小春日が、にじむように縁先から廊下へ洩れている。暮れのことでさすがに足裏につたわる感覚は冷たいが、低く、ちょうど肩のあたりに差してくる陽がまぶしかった。
「二人で話すことがあるから」
案内すべく、先に立って小腰をかがめている女にそう言うと、ちょっと首をかしげてこちらを見たあと、
「へえ」
こくんと頷いて、あとはべつに挨拶もなく、勝手のほうへ引っ込んだ。帰るまで放っておいてくれるだろう。
「高杉の女は、あれはすこし阿呆じゃないか」
口の悪い連中がそう言うのを木戸も知っているが、彼女は――おうのは、どうも阿呆というのではないような気がする。たしかに酒の世話をさせても気の利いた話のひとつもするでなく、芸のほうもあまり芳しくはなかったが、さかしらぶって余計なことをしないのは、かえって長所ではないかと木戸は思ったりした。ぼうっとしているようで、こちらが何か言うと、その片言隻語におおかたの機微を察してしまうところがある。そうしてことさらそれを誇ってみせるでもない。阿呆といわれても(余人はさすがにいわなかったが、高杉が戯れてそう言うことはままあった)、ちょっと羞ずかしそうにするだけで、さからわない。ひょっとすると彼女自身、自分を阿呆だと信じているのかもしれなかった。
高杉は高杉で、おうのを阿呆、阿呆といいながら、いつでもこれを側において離さない。近頃は戦場を飛び回っていたが、戦火が熄んで下関に帰ると、さっそくおうのを侍らせた。
(あの悍馬には、ああいう女がかえって似合いだろう)
おうのが去った廊下の端を眺めやって、木戸は微笑した。そのまま、彼はそこに佇んでいる。
(馬鹿な)
と、自分でも思う。高杉の女の好みなど、どうでもいい。さらにおうのが馬鹿でも利口でも、どちらでもいいではないか。けれどそれら本来くだらぬはずの穿鑿にずるずると纏綿していたい気持が、今の彼にはあった。
廊下の奥に、高杉の病室がある。木戸が前回彼に会ったのは、四境戦争の前だった。互いに労れぎみではあったが、少なくとも素人目には、そのときの高杉はまだ健康体に見えた。あれから、戦争中に彼は風邪引きのようになり、それが長引いて次第に衰え、ついに血を喀いたという。
「ふたたび起つことはかなわぬのではないか」
そんなふうにも聞いている。胸をやられて、寝込むほどに病勢がすすんでいるというのなら、それはおそらくその観測が正しいのだろう。しかしそうかと思えばこのところは何やら持ちなおして、駕籠は使ったものの、登楼して騒ぐ元気があったという。
(ならば、癒らぬものでもあるまい)
当の病者ではないながら、木戸はひそかにそう自分の気持を鼓舞してもみるのだが、しかしどうも気が晴れない。晴れないうちにも、政務の忙しさもあって、どうにか彼はその問題は一旦棚上げしたままこの数箇月をすごしてきたが、高杉に会ってしまえばそうもいくまい。
(もしも――)
と木戸はまたとりとめもなく、その思案のまわりを低徊する。
もしも、予期したよりも高杉の病状が募っていたら……思い描いたよりも、彼の姿がやつれていたら……――。
考えてもしかたのないことだとわかってはいる。ましてや今日ここへ来てしまって、家の内にまで通されてからくよくよ悩むのは、実に馬鹿げている。
(いまさら躊躇ってどうなる)
長引けばおうのも怪しむだろうと、おうのにかこつけてようやく一歩を踏み出そうとしたとき、
「ああ、」
廊下の奥から聞き慣れた声がした。
「やっぱり桂さんだ」
いつのまに襖が開いていたのか、部屋からにょっきりと半身を乗り出して、寝巻姿の高杉が笑っていた。
「起きていていいのか」
天気がいいから、と縁先へ座ろうとする高杉をようよう宥めて、どうにかもとの床の上へ落ち着けた木戸は、それでも横になろうとしない高杉に、かるく叱るように問いかけた。
「いいんですよ。誰が大袈裟なことを吹き込んだか知らないが、このとおり元気なんですからね。明日にも馬を駆って慶喜の首を頂戴できそうだ」
「お前ならやりかねんな。御父上に御注進しておこう」
「それは勘弁してくださいよ」
火鉢の上で、鉄瓶がちいさな音をたてている。今日の陽気に火を入れては暑いほどだったが、病骨にはやはり冬はこたえるのだろう。枕頭に座って、なにげない風を装いながら、すばやく高杉の全身を観察した木戸は、
(痩せたな……)
と暗然とその手脚の細さを思った。火箸を執って、そっと炭を組みかえてやる。木戸の着物の下の肌にはうっすらと汗が滲んでいたが、彼は頑固に羽織をとろうとはしなかった。今日が暮れにはめずらしいあたたかな日であることを――病人でなければすこしも寒くない日なのだということを、どこかで認めまいとしていたのかもしれなかった。それでも、高杉の血色が存外いいのと、彼がまんざら空元気というのでもなく、明るい、張りのある声で話していることが、わずかに木戸をなぐさめた。
「声が聞こえたのか」
木戸はふと、さっきのことを聞いてみた。部屋に近づくより先に、高杉が顔をだしたことである。寝ているかもしれないと思って、おうのとの会話は小声でしていたのに。
「地獄耳だな」
と笑うと、
「なんの、何にも聞こえやしませんよ」
高杉は首を振った。
「ただ、桂さんに呼ばれた気がしただけです」
「なんだそれは」
「なんでしょうね」
「……――――」
木戸は返答しかねて、黙って高杉の顔を見つめた。高杉の言葉の内容にとまどったのではない。
(こんな顔で笑う男だったろうか)
つとめて表情にださなかったが、そのとき水を浴びせられたように、木戸ははっとしたのである。
高杉の笑った顔は、べつにいやな顔ではなかった。むしろ、気持が好すぎるくらいだった。ふだんの彼をしらなければ、どうということはなかっただろう。しかし、長い時間ではなかったが、同志として、またそれ以上に濃密なときをともにもった木戸には、その澄明すぎる笑顔は、悲痛なおどろきをあたえた。
(ああ、この男は、)
ざざ、と庭で音がした。
陽気にゆるんだ雪が、松の枝を滑りおちたのだろう。障子を隔てた廊下のさらに向こうで、陽光をちりぢりに照りかえしながら落ちるその雪が、木戸には、高杉の頭上に降るようにおもわれた。
ぐっと、胃の腑をえぐられるような気がした。十二月のやわらかな陽の光と、小ざっぱりした庵と、庭の松の雪と、白い褥と、肺病のために透きとおるような顔色になった高杉と。すべてが時勢の奔騰をよそに、うそのような美しい静寂にむかっている。時勢そのもののような殆い火種をいくつも背負っている木戸には、それらは美しすぎて触れられない。眼前の清冽さのすべてが、おそろしかった。
(ああ、)
彼が肩を落とすよりもさきに、
「桂さん」
暢気そうに高杉が呼んだ。
「薩摩はどうでした」
「え……」
「桂さん、薩摩に行ってたんでしょう。つい二、三日前のことじゃありませんか」
いやだな、どうしたんです、と顔を覗き込まれて、おもわず目をそらした。とっさにその動作をごまかそうと、
「もう桂じゃない」
つまらないことを言った。
「ああ……」
高杉は曖昧に頷いて、
「ああ、木戸さん、ね。なんか馴れないんだよな」
「馴れろ。君命だ」
「じゃ俺のことも潜蔵と呼んでくれるんですね」
「いやだ」
「馬鹿にしてらあ」
高杉は哄笑した。その顔はすこし、見慣れたもとの彼のようだった。
「そのうち『木戸』さんらしくなったらそう呼びますよ。今は桂さんでいいやね」
「なんだ、木戸らしいとは」
「俺だけがわかってりゃいいんです」
桂さんだって桂さんのほうがしっくりくるでしょうよ、それで薩摩は、と、高杉は枕を縦にして、胡座をかいた脚の間に立て、その上に両腕を載せている。手の甲を顎でぐりぐりやりながら、桂さん、薩摩は、と繰り返し尋ねた。
「おまえは――」
勝手なやつだな、と言いながら、その勝手さにほっとする。その勝手さの前でこそ、安心して話ができた。だからどうかさっきのような顔はしないでくれ、そうでなければおそろしいことばかり考えてしまう――。決して口にはだせないが、木戸――桂は祈るようにそう思った。
「薩摩――薩摩はなあ……」
桂はさきごろ、藩公父子の使者として薩摩へ渡った。これより以前、同盟締結後の修交使が薩摩から送られていたので、その答礼のためである。いわば顔を出してくるだけのことで、何といって用はないはずであったが、そこは相手が薩摩であった。
「むつかしいことを持ちかけられねばよいが」
藩公は、桂を送り出す前にそう言って腕を組んだ。
(なるほど、さもあろう)
桂は高杉や井上ほどには親しく君側に侍る経験をもたなかったが、一見茫洋とした風貌の藩主敬親が、実はどうして、深謀の人であることを知っている。
――馬関海峡を。
封鎖せよ、と薩摩が言い出すのではないか。敬親のその懸念は、桂もうすうす考えていたことであった。
――薩摩は権道をこのむ国である。
その認識が、敬親の思慮の根底にある。当の薩摩にすれば色々言い分もあるだろうが、敬親のその思いは藩士たちの多くが共有していた。
だから今回も、と心配の種はそこにある。
いま長州は対幕戦を制し、武備も士気もなお充分である。この際騎虎の勢いを駆って馬関海峡を封じ、貿易を一手ににぎれば京阪の経済はたちまちに立ち枯れ、これを台所と恃む幕府は自然と腐り落ちるのではないか。さすれば天下は長州と、これに盟する薩摩のものである。貴藩宜しく海峡を扼せられよ。――薩摩はそう言うのではないかと、敬親は胸を悩まし、もしその教唆があった場合には、断然これをはねのけよと桂に命じたのである。
「ために同盟が破れてもかまわぬ」
とまで言ったのだから、その内容の当否はともかくとして、「そうせい公」もあれでなかなか肚がすわっている。そして敬親のそういうところが、桂はすきであった。その桂より高杉はなお藩公の英資をよろこぶ男で、だから今度の件は、出発前に逐一彼に報らせてやっていた。
「やっぱり、殿のご懸念あそばしたとおりだったよ」
すべてを了えてきた桂が苦笑すると、
「ああ、ねえ」
と高杉もまた顔をゆがめて笑いつつ頷いた。桂もそうだが、政略として、また大義のために薩摩と手を握りつつも、かれをうたがうこと、高杉においてはまだかなり濃い。
「まだ元亀天正の世のつもりでいるのかねえ」
「そういう頭の連中はたしかにいるな」
実際閉口したよ、と桂は正直に洩らした。
「西郷や大久保、小松あたりはずいぶん啓けた男だが、まわりで剣を撫している壮士には、うちの馬鹿どもよりまだ手に負えないのがいる」
「ついでに叩っ斬って来てくれりゃよかったのに」
「御両殿様の名代でそうもいかんだろ」
それに、何だ、馬関封鎖のことを言ってきたのは、そういう手合じゃなかったよ。あれはどういうんだろうなあ、と桂は首をかしげた。
「まあ、商人みたようなものだろうな」
「聞多みたいなのですか」
「いや、もっとずっと抜け目がないな。聞多はあれは、道楽者の若旦那がいいところで、暖簾を守る番頭・手代を任せるにはおっちょこちょいだろう」
「ちがいないや」
高杉は枕を拍って笑った。寝巻がみだれると体の細さがあらわになるのを、桂はつとめて見ないようにした。
「で?」
と高杉が尋ねる。
「馬関を封鎖しちまえといわれて、桂さんはことわったんでしょう?」
「ことわったさ。ちょっと妙な雰囲気にはなったが、向こうにももののわかった男がいて、適当にとりなしてくれたからな。話はそれっきりになった」
「それは重畳」
うなずいて、目をとじた。そのまま沈黙する。
「晋作、」
疲れたのかと桂は不安になった。が、高杉は片目をあけて、しっ、というように唇の前に指を立てた。
「何の鳥だろう」
「鳥?」
「啼いてるでしょう」
ほら、といわれて耳をすましてみる。かすかに高い音が聞こえる気がするが、鳥の声なのかどうか。
「啼いてるか?」
「啼いてますよ。あんまり聞かない声だな」
「鳥が、どうかしたのか」
「どうもしやしません。ただこんなところに臥ていると、ほかにすることがなくってね」
鳥の声だの風の音だの、まあそんなものばかりが無聊の慰めですよ。とん、と枕を叩く。ことさら自嘲するでもない、いたってしずかなその口調に、桂はぐっと胸をつかれる思いがして、わざと肩をすくめて笑った。
「俺の話は退屈か」
「まさか。ただ、桂さんには聞こえるかと思ったんです」
やっぱり聞こえないかあ、と高杉は両腕をあげて伸びをした。その歎息は失望したふうでもなく、ただ聞いていた桂がふと切なくなったほどにさわやかだった。
「晋作……」
「ああ、腰を折っちまいましたね。で、薩摩はまあそれで、一応納得してひきさがったわけだ」
彼はまたそこへ戻ってきた。仕方なく桂は頷く。
「そうだな。まあ馬関封鎖云々は二、三の若手の勇み足なんだろうから、もうこれに懲りて言い出すまいよ」
「それでも結局のところ、薩摩は薩摩だねえ」
「まあ、なあ」
「こっちは悲痛なもんですな」
「今はな。いつまでも今のままではないさ」
「期待してますよ」
「おまえも働くんだからな」
念をおしてみたが、高杉は微笑するだけだった。その眼がかつての彼にないほど凪いで、やさしかった。
(この男は……)
桂は高杉の抱えている枕を奪って、その顔に投げつけてやりたいような凶暴な衝動にかられる。そうしてそれをどうにか噛み殺して、苦い顔で壁を睨んだ。その表情におそらく気がついているであろう高杉は、しかし、病床に洩れる陽に和するように、おだやかな声音で言った。
「ま、ここからですな」
桂は答えない。
「ここからですよ」
もう一度高杉が言う。
「一手も無駄打ちはできない。外せば最後だ。着実に詰めていかねばすべて瓦解します」
「無論のことだ」
渋い顔で、桂はみじかく答えた。
「そう、だから――だからこそ、大殿の仰せられたのは、つまりはそこでしょう」
「そこ、とは?」
「回天の事は仕遂げねばならないが、ために道を踏み誤ってはならんということです」
「だから俺はことわってきたぞ」
「うんまあ、ね。それはいい。港をどうこうなんて、俺はそんなことはどっちでもいいんです」
「じゃあ……」
「桂さんのことですよ」
高杉は、透けるように微笑している。
「大義は大義です。無論貫かなけりゃならないが、詭道はなるべく踏まないがいい。それは桂さんにも同じことだ」
「俺が、何……」
「あくまで正道でやれってことですよ。尤もこれは大殿様じゃない、俺が思っていることだが」
つまりね、と高杉は射るような――そのくせやさしげな眼で桂を見つめた。
「あんたひとりが辛いような手は使いなさんな、と言ってるんです」
ざ、とまた庭で雪の落ちる音がする。そのつめたく清冽な塊が、自分の背のすぐ後ろを過ぎてゆくように、桂には感ぜられた。あくまできよらかなそれは、無心に自分を罰し、無心のままにやがて溶けて消えてゆくのだろう。桂はじっと眼を見ひらいてその叱責に耐えた。そうして目の前の高杉にはさあらぬ体で応答しようとした。が、口をひらく前に高杉はそれをさえぎって、
「俺が何も知らないと思ってるんですか」
責めるでもなく、ただすこし寂しそうに言った。
「俺の口出しする筋合じゃないのはわかってます。俺らじゃどうにもならない仕事をあんたに背負わせてるわけで、その仕事をあんたがどういう手段で処理しようが、俺なんぞがどうこう言えた義理じゃない。まあ実際言わずにおこうと思ったんです」
「晋作……」
意味もなくただ、名前を呼んだ。その声がかすれた。
高杉が何も勘づくまいと思うほど、自分は彼を甘くみていたわけではない。ただどこかで、何事もなかったことにしてくれればいい、そうして彼も忘れ、自分も口をぬぐってしまえばいいのだと思っていた。
(仕方がないじゃないか――)
仕方のないことなのだから、その仕方のなさにまつわるすべてのことは、考えてもどうしようもない。自分が目も耳も塞いでその暗い淵を越えてきた上は、高杉もまた、知らぬふりでいてくれればいいのに。
「だけど、」
と高杉はいう。
「あんたが辛そうだから」
「俺が……?」
「痩せたぜ、あんた」
それこそお前のいえた義理ではないと思ったが、言わなかった。というよりも、高杉の声音はあまりにいたわりに盈ちていて、それが桂の耳をうち、体の中を通ったとたん、息ぐるしさに何もいえなくなったのである。
「あんたは俺のものじゃない。まして俺は――」
言いかけて、高杉は桂の顔を見ると、
「いや、」
とその言葉を打ちきり、手をのばして桂の頬を撫でた。
「悪かったよ」
小さな声で詫びる。そんな顔をしなさんな、と言う声は、やはりやさしい。そうして、
「それでも、俺はあなたが恋しいんです」
「晋作……」
「だから、あんたのすることを無理によせとはいえないが、それでも願うだけは願ってみてもいいでしょう」
あなたが、どうかこれ以上悲しまないように。いつのときも幸福であるように。
頬を辷る高杉の痩せた手が、ひどくあたたかかった。自分の手をかさねてみると、高杉の指先が濡れていた。そのときはじめて、桂は自分が泣いているのを知った。
桂の指も濡れたまま、高杉の手の甲を撫で、手首をとらえた。ずいぶん細くなったその手首には、しかしまだ力強い脈が打ちつづけられている。その脈の上にそっと口づけて、
(ああ、)
桂は、高杉の白い皮膚の下を流れる血のみずみずしさを思った。
(この男は――)
押しあてた唇の上にも涙が伝う。
(それでもこの男は死んでゆくのか……――――――)
「桂さん」
肩を寄せようとする桂の体を、そっと高杉は押しもどした。
「うつるよ」
「馬鹿なことをいうな」
体を気遣うことも忘れて、乱暴に抱き寄せる。髪をかきやり、唇をかさねると、高杉は特に抵抗もしなかった。
が、やがて彼のほうから唇をはなすと、
「ここまで、だなぁ」
とやわらかに笑った。
「もう一度ぐらいあんたを抱きたかったが、俺には、もう、」
「晋作」
「あんたまた佳い体なんだものなあ」
「馬鹿」
あまえるように、高杉の腕が桂の背にまわされる。桂はすこし腕の力をゆるめ、しかししっかりとその細い体を支えた。
「晋作」
「うん?」
「俺は疲れているんだ」
彼の硬い髪に頬擦りしながら言った。ふ、と困ったように彼が笑う。
「はあ、そうでしょうね」
「ひと眠りしていくから寝床を貸せ」
「ああ、じゃああいつに……」
次の間に布団を敷かせましょう、とおうのを呼ぼうとするのをとめて、
「この布団だ」
ずい、と床の上に膝をすすめた。
「何もしなくていいから、一緒に寝てくれないか」
懇願するように言うと、背を撫でていた高杉の指が一瞬とまり、それから唇が桂の耳朶を挟んで、
「何もおかまいできませんが」
低く、体の内へ流れ込むように囁かれた。
襦袢だけになった桂の体を、高杉の両腕が、布団の中でしぼるように抱いている。
「おとなしく寝ていろ」
と桂は言ったが、
「病人だからってそれはないでしょう」
笑いながら、襟から手を差し入れてきた。無論、桂も本気でそれをとめようとはしない。
以前ならば互いの感覚を高めるために無駄のない動きをしていたその手が、今日はただ、一分の隙ものこすまいとするように、桂の肌をくまなく撫でてゆく。もう抱けないのだと高杉は言った。それは、多分、そうなのだろう。あわよくば、という気持は桂にはない。けれども、ひたすら慈しむような高杉の手の動きが、ひどくじれったく、切なかった。
「晋作……」
髪に手をさし入れ、顔をひきよせて口づける。高杉は何もいわなかったが、唇がかさなろうとする瞬間、彼がわずかに顎を引いたのがわかった。その悲しさから逃れようともがくように、桂は深く舌を絡ませたが、高杉はあまり応えてはこなかった。
「何を考えている」
「好きですよ」
「答えないつもりか」
「答えてるのに」
ごちゃごちゃ考えてるのは、いつだって桂さんのほうですよ。言いながら高杉はそっと、まるで桂のほうが病人ででもあるかのように、しずかに襦袢を剥いでいく。
「俺はただ、あなたが好きなだけです」
そう言った高杉の顔を、桂は一生忘れないだろうと思った。つねに尊大で、何をやらかしても悪びれるところのなかったこの男が、淡く笑ってこちらを見つめ、子供が言い訳するときのように、きまりわるげに少し唇を噛んでいる。その表情は滑稽ですらあり、はなった言葉は馬鹿馬鹿しいほど甘いのに、桂は冷たい刃に胸を刺し貫かれる気がした。ちょうどその胸の上に、高杉の掌がある。やさしく動くその手を、上からつつむように握り、指をからめた。
(――俺のほうが、よほど)
おまえを好きだろう。持ち重りのする感情に、体の内側から縛り上げられて、全身が鈍く軋る。それでも桂は、かたく唇をひき結んで、その思いに耐えている。高杉には、聞かせてやらない。
言えば、この男は喜ぶだろう。しかしいまさら喜ばせたところでどうなるというのか。以前ならともかく、今言えば、喜んだあとで高杉はかならず自分を拒む。自分が泣くようなことをきっと言う。さいごに泣かされてやってもいいと思うほど、桂はただ高杉に関してだけは、覚悟のできた男ではなかった。
ふと、指がほどかれ、高杉の手が離れていく。布団がはねのけられ、高杉が上体を起こした。不審に思って見上げると、彼は自分の寝巻を脱ぎ、丸めて部屋の隅に投げ捨てた。
「おい、無理は……」
「大丈夫、くっつくだけです」
そう言ってふたたび横になり、布団をひきよせて、素肌の胸に桂の体を抱く。すでに自分の下帯を解いてしまった彼の手が、桂のそれに伸びてくる。腰をすこし浮かせて、その作業を助けた。
「気持いいな」
桂のうなじに顔を埋めて、高杉は嬉しそうにつぶやいた。素肌のまま横向きの姿勢で向かい合い、四肢を絡める。そうしてじっと、互いの体温と、鼓動をたしかめあった。高杉に触れている場所すべてがあたたかく、心地良かった。
身じろぎもせず、やわらかく抱き合っているだけでも、目をとじるとすぐに高杉の愛撫の癖が思い出せる。彼の触れたがる場所、緩急のつけかた、囁く言葉……。若くわがままな彼はときに乱暴で、泣かされることもあったが、そういう彼の仕草のすべてが、息苦しいほどに桂はすきだった。
(指の――)
指の骨の形まで知っている。誰に宣言するわけでもないが、自信をもって桂はそう言えた。体のすみずみまで、彼を憶えている。指先で、唇で、体の奥で、高杉を知っていた。
高杉だけを、知っている。
(おまえだけだ)
絶対に口に出してはいわない。いってはならないのだと思っている。それでもひとり心の奥で、桂はそう叫んでいた。
自分の体の上を、過ぎていった男たちがある。政略とはいえ我ながら下劣なそうした折衝を、しかし高杉が言ったように、自分が辛いものなのかどうか、桂はそこまで考えたことはない。ただ、通りすぎてゆくだけの夢なのだと思っていた。だから事が済めばすべて忘れた。男たちが帰り際にかならず言った、満足したという意味の言葉だけが、勝利の記憶として耳の片隅に残り、彼を安堵させた。いわばそれだけの作業だった。
(おまえとは、ちがう)
一度はそう言ってみたかったが。
「冷えてきたな」
雲が出てきたのか、障子にうつる日がきれぎれに翳った。庭の雪のいろを浚って青く伸びるその影が、高杉の痩せた頬の上に落ちないように、桂はそっと、高杉の顔を胸に抱きよせた。彼の吐息が膚をくすぐって、そのむず痒いような感覚におもわず零れそうになる涙を、かたく目をつぶってこらえた。
ふ、と、胸の中で高杉が笑った。しばらく表へ出ていないはずなのに、桂の顔の下でゆらいだその髪は、陽だまりの匂いがした。
[38回]
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