「やられた」
かつて全身を斬り刻まれても図太く生き残ったこの男が、蒼白な顔でそう言ったのは、御一新からほどもない頃だったろう。
場所は大川の清流を下る舟の上で、折しも炎暑で涼しいのは川風ばかり、伊藤もその夕井上を深川の料亭へ誘ってはみたものの、暑さにたまりかねて座敷を早々にきりあげ、舟を出させたのだった。
舟遊びをしよう、と言ったときも井上は浮かない顔でああ、と頷くだけだったが、もっと異様なのはそのあとだった。
「妓(おんな)は、どの店から呼ぼう」
伊藤が訊いてやると、井上はぼんやりと目をあげて、
「べつに、どこでも」
と言ったのである。伊藤はおどろいて
「聞多、大丈夫か」
と叫んでしまった。
「何が」
井上はあいかわらずうすぼけた顔をしている。
「いやいや何がじゃない、おかしいだろうお前。こういうときはかならず誰がいいの彼は近頃脂がのってきて見頃だの、小うるさく注文するじゃないか」
「そうかね」
「そうかねって……」
どうしたんだ一体、と顔を覗き込んだが、面倒臭そうに目をそらされた。
(これは重症だ)
そもそも近頃井上が妙にふさぎがちで精彩を欠いていた。いつもやかましく騒ぎ廻っている井上のそのようすはずいぶんと目に立って、どこか悪いのではないかとか、これでは政府の吏僚として重任に堪え得ないのではないかとか、口さがなくいう連中もあって、伊藤は盟友として気を揉んでいたのだった。
井上本人にも、井上の家の者にも聞いてみたが、体はどこといって悪そうでもない。ならば何か深く考え込むことが――それすら彼には珍しいことだが――あるのだろう。
(ひとつ大いに遊んで、気晴らしをさせてやろう)
何を悩んでいるものか、酔わせてしまえば吐くかもしれない。
そう考えて半ば無理やりに連れ出したのだったが、どうもこれでは勝手がちがいすぎる。伊藤もまったくもてあましていた。
結局、芸者は伊藤とも井上ともあまり縁のない、土地のきれいどころを適当に呼び寄せておき、「なにかやってくれ」と三味線を弾かせたが、肝心の客が浮かぬ顔でいるのでちっとも盛り上がらない。
「いや、これは昔からこういう男で」
と、しまいには伊藤のほうが気を遣って愛想笑いをうかべ、
「黙って飲むたちなんだ。まあ酌でもしてやってくれ。決して難しい奴じゃないから、返事をしなくても気にすることはない。赤ん坊でもあやすつもりでたのむよ」
芸者をおがむまねをしてみせた。
井上は、伊藤に赤ん坊といわれても何の反応も示さなかった。黙って盃のふちを舐めている。
(なんなんだ一体)
しまいには腹が立ってきたが、井上が首を垂れているばかりでは、その苛立ちのぶつけようもない。
夕闇に櫓がむせぶ。
灯りもつけずに、伊藤は井上と向き合っていた。
芸者は途中で下ろしてしまった。
「悪かったな」
と小遣いを握らせてやると、
「どうもお役に立てませんで、あいすみません」
とあねさん株のひとりが頭をさげた。
「おつれさん、普段はああじゃないんでしょう。何があったか存じませんが、早くお元気になられるとよござんすね」
「本当になあ」
伊藤は自分のあごをなでながら苦笑した。
「なんでああなったものか、俺にもわからんのよ」
また召んでくださいまし、とふたたび手をついた妓のうなじの白さを、伊藤は思い返していた。
(いい女だったなあ)
辰巳芸者は芸しか売らぬと聞くが、念入りに口説いていけばふと転ばぬものでもあるまい。
(もう少し話をしておくのだった)
井上がこんな調子でさえなければ、今日のうちにもう少し近づきになったものを、と、目の前の男の陰気さ加減が、何だか憎らしくなった。
「めずらしく手も握らなかったじゃないか。あんまり好みじゃなかったか」
多少嫌味のつもりで言ってやると、
「そうでもない」
と意外な返事をした。
「そうでもないが……今はどうも、食指が動かん」
(お)
伊藤はちら、と井上の表情をさぐった。
(こいつ、話す気になったな)
そこでわざと陽気に、
「維新の鴻業にいよいよ光あらしめんため、臣馨みずから品行を慎むわけか。そいつは天晴れだ」
扇子を出してあおいでやる。井上はべつに怒りもせず、ただぷいとそっぽをむいた。そして、
「お前、新橋の芳野を知ってるか」
ぽつりと言った。
「芳野?」
芳野というのは、あれか、と、井上の手から銚子をとりあげて、自分の盃に注ぐ。そういえばそんな妓がいた。丸顔で、目許に愛嬌のある――そう、小首を傾げて話す仕草が愛らしく、井上もひどく気に入っていた――
「たしか浜本屋の抱えだったか」
「ああ」
「その、芳野がどうしたんだ」
「芳野は……」
井上は盃を膝の上で支え、飲むでもなくくるくると回して、酒にたつ小波をながめている。夢寐のうちにあるような口調で、
「あれは、いい女だったろう?」
「え? ああ……」
伊藤はすこし鼻白んで、
「そう、だな」
と曖昧に頷いた。それを見て井上が、ふん、と力無く笑った。
「あれァお前、上玉さ。とびきりの別嬪というんじゃないが、お前あいつの手を見たか。繊い指をしてやがるくせに、掌はむっちりと肉がのっている。ぶ厚い衣裳の上からだって、腰のやわらかさは隠しようがなかった。あれはたまらない体だぜ」
「そう……だったか?」
伊藤はそこまで覚えていない。ひとのことはいえないが、井上の好色さにあきれる思いがした。
「まあお前みたいに女は穴があいてりゃいい、てな奴にはわからんさ」
「失礼な奴だな」
伊藤は苦笑して、
「ともかく、まァなんだ、お前は芳野に惚れたわけか」
そんなことでくよくよするなよ、とっととやっちまえ、と思ったが、今日ばかりは口に出さなかった。しかし井上は井上でそれを察したのか、
「俺だってな、とっととこましちまうつもりだったんだよ」
と頬をふくらませた。
「だからって相手は女郎じゃない、一応は芸が仕事の芸者さ。それに浜本屋の女将というのはなかなかしっかりした女で、色で客をとるのを許さないんだな。旦那をもつにも、女将が諾(うん)といわなきゃならない。で、これがめったに諾とはいわない。俺も随分頼んだがだめさ。当の芳野が渋ってやがるんだ。なんでもあれァ、固いというので評判なんだとさ。もっとも力ずくでどうにかできないことはないが、そいつはさすがに男がすたるだろう」
「そりゃそうだ」
伊藤も拒む女をなだめすかして床にもつれこんだことはあるが、無理に犯したことはない。男女の事というのは喋々喃々のやりとりがあってはじめて面白いので、膂力にものをいわせて押さえ込んだのでは何の愉しみもない。伊藤は相手はあまり選ばないが、ことを遂げるにあたっては彼なりの哲学めいたものがあった。
井上も、どうやらそうであるらしい。
「それでな、」
と、いまいましそうに彼はつづけた。
「まずは馴染みになってからだと思って、三日にあげず通ったんだよ。あれは、芸事も一通りできた。特に三味線がよかったな。端唄をひくく唄わせて、俺は月でも見ながら寝転がっているのさ。芳野は、肌はゆるさないというだけで何も無愛想じゃないからな。他愛ない話も面白そうに聞くし、ころころよく笑う女だったよ」
「なんだか悪くない話じゃないか」
そう言ったのはべつに慰めではなかった。
「それは、じき陥とせるところまできてるんじゃないか」
自分の少なくはない経験からもそう思う。今あきらめることはない。が、井上は眉を曇らせた。
「ところが、かっ攫われた」
「あ?」
「まったくしてやられたよ」
ぐい、と盃を仰ぐ。
「ああ……」
よくわからないながら、その間の事情を想像して相槌をうってやる。
「いい旦那でもあらわれたのか?」
義理にうるさい世界である。当人の気に染まなくとも、たとえば置屋が恩をこうむっている相手だったり、今後うしろ盾になってくれそうなお大尽がぜひにと言ってくれば、断れず旦那持ちになることはままある話だ。
が、井上はだまって首を振った。
「じゃあ何だって……誰にさらわれたんだ」
「俺はさ、」
言いかけてこちらにぐいと盃を差し出す。伊藤はなみなみと注いでやった。
「俺は、近頃よほど熱を上げていたからな。お前はあちこち飛び回ってて知らなかったろうが、役所の若い奴なんかはちゃんとご存じだったんだよ。それで、俺が役所に出てない、家にもいないときは、まあたいてい新橋だろうと、そういうことになってたんだな」
「ああ、なるほどな」
弾正台あたりがまたぞろ煩いことを言いそうだが、なにも醜聞になるような話ではなく、とりたてて不名誉でもない。が、このあたりから井上の表情はいっそう苦しげになった。さほど飲んでもいないのに額は青ざめ、脂汗が浮いている。
「半月くらい前か。木戸さんが、俺に用があったらしいんだな」
「うん」
「その日は一日か六日か、とにかく休みで、木戸さんはまず家に来たんだが、俺は留守にしていた」
――ちょうど青葉がいい頃でな、花ばかりが向島じゃあるまいと洒落て、若い連中を誘って遊んでたんだ。井上の口のはしに、皮肉な笑みがうかんでいた。
「だが取次ぎに出た書生が間抜けな奴で、それをちゃんと木戸さんにいわなかったんだな。どこへ出かけたのだかよく知らんと言ったらしい。で、木戸さんは、ははあと思った。先生、俺の新橋通いをどこかで聞きつけたんだな。新橋へ行けば会えるかと、そう思ったらしい」
「はあ」
伊藤はぼんやりした顔を井上にむけながら、その皮の下ですばしっこく考えをめぐらせている。彼にはなんとなく井上の話の終着点が見えたようでもあり、しかし一方でまさかそれは、という思いもある。
「いつもの待合に木戸さんは俺を訪ねて行ったが、俺はいなかった。それで、俺の家へ手紙を持たせたんだそうだ。ここで待っているからと言ってやらせて、座敷へ上がった。どうせじき来るものだと思ったらしい。手酌でやるからと酒だけ頼んだが、茶屋では気をきかせやがった。井上さんのお知り合いならってんで、芳野を呼んだんだ。こんなときにかぎって、あいつはめずらしくお茶をひいてやがった。置屋でも俺の知合いならと喜んで出したんだな」
「うん……」
「まあ、そういうことだ」
「えっ」
「そういうことだよ! これ以上いわせるな」
「いやいやいや」
なんだそれは、わからないだろうそれじゃ、と伊藤はにじり寄った。実際のところはほぼわかってしまったのだったが、それでも今の説明ではしっくり来ない。それ以上に、井上には悪いが、話としてまだ面白くない。が、井上はほとんど癇癪をおこして、
「だから! できたんだよ!」
と怒鳴り散らした。
「できたって……木戸さんと芳野がか?」
「ほかに誰がいる。まさか木戸さんと箱屋の男衆ができるわけねぇだろが」
「俺に当たるなよ……」
いやしかしそれは、うん、と伊藤は意味のないことをつぶやいて、腕組みした。
「木戸さんと芳野は顔見知りだったのか」
「ああ……まあ」
と井上は歯切れのわるい返事をした。
「木戸さんと広沢さんと大村先生……ほかにも誰か言ってたっけな、まあとにかくそういう宴席で、呼んだ芸者のなかに芳野がいたことがあった……らしい」
「らしい、とは?」
「木戸さんは覚えてないんだと」
「それじゃ……」
「女が一方的に惚れてやがったんだな」
「ああ……」
さすが、と思わず歎声を洩らしそうになった。自分も木戸の下で働いていた頃、ひとりで登楼すると「今日は桂さんは?」とがっかりされたことが一度ならずあった。木戸も決して金仏ではないから、袖を引かれればめったに否とはいわなかったが、しかしそれでも人がこれから口説き落とそうという女を、横からかすめたりはしなかったが。
伊藤がそれをいうと、
「木戸さんも、それを気にしたらしいよ」
井上は深く溜息をついた。
「なんだかしなだれかかってきたから……」
と、木戸はことが露顕してのち、井上にそう言い訳したという。
「あいつの馴染みだと聞いたが……」
木戸が芳野に尋ねると、芳野は首を横に振った。
「井上さんはよく呼んではくださいますけど、それは、私の三味線がいいとおっしゃるんで、それだけなんです。色っぽいことは何にもありません。井上さんがご贔屓にしてらっしゃるのは私の姉さんにあたる人で、私なんかは」
芳野の顔を覚えていなかった木戸は、芳野が堅くて有名だということも、芳野を抱えている女将が色事を御法度にしているのも知らなかった。近頃東京の芸者の風がとみにくずれて、不見転が増えた。どうやら芳野もその類かと思ったらしい。いたって悪くない女であったから、そのまま抱いてしまったという。
「何にも知らない俺が、夜更けに帰ってきて、次の日木戸さんに昨日はどうも相すみませんと挨拶したと思いねえ」
井上はあやしげな江戸言葉で言った。
「木戸さんは何ともいえないいい顔で笑って、『ゆうべはお前のおかげでいい思いをした』っていうんだ。こっちは何のことだかわからねえ。曖昧に頷いてると、『ところで、芳野の姉さん株は何ていう妓なんだ』なんていう。そんな女俺は知らないから、そう言ったら、先生変な顔をしていなさる。だんだん聞いていくと、哀れ俺は恋しい女を寝取られて、とんだ間抜けの与太郎だったわけさ」
「それは……」
なかなかこたえるな、と伊藤は呻いた。わざとかすめとったならまだしも、木戸がまるで自覚していなかったところが、取られた側としては辛かろう。それも、堅くて評判の女のほうが嘘をついてまで誘ったというのだから、よほど惚れていたことになる。差向いになるのは初めてという席で、いきなりめでたい仲になってしまった。さんざん通いつめた井上こそいい面の皮だろう。
「騙されたといえば向こうも騙されたわけだし、相手が木戸さんじゃ殴るわけにもいかねえ」
「返り討ちだろうなあ……」
気の毒に、とつぶやいて、それからふと、
「しかし、女はどうしたね」
と訊いた。
「ああ、女……」
井上はいよいよ毛虫でも喰わされたような表情になった。
「じきに俺のところへ、知った幇間の名前で文が来た。なんだかご招待しますってんで料理屋へ呼び出されたから行ってみると、芳野がいた。一瞬そうとわからなかったのは、髪も衣裳もすっかり素人にこしらえてたからな」
井上を床柱の前に座らせ、遠く下がって芳野は、深々と手をついた。
「これまでの御厚情、まことにもったいなく、ありがたく思っております」
脇には、置屋の女将が控えている。これも今日呼ばれたらしい。井上以上に何のことやらわからぬらしく、目を白黒させている。
「私のような芸者風情が、立派な官員様をはずかしめましたこと、まことに申し訳もございません」
「…………」
「井上様のお顔に泥を塗り、木戸様にもきまりの悪い思いをさせてしまいました。もはやお手討ちになってもと思いますが、当節そうもしてくださいますまい」
「あ、あたりまえだ」
「浜本屋の看板にも傷をつけました。おかあさんには可愛がっていただいたのに、ご恩を仇で返すような仕儀となりまして」
「芳野、芳野おまえどうして」
女将はおろおろして泣いてばかりいる。ときどき井上にむかってひどく恐縮したようすで頭を下げる。
「私は今日かぎり、お座敷をさがります。せめてそれが、けじめでございます」
「やめて、どうするんだ」
井上は、やっとそれだけ言った。芳野がさびしげな顔で微笑む。化粧を落としても、美しい顔だった。
「遠くへ参ります」
「遠くへ行って――」
どうするんだ、とふたたび問いかさねようとして、飲み込んだ。油もろくにつけず、鬢の毛のほつれかかった芳野の顔がなぜか、照りかがやいて見えた。
――悔いては、いないのか。
片頬で、苦く笑った。ほかにどうしようもなかった。
「木戸さんへは――」
その名前を出したときだけ、わずかに芳野の眸がうるんだ。
「ご挨拶せずにまいります。最後にわがままをおききくださいますものなら、どうぞ何もいわずにいていただけないでしょうか。芳野は男狂いの枕芸者だったと、そういうことにしておいてくださいませ」
「芳野、おまえは……」
女将が口を手で覆って泣き崩れた。責めるのではない、この可憐な女の心をしんからかなしむ涙だった。
「おかあさん、ごめんなさい」
芳野もたまらず駆けより、二人は抱き合って涙した。
「あとのことは、俺は知らねえ」
井上は伊藤から銚子をひったくると、じかに口をつけ、ひといきに飲んでしまった。芸者と遣り手婆の愁嘆場なんざ見ててもしょうがねえからな。とっとと引き上げて、それっきりだよ。
「それはお前……」
伊藤は半ば茫然としている。
「近頃めずらしい直な芸者じゃないか」
「いい女に惚れた、ってか? 馬鹿馬鹿しいや」
木戸さんには何もいうなって、なんで俺が木戸さんに気を遣わなけりゃならねえんだよ。だいたい向こうだって、今さら口を噤んだところでもう八分どおり知ってらあね。
ああ、もう、と吐き棄てるように言って、井上は両脚を投げ出した。
「くっそ……犯してやりてぇなあ……」
「またお前は」
正直なところここまで虚仮にされた男の話を、伊藤はちかごろ聞いたことがない。女が浮気だったならまだしも、これではまるきり井上が道化役である。
どうにも慰めようがなく、彼の不穏な言葉にも、ただ苦笑するほかなかった。
「犯すったってお前、芳野は遠くへ行ったんだろう」
行き先だって知らないんじゃないのか。明るくからかうように言うと、
「芳野じゃねえよ」
井上は低く呻った。
「芳野のことはいいんだよ。あれはいい女だったが、なにもこの世にあいつだけが女じゃねえだろ。あいつにふられて、それで今日までうじうじ嘆いてる俺だと、お前俺をそう思ってか」
(ちがうのかよ……)
めんどくせえな。長いんだよ前置きが。
伊藤はがっくりと首を垂れて歎息した。
「じゃあ何。どうしたんだよ」
「いや、なんだかこうムラムラしてな。無性に犯してやりたくなったのよ」
「だから誰を」
「馬鹿かお前は。俺の話聞いてたか? 芳野と木戸さんとババアしか出てきてねえだろうが。芳野じゃなかったら、もう木戸さんかババアしかいねえだろうがよ!」
「バッ……!?」
ババアを犯りたいのかお前は、と言おうとしたが声にならない。口をぱくぱくさせているところに井上がおっかぶせて言う。
「あのババアなんざお前、猪を百叩きにしたようなご面相してやがるからな。あんなのどうかするぐらいなら、本物の猪を抱いたほうがまだしもだ」
「えっ? ……あ!? え?」
声が裏返った。さすがに思考が追いつかない。ババアじゃなかったら、ババアじゃなかったら……――――
「男と女はつまり縁だ。だから芳野が俺に靡かなかったのは仕方ないが、それでもあんまりことが唐突で、俺は悔しかったからな、」
ゆっくりと、いやに静かな口調で井上が言う。
「悪かった、知らなかったこととはいえそれは本当に悪かった、と、拝むようにして詫びる木戸さんにだな、『よかったですか?』と訊いてやったわけよ。謝らなくていいから、それだけ聞かせてほしいってな」
「あ、ああ……」
伊藤は泣き出しそうな声をだした。できればこの場から逃げてしまいたい。
「木戸さんは一瞬きょとんとしたが、『いやそれはまあ……』とかなんとか言って、口の横を掻いてたよ。俺に悪いと思って、できるだけ神妙な顔をつくってたな。どうなんです、よかったんですか、って責め立ててやったら、とうとう『うん』と言った。『うん』て、ひと言だけな。俺の顔色を気にして、落ち着かない目をして、本当に――」
にいっと井上は頬をゆがませた。酔いのせいだけではなく、目が据わって、ぬらりと光っている。
「本当に、助平な顔をしやがんのな」
(おかしいよお前……)
いつもなら、思ったことは屈託なく口にするのだったが、伊藤はこのときばかりはそれが言えなかった。はじめて井上が、得体のしれないものに思えた。
(木戸さんを犯すって)
「聞多、あのな、」
できるだけにこやかにして、伊藤は井上の脇へ寄った。
「木戸さんはその、男じゃないか」
「どっからどう見ても男だろ」
「そうだな。だから、男な、男にしても、こうもう少し、女みたようなのもいるじゃないか」
「それがどうした」
「いや……」
開き直られると、それ以上押し詰めるわけにもいかない。陰間にするには木戸は大柄すぎるが、それでいいのだといわれれば、返す言葉がないではないか。
「仕返しするなら、ほかに方法もあるんじゃないか」
切口を変えてみたが、
「仕返しとかそういうんじゃねえよ。芳野のことはただのきっかけだ。第一憎い悔しいでおっ勃つかお前」
「いや……」
「俺も何が何だかよくわからないんだけどよ、とにかくムラムラするわけだから、いっぺんやってみりゃ、まあ何だかわかるんじゃねえか」
そうだな、そうすりゃいいんだ、それがいいや。井上はひとりで勝手に納得して、だんだん上機嫌になっている。こうなるとさっきまでの悄気ていた姿は嘘のように、彼の全身がぎらぎらと獣の眼光に似た空気を放つ。
「そんな乱暴な……」
伊藤の声は尻すぼみになった。ことが無茶苦茶すぎて、いっそもうどうでもよくなってきていた。
「とにかく、無理矢理犯すのはよくないだろ」
それだけは、ようやっと言うことができた。
「いい悪い以前に、まあ無理だよな」
返り討ちだわな、と井上が笑う。何がおかしいのかさっぱりわからない。
「まああれよ、何だって木戸さん相手におっ勃たなきゃいけないんだってんで、このところ気が滅入ってたんだけどな、お前に話したらすっきりしたわ」
「そうか……」
「犯しゃしねえよ。じっくり口説くわ」
「そうか……」
「木戸さんに言うなよ」
「いわないよ……」
「芳野のことはもう少し俺が根に持ってることにしないとな。何せ後ろ暗いところがあると、あの人すげえいい顔するんだよ。ああ、まずいな、すぐにでもぶち込んでやりてえ」
「捕まるなよ……」
もう帰りたい。
あらぬ想像が次から次へと脳裡をかけめぐって、伊藤は死にたくなった。
酔った井上の舌は止まらない。舟は河口まで達してしまうかと思われた。
(もういっそ海に出てしまえ。それでどこへなりと流されてしまえ)
深更、やっとのことで解放されて自宅に戻った伊藤は、玄関に迎えに出た妻の姿を見ると、おもわずその膝にとりすがって顔を埋めた。
「何ですよ、玄関先で」
妻に手をつねられながら、
「俺は女がいい。天地がひっくり返っても女がいい」
すすり泣くように繰り返した。
[34回]
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