で迫るのがそんなに駄目なのか。そこまで風呂好きだったのか。風呂のためなら俺の玉なんか潰してもいいのか。しかも、あれか。百足か。俺の玉の危機は百足で片付けられるのか。
まだ湯の中にいるというのに、全身が粟立った。
「百足が苦手とは知りませんでした」
「大丈夫か? 鳥肌か、それ」
「本当に嫌いなんですね」
誰にでも苦手なものはありますよ、と気の毒そうに眉を寄せる槇村が憎い。お前のせいだ。全部何もかも、そっくりまとめてお前のせいだ。
「頭、流してやろう」
まだ息が荒いままの井上を放置して、木戸が湯を上がる。恐縮する槇村をなだめて風呂桶を手にするその後ろ姿を眺めながら、
(あいつもう京都に帰れよ)
槇村に八つ当たりするしか、井上にはできなかった。
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ちなみにはじめタイトルを『湯けむり雄浪漫』にしようかと思ったんですが、
本当にそういうゲイビがありそうな気がしてやめました。
[25回]
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