近頃、木戸の機嫌がいい。
ここ四、五日にもなるか……と、井上は指を折って低く唸った。
よろこばしいことにはちがいない。木戸は理由もなく臍を曲げたりはしないが、それだけに――つまり相応の理由をこちらも認めざるをえないだけに、ひとたび機嫌をそこねたときの対応は実に骨が折れる。なんとなくお茶を濁してしまうことができないから、どこまでも議論で煎じ詰めるはめになる。議論となると徹宵しても倦まない木戸につきあわされて痛い目を見た者は、旧藩時代からかぞえて十指に余るだろう。
それにくらべれば、木戸の上機嫌は歓迎すべきことである。
あるけれども――
(どうも、剣呑だな)
と、井上は頬をにがくゆがめた。
木戸はわけもなく怒らないかわりに、つまらない追従などで心を獲らせることもしない。しかし、割合に簡単なことで気持のほころぶたちで、懐かしい人に会ったとか、道で遊ぶ子供が笑いかけてきたとか、もうそれだけで嬉しそうにしている。だから木戸が妙ににこにこしているのは、べつにめずらしいことでもないのだが、そういう他愛のない嬉しがりかたとは、今回はちがうと井上はみた。
何か肚にふくんでいるというか、あまりたちのよくない愉しみに淫しているような……「企んでいる」という言葉がちかいかもしれない。とにかく、木戸が笑っている、その表情がなんとなく、しかしどうしようもなく不純である。
(何より――)
と目の前の席に掛けて、書類の束を繰っている木戸をじろりと見下ろした。午さがりの、木戸の執務室である。
「どうした」
顔をあげずに木戸は言った。
「その案でいいんじゃないか。浄書できしだい判はついてやる」
「あ、はあ」
井上の手には、さっき木戸から戻された意見書がある。
「まあ、じゃあ近日中に……」
「早いほうがいいな」
「努力します」
「うん」
普段ならここで切上げて退室するところだが、井上は動かない。
「どうした」
ともう一度、今度はこちらの目を見て木戸が問う。その眼が、あの一種危うい微笑みを湛えている。
「どうしたもこうしたも」
井上はぐしゃぐしゃと髪をかきむしり、机の脇をまわって木戸の横に立った。と、木戸は黙ってさっきまで見ていた書類を机の上に置いた。ぎ、と音をさせて椅子を後ろへ引き、体ごと井上のほうにむきなおる。その、挑むような笑み。
「あんたさあ」
井上は机に手をつき、尻を半分乗り上げて座った。木戸はべつに叱りもせず、面白そうに眺めている。井上は露骨に眉をひそめ、小さく舌打ちしてから、言った。
「あんた、大久保と寝ただろう」
木戸は表情も変えず、ただわずかに小首をかしげただけである。ややあって、
「どうして」
子供が花の名を問うような自然さである。
「どうしてじゃないだろう。これ見よがしにそんな痕つけて……それに、最近わざと和服で来てるだろう」
木戸がふしぎな上機嫌になったのと時をおなじくして、彼の参朝の服装は羽織袴になった。これまでも、前日どこかへ泊まって、そこから出てくるときは和装のこともあったが、家にはきちんと帰っているらしいのに、こうつづけて洋装を見ないのは久しぶりである。
もっとも、異様なのは服装よりもその下の肌だったが。
首筋に点々とある、小さなあざ。日に日に薄くなってはいるが、今日もまだ、その白い肌がちかごろ体験した情事の濃厚さを、誇らかに主張している。
「目ざといな」
「わからねえほうがどうかしてるよ」
ふうん、と木戸は羽織の両袖の端を指先でつまみ、袂を振るようにして見せた。
「やっぱりこれが楽だな」
「お立場を御顧慮くださいませよ参議。下の連中は、近頃木戸さんは洋化から宗旨替えしたんだなんて噂してるぜ」
「もともと私は洋化ずきでもないぞ」
「そんなことが連中にわかるもんかね。それよりあんたのその首筋の痕、」
「これな、はだけるともっとすごいんだ」
「見たくねえよ」
木戸が襟に手をかけたので、井上は犬でも逐うように手を振って言った。
「その痕だって見られてるぜ」
「そうか」
「艶福家で結構だ、とか皮肉られてたぞ。悪所通いでもしていると思われてる」
「まあ、普通はそう思うだろうな。うちのもそう思ってるらしい。ははは、なんだか拗ねてたな」
いかにも屈託なく言うので、井上は顔を覆って溜息をついた。
「あんた、かみさんにも見せてるのかよそんなもん……」
「べつに見せびらかしちゃいないが、見えるんだから仕方ないだろう」
それで、と、木戸はしどけなく机にもたれて片手で頬杖をつき、井上を見上げて口の端だけで笑うと、
「なんで大久保だと思うんだ」
ふん、と井上は鼻を鳴らす。
「あんたがにわかに和装派になってからだ。妙に大久保の側へ寄りたがるようになったろう。もっとも、奴さんの気に障りそうなことばかり言っている。わざと寄りついて、痕を見せつけて……あんまりよくねえ趣味だな」
「大久保、気づいてると思うか」
「気づくだろうそりゃあ」
「何か言っても怒らないし、相変わらずの鉄面皮なんだがな」
つまらないんだ、と子供のように言う。井上はいよいよ深く溜息をついた。
「変な真似しないで、また寝たいならそう言って誘えばいいだろう」
「そうあからさまな真似をしちゃつまらんだろう」
「とっくにあからさまじゃねえか」
「一度寝てみたから当分はいいよ。大体様子はわかったからな」
「そうかよ……」
ただなあ、と、木戸は、市井の連中が茶飲話のついでに天気でも案ずるような、ふわりとした調子で言った。
「仕掛けてみて、十中まあ六、七は拒まれると思ったんだが、存外あっさり乗ってきたんだ。床の中でもずいぶん、意外なことがあったよ」
「ふん」
「意外なこと」の内容を想像して、井上は鼻を鳴らして笑った。木戸の誘い方はだいたい心得ているが、大久保がそれにどう乗ったかというとまるで想像がつかない。
「よかったか?」
と訊くと、木戸は思い出すことがあるのか、大久保の名残の滲みた白い喉に手をやって、
「それはもう」
うっとりと淫蕩に微笑んだ。
「どうにかなるんじゃないかと思ったな」
「心配するな。あんたはすでにどうかしてる」
「そうかそうか」
よほど記憶に残る夜だったのだろうか。木戸の指は自分の肌についた痕を正確にたどっている。その感触を愉しむように、唇はうすくひらき、眼は陶然と細められている。
「あの仁はああ見えて、床のなかじゃしつこいんだ。それに見たこともないような表情をする。あれはよかったな」
「なんだかぞっとしねえ話だな」
井上はもう木戸を制止するのをあきらめている。やめろといえば彼はますます愉しげに大久保との余韻に浸るだろう。それに井上自身、木戸の話に下世話な興味をかきたてられつつある。
「物はいいのか、あの人の」
そう訊くことに複雑な快感がある。
井上も日頃大久保への対応は苦慮していないでもない。何よりあの威風おのずから他を圧するといった雰囲気が苦手である。その大久保の情事のさまを、当の相手から聞き出している。ゆがんだたのしみが井上を昂奮させていた。
同時に、木戸がどう思っているのかわからないが、井上は木戸を大久保に寝取られたともいえる。木戸を自分のもとに縛っておけるとも考えていないが、まさか大久保にさらわれるとは思わなかった。不覚をとったという思いが、ちりちりと胸を焼き、それがまたあらたな刺戟になる。
「さあ、並じゃないのか」
首をめぐらして木戸が答えた。
「そんなに、特別どうということもなかったが……。ただ、持ちがいいんだ」
「そりゃ意外だな」
「そうだろう。骨と皮みたいな体なのに、芯はたしかなところがあるんだな。疲れしらずで、いや、こっちはまいったよ」
木戸は自分の髪に指をさし入れ、ほう、と溜息をついた。頬がかすかに上気している。鬢のあたりにほつれかかる毛を、長い指がはらおうとした瞬間、井上はそれをとらえて引き、木戸がなにか言う間もあたえず、指の腹を思い切り噛んだ。
「いっ……!」
「大久保は、こういうことはしないのか」
ぎり、と関節のあたりにも歯を立てる。
「っ、ん……。いや、妙に優しいんだ」
紅い舌をのぞかせながら木戸は笑う。ああ、ろくでもねえ、と井上もにやりとした。この人も俺も大久保も。ついでに肉の愉しみということは、なんて実に。
「あんた、なんだって俺にそれを聞かせるんだ」
「昂奮しない、か?」
「そりゃ、まあな」
す、と木戸のもう一方の手が、井上の太股に伸びてきた。誘うように撫でさする。
「大久保はずいぶん愉しんだくせに、次の日にはもう何事もなかったような顔をしていたよ。相変わらず会議じゃ何ひとつ譲らないし、俺の話は謹聴謹聴というだけで、まるで聞いていない」
「そうか」
井上は木戸の指を噛んでいた歯を離し、手首を持ち直して、唇の先だけでそっと口づけた。無言で、言葉のつづきをうながしてやる。
俯いた木戸の表情は、落ちかかった髪に隠れてよく見えない。が、その口元がいびつにこわばっているのだけがわかった。声が、こころなしか硬い。
「だからわざとあの男のつけた痣が見えるように、洋装をやめて、用もないのに部屋を訪ねたりしてやっているんだが、まるで風馬牛さ。だんだん、こっちが夢を見ていたんじゃないかという気がしてきた。馬鹿馬鹿しい」
「ああ、馬鹿馬鹿しいな」
「抱かれている間は相手をわかった気がするなんていう女がいるだろう。俺はわからなかった。わかる気もなかったがな。ただざまをみろと思ったんだ。あれは何というか、実にいい気味だったよ――」
「そうか」
「なあ、聞多」
と、木戸は捕らえられていた手をそっと井上の唇から剥がし、かわりに指先でその頬にふれた。
「おまえは、何もきかないんだな」
「聞いてるじゃねえか」
「うん」
木戸の眼からはさっきまでの挑発的な光は消え、ふしぎに凪いで、微笑んでいる。頷いて一度沈黙した彼は、それから数度の呼吸ののちにまたかすかに首を横に振り、
「なぜ大久保に抱かれたか、さ」
ふん、と井上は鼻を鳴らす。
「聞いてほしいのかよ」
「べつに」
井上も無言で首を振り、笑った。
それから、木戸の机を滑り下りると、両手を洋袴の隠しに突っ込んで、ドアのほうへむかった。
「聞多」
井上だけにわかる、わずかな不安をにじませた声で木戸が呼ぶ。
井上は振り向かず、ドアの前に立った。しかし伸ばした手で彼はノブを握らず、かわりにかちり、と小さな音を立てて鍵をかけた。
「聞多?」
「来いよ」
数歩あるいて戻り、執務机の前にあるソファにどっかと腰を下ろした。片頬をつりあげて、ひどく粗野な笑みをうかべる。
「来な。抱いてやる」
「今ここで?」
「今の俺ならな、」
井上は腕を差し出して、
「大久保よりいいぜ」
その言葉に木戸は、井上がはっとしたほどあざやかに屈託なく笑った。ふらりと立ち上がった足元に、折からこぼれだした晩秋の陽が、くすんだ光の輪を描いていた。
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ちゅうとはんぱ!
木戸さんと大久保さんのそれこれは平行世界のことにしておこうかな、
とも思ったのですが、なんかそれはそれで聞多は
うまくやってくれそうな気がしたのでこういうことになりました(笑)。
今回一番可哀相なのは間違いなく松子さんだと思います。
こんな悪さばかりしてる二人だから、洋行中の木戸さんに
松子さんはあんなお手紙(おこのちゃんがどうしたこうしたのやつ)を
書くんですよきっとw
[25回]
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