「雪見酒と洒落こみませんか」
と木戸を誘ったとき、井上にはさほどによからぬ気持があったわけではない。
少しもなかったとはいえないが――というよりやはりそれなりにありはしたのだが、そこはあくまでなりゆきまかせで、と思っていた。どちらかといえば今日は、陽気に座敷あそびをしたかった。東京にはめずらしく、大ぶりの牡丹雪が芝居の紙吹雪のように散り敷く今日の天気に、彼もまた年甲斐もなく浮かれていたのである。
「この雪を肴に、熱いのをくいっと」
と言ったのは、べつに口実というのでもなく、彼の本心だった。だから本当はもっと頭数をあつめてにぎやかにやるつもりだったのに、伊藤は横浜へ下っていて留守だった。山田はまだ戦地から還らないし、品川も凱旋以来その報告でたびたび各部署へ呼び出されて、今日も体が空かないという。山尾もやはり造船か何かの関係で横浜へやられていた。このあたりで井上は面倒になった。
「俺とサシでいいでしょう」
と言うと、
「とりあえず男はな」
と木戸は目のはしで笑った。あとは美人の二、三人も用意しておけ、という。
「好きだねえ」
「雪の窓辺で、お寒うござんすね、なんて言って酌をしてくれる手が男の手じゃつまらんだろう」
「まあ、そうですけどね」
「夏のうだるような暑さには年増芸者の婀娜な感じがたまらないんだが、冬はこう、つい昨日まで素人だったような、物馴れない半玉が似合うと思わないか。寒さで頬や指先がぽうっと赤くなって、いかにも肌の薄そうな……」
「ああ、ハイハイ」
井上は溜息をついた。木戸のこの手の講釈はなかなかうるさい。しかも実際に場数を踏んでいるだけに、女のにおいがむっと蒸れてくるような、何ともいえない生々しさがある。不覚にも当てられそうになったので、適当なところで話を遮ってしまった。
「何だって一緒じゃないですか」
「おまえはどうかして転ばすことしか考えてないからな」
触れるか触れないかのつきあいでも、たまらなくいいときというのがあるものさ。睫毛の影を艶やかにそよがせて、木戸は意味ありげに笑う。ずいぶん老練な御趣味で、と井上は閉口して言った。
「女は床に入ってみなきゃ、俺にはわかりませんな」
「それはそれで悪くないさ。今日の妓はお前が見繕ってくるんだから、あとは好きにしたらいい」
木戸は、そう言っていたが……――――。
赤坂の殷賑は新橋、深川にまだ遠くおよばないが、このところ花街として、とみにその容儀がととのいつつあった。御一新前は岡場所が多く、ちょっとはずれへ行くと、ほとんど老女みたような夜鷹が袖を引いてくる恐ろしい場所だったが、最近はそれなりの構えの料理屋がぽつぽつでき、舞や唄が自慢の歴とした芸妓も増えている。
「新興なだけに変な気位がなくっていいぜ」
と、こういうことには耳も手も早い伊藤が言っていた。この大先生がいつぞや大変に推していた置屋へ頼んでみると、なるほど器量も芸も一品の芸妓と、木戸が所望した初(うぶ)らしい可憐な半玉とを寄越してくれた。
が、彼女らの繊い指から盃を受けたのも、はじめの半刻ばかりのことで、適度に酒の入った大官二人はそれからつい政治むきの話をはじめてしまい、女たちは気を遣って下がっていったのである。
「まだ階下(した)にいるんだろうな」
話が一段落したところで、木戸が惜しそうにつぶやいた。彼はさっきからしきりに火鉢の上で手を揉んでいる。政論の最中にも二人は漫然と「雪見酒」の体をとりつづけ、窓の障子は開けたままになっていた。吐く息が、互いに白い。
「呼びかえそうか」
妓たちを、である。しかし井上は、
「まあいいでしょう」
といい加減にそれをいなした。雪を見た。酒を飲んだ。女の手も握った。とりあえずここに来てするべきことのひととおりはしおおせたはずである。
で、目の前に木戸がいる。今さら妓の酌でもないだろうと思った。
「木戸さん――」
火鉢の脇からずるりと傍へ寄って半身をつけ、腕をのばして後ろ手に窓を閉めた。唇を寄せて、木戸の耳朶の温度をたしかめる。
「冷たいな」
低く囁くと、木戸がぞくりと肩をすくめた。その拍子に体をとらえて、有無をいわさず深く口づける。そっと肩へ伸びてきた彼の手をとると、石の置物のように冷えきっていた。その指先を口にふくみ、しだいに深く銜え、付け根のやわらかい部分に歯を立ててやる。
「……っ、はぁ、」
濡れた唇から洩れる吐息に体の芯が熱くなった。こうなってしまえば、もう止めようがない。ゆったりと押し倒そうと、木戸に体重をあずけると、
「あ」
木戸が何かを思い出したようにふと上を見上げ、井上の半身を中途半端な姿勢でうけとめたまま、そういえば、と袂に手を入れた。
「これ」
「なんです、これ」
井上はその幸福な作業を中断された不満で口を尖らせた。今さらやめる気はないと言うかわりに襟からせわしなく手を入れながら、ひろげられた木戸の掌に顎をつきだした。
折り畳まれた薬包紙が載っている。むろん、中身が入っているのであろう。
「おまえにやろうと思ってな」
「だから何なんです」
ただでさえ焦らされているのに、二重にはぐらかされて、井上は苛立つ。意趣返しに木戸の胸をまさぐり、乳首を掻いてやった。ん、と木戸が息を詰める。
「毒じゃない、ぞ……」
「あたりまえだろ」
「ちょっと舐めてみないか」
「そんなわけのわからねえものが舐められるかよ」
「毒じゃないと言ってるのに」
「毒じゃなくたっていかがわしい薬なんざいくらでもあ……」
ある、だろう、が……、と、最後はゆっくりと区切った。区切りながら、目をまるくしている。ああ、そうか、そういうことなのか。
「あんた、それ」
片眉をつりあげて笑った。
「自分で服(の)めよ」
「俺が?」
「そのほうがあんたが愉しめるだろ」
「おまえは?」
「俺はあんたがぶっ飛ぶようすを見てるだけでいけるよ」
「ぶっ飛ぶ、なあ……」
「いいから」
ほら、と、井上は横に据えたままになっていた膳部から銚子をとりあげ、木戸の手にもたせた。
「これで飲めよ」
「あんまり入ってないなあ」
木戸が銚子を顔の前で振って首をかしげる。
「ごちゃごちゃ言わなくていいって」
早く、とせきたてると、木戸は苦笑して溜息をひとつつき、薬の包みをつまみあげてひらくと三角に折り、中に包まれていた灰色の粉末を、顔を上向けてさらさらと舌の奥へこぼした。そうして、銚子を直接口へもっていき、酒で流し込んでしまう。井上の目の前に晒されている白い喉が、ごくりと嚥下の動きをみせる。それだけで誘われている気がして、たまらず喉仏のあたりへ噛みついた。
「なあ、効いてきたか……?」
木戸の上に馬乗りになり、露わにした肌に指を這わせ、唇を落としていく。時折強く吸い上げると、木戸が悩ましげな吐息を洩らした。
「効いて、って……」
「何か変わりないんですか。むらむらしてきたとか」
「それははじめからだ」
「いやまあそうだけど」
膝を割り、太股の内側を舐めてやる。木戸は熱を帯びた声をあげ、身をよじろうとする。中心を弄び、零れてきた液を井上のいちばん好きな場所に塗り込んだ。
少しずつ、入口を馴らして、指を挿れる。
「ん……」
もうほとんど準備が整いつつあるそこに、わざと生温い刺激ばかりをあたえていると、もどかしそうに木戸が鼻を鳴らした。
「わかってますよ。ここだろ?」
ぐっと関節を折り曲げる。
「はぁ……っ」
「すげえな。中が動いてるぜ」
「あ、あ……」
木戸の手が、井上の髪をつかむ。
「なあ、今どのくらいい、いい?」
指を増やして、中でかきまわしてやる。
「ああ……っ! わ、わからな……、」
「いつもよりいいんじゃねえか?」
締まりがちがうみたいだぜ、と言いながら上体を倒し、木戸の体の上にかさなって、乳首を噛んでやる。井上の指を飲み込んでいる粘膜が、渦を巻くように蠢いた。絡みつく襞のひとつひとつが、ひどく熱い。
「そう、かもしれな……、っあ、」
「効果覿面じゃねえか」
物騒な薬を持ち歩きやがって、おまけに俺に飲まそうとするんだもんな。とんでもねえよあんた。
わざと悄気たようにぶつぶつこぼしながら、中に挿れた指は口調とは裏腹に、熱っぽく動かした。
「あ、……も、聞多……っ」
木戸の脚が慄えている。
「んん?」
「もう、欲しい……」
「えっ」
潤んだ眼で見上げられて、さすがに井上は狼狽した。
「えぇと……」
狼狽ついでに、中から指を引き抜いてしまった。不意に温もりを奪われた手のこころもとなさに、意味もなく木戸の太股を撫でさすってみる。
(欲しい、だってよ……)
木戸は床の中でも割合あけすけにいろんなことを言うほうだったが、今まで「欲しい」と言われたことはなかった。情痴の奔流の渓間から、喘ぎつつ救いを乞うように発せられたそのひとことには、ぎりぎりの切なさと、わずかに含羞のようなものが感じられて、井上は一瞬息をわすれたほどにおどろき、またその驚愕が去ってからは、男としての昂奮が血のなかをかけめぐった。
「焦らすな……」
木戸がそこを見せつけるようにゆっくりと脚をひらく。すぐにも押し入りたかったが、ふとそこで色気がでた。
(もう一回……)
言わせてみたい。今度は、もっと淫らに。
「なあ……、」
「聞多……っ!」
(え?)
瞬間、どたっと大きな音がした。木戸の体をねぶっていたはずの視線の先に、天井がひろがっている。背中と、とっさに支えようとしてしくじったのだろうか、肘が痛い。突き飛ばされたのだとわかるまでに、数秒を要した。
「あ、危な……!?」
危ないだろ、と起きあがりかけた肩を強く押さえこまれて、語尾が上擦る。にゅっと視界に木戸の顔が突き出てきた。その表情が、めったにみないほどきわどい険を宿している。
「あ、あの……」
「聞こえなかったのか?」
木戸は凄艶に微笑んだ。
「欲しい、といってるんだ」
腰を跨がれ、体重をかけて固められる。乱暴に服を剥かれた。木戸の長い指が井上自身を取り出し、ふたたび腰を浮かせた木戸の中心にぴたりとあてがわれる。
「待……っ!」
いいおわるまえに、一気に腰を落とされた。
「は、ああ……っ」
喉をのけぞらせて木戸が喘ぐ。内部の狭さが甘苦しい疼きとなって、侵入したそこから脳髄へつたわる。
「あぁ……硬い……」
声に悦びをあらわににじませて、井上が衝撃から落ち着くのも待たず、木戸は自分で腰を使いだした。深い抽挿に、結合部が荒々しい音を立てる。
「いい……。聞多、」
指でたしかめたときとはくらべものにならない熱さとうねりに、井上も何度か目の前が白くなりかけた。まるで強姦されているようだ、と思った。
「くっそ……!」
このまま好き勝手にされてはたまらない。
彼は奥歯を噛み締めると、手をついて上体を起こし、木戸の背をとらえて、繋がったまま押し倒した。
「んああ……っ」
木戸は悲鳴をあげたが、井上が挑むような目できつく睨みすえている、その視線を彼の体の下で受けると、ひどく嬉しそうに微笑んだ。
「聞多、」
「ああ?」
「もっと……」
「わかってるよ」
額におちかかった髪をすくいあげてやる。その小休止を挟んで、今度は井上が動きだし、激しく木戸の体をかき抱いた。
絡みあう粘膜は、どこからが自分で、どこからが木戸なのか――。わからなくなるほど深く交わり、強く肉を押しつけあった。
木戸は組み敷かれても自分から腰を振り、脚を井上の背に絡ませてしがみついてきた。体の芯を灼かれるほどの悦びと淫奔すぎる痴態に、井上の慾もとどまるところをしらない。
「舌、出せよ」
ぞんざいに命じ、ふるえる口をあけさせ、そこから覗かせた木戸の舌に自身のそれをからませ、深く貪る。繋がった部分で奥を穿つごとに、喉の奥で悲鳴に似た嬌声があがる。
(死ぬんじゃねえか)
ふとそんなことを思った。
はじめて抱いたとき、木戸は「死ぬかと思った」と言っていたし、その後も時折そういうことはあった。そうやって死ぬぎりぎりくらいの法悦をあたえてやる自信は、ふだんの井上にはあるのだが、今日ばかりは薬の力を借りている木戸よりも、井上のほうが危ないかもしれない。
(この人を犯しながら死ぬのもいいんだが)
やり残した仕事云々というのは野暮だが、仮にそれは措いておくとしても、せめてもう二、三度、こういういい思いをしてから死にたい。今はまだ、足りない。
しかしそう思いながらも、眩暈と血の滾りがただごとではない。もう……、と思ったとき、いつもより大きく貫かれる感覚に限界を迎えたのか、木戸の体が痙攣した。
「あ、あ、あ、」
木戸の内部が井上の慾を搾りとろうとするように、激しく収縮する。木戸の唇が、最後に泣いているような声をほそくひくのを聞きながら、井上もまた木戸の中に放っていた。その放出の時間が、いつもより長い。白く明滅する意識の隅で、
(すげえな……)
心底、深く感歎した。
少しの間、意識を飛ばしていたらしい。井上は木戸の体の上で目をあけた。汗と、木戸の悦びのしるしとで、互いの肌がしっとりと濡れている。
(あれは……)
さっきの出来事は何だったのだろうか。むろんその感覚は体の隅々まで生々しく残っているのだが、あの凄まじいばかりの恍惚感は、ちょっと体験したことのないものだった。
(いっぺん死んだような気がするな)
まだ意識を喪ったままの木戸の呼吸をたしかめ、それから自分の体をさわってみて、その体温に、なんとなく安堵して溜息をつく。繋がったままのそこから、ゆっくりと引き抜こうとすると、
「ん……」
わずかに顔をしかめたあと、木戸が目をあけた。
「あ、大丈……」
「聞多」
汗ばんでなめらかな感触の腕が、やさしく背にまわされる。
「出なくていい。ここにいろ」
「なっ……」
木戸の瞳に、いまだ濃い情慾の潤みがある。目を細めながら、繋がった奥の肉でかるく嬲るように締めつけられて、井上はふたたびそこに熱があつまるのを感じた。
「若いな」
蠱惑的に木戸が微笑む。
「もう少し、かな」
木戸は果てたあとの体勢で寝そべったまま、内部だけを器用に動かす。濡れた肉が、ふたたび怒張しはじめた井上を撫で、ねだるように絡みつく。
「とんでもねえ薬だな」
痺れるような快楽に顔をしかめながら、井上ははあっと息をついた。
「いつまで効いてるんだ」
「さあなあ。嫌か?」
「嫌なわけがあるか」
「それはよかった」
徐々に血のめぐりを熾んにしてゆく井上の雄は、木戸を刺激するに足る角度と大きさを取りもどしはじめたらしい。井上の下でぐったりとしていた体に微妙な緊張が生まれ、肉の愉しみと、なにか別のものが入りまじった切なげな表情が木戸の顔にうかぶ。吐息が、湿っぽくふるえている。
「やらしい顔しやがって」
井上は一度床に手をついて体勢をととのえなおし、ひらいた木戸の両膝を押し上げて、戻らないよう自分の上体で押さえるようにした。同時に木戸も、自分が楽なようにすこし体をずらす。動くぞ、というかわりに顔を撫でてやると、木戸が首をかたむけて、その指を噛んだ。
「っあ、あ……!」
木戸の腰を半ば自分の太股に乗り上げさせるようにすると、彼の好きな角度ができる。そうしていつもより早く揺さぶってやると、背中に彼の爪が食い込んだ。その痛みすら、淫情を煽りたてる。
「いいか……?」
「ん、……あ、いい……もっと突い……っ、ああぁ」
「すごい音がしてるぜ」
先に一度井上をうけとめたそこでは、抽挿のたびに彼が放ったものがかきまぜられ、こまかな泡をたてながら、淫魔の喘ぎのような濡れた音を洩らしつづけている。そもそもは井上が中で吐精したせいなのだが、木戸のそこから聞こえるその音は、いかにも彼の淫らな慾が溢れて滴ってきているようにおもえて、さらに井上を昂ぶらせる。本当はそれについてもっと色々囁いて辱めてやりたいが、激しい動きと快楽に、もう息がつづかない。
「すげえなあんた、」
仕方なく井上は、みじかい歎声だけを時折あげる。木戸は痙攣(ひきつ)れるように息をするだけで返事もしないが、それでも声をかけてやるごとに、濡れた内部が蠢き、井上に吸いついてきた。
「あ、もう……っ!」
木戸の背が大きくしなり、中がいっそう締まる。一瞬迷って、井上は腰を引いて繋がりを解いた。自分はまだ、果てたくない。
「ああ……」
井上を追いもとめようとする木戸の手を、掴んで指をからめてやる。中から男がいなくなったことが悲しいのか、それともただ肉体的な反応として身を捩っているだけなのか、木戸は眉根を寄せ、激しく首を振りながら下肢をふるわせた。
(うわ……)
井上はおもわず生唾をのみこんだ。
木戸の吐精と同時に、井上が引き抜いたそこからは、一度目に彼の放った精がどろりと溢れだしていた。いつもより勢いよく散った木戸の精は彼の胸のあたりまで濡らしていたが、下肢は下肢で、井上のそれがぬらりと光りながら流れ落ちていく。しかも、当然ながらそれの出ていく早さは吐精よりもずっとゆるやかで、そのため自分の慾を放ちおわって一旦わずかな安堵をえた木戸は、
「あ……――」
今度は井上のそれが流れ出る感覚に唇を噛んだ。
「すげえ眺めだな」
からかったのではなく、正直にそう言うと、木戸にはその意味が通じているのか、そもそも聞こえていたのかどうか、肩を上下させながら、戸惑ったような顔で井上を見た。その、濡れた瞳。
「あのな、俺はまだなんだからな、」
そんな顔で見られたら、と、ぐしゃりと一度自分の髪をかきむしり、
「知らねえぞもう」
舌打ちして、まだすこしふるえている彼に挑みかかった。
「や、あ、あああっ」
逃れようとする木戸の奥まで一気に穿ち、両腕を押さえ込んだまま、体が軋むほどきつく揺さぶった。
「無、理だ、も……っ」
「自業自得だろ!」
抗いながらも、木戸の中は井上を従順に受け容れ、さらに深い悦びを味わうために締めつけてくる。
(もう、どうなっても知るか)
木戸の弱い場所を突いてやると、何度目かでがっくりと力が抜け、腹に熱いものが飛び散ったのを感じた。そのまま動かない。失神したな、と思ったが、口に手をやって呼吸をたしかめただけで、腰の動きはやめなかった。やめようもなかった。ときどき木戸の眉が顰められ、わずかにひらいた口から呻き声が洩れたが、井上はかまわず、彼の体を蹂躙しつづけた。
「しっかり拭いておけよ」
木戸は火鉢の横で肩から着物をひっかけ、腹這いになって肩肘をついている。固く絞った濡れ手拭いで畳を叩いたりこすったりしている井上は、さっきから彼の指図であちらこちらとかれらの悪戯の始末をさせられていた。そっちもだぞ、と顎でしゃくってみせる木戸に、口をへの字にまげる。
「なんだって俺ばっかり……」
「動けたら手伝ってやるんだがな」
いやあ残念だな、と木戸はにやにやしている。
「それに俺が伸びてる間もお前はずいぶん愉しんだようじゃないか。これでとんとんだろ」
「俺だけのせいにするつもりですか」
木戸はだまって笑っている。
「ほら、腕をどけなよ」
その下を拭こうとして木戸の手をとると、一瞬ぞくりとふるえたのがわかった。
「あんた、まだ……?」
「そういうわけじゃないんだが、体が覚えてるんだろうな。まあ気にするな」
「気にするなったって……」
さっきから木戸に尻を叩かれて掃除をしているが、井上だってこのあと一眠りしなければ帰れないくらいには、疲労が募っている。それでも木戸が妙な反応を見せると、こちらもまたざわっとするものがあるのだから、つくづく自分は業が深いと思う。
(もうどう考えても今日はできないけどな)
せめて木戸の顔を見ないようにと、うつむいて畳の汚れを追っていると、
「あれ……」
彼がひっかけた着物の下から、三角に折り畳まれた薬包紙を見つけた。
「これ、」
さっき――といってももう何刻前になるのか、彼が飲んだ薬の包みである。
「こんなの一包でなあ」
危ねえ薬だな、と井上はそれをつまみあげて披いた。
「ちょっと残ってるぜ」
折り目の部分に、粉がひとすじついている。茶がかった灰色の、こまかな粉である。彼は何を考えたわけでもなかったが、ふと吸いよせられるようにその粉を指先で掬いとり、口に含んだ。
「どうだ?」
と目を細めて木戸が尋ねる。
「んー…………」
口の中で舌をもぞもぞさせながら、井上は首をかしげた。懐かしい、というのとはちがうが、なにか知ったような味がする。
「なんかこれ……」
と口を開けた。空気に触れさせて、においをたしかめる。
「蕎麦みたいな味がするのな」
「そりゃあ、」
木戸はけだるげな顔を上向け、肘をついたままの手で後れ毛をかきあげた。
「するだろうな。蕎麦粉なんだから」
「はあ!?」
井上は素っ頓狂な声をあげた。
「そ……っ!?」
「蕎麦粉。信州の」
「って何……、」
「蕎麦の実を挽いて篩って……知ってるか、製粉と篩い方の度合で味がちがうんだぞ。それは二番粉といって味も香りも、」
「誰が蕎麦粉の講釈を聞いてんだよ!」
「うまかったか?」
「わからねえよ!」
「わからないのか……」
「なにがっかりした顔してんだよ!」
凄まじいばかりの快楽をあじわったあとのことで、体よりも頭が衰弱している。木戸の言っていることはひととおりわかったが、――わかったようだが、その実さっぱりわからない。それなのに当の木戸は、さっきまで喪神していたとはおもえないけろりとした顔で、井上に淹れさせた茶をすすっている。
「まだうちにたくさんあるんだ」
「……蕎麦粉が?」
「そう。信州のだぞ」
「さっき聞いたよ」
「もらったんだ」
「もらったのは結構ですけどね……」
井上は手拭いを抛りだした。どこから問い直せばいいものか。思えば、すべてだまされていたことになる。
「じゃあ、あんた、はじめっから……」
薬じゃなかったんじゃねえか。抜けそうなほどに肩を落とすと、木戸は片頬で笑ってそれを受けた。
「俺ははじめから薬だなんて言わなかったろう」
「言わなかったら何だってんだよ。まぎらわしいものに包みやがって」
「おまえにも味見させてやろうと思ってな」
さすが本場の産だけに、旨いのをもらったからな。気に入ったらたくさんやろうと思ったんだ、と悪びれずに木戸は言う。
「味見ったって、粉のまま喰わせないだろう、普通。蕎麦にしてからくれりゃいいのに」
「なんで俺がお前に蕎麦を打ってやらなけりゃならないんだ」
お前に分けてやって、それでお前が蕎麦を打って、まあいくらかうちに持ってくれば、俺が食べてみようかなと、そういう順序でだな。木戸が意味のわからない――井上にとって――計画を明かす。木戸でなければ頭をはたいてやるのに、と井上は思った。
「あんた、こういうときだけ俺の料理に期待するのな……」
「期待というか――あ、余計なものは絶対に入れるなよ、黙って蕎麦と麦粉だけ練ってろよ」
「自分でやれよ!」
しどけなく寝そべったままの木戸を見下ろして、井上は陸(おか)に上がった魚のように口をぱくぱくさせた。だまされた。まったくしてやられた。
(蕎麦粉だと……?)
それならば、さっきまでのあの痴態は……――。
「あんた、蕎麦粉喰ってあんな……」
井上はもう、掃除をする気も、木戸を問いつめる気も失せて、その場にへたりこんだ。疲れきった彼の体はしばらく遂情には耐え得ないが、にもかかわらず、次から次へと、最前の木戸の声や仕草が、目に耳に、体の奥によみがえった。
(やられた……)
がっくりと首を折ると、
「愉しかっただろう?」
涼しい声で、歌うように木戸が言った。
[33回]
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