子供の頃、地獄の亡者のはなしを母に聞かされた。
医家のつねとして出入りの多い家で、その応対に若い時分からよく馴れていた母は、物語をするのにも巧みで、あのときの地獄の話も、今思い出してもちょっといやな気がするほど、一語一語が生々しく、凄味を帯びていた。
腸を割かれ、牛馬に牽かれ、釜で煮られる。そういう惨刑の一々がおそろしいのはもちろんだが、何より自分を恐怖させたのは、母が語る亡者たちの表情だった。
生前悪徳を積んだかれらは、しかしそのことといま自分に加えられている刑との関係はわからぬものらしく、鬼が吼えればただもうその声に怯え、痛ければ泣き、二六時中獣のようにひくく呻りながら、涎と大小便を垂れ流している。悪業の報いか、恐怖のあまり神気がやぶられたものか、かれらはもうまったく痴呆化してしまって、いったいこれが人であるのかどうか、姿ばかりは人だけれども、とうてい誰かと話をしたり、ものを語ったり、およそ此岸の我々が想像しうるような「人」のありようを喪っている。
母は顔をこわばらせてこれを幼い自分に語った。
最後の「人のありよう」のくだりなど、子供にはむつかしい事柄へ話がわたるものだと、今思い返してみてそう感じるが、しかし母は言葉はあくまで平易に、亡者たちの単に虐待の痛苦だけではない悲惨さを、子供にもわかるように語りきかせた。
「こわい」
と、そのとき自分は堪えきれずにとうとう耳を覆った。
「こわい、怕いです」
いやいやとかぶりをふると、
「そうでしょう」
笑いもせずに母は言った。
「この母もおそろしい」
「はい」
「それに、悲しい」
袂に顔をうずめた。あれは芝居であっただろう。が、おさない自分は手もなくだまされた。
「なぜ。なぜ悲しまれるのです」
愕いて母の肩をゆすった。
母は袂から半分だけ顔をあげて、
「母は小五郎が可愛くてなりませぬ」
と声をふるわせた。
「けれどおまえのようないたずら者、いずれおとなになっては、どんな無法者になるかしれませぬ。そうすればおまえは地獄へやられましょう。きっとやられます。私は、可愛いおまえがそんなところへ行ってしまうのを、今から思うにつけても」
うううう、と母が顔を覆ってしまったので、自分も泣き出した。泣きながら膝にとりすがり、やがてとびさがって畳に額をすりつけた。
「おゆるしください。小五郎は誓ってもういたずらはいたしませぬ」
もっとも、その誓いはそれからほどなくやぶられて、稚児髷をとくころまで、自分は毎日さかんにいたずらをしていたのだが。阿武川の水中にひそんで、往来する船をひっくり返してまわるのがとくにお好みだったが、ある日とうとう怒った船頭に櫂で額を張られたのは、あれは「地獄がたり事件」の前であったか、あとであったか。
(われながら可愛らしいものだったな)
異郷の宿で、眠れぬまま寝台に腰掛けて、木戸はそんなことを思った。その追懐じたいはどこやら諧謔の気味がないでもなかったが、しかし思い出からさめてみると、さっきまでこの寝台のうえでめぐらしていた彼の思慮はいかにも深刻で、血の池地獄の血がかたまった中にいるように、ねっとりと暗く息苦しく、出口がなかった。
その彼が自分の少年の頃を思い返して可愛らしい、と思ったのは、すなおに母の話におびえたことではない。
(船頭には気の毒したが、所詮船をどうこうするなど)
可愛いものだったではないか、と思うのである。母も父も亡くなって、おとなになった彼は、藩も幕府もひっくり返すというとほうもないいたずらを、その悪なかまとともに仕遂げてしまった。泉下の母はおどろいているにちがいな い。
もっとも、そのいたずらが悪行だとは思わない。しかし後の始末如何によっては悪行以上の恐るべき大姦悪になりかねない。そのことを、自分はおそれている。
母の語ってくれた、地獄の亡者の顔。汚れた顔を虚空にむけ、だらりと舌を出して、時折痛みに泣きながら、しかし全体としてはひどく無抵抗に、何をする気力もなく、ただ泥のような境涯に漂っている。空想のなかのその表情に、かさなる面影があった。
(あんな顔があるのか)
彼はそれを思い出して、思わず両手に自分の肩を抱いた。
あの、虚ろな眼。涎とともに口から洩れる呻きの、まるで意味をなさない、しかし世を呪うかのような禍々しい響き――。
(話がちがう)
と、木戸は幼童にもどって、母の膝にむしゃぶりつきたい衝動にかられた。母上、ここへ来るまでにずいぶん有為の士をうしないました。私がいたらぬばかりにずいぶん死なせたのです。死なせたわりに、死んだかれらの願った半分も、今の世にかなえてやれていないのです。私はすっかり悪人になりました。けれど、悪業の罰をうけるのは当の悪人ではなかったのですか。それとも、洋夷の国ではそうではないのですか。
(ばかばかしい――)
木戸は頭を抱え、彼の妄想のなかの亡者が洩らす呻きにじっと堪えた。彼の体は彼の思念とともにくろぐろと凝固して、異国の夜のなかに一点、つめたい染みをつくっていた。
石造りの西洋館の廊下は、ひどくつめたい。靴の裏からしみとおるようなそのつめたさが、
(これは、愚行だ)
と彼に教えていた。
晩秋の夜は深く垂れこめて、静寂が痛いばかりである。およそ人を訪ねる時間ではない。ましてこんな時間にわざわざ膝つきあわせて語らねばならぬほど、親しい相手ではないではないか。
(寒いな)
冴えた月の差す窓を見上げて、木戸は、寝巻から再び平服に替えてきた腕をさすった。あの男と何か語らおうというとき、いつも自分は寒いような気がする。
(寒いのは、苦手だな)
だったら行かなければいいのだが、そのくせ木戸は、いま自分の抱えている難問を理解できるのは――おそらくそれは答えのでない問いなのだが、ともあれ難問の難問であることをほんとうに理解できるのは――あの男しかないのだと、内臓をきりもみされるほどの烈しさで感じていた。けれどそのことが作用として照り出す感情はあくまでも沈鬱で、どろりと濁っており、このときの彼の足取りもまた、それに応じて重かった。
が、とうとう彼は大久保の部屋の前まで来てしまった。
木戸は、かるく指の節をあてる程度のノックをした。ここまで来て、まだためらいがある。寝入っていてほしいような気もした。
「起きておいでですか」
小声で問いかけると、中でなにほどかの気配があり、やがてドアが開けられた。
「起きております」
お入りください、と言った大久保は、外套と帽子をとったほかは、今夜木戸が見た服装のままでいた。彼もまた眠られずに考えていたのだろう。おそらく、自分とおなじことを。
大久保は寝台のうえでぶらぶらしていた木戸とはちがって、さすがに彼らしく端正に、椅子に掛けていたらしい。数脚の椅子を据えたテーブルセットの、ひとつの椅子がわずかにテーブルから引かれて、人が座っていたらしいあとがあった。テーブルの上に、飲みかけの茶が置かれていた。国から持ち込んだのだろう、西洋湯飲からたつ香りは、日本茶のそれである。
暖炉があかあかと燃えている。その火がよくあたる席を、大久保は木戸に示した。それから、
「私は、西洋茶は不調法で」
と大久保なりの口上らしいのを述べて、木戸にも日本茶をいれてくれようとしたが、木戸は丁寧にそれを辞し、
「このような時間に」
と、まずそのことを詫びた。
「いいえ、起きておりましたから」
大久保は簡潔に答える。ひょっとしたら木戸の来訪を予期していたのかもしれないが、そういう余計なことは、いつもこの男は口にしない。
「ロンドンの秋は、寒いですね」
話の接ぎ穂のつもりでそう言うと、大久保が暖炉の火を気にしたので、そうじゃないんです、と木戸は首を振った。可笑しくもあり、多少うんざりした。
「どう、ご覧になりました」
大久保には前置きは無用のことかと思い、おもいきってそう訊いてみた。言いながら、彼の記憶の地獄絵図がちかちかと明滅した。
何を、とはいわなかったが、大久保はすぐに察したらしい。言葉をさがすように、かすかに唇をうごかした。が、やがてあきらめたように窪んだ眼を伏せ、だまって首を横に振った。
木戸も、しばらく無言でいた。
暖炉の火がはじける音がする。その火のゆらめくごとに、室内の調度の影が動いた。同時に木戸と大久保の影も、伸び縮みし、互いに揺れた。
ふいに、
「たしかに、ご覧になりましたか」
ぼそりと大久保がつぶやいた。
「え?」
「今日のあの光景は、たしかに」
木戸はすこし鼻白んで、はい、とだけ答えた。
「私は、自分が魔魅にでも誑かされて見た夢なら良いと。心弱くも、そう思いました」
低い声で大久保は言った。魔魅がどうこうなどとこの男が口にするのを、木戸ははじめて聞いた。それより以前に、こうした泣き言めいたことを大久保が言うなど、かつてなかった。あまりにも静かに落ち着いているのでうかと聞いているとわからないが、それは悲鳴のように、木戸には聞こえた。というよりも、木戸自身がこの場で、悲鳴をあげてしまいたかった。それをようやく押さえ込んで、
「夢、ですか」
とだけ、言った。いかにもつまらぬ応答ではあったが、しかしそこに籠めた万感を、こめてなおこめきらず、滾りおちるほどの苦悩を、大久保ならばわかるにちがいないと思った。
(夢……)
ふたたびおとずれた沈黙の間、木戸の思考は無意識にそこを反芻した。そうしてぽつりと、
「夢、と、いうのなら……」
自分でその言葉の意味を辿るように、ゆるゆると音を紡いだ。
「私は五年の間、殆い夢を見ているのかもしれません」
(そう、夢)
どちらかが夢なのかもしれない。
そうでなければ、自分がこの五年――否、自分たちが、泉下の同志が二十年来追いつづけてきたものと、今日見たものとが、いったい同じ地平に存在しうるであろうか?
夕食後、大久保とともにホテルを出たときは、木戸はよもやあんなものを見ようとは思わなかった。
最初の行先はごく尋常であった。
幕末に薩摩の留学生として国を発って以来、西洋暮らしの長い杉浦弘蔵と、通訳のアレクサンダーに案内されて、かれらは警察本署を見学したのである。警察事務や罪人の取扱いについて二、三はなしを聞いた。そこに、連中はいた。ちょうど今夜逮捕されたという街のごろつきのようなのが数人、縛られていたのである。
(これは)
と、木戸は眉をひそめた。
幕末の頃も維新のあとも、木戸は歴とした捕吏はむろんのこと、思想も節義もあったものではないごろつき同然の暴徒に、白刃をもって追い回された経験がある。長州が京で大潰乱をおこしたのち、彼の潜伏活動の時期には、博徒とかかわったこともあるし、汚い菰をかぶって乞食の仲間にも入った。どの連中もいわば社会の規格外で、それなりに狂気や頽廃の気味を宿していたが、しかしそれらのどの表情とも、この異郷の罪人どもの顔はちがっていた。
(なんという眼をしている)
瞳の色がちがうせいばかりではあるまい。かれらの眼つきは、たしかに異様であった。眼球そのものがぶよぶよと、日ざかりに放置した魚の腹のような澱んだ光を放ち、瞳はこの世の涯てに散じきってしまって、もはや何ものも映していないようであった。
饐えたものが、喉奥からこみあげてきた。木戸は今まで感じたことのない種類の嫌悪感を、かれらによって刺激されていた。
「この連中は」
と、彼はその嫌悪感をどうにか嚥みくだして、杉浦にきいてみた。
一体何の罪を犯して捕らえられたのか、と。
杉浦は、アレクサンダーの手を借りなくともその程度の会話は自在にできたから、今まで署内を案内してくれた警察官に、なにか短く問いかけた。そうして相手の答えるのを聞くと、その答が予想どおりのものであったらしい顔で頷き、小さく唸ってから、木戸に説明してくれた。
「皆、阿片と賭博、あとは私娼の斡旋だそうです。さらに加えて詐欺と盗みを働いたのもいると言っています」
「ずいぶんな荒みようじゃないか。この連中個人のことはともかく、英都ロンドンにそんな犯罪がおこなわれるのかね」
「ええ」
杉浦は木戸の鬱懐を察したらしく、沈痛な面持ちで頷いた。人懐こい顔をした警察官が、木戸が何を言ったか聞きたがって杉浦をつついたが、彼は曖昧に笑って首を振った。
大久保は、終始無言であった。
警察署を出たところで、杉浦が言った。
「ああいう手合いは、尠なくないのです」と。
イーストエンドに貧民窟があります、そこにはあれとおなじような連中が群れていて、この街のありとある犯罪と醜悪、ときには病疫の温床になっています。
聞いただけで、木戸の胃から喉へ、ふたたびにがい液体がかけ上った。彼は返事をするかわりにシルクハットのつばをぐいと引き下げ、重い溜息をついた。
そのとき、大久保がはじめて口をひらいたのである。
「それは、行って見ねばなりませんな」
低い、しかし厳然とした口調だった。
それからのことは、一行の誰一人、愉快に感じた者はなかったであろう。また誰を連れてきても、愉快どころか、よくこれを直視しうる者は稀であろう。
杉浦たちはまず、貧民の集う安宿やダンスホールを案内した。それらも決して清潔ではなく、酒に酔った男女が笑い戯れるダンスの様子は、一行の眉を顰めさせるに充分だったが、そこには本朝でいう博徒や雲助の類は容易に見出せても、警察署で見たあのぞっとするような眼のいろの人間はいなかった。
それを見つけたのは――というよりもそういう連中の淵叢のようになっていたのは――一本の細い路地だった。
「これより先は」
と、杉浦は言った。
「魔の棲まうところです。あるいは妙な挙動に出る者があるやもしれません」
つまり、身の安全は保証できないということだろう。木戸も大久保も、なにもいわずに路地の奥を眺めていた。暗くてよく見えないが、一歩路地の前に立ったときからむっと漂う臭気でも、この界隈の甚だしいいかがわしさが察せられる。アレクサンダーは一歩退いたところで首だけ突きだしたまま、見るからに不安げな、いやな顔をしている。杉浦が二言、三言声を掛けると、身震いするように激しく首を横に振って、こちらへ歩み寄ってきた。おそらく杉浦は待っていろと言ったのだろうが、アレクサンダーにしてみればこんなところにひとり置いてゆかれるほうが恐ろしいと思ったのだろう。
木戸は、襲撃されることはべつに恐ろしくはない。彼自身が並の遣い手ではないのに応じて、今まで彼をつけ狙った連中は、どれも刺客として二流以下ではなかった。今の場合、のこりの三人の分も防いでやらねばならないことを考えるといささか骨が折れるが、どうやらそういうすすどい狙撃手のいるような場所では、ここはなさそうであった。
それよりも、
(ああ、あれがいる)
と、木戸は冷や汗をもよおすような、いやな動悸をおぼえた。
「あれ」とは何なのか、彼自身のなかにもしかとはその輪郭がさだまらない。が、「あれ」の言いようもないいやらしさは徐々に実体を得て、彼の背筋を濡れた手で撫でるように感じられた。
「あれ」に遇いたくはない。けれども、やはりこの路地の奥へ、自分は踏み入らねばなるまい。
街も出会う人の精神も重厚で、いかにも文明の精華といった観の英国の、見上げるような富強のその一隅に、ふつふつと汚泥を吐きつづける淵がある。その淵をこの目でたしかめてみなければ、文明のなかにそれを呪うように湧き出た闇を見て帰らねば、海濤万浬を蹴って西欧へ渡った意味がないであろう。ないどころか、それは天子への背命であり、国家と人民に対する背任である。
(さすがに、大久保はそれを心得ている)
木戸にとって、渡欧以来腹に据えかねることの多い大久保ではある。しかし貧民窟ときいてそれを見ようと真っ先に言い出した彼を、やはり木戸は評価せざるをえなかった。
「行こう」
ひとりごとのように言って、木戸は歩きだした。万が一のときは体を張ろうというつもりだろう、杉浦があわてて先頭に立とうとしたが、手でそれを制した。その木戸と杉浦の間に、大久保が無言で割り込んだ。アレクサンダーは一番うしろから、首をちぢこめるような格好でついてくる。
道は、ひときわ暗い。
暗いが、その両側に無茶苦茶に板材を突っ込んだような、見るからにみすぼらしい陋屋群の破れた壁や戸の間、あるいは路上には、一帯の狭さに不似合いなほどの人間がひしめいていて、その黄色く爛れた眼球が、闇のなかにびらびらと光っていた。
(なんだこれは)
眼が馴れてくるにしたがって、木戸はおもわず叫びだしたくなり、しかし当然ながらそれは抑えて、つとめて平静に、あたりを観察した。
露天に脚の傾いた台を出した男が二人、骨牌のような遊びをしている。金を賭けているらしい。垢じみた服を着て、そばを通ると、酒と皮脂の入りまじった臭気が目に痛いほどであった。道端に座り込んで、呆然と宙を見上げている者もある。ぶつぶつと独り言を洩らし、ときどき何かに怒ったように吼え立てたりする。
と、一軒の家から男が一人、ふらふらと一行の前へ走り出た。風貌、衣服から察するに、支那人であるらしい。手真似で金をくれと言う。杉浦が追い払おうとしたが、木戸は黙って財布を出し、幾ばくかの金をあたえた。ひひっ、と、男は下卑た笑みを浮かべて、金を懐におさめた。
「やることはないんですよ」
杉浦は不服そうであった。こういう連中は小狡くて、旅行者は懐がゆるいと睨んでるんです、つけあがらせることはありませんよ。
「いや、いいんだ」
木戸は言って、この男と話ができないか、と杉浦に頼んだ。
杉浦はいやな顔をしていたが、とりあえず英語で男に話しかけてみてくれた。と、男は割合流暢に(と木戸には聞こえた)それに答えた。
「二十一年」
と、男は言ったという。
二十一年、この国にいる。父親は英国商人相手の貿易で財をなし、その貿易には阿片も含まれていたが、例の阿片戦争後商売は潰れ、一家は離散した。男は子供の頃から英国人の走り使いのような仕事をして糊口をしのいだ。青年になり、一旗上げるつもりで、主人に頼み込んで英国に来た。金を借りて商売をはじめたがやることなすことことごとく外れ、とうとう貧民窟まで堕ちてきたという。
「一度つまずくとあとは早かった。今じゃ祖国の貧農のほうがまだいい暮らしをしている」
男はそこまで話すと、急に高い声をあげて笑った。悲鳴のようであった。
杉浦も大久保も、皆だまりこくっていた。男は、異邦人たちの陰惨な表情をあざわらうかのように、ふんと鼻を鳴らし、路傍に腰をおろすと、懐から煙管をだして、さかんに煙をあげはじめた。そのにおいが、煙草のそれとはちがっている。
「阿片です」
杉浦は言った。その煙が体内をめぐるのがよほどいいのか、男は陶然として感歎の声をあげている。木戸はもう男を見ている気もしなくなり、その奥の小屋――男が出てきた家である――のほうへ目をそらした。と、頬のこけた支那人の女が、不安げにこちらを覗いている。
「お内儀かね」
女房があったか。すると夫婦の食い扶持くらいはどうにか稼いでいるものかと思い、木戸は杉浦に尋ねさせた。
「――ああ」
杉浦はさすがにもっと鄭重な言葉に訳したが、男の様子から、そのすさみきった口調は木戸にもわかった。
「あれはなかなかいい女房でね、ときどきあいつにも客をとらせるんだ。困ったことによく孕みやがる女で、いろいろ毛色のちがうガキを産むが、そいつを買い上げに来る奴がちゃあんといるからね。これでけっこう、金になるのさ」
そこまで聞いて、木戸は思わず襟元に手をやり、カラーをゆるめた。冷える夜だというのに、首筋は汗で湿っていた。吐き気がとまらない。
そのあとも、およそこの世に見出しうるかぎりの醜悪を、木戸ら一行は見せつけられた。
決して出自の卑しくないと思われる英国婦人もいた。陋屋の寝台の上で、彼女はひらひらした美しい衣裳をしどけなく寛げて、阿片を喫していた。だけではない。彼女の腰に、褐色の太い腕が絡みついている。腕の主は汚い乞食のような男で、インドのカルカッタから来たと言った。時折服の中へ手を差し入れ、淫らな仕草をする。
「やめられないのよ」
身をくねらせながら英国婦人は言った。阿片のことか、淫行のことなのかわからない。
それから身を乗り出し、一同の顔を順繰りに見て、手をさしのべながら何か言った。杉浦はそれを通訳しなかったが、およそ何を言ったのかは察しがついた。
(あの眼だ)
と、木戸はそれを考えつづけていた。
(誰も彼も)
ここにいる者は、皆おなじ眼をしている。警察署で見た罪人の、あの黄色くただれた眼である。澱んだ、虚ろな瞳。不覚にも木戸は、膝が笑い出しそうであった。かれらの野卑さはこわくはない。恐ろしいのは、かれらからどうしようもなく臭いくる頽廃と絶望である。繁華と富強をほこる英京に、それがある。
(およそこの世にありうべき表情ではないではないか)
そうして木戸は、遠い恐怖の記憶に思いあたった。
(ああ、あれは――)
あれはいつかの母の話にあった、地獄の亡者の表情そのままではないか。どろりと濁った眼差し、うすくひらいた口、そこから洩れる意味不明な呻き……――
母の記憶はいつもあまくあたたかなのに、その談話の風景だけが木戸のなかで冷えびえとした寒色であった。
(かれらは、亡者なのか)
生きながら死んでいるのだろうか。そうかもしれない。しかしそれならば、いっそ死ぬのが幸いではないか。
恐怖と嫌悪が、じっとりと冷たい汗になって、木戸の背ににじんだ。
深更になって、一同は帰ってきた。途中、ものをいう者もなかった。
杉浦とアレクサンダーはホテルの別の階に泊まっていたから、木戸は部屋に戻るまで、少しの時間を大久保と二人で歩いた。やはり、無言であった。別れ際、黙礼して、ふたたび上げた顔を見交わしたとき、大久保の表情に、自分とおなじ色の翳がさしているのをみとめた。
(だから、来てしまった)
大久保の部屋で暖炉の火に焙られて向き合いながら、木戸は自身をそう分析している。
「夢」
大久保が、もとは自分が言ったそのことばを、今度は逆に木戸からひきとってつぶやいた。
「夢と知りせば」
テーブルのふちのあたりに眼をおとし、額を手で抑えている。
「もう少し、美しい夢を見るのでしたが」
「ああ、」
なるほど、と木戸は頷いた。
「それは、そうですね」
幕末の頃から今日まで、起伏に富んだ、哀歓の凝縮した濃厚な日々ではあった。男子の欣快とするに足る、と格好をつけていえないこともないが、渦中の人間の正直な感じとしては、決して心たのしい毎日ではなかった。喪うものばかり多く、逆に得たものとては何ほどのことがあったろうか。それを思うと、大久保の「どうせならもっと美しい夢を見るのだった」という言葉は、単に会話上の飾りではない、ごつごつした実感をもって木戸の肚に落ちたのである。
「しかしいずれにしても、なるほど夢です。今夜の散策は、わずかの時間にすぎませんでした。そのほんのひととき、夜気にあたっただけで簡単にやぶられた」
大久保は、彼にはめずらしく言葉数を費やして言った。木戸は内心驚きながら、大久保にも今夜の光景にうけた衝撃の尋常でないのを知って、妙にほっとする気持があった。
「あさき夢、でしょうか」
木戸もテーブルに眼を落とした。磨き込まれた木目の天板に、暖炉の火が映りこんで、ぬらぬらと重たげに光っている。
「軽佻であったつもりは、今までのいつを省みてもないのですが」
そう前置きして、いかにもそれが言い訳めいていることに、木戸は自ら羞じた。彼はすこし唇を噛み、しかしあとは思い切ってひと息に言った。
「思えば我々は西欧の砲火に追いまくられて、ここまで来たようなものです。それでともかくも艦船と砲弾、工場の輪転機が揃う国を急ごしらえに仕立ててしまった。そうせざるをえませんでしたし、西欧の富強の基はたしかにそれらの機械にありましょう。しかしながら、こうして海を渡ってきてみれば、西欧の文明はいかにも堅牢です。一隻の甲鉄艦の水線下には、外交があり、宗教があり、教育があり、法がある。それらの互いに交差すること、実に精緻です。私はとくにこの英国に来てから今日まで、その繁栄のめざましさよりも、それを支える文明の奥行きの深さに感じ入ってきました。ところが、その大英帝国の都にしてあの貧民窟を抱えている。これを一体、どう考えればよいのでしょう」
木戸の舌はつい熱を帯び、訴えるような口調になった。
「ロンドンにしてこのありさまならば、将来日本はどういうことになりましょう」
重厚に練りあげられた英国の文明にして、あの貧民窟がある。あの眼がある。それならば万事が急造の、皮相の開化を遂げざるをえない日本は、この先どれほどの闇をその胎内に抱えてゆかねばならないのか。
大久保の答えは、くるしげであった。
「西欧に倣えば、かならずああなるときまったものでもありますまいが……」
彼らしくもなく、語尾を濁した。やはり大久保にも、木戸と同じ迷いがあるのだろう。
「日本にも、貧民はあります」
と、木戸は言った。
「しかしああいうすさみぶりを私は見たことがありません。あの無気力と虚無は、生きた人間のものとも見えませんでした。かれらとおなじ絶望が、いつか日本の人民の上にも訪れるとすれば……」
あの眼。いつかの母の話では、かぎられた悪業の報いであったはずの、あの眼。なるほど今夜の貧民窟の住民どもは、みな大なり小なり犯罪に手を染めていた。しかし、かれらの罪はそれほどの罪であろうか。むしろやむをえざる世すぎの手段にすぎないではないか。
文明の陰に、洞穴のようにぽっかりと開いた、絶望のまなざし。海を隔てた日本でも、無辜の人民にあの眼をさせる日が、故山のひとびとをその境涯へ陥れる日が、いつか来てしまうのではないか。それは自分があの地獄の亡者の列に加わることよりも、よほど恐ろしい想像であった。
「それでも」
と、大久保は額のしたで両手の指を組んだ。その節が高く盛り上がって、かれの意志の力を伝えていた。ゆっくりと顔がもちあがり、窪んだ眼がはなつ光が木戸にむけられる。
「それでも、我々は進まねばなりません」
(ああ、)
木戸はもう一度、今度は強く唇を噛んだ。
きっと、大久保はそういうだろうと思っていた。苦しみながらも、彼はきっとそう決断する。わかっていて、わざわざそれを聞きに自分は来たのだろうか。
(そうかもしれない)
そうでないかもしれない。大久保の決断の肚は、木戸にはわかるようでもあり、わからないようでもある。しかしただひとつわかっているのは、彼の苦悩は、木戸のそれと同質であろうということだった。もしかすると自分は、その一事だけをたしかめに、ここへ来たのかもしれない。
「大久保さん」
木戸はあの委任状事件以来おそらく初めて、大久保の目を正面から見据えた。
「はい」
大久保は、もう背筋をのばしていた。木戸も、端然と姿勢をあらためた。
「あなたは、もう決めてしまわれた」
「はい」
「しかし私は、まだわからないのです。私は臆病です。まだ迷っている。迷うことの愚かさを知らないではないつもりですが、しかしいっそ迷っているほうがましではないかと思ってしまう」
「そういうことも、ありえましょう」
「我々は進むほかない。それは御同断です。けれども……――」
「はい」
木戸が言葉に詰まったのを、大久保はみじかくひきとった。腹は立たなかった。彼には、きっと通じている。通じているが、道を倶にはできない。木戸もむろんそれを望みはしない。男子が己の仕事をしようというときは、そういうものなのかもしれない。それはそれで頼もしくもあり、しかし寒くもある。大久保個人と懇意になりたいとは思わないが、そういう職能と職権で整理されきった関係のなかで生きていくには、木戸の前半生は濃密な仲の同志にめぐまれすぎ、そしてその同志は喪われすぎた。
「我々は」
と、木戸は話頭を転じた。この淡あわした静けさが、息苦しかった。
「ひとつの宝珠を、打ち毀ったのかもしれません」
「宝珠」
大久保がかすかに眉を上げた。
「サトウが、まだ旧幕の頃ですが、私に言ったことがありました」
「サトウが?」
薩長の要人の多くは、アーネスト・サトウと親しく接した経験をもっている。日本語のひどく達者な英人外交官である。聡明で闊達、年はまだずいぶん若く、秀麗な面差しにあどけなさが残っている。そのサトウが、
「我々は、文明か非文明かを測るものさしをもっています。我々がものさしと信じているところのものです。しかしどうもそれは窮屈にすぎるようです。機械と法律と、何より聖教。これらだけを手がかりに世界を知ろうとすることの愚に、私はこの国へ来て気がつきました。が、かといって、何を以て日本とここに住む人々のくらしを測るのが公正なのか、私にはわからない。文明とは西欧の病です。私はひとよりはその熱と妄想から自由になったつもりですが、やはり病人なのです。この病気へのいとわしさは日増しに募ります。そうしておなじぶんだけ、日本が懐かしく、焦がれる想いがまさってゆくのです」
かきくどくように木戸に言ったのは、そう遠い昔ではなかったであろう。
「日本は美しい」
とも彼は言った。
「たしかにこの国には西欧式の厳密な法律もなければ、それがささえる秩序立った学校教育もない。ひとびとの行いを見つめる神もいない。機械といっては子供のおもちゃ程度のものである。しかしそれならばこの国は人智の未だ開けぬ蛮国で、人々はみな野人であるのか。――この問いに『然り』と答える人を私は軽蔑し、憐れみます」
「人々は慎ましやかで、『足るを知る』生活をしています。求めて飽かぬ西欧の生活とは、それはまったくことなる価値観によるものです。家屋も調度も質素ですが、それを以て日本の生活を貧しいとよぶことは、まちがっています。一見地味におもえる工芸品はどれも細緻ですばらしいし、わざわざ裏に模様をもってきたりする着物のつくりは『粋』ではありませんか」
「往来では子供たちが笑いさざめいています。道の真ん中でまだほんの赤ん坊が座り込んで、上機嫌でひとり遊びをしているのを見たことがあります。そこへちょうど荷車を引いた大人が通りかかりましたが、彼は子供――よその知らない子供なのです――をさも可愛いというようすであやして、子供の遊びの相手をしてやり、やがて抱きあげて道の端の安全なところへ移してやりました。それからようやくさっきの荷車を引いて、その道を通って行ったのです。彼だけではなく、どの大人もそんな調子です。私はこんなに子供を愛する人々にはじめて出会いました。この国の子供は、襤褸をまとっていても、皆しあわせそうに笑っています。そのくせ七つ、八つにもなると、もう大人のような立派な挨拶ができるのです。これは驚くべきことです。かれらとかれらの親たちがが神の世界を感じなくても、哲学を知らなくても、それが一体何でしょうか。かれらは立派に教育をうけています」
そのとき、木戸はややあっけにとられながら、曖昧に相槌をうっていたように思う。サトウの感動も、その底にかすかににじむおそれと歎きも、それらの本当の意味はわからないまま。
「ですから、私は時折ふとどうしようもなく不安になるのです」
際限なくつづくかとおもわれた話のはてに、サトウはそう言って眉を曇らせた。
「我々は――『文明人』たちが日本にしていることは、この国の、我々とは異質な、けれど立派に一個のものとして完成している文明を、破壊することになりはしないでしょうか。我々の同胞は、自分たちをもって文明の伝道者だと称している。私はときにそれがたまらなく恥ずかしく、おそろしいのです。ひょっとすると我々は、罪深い、してはいけないことをしようとしているのではないでしょうか。私は、ときどきひとり、それを自分に問いかけます。今までは神に問うていました。しかしこの問題にかぎっては神には問えないのです。なぜなら神は我々のこの行いを、神の教えをひろめて匹夫たちを救ってやることを、嘉し給うことになっていますから。しかし、だとするならば、果たして神は」
そこまで言ってサトウは、はっと口を噤んだ。自分の言葉に愕然としたらしい彼は、口に手をやり、あとは顔を青ざめさせたまま、石のように黙りこくってしまった。
そのときも木戸は、曖昧に首をかしげ、ただサトウのためにさりげなく話頭を転じてやった。
サトウの言いたいことは、なんとなくわかるようでもある。日本には、ひとびとには、固有の暮らしかたというものがある。西欧に伍するべく息せき切って駆けださねば日本はかならず滅びるが、かといってもとの暮らしを破壊して人民を混乱させることは、木戸も避けたいと思っている。何も日本を西欧にしたいのではない。
しかし、木戸がそう言ってやるだけでは、この英国人青年の憂愁は霽れないだろうという気がした。彼の言いたいことはもっと意味がひろく、深いにちがいない。だがそれがどういうものであるかを理解するには、当時の木戸は世界事情にも、世界から見た日本ということにもまだ昏く、さらにこの段階の情勢として、彼にも日本にも、サトウのいうことをあらためて考えるだけのゆとりがなかった。
「サトウのおそれを、否、日本人として、政府にある者としてサトウのそれ以上のものを、今後我々はかかえてゆく」
いま、サトウの故国でありうべからざる光景を見たあとの木戸は、両肘を椅子に沈めた膝につき、組み合わせた指の上に額を載せた。
「かかえてゆかねばなりません。我々は、深くおそれねばならない。もう闇雲に駆けるだけの時期ではない。おそれのなかに深く新時代の種を宿し、苦悶してこれを産まねばなりません」
「ですが」
髭の内にくぐもった声で、大久保が言った。
「ともかくも産んでみねば、その姿形はわかりません。いつまでも胎内で撫で回しているわけにもまいりません。産むべき時期を逸すれば、やがて腹をやぶることになりましょう」
「あなたは、やはりそうお考えになる」
木戸は唇の端だけで笑った。
「私は、貴案は採らない。政治に拙速も蛮勇も禁物と考えております。しかし、あなたのそのお覚悟は、私のつねに尊敬措くあたわざるところです」
「そのような……」
「本気で申し上げているのです」
木戸は大久保にわからないよう、頬の肉を奥歯で噛んだ。それから、
「あなたはどうぞ今のまま、その果断の姿勢をお保(も)ちください。私はどこまでも、迷いながらまいりましょう」
顔を上げて言った。わずかな明かりをうけて、自分の眼は今きっと殺気に似たものを帯びていると感じながら、木戸はあえてそれをかくそうとはしなかった。大久保の小さな眼が、正面から自分を迎えている。彼でなければ、視線をそらすにちがいない。
「あなたの揺るがぬことを信じて、あなたが洟もひっかけないような小心な繰言を、どこまでもぼやきつづける私でありましょう」
大久保は黙って木戸を見つめている。大久保の鋼のような孤独がそこにあり、その寒さ凄まじさが、おなじだけの質量をもった木戸の孤独を戦慄させる。ふるえは彼の舌を叩いて、この宣誓(であろう)の儀式をなさしめている。大久保は厳粛に、それを聞いているのである。
「ただしあなたの果断の底に、今夜見た情景が絶えず映っているのでなければ――もしそれを忘れることがあるなら、話は別です。私はいつまでも口舌の徒ではいない。いつでもあなたを討ち果たします」
「結構」
大久保はみじかく答えた。木戸はじろりとその表情の奥を覗きこむようにして、しばらく黙り、やがて春山の渓流がゆるむように笑った。
「ですから――そう、あなたはそれで結構ですが、しかしたまには思い出してくださいね。あなたとはまるで別に、迷ってばかりいる私のあることを」
あなたには可笑しいかもしれないが、これで私は、ただ優柔にためらっているのではないのですよ。もうこれが精一杯、抜身を振り回しての大立ち回りのつもりで、髪も大童に迷っているのです。あなたが決死の覚悟で決断なさるように、私もいつでも死ぬ気で迷っているのですよ――――。
笑いながら、しかし喉奥がひりつくような感じを、木戸はおさえきれなかった。
(いつかも、こんなことを言った夜があった)
そのときはまだおそろしい阿片窟のことなど夢にもしらず、しかし何かの予感におびえながら、苦しさを淫蕩な笑いにまぎらして、大久保に抱かれた。あの夜、しがみつくように求めた自分に、それ以上の激しさで応えながら、大久保の腕はどこまでもやさしかった。
(今は、どうなのだろう)
なぜ大久保は自分を抱いたのか。
あれ以来折にふれて考えたことの答えを、木戸はふとこのときも欲して大久保の顔にそれを探したが、彼はいつものように、ほとんど表情らしいものも浮かべず、ただするどい理知の光をその窪んだ瞳に湛えて、木戸を見返していた。
(わからないな)
自分には、わからないことだらけだ。わからないまま、進まねばならない。それでも。
(この一点だけ――)
この一点においてのみ、自分は大久保を理解できる。ここをさえ確認しておけば、あとは何も聞く必要はない。永遠に。
「大久保さん」
木戸は姿勢を正して座りなおすと、あらたまった声でよびかけた。
「はい」
大久保も端正に背筋を保って答える。
「我々は、日本をああはしますまい」
自分たちは、サトウのいう一個の文明を滅ぼしたかもしれない。西洋的豊かさはなくとも、そこに満ち足りて生活していた人々の幸福をうばったかもしれない。そのことへの感傷に浸っているひまは、今はない。けれども、だからこそ、自分たちはあの阿片窟を、ほかの日本人たちが想像も及ばないであろうあの西洋文明の矛盾と不幸を、日本にもたらしてはならない。あの境涯に、日本人をおとしこんではならない。
射竦めるような、縋るような瞳で木戸は大久保を見た。大久保の眼に、一瞬日暈に似たふしぎなうるみがかかり、しかし一瞬でそれがひいたあと、彼はしずかに答えた。
「誓って」
木戸はしばらくひたと眼をすえて大久保を見つめ、やがてあざやかに微笑んだ。
「大久保さん」
「はい」
「抱いて、くださいますか」
「それは」
と、大久保はややまぶしそうに眼をほそめた。
「誓いのしるしに、ですか」
「あなたにそんなものは要求しませんよ。あなたは約束は守るかただ」
大久保が諾否をいう前に、もう木戸は服を脱ぎはじめている。本当は喋るのもまどろっこしかった。今この瞬間、抱かれたくてたまらない。今夜はいろんなことがありすぎた。思わぬことの連続だった夜の最後に、大久保の、思ったとおりの返事を聞いたら、もうたまらなくなった。
あの阿片窟の光景――あれが日本にもたらされないまでも、思わざる何かはきっと起こる。あの光景を見てさえまだ想像も及ばないことが、帰朝後きっといくらも待っている。それらの夢ならぬ出来事に、自分は死ぬまでうなされつづける。
(そのおなじ地獄に、この男も踏み入ってゆくのだ)
それがために親しみなどはわかない。慰めあおうなどとも思わない。ただ、おなじ地獄を見る男の肉も血も貪って、かわりに自分の内臓をつかみ出してその顔の前に叩きつけたいのだ。そういう得体の知れない、凶暴な衝動が木戸の熱を煽り、慄えだすかわりに彼は笑った。
「ただの気晴らしですよ」
「気晴らし」
「ええ」
大久保の頬がゆるんだ。しかし、斬り結ぶ直前のようなその不穏な眼のいろに、木戸はぞくりとする。
「あなたは、私に惚れてくださっているのでは?」
大久保が言った。やあこれは、と木戸は身をのりだしてテーブルごしに手を伸ばし、大久保の手をとった。冷たい指先を自分の頬にあてる。
「おぼえていてくださいましたか」
「いまだに信じてはおりませんが」
「ひどいなあ」
「気晴らしなどとおっしゃるからです」
「惚れたうえで、気晴らしをしようと申しあげているんです」
「よくわからない理屈ですね」
「こんなことに理屈がいりますか」
微笑んで見上げた先に、凝然と黒い英都の夜がある。そのなかで大久保の双眸がちいさくかがやき、痩せた頬が青白くうかんで見える。
「ああ、うれしい」
思わず感に堪えた声をあげて、大久保の手をとらえたまま立ち上がる。半ばひきずられるように腰をあげた大久保の、拒むでもない、しかしべつに面白くもなさそうな、その顔。
木戸にしたところで、すこしも嬉しくなどはなかった。ただどうしようもない焦燥感が胃のあたりに滾っていて、何か言っていなければ、そうして深く息をしなければ、粘膜の内側から体全体が灼けただれてしまいそうだった。
昂奮にかすんだ網膜ごしに、大久保の落ち窪んだ瞳が今夜ばかりはちいさな星のように見えて、そのあまりの似つかわしくなさに、木戸はぐしゃりと自分の髪をかきあげて、身をよじらせながら笑った。
「ああもう、熱い」
鋭い衣擦れの音を立ててネクタイを引き抜き、テーブルの脇へまわる。同時に大久保の腕が木戸の頬を離れ、手をとってひきよせた。
早く、早くとうわごとのようにねだりながら寝台へ行こうとする体を一度抱きとめられた。互いの肩のあたりに頭が交差し、顔が見えないまま、耳朶を低い声でくすぐられる。
「泣いていらっしゃるのですか」
「まさか!」
木戸はからりと哄笑し、その弾んだ息のまま、大久保に口づけて彼の呼吸を貪った。
目をとじると、瞼の裡に濁流がうかんだ。夜が彼の体を浸蝕し、血とひとつになって、ごぶごぶと音を立てて奔騰する。
(溺れる――――)
それもいいかもしれない。もっとどろどろに浸かって、流されて――
「大久保さん」
木戸は深く絡めていた舌を退かせ、大久保の唇の上で囁いた。
「今夜は、中に出してください」
大久保の眼が、ほんのわずか見ひらかれる。互いの息がかかる距離で話している木戸には、その変化が見えた。
「中がいい。中に欲しいんです。全部」
そうして隙間もなく盈たされたい。際限なく注ぎ込まれて、どろどろになって果てたい。そうしたらやっとどうにか、溺れて沈むことができるかもしれない。
口づけしか交わしていないうちから言うことでもなさそうだが、まともに言葉が紡げるうちに伝えておきたかった。大久保は、べつにそうするとも否ともいわず、いまの中断がちょっとした事故ででもあったかのように、黙ってもう一度唇を密着させ、愛撫を再開した。それだけで木戸はもう、大久保に深く貫かれ何度も精を注がれる、その近い未来を想像して身をふるわせた。諾とはいわなくとも、廟議とちがって閨では頼めば大抵のことを聞いてくれる彼だと知っている。
(早く、早く、早く、早く)
この夜に犯されて果てたい。
骨の割れるような叫びを呑み込んで、その苦しさに木戸は激しく身を揉み、高く喘いだ。
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木戸さんはもっと健全なストレス解消法を見つけるべきだと思います(笑)
[30回]
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