「高杉が?」
書き物の手をとめて顔を上げると、相手はきまり悪そうにきょときょとと目を泳がせた。
「はあ、まあ……」
「たしかか」
「私も、昨日じかに聞かされましたから」
「ふうん……」
首をひねりながら、桂はまた筆を動かした。
甲子の変後の、手足をちぢこめて天涯にわずかに息をするような暮らしをうち切り、但馬の寓居を去ってふたたび防長の土を踏んだのが今年の四月。以来半年とすこし、彼は毎日政務に――というより時勢に追いつかわれている。寸刻の暇も惜しいのに、こういうときにかぎって面倒が起きる。いま城内の一室で内々に報告をうけたのも、なにもこんなときに、と舌打ちしたくなるような、間の悪い厄介事であった。
あれがそんなことを、と口のうちでつぶやきながら、桂はやりかけていた上申書を書きあげてしまい、達者な文字で埋まった紙の尻にくるくると花押を挿れた。
「どうもおかしいな」
とは、筆を擱き、報告者にむきなおって言ったことばである。
「あれはこれしきの道理が通じぬ男ではないが」
「はあ、ですが」
「いや、わかっている。私もそれらしい噂を耳にして、まさかと思っていたところだが、君が直接聞いたというのなら間違いないだろう。まったく何を考えだしたのか……」
「私も、お諫め申したのですが」
「どうせ聞くまい。なに、今夜にでも私が話してみよう。あの男がそんな邪説を吹聴するのは捨ておけん」
どうしても諾かなければ縛りあげてどこかへ押し籠めてしまうほかないな。溜息まじりにそういうと、相手はぎょっとして、それから、まさか、というような薄笑いを浮かべたが、桂は冗談で言ったのではなかった。時勢はそれほどぎりぎりの線で沸騰している。
縄こそ持っていかなかったが、万が一のときは腕ずくでも、という覚悟をかためて、桂は高杉を料理屋の二階に呼び出した。そうして自分は指定した刻限よりだいぶん早くやって来て、火鉢の脇で巻紙を掲げ、ほうぼうへの手紙やら意見書を書いている。気ぜわしく手を動かしながら、彼はじっとひとつのことを考えていた。
(誰が好きこのんで)
目をとじると、桂の瞼の裡には昨夏京を焼いた炎がありありと浮かぶ。あの炎の中で、久坂も寺島も入江も死んだ。来島は御所で、周布は国元で腹を切って果てた。
(薩摩の肚は知れぬ)
癸亥の年、堺町御門の変からこちら、薩摩には煮え湯を飲まされっぱなしでいる。おなじ政敵でも会津は竹を割ったように無邪気なところがあり、それだけに対処のしようもあるが、薩摩はいかにも老獪で、底が見えない。長州と競いあって天朝を輔け、幕威を衰えしめんとするかとみれば、今度は会津と手をにぎった。といって、会津とこの先連携していくとは思われない。西郷、大久保といった主だった面々、権謀家としては一流であろうけれども、それで一体何をする気なのか、長州からみればどうも旗幟が鮮明でない。
(乱世といえば元亀天正のつもりでいる。尚武の国柄でもあれば、あるいは)
と、桂の疑いもそこにある。島津大隅守にはいまに関東を制圧して島津幕府を樹てる野心があるのだとか、京ではそんな噂をする者があった。つまらぬ俗説にすぎないと思っていたが、まさか幕府は樹てないまでも、天下に覇をとなえる野望が薩摩にないとはいいきれない。すくなくとも、薩摩一国主導で京都政体をつくりたい気はあるだろう。長州が潰されようとしたのは主義の問題ではない。薩摩の「一国主導」をゆるがしかねない勢いをもったがために排除されたのだ。そこまでは、それが政争というものだとしても。
――それがために会津と手を組むなど。
というのが桂をふくめた長州の憤慨のたねであった。節操もなにもないではないか、というのである。この点いかにもかれらは志士で、熟しきったおとなの観のある薩摩とは、肌合がちがいすぎていた。
が、どうもそういう青年らしいことばかりいっていられなくなったのは、京で一敗地に塗れて藩公父子は罪を得、人材はうしなわれ、ために内訌がおきて藩の政情はもつれにもつれ、挙句外国船は攘夷さわぎの報復にあらわれ、腹背ばかりか四方に敵をうけた長州がほとんど死に体に陥ったためである。朝敵としていまは天地に身のおきどころなく、このままでは再び暴発して一挙にとどめを刺されるか、座してじりじりと死を待つか、ふたつにひとつであった。
――死んでもかまわぬではないか。
そういう意見もあった。あの一戦で死なず、京を落ちて国にも帰らず、国難の秋に荏苒日をおくったという負い目のある桂にも、それは甘美なさそいに聞こえた。たとえ防長を焦土にしようとも、名も血も絶えはてようとも、回天の大事のために土となるならよいではないか。三十六万九千石を贄に中興が成るなら決して高い代価ではない。
が、桂はその論をおさえた。
「やぶれかぶれの投機を義挙とはいわぬ」
そういったとき、桂につかみかかろうとした者もあった。臆病者、卑怯者といった、士としておよそ聞くに耐えない面罵もあびせられた。それでも桂は、じっとこらえた。そうして、もののわかった少数の人々と協議をかさね、悩みぬいたうえでひとつの結論に達した。
――薩摩と和するのほかなし。
それもただの和議ではない。友邦として提携をむすぶのである。その案は桂の但馬潜伏中から、一部ですでにあるにはあった。桂もほのかに耳にしたことはあったし、それが成ることならば、と考えもした。が、いずれも「もし仮に」という夢見話のたぐいであって、本格的に計画されたわけではなかった。第一、薩摩の底意がわからない。
が、今はそうではない。土佐の坂本、中岡の周旋があり、西郷の意向も知れ、期は熟したようにおもえる。
――あの変で死んだ者たちへの、裏切りになりはせぬか。
誰もがそう思い、誰もがためらった。しかし、
――大義のためだ。
結局は、涙をふるってそうきめた。そして、誰がその交渉役にあたるかといえば、桂しかいなかった。
(あのとき――)
坂本、中岡の両名にすすめられ、馬関で西郷を待ったときのことを思うと、桂はいまでも歯の根がふるえるほどの怒りをおぼえる。ぜひ西郷に会って話せといわれ、旧怨ぬぐいがたく気がすすまない桂であったが、西郷は信ずるに足ると八方かきくどかれて、のこのこ馬関まで出ていった。いま、薩摩は勝者、長州は敗者である。幕府に知られれば命がない自分が、その幕府と結託して長州を京から逐った薩摩の、なかでももっとも声望さかんな西郷に会う。生娘が夜鷹になって客をとるようなおもいで行ったのに、西郷は来なかった。あのときの恥辱を、桂は忘れてはいない。
(それでも、ほかに手はないのだ)
桂は筆紙を投げ出し、首を垂れて、両手につよく袴を握った。苦悶のきしりが、噛み締めた歯の隙間から洩れる。
「どうしろというんだ……」
思わずうめいたとき、廊下に女中の何やら話す声と、続いて聞き慣れた男の声がした。
「桂さん――」
無遠慮に障子をあけ、立ったまま声をかけたのは、めずらしくきちんと袴をつけた高杉だった。
「どうも、お待たせしましたか」
「いや……」
あ、そうですか、とか何とか言いながら、桂がすすめる前に高杉は向かいにやって来てどっかと腰をおろした。ついでに女中に酒と肴を命じている。どうせ桂の払いで飲む気だろう。
「話というのは?」
「ああ……」
と、桂は、今までさんざんそのことを考えていたくせに、とっさに何から話したものかわからない。実はな、と、もごもご言って、あらためてさっきの筆紙をとりまとめたり、畳のちりを拾ったりした。そのあいだ高杉は、ここへ来る途中で犬に吠えられただとか、今年の鱈は脂がのって旨いらしいだとか、太平楽なことを喋っている。
「その、鱈を、俊輔のやつがね」
「晋作」
「あれ」
たまりかねてするどく遮った桂を、高杉がしげしげと眺める。
「これは、お仁王様だ。何ぞありましたか?」
「何かあったかじゃない。おまえ、私に言いたいことがあるんじゃないのか」
「言いたいこと?」
高杉が首をかしげたところで、酒が来た。桂は女中を下がらせ、のっそり腕を出してきた高杉の酌もことわった。仕方なく手酌でやりはじめた高杉へ、
「薩摩とは、盟約するからな」
ぴしゃりといった。
ところが、高杉は「はあ」といったなり、酒のほうへ集中している。桂はさすがに顔を青ざめさせた。
「貴様、聞いているのか」
「えっ」
驚いて高杉が盃から口をはなす。
「聞いてますよ。薩摩がどうしたんです」
「連合の方針は変わらんといっているんだ」
「それは、そうでしょう?」
かえってきょとんとしている。どこまで人を喰った男だ。桂はうんざりした。
「おまえ、薩摩との連合は相ならんと気焔を吐いているそうじゃないか」
ほとんど泣きくどくようにして言った。
「ああ――」
と高杉がはっしと膝を打ったとき、桂の感情の堰はようやく切れようとして、それを抑えようとする努力のために、あと彼の声はしばしばうわずった。
――高杉が、同盟に反対している。
西郷の肩すかしという侮辱をうけ、それでもこれも天下のためと、耐え難きを耐えてふたたび同盟の席につこうとしている桂に、その報せはまさに青天の霹靂であった。
まちがいだろうとはじめは思った。長州のいわば独立自尊を唱える大割拠論をぶった高杉だが、ことここにいたっては同盟のほか長州の、また日本八十余洲の生きのびる道のないことは、彼にもわかっているはずであった。
が、聞くところでは彼はこう言ったという。
「長州は義をもって国事に邁進してきた。今後もあくまで義に拠るべきである。しかるに何ぞ、薩賊輩と連合するなどとは。自らの延命のため義を捨て恥を忘れ、強きに阿ったと後世長く後ろ指を指されることになろう。よしそれは甘受するとも、義を喪って天下のことはもはや成るまい。仮に薩摩との連合に一部の理が立つとしても、今はまだその時ではない。寡兵を顧みて怖じず、防長二州にて存分に戦い、幕府の肝胆を寒からしめねばならぬ。その条理と熱誠の先に回天の曙光は差す」
音吐朗々と高杉がこの説を吐くとき、その五尺の体は仰ぐように魁偉に見え、彼の示す先には鬼神の加護があるようにおもえたであろう。そういう高杉の、才気だけでははかれない一種特別な天稟を、桂はよく知っている。それだけに、
――まずい。
と思ったのである。
まずいばかりではない。
――なぜ今になって。
と桂はいよいよそれが憤ろしく、いっそ情けなくて仕方がなかった。高杉は、自分にあてこすっているのだろうか。自分の変節をなじる気でいるのか。しかし、
「誰が」
と、そこはたとえ言い訳になろうとも、桂は反論せずにはいられない。
「誰が好きこのんで、薩摩の手などとるものか」
桂は膝の上で握った拳を睨み据えて、低く唸るように言った。
「それでも連合せぬことにはどうにもならんのだ。それが、どうしておまえにわからぬ」
「わかってますよ」
「ふざけるな」
高杉がいかにも軽くうけあったので、桂はつい激した。
「いいか、いったんこうと言ったからには、あくまで俺と議論しろ。一体薩長の今日反目する所以は……」
「いや、ですからそれはわかってるんです。僕もこれで目は開いてるつもりだ」
「しかしお前……」
「はあ、まあ、ひとつ僕の持論を聞いてもらいましょう」
そう言って高杉は桂を手で制し、盃の残りをぐいとあおると、胡座の膝をただしく座りなおして、滔々と述べはじめた。
その、言辞の整っていること、論の明解さ、さすがにこの男と、桂は舌を巻く思いだった。しかしそれ以上に面食らったのは、高杉のいうことが、自分の所懐と寸分たがわないことであった。
「晋作、」
と、高杉の口演が果てたとき、狐につままれたような顔で桂は言った。
「それは、さっき私が言ったのと、つまりは同じ話に聞こえたんだが」
「ほぼそっくり同じでしょうな」
しれっとして高杉は答える。
「それで、どうして同盟に反対なんだ」
「反対じゃない」
「はあ?」
「桂さんのいうことは一々もっともです。どこに異存があるもんか」
「じゃあ……」
「僕はそのつもりだが、悲しいかな、藩内にはずいぶん馬鹿がいる。この馬鹿どもの腰が抜けないようにしてやらんといかんでしょう」
つまりね、と高杉は不敵に笑った。
「仮に、僕もふくめて皆が皆、薩摩と連合することの必要を説くとする。それがわかる連中ならいいんだが、そうじゃないのもいる。兵のなかには、一見強い言葉を吐くが、根は臆病な奴も多い。やつらはきっとこう思う。いまわが藩が旧怨をすてて薩摩と組まんとするは、幕軍を恐れるからにちがいない。上の連中は自信がないのだ。この一戦、やはり勝算がないのではないか――」
「…………」
「実際ね、」
たださえやっぱりこれは、一か八かというところがありますよ。薩摩の手を借りるにしても、だ。と高杉はいう。だからこそもう数理ではない。勢いで押し勝たねばならぬ。勢いとはつまり士気である。その士気を――
「沮喪せしめないために、ひとりこの僕ばかりは、心にもない同盟不可論を吐いているわけです」
ね、と上目遣いににやりとやられて、桂はぐっと苦いものを嚥みくだした。たしかに高杉のいうことは筋が通っている。通っているが――
「なんでそれならそうと早くいわないんだ」
「だって、最近忙しかったじゃないですか。俺も、桂さんも」
それから急に子供のような顔をして、
「この間だって……」
と口をとがらせた。
「この間だって、そのへんのことを一度話しておこうと思ってあんたを呼んだんだ。それなのに……」
「ああ……」
思い出した。数日前に高杉から話がしたいと手紙をもらった。だが桂は、所用があってそれをことわったのだった。
「仕方がないじゃないか」
「わかってますよ、そんなことは。だから俺だって健気に敵も味方もあざむいて、もののわかった人たちからは馬鹿だなんだと後ろ指さされながら、心とは裏腹のつまらん議論をぶってたわけだ。その心が通じないとは、」
ずい、と高杉は膝でにじって桂の脇により、
「つれないな、桂さんは」
つつ、と人差し指で襟をなぞった。
「気持ち悪い奴だな」
「どうせ俺は同盟の理非もわからなさそうな、頭のいかれたろくでなしですよ。気持悪くて結構。あんたもちょっとぐらい気を揉めばいいんだ」
「気を揉んだからこうしてお前を呼んだんじゃないか。俺だってずいぶん同盟の件では頭を悩ましているんだ」
桂は高杉の手を振り払い、
「誰が好きこのんで……」
と、ここ一年有余の苦衷に縊られるような声でうめいた。
「それはさっき聞いたよ」
高杉はさすがにその心情は察するらしく、悵然として言った。
「だからこのへんがしおかと思っていたんだ。僕個人としてはあくまで同盟論は採らぬが、しかし藩論すでに……」
と、そこで桂がひきとって、
「藩論既に一決し、君公の御命が下った上は同盟やむなし、か」
「なんだ、わかってるじゃないですか」
「だからなぜはじめからそう言わないんだ。一度はそれは、話しそびれたかもしれないが……」
「でも結局桂さん、わかってくれたじゃないですか」
「まわりくどいんだお前は」
「桂さん」
高杉の手が、桂の膝におかれた。
「結局は俺を信じてるわけだ」
「お前のようなのでも信じなけりゃ、もうほかに人はいないからな」
目をそらしたまま、眉根を寄せて桂がいうのを聞いて、高杉は
「そうか」
と笑った。
「ずいぶん、死にましたからね」
それは胸のかきむしられるようなやさしさと、しずかな寂しさのにじんだ声だった。横を向いて、桂は小さく頷く。
「……ああ」
「あんたも死んじまうんじゃないかと思った」
「いっそそれがよかったかもしれないな」
目をとじる。網膜につぎつぎと、息ぐるしい映像ばかりがちらつく。禁門を焦がす炎、同志たちの死を告げる手紙の数々、京を落ちる途中の空の暗さ、啼く鳥の寂寞たる声、但馬でのもどかしい日々。
ぐっと肩を抱き寄せられ、あたたかいものが唇にふれた。
「そんなことは俺がゆるさない」
「晋作」
「あんたが怒り出すかどうかは賭だった」
え、と目を開けると、照れ臭さを奥歯で噛み潰したような、苦い顔で高杉が笑っていた。
「今日ここへ来て、あんたが怒っているのを見て、俺は心底ほっとした。あんたはやっぱり桂小五郎だ」
「……さっきから言おうと思っていたが、木戸貫治、だからな」
「そんな変な名前はどうでもいい」
「お前、殿が」
殿がつけてくださったんだぞ、という桂の口は、ふたたび高杉の口づけに塞がれた。
「あんたが結局は俺を信じたように、俺にもよくわかった。あんたは大丈夫だ。きっと死なない。死なずにやり遂げる」
「なんで他人事なんだ。お前もせいぜい働けよ」
「あんたがいるかぎり、な」
こつ、と音をさせて額をくっつけられる。間近で見た高杉は、なんだか情けないような、それでいて妙に男臭い笑みをうかべていた。
「……はめたな」
「好きですよ」
「お前ぐらい憎らしい奴はいないな」
そう言って、しかしもう一度目をとじる。その瞼に高杉の口づけが下りてくる。触れるたびに、暗い瞼の裡に、光が明滅する。
「桂さん」
高杉の息が桂の睫毛をそよがせる。
「俺は必ず幕軍を蹴散らすよ」
「そんなことは知っている」
「難しいとは思わない」
「ああ」
「戦陣で命を張るより苦しい仕事があるだろう」
「晋作……」
はっとして見上げた目を、また高杉の唇がおさえた。とじていろ、という。耳だけで聞いていろ。余計なものは見るな。
「その苦しさを、俺はずっと忘れないことにする。大砲の轟音、白刃の閃きのなかにいても、俺はその苦しさを思う。だから、」
あんたも、揺らいでくれるな。熱い息で高杉は言った。
「かならずこの一挙、成功させる。幕府をひしぎ天朝をもりたて、回天の壮挙かならず成さねばならん」
「そんなことは、」
と、高杉の唇の下で目をとじたまま、微笑んで桂は言った。
「お前にいわれなくてもわかっている」
「頼もしいねえ」
「あたりまえだ」
桂が目をひらき、二人は数瞬見つめあった。
どちらも、何ともいいようのない憂いと、殺気に似た熱情と、ある種のだらしなさを綯い交ぜに塗り込めたような顔をしていた。
遠くに宴席の賑わいが聞こえる。幾枚かの障子に隔てられたそれは、きれぎれにまるくやわらいで、合間に二人のいる部屋の灯心が焼ける音が、じじ……と鈍く響いた。
不意に、高杉が動いた。
桂の襟が強くつかまれて、ぐいとくつろげられる。筋の層の厚い、しかし男にしては白い胸が露わになるのを、桂は自分でだまって見ていた。と、唇を吸われ、舌が絡められる。
「抱かせて、くれるでしょう?」
今日を逃せば、あとしばらく会えないかもしれない。そんなことを、さっきまでの押しの強さとはうってかわって、弁解するように高杉は言った。
「そうだな」
桂は両腕を高杉の背にまわし、ゆっくりとうしろに倒れこんだ。心得たように、高杉の爪先が、行儀わるく膳部をむこうにどける。かちり、と、器のふれあう音がした。
「灯りは」
「好きにしろ」
それから。
「なあ、晋作」
桂は小さく歌うようにつぶやいた。人の顔のような天井のしみが、こちらを見つめているような気がする。あれは、あの顔は誰かに似ている。
「女々しいようだが、私は但馬で、ああ死ぬべきだった、今からでも死のうかと、何十遍も、何百遍も思ったんだ」
「それはもうよしてくださいよ」
高杉が宥めるように胸を啄む。その感触のやさしさに吐息を洩らしながら、まあ聞け、と桂はつづけた。
「思ったけれど、死ななかった。それが正しかったのかどうか、正直いまでもよくわからなくなることがある」
「生きてるうちは皆、そうでしょうよ」
「ことに西郷に一杯喰わされたときは、やはりそうだ、やっぱり死んでおくべきだったのだと思った」
「死なせねえよ」
「うん」
そこで一旦自分のことばの苦みをあじわうようにかるく唇を噛んだ。そうして高杉の顔をひきよせ、口を吸った。空いている手で器用に高杉の着物を剥いていく。
「だから、な」
と、ふたたび口をひらく。
高杉の裸の背を撫でると、彼がぞくりとふるえたのがわかった。その目を黒く鋭く光る瞳で射抜き、
「私はたぶん、去年の夏以来ずっと、死にあこがれつづけているんだ。その私をぜひにもとどめおいて抱くというならせめて」
にっと、しなやかな夜の獣のように笑った。
「もう死ぬ、と思わせてみろ」
「……――」
高杉は桂の肌をまさぐっていた手を止め、瞳を覗き込んで、ちょっと目を見ひらいた。が、すぐにその表情をかき消すと、桂よりもいっそう目をぎらぎらと光らせて笑い、
「思わせるどころか」
と舌なめずりした。
「死ぬ死ぬって泣き叫ぶぐらいにしてやるよ」
「面白いな。お手並拝見」
「本当に死なせちまったらどうしよう」
「俺が死ぬほどよがるくらいなら、お前だって危ないんじゃないのか」
「ふん。まあ試してみましょうよ」
高杉から噛みつくような口づけが送られる。それを合図に、あとはもう、熱と吐息と、体液のぬめる音だけが薄明かりの六畳間を支配した。
無意識であったのか、それとも戯れたのか、彼自身記憶にないことだが、最後の瞬間、桂の唇はたしかに、死ぬ、と紡ぎかけた。しかしそれはむしゃぶりついてきた高杉の唇に激しく吸われ、互いの痙攣の波間にのまれて消えた。
[30回]
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