(やはり、いくらか涼しいな)
しばらくぶりで戻った東京の夏をそう思った。
鴨川の流れの音もまだ耳底に谺するまま、木戸は窓外の緑を眺めている。京都とはすこし色がちがうように思われる。樹の種類はそう変わらないはずだが、空気の違いだろうか、と考えてみる。京のあの独特の、蒸れ返るような夏。夏でなくとも、あの街に棲む女たちの気性のように、つねにしっとりと潤んだ大気が、滑らかに幹を抱き、葉を撫でて、木々を艶やかな色に染め上げるのかもしれなかった。
(過ごしやすいのは、東京だが)
しかし木戸は京の景色がすきだった。単に景観として好みだという以上に、朝まだき、遠くに聞こえる物売りの声、夕暮れの茜空に浮かぶ東山の稜線、そうした見るもの聞くもののいちいちが、彼のかつての奔走の日々の記憶と濃厚にかさなりあって、強い――息ぐるしいほどの香気をはなつ。今は思い出のなかにしか存在しなくなったたくさんの面影が、京の景色のなかではあざやかに浮かびあがる。
(いずれ、賜暇がかなえばな)
今度は御用ではなく、ゆっくりと京に遊ぶのだが。夢のようなことを考えながら、木戸はさっきから料紙を展げたまま、指先で筆を弄んでいる。
京阪出張以来久方ぶりの参朝であり、久方ぶりの執務室である。仕事が溜まっている。が、どうも手早くそれを片づける気にならないのは、暑さのせいばかりではあるまい。
(妙にいろんなことの起きる旅だった)
口のうちでつぶやいてみたが、しかし「いろんな」というほどには、今度の出張は煩瑣な仕事ではなく、したがって驚くほどの何事もなかった。珍事というのはただひとつ、それも御用を了えての帰路に起きた。
(箱根の緑はどうだったかな)
ぼんやりと思いめぐらしてみるが、緑はもとより、変わりつつある街道の風景も、すべて霞がかかったように彼のなかで朧になっており、あの宿場町の外貌はほとんど何も思い出せなかった。箱根の記憶は、ただあの夜のことだけに塗り替えられて、彼の内に残っていた。生々しい熱が、今も体の芯に凝っている。
木戸は窓の向こうへ視線を投げたまま、意味もなく首を傾げ、笑った。あの夜の奔流のような出来事の断片が、脳裡に明滅する。その甘ぐるしい感覚がすこし、愉しかった。
何にせよ、どうも今日は書類を眺めている気がしない。しばらく外でも歩いて来ようか。そう思ったとき、扉がせわしなく叩かれ、返事をする間もなく、その男がにゅっと顔を出した。
「あ……」
木戸が何かいおうとする前に、
「久しぶりじゃないですか」
怒ったような顔で、井上は言った。
「そうだったかな」
頬杖をつきながら目を細める。すぐにむきになるこの男の気性が、木戸は昔から嫌いではない。加えて箱根の一夜以来、そのむきさ加減への好感は、腹の底からふくふくと笑いがこみ上げてくるような一種の多幸感にかわっていた。面白い男だと思う。その面白さが、妙にうれしい。
「そうですよ」
と、井上はむくれている。
「とうに帰っていたくせに、なんだって家に引っ込んでたんです。来客まで断って」
「言ったろう。暑気中りだよ」
「またそうやって俺を馬鹿にして……」
「馬鹿にしたことなんかないだろう」
ふふ、と小さく笑う。井上のいうとおり、東京へ戻ってからも、木戸は不快と称して数日参朝しなかった。家人に命じて、見舞いも謝絶した。そういえば井上も来ていたと、書生が言っていたような気がする。通してもよかったのだが、この数日の思案ばかりはひとりでいるほうがはかどった。人が来ればつい話し込んでしまう。話すだけなら悪くはないが、もし井上が来ていたらどうなったことか。そこまで考えて、木戸は笑いながら首を振った。
「何を笑ってるんです」
「いや、別に」
「気持わるい」
「それは傷つくな」
「嘘をつけ」
井上は天狗の面のように口をへの字に曲げる。ああ面白い、とおもわず声にだして言いそうになるのを、手の甲で抑えた。
「なあ、聞多」
「なんですか」
「ここは、東京だろうか」
「はあ?」
井上は憮然としている。大丈夫ですかあんた、本当に暑気中りじゃないのか、と詰め寄ってくるのを躱して、木戸は立ち上がった。そのまま井上に背をむけて、窓辺に立つ。
「東京だ、新政の世だと騒いでいるのは官員ばかりで、実のところやっぱり江戸じゃあないか。少なくとも長屋にいるような町人たちは、一体何が変わったことかと思っているだろう」
「はあ……」
気の抜けた声が返ってくる。彼はきっと今、狐につままれたような顔をしているのだろう。が、木戸は詳しく説いてはやらない。井上はそういうことをうるさがるし、いちいちあれはどうと理屈を述べなくても、最後は直感で頓悟してしまう男だと知っている。
「慶喜を駿府に逐い、奥羽を平らげるばかりが御一新じゃあるまい。もう二度、三度と、大変革を経ないことにはどうにもならん。究極的には人民を開化させぬかぎり、維レ新タナリとはいえなかろうよ」
「……ああ」
ぴくりと井上が眉をあげる。ふりかえってその目を見て、ああ、はや悟りつつあるなと木戸は口許をほころばせる。この敏さがあるから、この男はただの騒がしいお調子者ではないのだ。
「ついては、すこし考えていることがある」
木戸はやや声を落として言った。
「御一新の初手は案外にもうまく運んだ。が、二度目以降はそうもいくまい。抵抗は前よりよほど大きいと見ねばならん。だから、今度俺の考えていることも、実は今のままぶち上げるには危険が多すぎる。さあ新政だ、畏まれと、型のあわない枠を無理に嵌め込もうとすれば、大瓦解をおこしかねない。引きしぼって無闇に発(はな)たず、慎重にやることさ」
「何のことだかよくわからんが、兵は拙速を尊ぶともいいますぜ」
「事は兵じゃない。文治は巧遅にかぎるさ」
「ははあ」
井上は原則論としてはそれに賛成らしい。頷きながら、しきりに顎を撫でている。
「しかし、何をやるつもりです」
「それは、まだ」
木戸は曖昧に微笑した。
「案といえるところまで、考えが熟していないんだ。それで東京に帰ってからこのかた、あれこれ練ってはほどき、ほどいては練りしてみているんだが」
いますこし待っていてくれ。早い段階で、必ずお前には相談するから。最後は詫びるようにそう言うと、なるほど、と井上は溜息をついた。
「それでお帰り以来、天の岩戸だったわけですか」
「ウズメのつもりで裸踊りでも見せに来てくれればよかったんだ」
「高天原――東京政府中が大笑い、ってか。冗談じゃねえ」
こっちはあんたが何を考えてなさるのか、それとも本当によっぽど具合が悪いのかと気を揉んだんだ。井上はふたたびむっつりと膨れた。
「それならそうと、ちょっと一筆書いて寄越してくれりゃよさそうなもんだ」
「悪いな。熱中していたものだから。邪魔が入るといやだったんだ」
「俺は邪魔者ですか」
「拗ねるなよ」
「これが拗ねずにいられるかってんだ」
あーあ、と井上は大きく歎息した。ま、いいや、あんたはその、二度目の大変革とやらを考えてるんでしょう。じっくり考えるがいいや。こっちはこっちのことをするさ。
ずい、と身を乗り出してくる。おや、と思う間に腕をつかまれた。
「なんだ」
「まだかかるんでしょう。その、案とやらがまとまるには」
「そうだな」
「だったら」
急に引き寄せられて、体がよろめくのを気にした瞬間、痺れるような感覚が首から背中を走った。頭を捕らえられ、耳を噛まれている。
「やらせろよ」
かすれた声を、熱い息とともに吹き込まれた。さっと熱が血のなかをかけめぐり、肌が粟立つ。
「ここで、か……?」
「さんざん焦らしたんだろ。あんたが悪い」
「勝手なやつだな」
ああ、面白い。弾けるようなのびやかさで、木戸はそう思った。笑いながら井上の背を撫でてやると、緊めている腕の力が強くなり、唇を深く貪られた。
立ったまま中途半端に衣を解かれ、壁に手をつかされて、後ろから抱きすくめられる。馴らすのもそこそこに、井上の熱に乱暴に穿たれた。
「い……っ、…痛……」
悲鳴を上げると、下腹へ掌が伸びてきて、言い訳するように木戸の前を慰める。
「すいません、俺、余裕なくて」
「ん……」
木戸は目をとじ、井上の動く感覚に身をゆだねた。前に回された手を、そっと振り払う。うっとりと微笑んでいるのが、井上の角度からは見えないだろう。
「大、丈夫か……?」
後ろだけで辛くはないのかと井上が問う。
「ん……」
木戸はかすかに頷いた。その額に、交歓の熱によるものとはちがう汗が浮かんでいる。
しかし、
(ああ、いい)
中で井上を感じるのが、ひどく快かった。
脳髄が桜色の肉の海に沈んで、全身が甘く痺れる。体は苦しいのに、なんだか愉しくて仕方がなかった。
(あのときも、いやに必死だったな)
性急に自分を貪る男に気づかれないように、思い出し笑いをする。
数日前の、箱根の夜。
抱きたくてたまらないと井上は言った。あんな情緒のかけらもない口説き方があるだろうか。無論女ではないから変な芝居気はかえって興醒めだが、それにしても、小遣いをねだる子供のほうが、まだしもものの頼みようを心得ている。頭のひとつもはたいて帰してしまってもよかったのだが、馬鹿馬鹿しいほどあっけらかんとしたその態度に、ふと興をそそられた。
(俺も年をとったことだ)
慾の刺戟される痛点が、よほどひねくれている。果し合いの口上のような口説き文句を切る男が、彼にとって初めての男を、どんな顔で抱くのだろうか。そんな想像で体が熱くなったのだから、とても若僧の嗜好ではない。
が――――。
抱かれている最中の自分は、果たして老獪な好色漢でありえただろうか。あのとき、むしろ――と考えて、今も木戸は、妙に気羞ずかしくなる思いがする。
抱きたくてたまらなかったという木戸を組み敷いた井上の仕草は容赦がなく、はじめこそ木戸のねだるようにしてくれたが、あとは慾のたばしるままに、激しくふるまった。この男はやはりどこまでも奔馬なのだなと、木戸は可笑しく思いながら、しかし一点、それらの仕草の根っこのところで、井上がひどくやさしいことに気がついた。すると、それまで飴でもねぶるように情交を愉しんでいた木戸が、不意に快楽の弱者になり、ひたすら官能にとらわれて、時間も場所も、自分が何者かもわからなくなるほどに溺れた。死ぬかと思ったと、あとで井上に言ったが、それもまんざら嘘ではなかった。
(もっと、もっとたくさん)
今日はろくに準備もせずに貫かれているが、それでも井上が決して身勝手ではないことを、木戸は知っている。現に自分はこれほど激しく、彼を求めているではないか。
「聞多、も……っ、」
苦しさで息が途切れる。
「どうした」
動きをゆるめて、井上が訊いてくれる。その汗にまみれた顔を、木戸は肩越しに振り返った。
「もっと、奥……」
ふるえながらねだると、目尻をそっと指でぬぐわれた。ああ、気にしなくていいのに。それは、汗だ。
「痛いんじゃないのか」
「痛いよ……」
木戸は井上の手をとった。
「痛いぐらい、隙間なく、お前で盈たされている。すごく、いいんだ」
だから、と言いかけて、内部で井上が変化したのがわかった。
「あ……お、大き……」
「あんたが変なこと言うからだろ!」
怒ったように言って、井上は、さっきよりも硬く怒張したそれを深く木戸の奥に突き立てた。
「んああ……っ! はぁ……、変、って……」
「変だろうがよ……!」
あんたいま可愛かったじゃねえか。変だ。絶対に変だ。抗議するように繰り返しながら、井上は腰を打ちつけてくる。腕をひきあげられ、つかまるところを奪われて、ただ井上に支えられながら、深く繋がる。切ないほどの執拗さで揺さぶられながら、
(やっぱり、この男は面白い)
木戸はひそかな笑みを洩らした。彼自身気づかないことだったが、それはとても安らかな笑みだった。
「中に、出したな……」
同時に達した(というよりも井上がそのように調節したのだったが)あと、ずるずると床にへたりこんだ木戸は、上目遣いに井上を睨んだ。
「この間はそれでいいって言ったじゃないですか」
井上はしれっとしている。
「この間はこの間だ。ここは廟堂だ」
「どこだって変わりゃしねえよ」
それにあんた、と手をのばして木戸のあごを掬う。
「よかったんだろ?」
目を細めると、凶暴なほどの雄が匂い立つ。その顔は悪くないな、と木戸は思った。
「よかったよ。この齢(とし)であんなに出るとは思わなかった」
「あけすけなのな……」
「羞じらってほしいのか」
「もっと啼かせて気絶でもさせたら、照れてくれるもんですかね」
「気絶したことはないじゃないが、照れくさかったかどうかは覚えてないなあ」
「よせよ、聞きたくない」
「しょうがないじゃないか」
木戸は笑ったが、井上は、木戸がふときまりわるくなったほど妙に凪いだ目で、ほんのすこしの間木戸を見つめた。しかしすぐにそれを笑いまぎらして、
「そうか」
指で木戸の唇をなぞった。その指が離れていったあと、唇が外気にひびわれる気がして、ああやはり東京の空気はかわいているなと木戸は思った。
「それ」
と、井上は木戸の腰のあたりを顎でしゃくった。
「後始末、してやるから」
胡座をかいて、腕をさしだした。上に乗れというつもりらしい。
「俺が出しちまったし」
「いい」
木戸は首を振った。
「なんで。あとで辛いんだろう」
「自分でするさ。べつに初めてじゃな……」
言いかけた唇を、濡れた唇にふさがれた。舌や粘膜を蹂躙され、湿った音が響く。強く吸われたあと、一度井上が離れた。
「まあ、いいだろ。俺にさせなよ」
ほら、と腰を抱かれ、指を入れられた。さっきまで井上と繋がっていたそこはまだ熱く、刺激されると簡単に蕩ける。
「……っ。や、め……」
「あんたもわかんねえな」
ぐっと関節を曲げられ、おもわず悲鳴をあげた。
「もうしばらくあんたに触らせろって言ってんだよ」
「っん……」
かきまぜられて、井上の残滓がとろりと外へ流れる。その感触に、木戸は唇を噛んだ。
「も、聞多……」
「なんだよ」
「後始末、だったら、」
「ああ?」
「後でいいじゃ、ないか」
触りたいんだろう? 木戸は井上の肩に頭を載せた。
「まだ、足りないんだ」
言いおわるや、井上ががばりと動く。髪をつかまれて一度引き剥がされ、正面から見据えられた。凄味のある、しかし淫蕩な笑いを井上はうかべていて、なかでも抜身のように光るその眼に晒されると、木戸の体の芯が脅えたように痙攣(ひきつ)れた。その、外面にはわずかな振動にも、体内の情交の名残はこぼれ出る。
「次も、中にしていいだろ」
返事を待たずに、首筋に噛みつかれた。
「床に転がすのは気がひけるな」
と井上は木戸の手を引き、机の上を指した。
「床よりわるいじゃないか」
木戸は苦笑したが、硯を片付けると、素直に天板の上に寝そべった。その膝裏を井上がつかみ、肩のほうへ押し上げながら、左右に割りひろげる。
「目をあけていろ」
そう言われて、息がつまるような、男そのものの目で見つめられる。目を合わせたまま、井上がゆっくりと侵入してくる。それだけで達した。見つめ合いながら、木戸はしゃくりあげるような呼吸を繰り返す。
「早すぎるだろ」
からかいながら、中の収縮に堪えるのがつらいのか、井上は唇を噛み、顔をゆがめている。が、大きく息をつくと、深い律動を開始した。
「待……っ」
次々にあたえられる快感の強さに、体がついていかない。爪の先、髪のひとすじまで痺れ、顫えた。
「あんたが欲しがったんだからな。せいぜい俺のいうことを聞きなよ」
井上の野卑な笑いが――それはついこの間知ったもののはずなのに、妙に懐かしく、木戸はふと故郷の山河を思ったりした。ああ、何をしてもいい。だからもっと欲しい。もっと、もっと――――。
今年は府内の変化に虫までが戸惑っているものか、蝉もあまり鳴かない。緑が目に痛いほどの東京の夏に、二人の痴人の息づかいが、やけに高く響いていた。
[38回]
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