若い時分から、あまり眠りの深い質ではない。
今夜も肩口から入りこむ夜気にたやすく眠りをやぶられた。うすくあけた目を物憂さのなかに動かすと、闇にぼんやりと白い背中が浮かんで見えた。
その背の見慣れない広さに、大久保は、ゆうべ、自分でも意外な相手と同衾したことを思い出した。
今、襦袢をはおりつつあるその背を、まるで知らないわけではない。だがいつもそれは服の下に隠れ、動作につれてできた皺からわずかに、存外堅いらしい筋のありかを知るにすぎなかった。否、それすら意識して見たことはなかった。まして、触れたことなど。
「理由を、」
と、大久保は横になったまま、その背に向かって問いかけた。肩越しに白い顔が振り返る。
見られていたことを知っていたかのように、突然の声に驚いたようすもなく、木戸は闇をまとって微笑んだ。
「理由をお聞かせねがえますか」
大久保がもう一度、今度はしまいまで言うと、木戸は帯を巻きつける手を止めたまま、笑みの上にさらにあざやかな夜の翳を上せた。
「理由、とは?」
反問されてことさら無視するつもりもなかったが、大久保は口を引き結んだまま答えなかった。
晩秋のことで、雨戸はぴたりと閉ざされているし、隙間を洩れる月もない。灯りひとつない闇のなかで、しかし埋み火のくすぶるように、木戸の白い肌と白い肌着が朧に浮き上がるのを、魔魅に逢うような変に茫然とした心持で眺めた。
木戸はなおも大久保の返事を待つ表情で、ひたとその微笑の眼をこちらにつけている。そのくせ本気で訊いてなどいないことは、大久保にはわかりきっていた。この場合大久保がいった「理由」の意味が通じぬはずはない。木戸は知っていて、そのうえ大久保がそれに気づいているのまですべてわかったうえで、ただこちらを見ている。
二人はしばらく無言で見つめ合った。
先に動いたのは木戸だった。
「ああ、寒い」
急にあたりの寒気に気がついたように、笑いながらぶるっと大きく身震いして、布団にもどってきた。
「今のうちに帰ろうかとも思ったけれど、やっぱり」
冷えますな今夜は、と言って、大久保が迷惑げに鼻を鳴らすのにもかまわず、冷たくなった体をおしつけてきた。
「このまま眠る気ですか」
「ええそう……いや眠らなくてもかまいませんが。……まだ?」
あだっぽい眼で問いかけてきたのを受けはずして、
「なぜ、です」
もう一度、さっきと同じことを尋ねた。
「なぜって」
今度はとぼけるふうでもなく、ただすこし面倒そうに木戸は笑った。勝利者の顔をしていた。維新の宿願が一応は叶えられても、政府の中で輿望人に超えても、一度も「勝った」そぶりを見せたことのない木戸の、それは妙に皮肉さの滲んだ得意の表情だった。
「答えてほしいんですか、そんなこと」
「是非」
「野暮ですねえ」
ゆうべその瞬間に見せたような、ほとんど恍惚とした風情を大久保にさらして、木戸は眼を細めた。
旧幕の頃の慣習を襲って、御一新後も一と六のつく日が官庁の公休日になっている。昨日はその六日だった。
大久保は終日家にいて、来客の相手をしたり書見をして過ごしていたが、夜になって門を叩いた者があった。柳橋の料亭から来たという男は、木戸の使いだった。
店の名は大久保も知っていた。女将は四十年配だが襟足のあたりがいかにも粋で、かつて名妓と謳われた頃の面影を存分にとどめている。座敷を引退するとき旦那がもたせてくれたのが今の店で、女中にも芸者上がりが多いと聞く。墨堤の水に洗われた女たちのもてなしはさっぱりとして、座敷の心得があるだけに口は堅かった。上方にゆかりがあるとかいう女将は、旧幕の頃から江戸者にはめずらしく西国びいきで、そのため今の政府の連中にも維新前から店に馴染んだ者が少なくない。大久保は江戸は不案内であったからよく知らないが、木戸は古なじみの一人であるらしい。そんな話を、木戸本人だったか、ほかの誰かから聞いたおぼえがある。
その、木戸には旧知の料亭で内密に話があるという。大久保はすでに床をのべたあとだったが、すぐに着替えて出かけた。
話というのは廃藩置県後の府県統合に関することで、たしかに外に洩らすようなことではないが、かといって極秘を要するような用件でもなかった。明日役所で話してもいいではないかと思ったが、例によってそれはおくびにも出さず、大久保は木戸の話にいちいち頷いている。
木戸は終始上機嫌だった。大久保はそれを、自分の傾聴の態度のせいとみた。そこに、自惚れがあった。
ひととおりの持論を開陳して、木戸は満足したのか、やがて話頭は他愛ない世間話へおちていった。大久保もぽつりぽつり、口をきいた。酒が出て、木戸はにこにこと銚子を空け、くにの芸者がうたう唄だといって、頼みもしないのに端唄を口ずさんだりした。割合にいい声だったので、大久保は正直にそう言ってやった。大久保はまさか唄いはしなかったが、酒は彼にしては過分なほどよくつきあった。
「ああ、酔った。実に今日は、」
気持がいい、と言って、やがて木戸は盃を投げ出した。両手を体の横につき、首を垂れている。そうして何がそんなに愉しいのか、寛げた和装の襟の中で、くすくす笑っている。
「大丈夫ですか」
大久保は糊のきいた洋装の膝を正しく揃えたまま、木戸に向きなおった。
「どうでしょう」
木戸が笑いながら首をかしげる。
「大丈夫そうですか、あなたからご覧になって、私は」
「少し過ごされたようですな」
「なるほど」
「水か茶をもって来させましょうか」
そういう大久保も、視界が朧になりつつある。
「いいんですよ」
女中を呼びに立とうとした大久保の肩を、木戸が押さえた。酩酊しているくせに、力は強かった。
「はなから次の間に床をとってあるんです。ここから麹町まで、すこし遠いので」
「ははあ」
自分は泊まるつもりで来たというわけか。迷惑な、と大久保は思った。大久保の裏霞ヶ関の家だって、ここからの距離は木戸邸と似たようなものである。が、大久保は無表情のまま、木戸の腕をかるく押しかえして立つと、次の間との間の襖をあけた。木戸の言ったとおり、布団が一組敷かれている。
「もうお寝みになりますか」
ふりかえって木戸に問う。そうしたほうがいいだろう、という語調である。それから、自分はもう退散するから、という意味の挨拶をみじかくのべた。
が、大久保の言葉が届いているのかいないのか、木戸はだらしなく脚を伸ばしたまま、あいかわらずくすくすと笑っている。
「お寝みになるでしょう」
大久保は溜息をつき、席まで戻ってもう一度言った。
「ええ、そうですね」
「立てますか」
「どうかな」
「肩を、」
お貸ししましょう、と腕をとると、木戸はふふ、と声を洩らして、素直に大久保にもたれてきた。そのまま立ち上がり、次の間の床の上まで、なかば引きずるように木戸を支えて歩く。
(まったくとんだことだ)
大久保はこの仕儀をいまいましく思いながら、しかし一点、不思議の感にうたれていた。
下戸のうえに宴席の苦手な大久保と違って、茶屋酒は木戸の、というより長州の得意とするところである。木戸もまた酒にかけてはかつての志士の風貌をうしなわず、低唱浅斟よりも潰れるまで飲む派であった。だから木戸の酔態は大久保も何度か見たことがあるが、さすがに自分のような他藩の者を相手に、こうまでだらしなく酔ったことはなかった。
だから無論、こうして肩など貸すのははじめてのことである。
腕を引き、ずり落ちていかないように反対の腰をおさえながら、
(やはり、さすがに)
と大久保は思った。
触れてみてわかったことが、木戸の体は肉が堅く、厚い。そのかみ剣豪で鳴らした面影が、今では誰にも知られぬ服の下にひっそりと息づいているのだろう。そうして普段の彼が睡りつつあるこんなときにだけ、服の下で生きているそれは、その存在をそっと外にむけて訴えるのだ。
(埒もない)
大久保は木戸を布団の上に下ろし、首を振った。今夜は自分も酔っているのだ。重い体を支えて歩いたことで、さらに酔いがまわったらしい。
と、
「大久保さん」
下ろされた格好のまま、木戸が見上げてきた。その眼も声も、大久保が一瞬はっとしたほど澄んでいた。
「帰れますか」
さっきまでとはちがう表情で、木戸は笑っていた。
「帰ります」
「でも、酔ってらっしゃるでしょう」
「ええ、ですが」
言いかけて、すぐには立てず、大久保は額に手をやった。
「あなたもやすんでいかれたらいかがです」
今度はあべこべに木戸がすすめた。
「いや、しかし」
「大丈夫ですよ。いいじゃありませんか」
気軽そうなその口ぶりとは裏腹に、闇を溶かすように、どろりと木戸は笑った。
「寝ましょう。大久保さん」
「ね」の音をことさら肚にこたえるように発音して、木戸は言った。唾液の湿りまであらわに見えるような声と、酒に侵されているのとはちがう、深く潤んだ眼に、大久保は凍りついた。
ふだんが感傷屋のせいばかりではあるまいが、木戸は房中でもひどく刺戟に弱く、その悦びは深かった。腕の中にある体は重く堅いのに、繋がっている部分で感じる木戸は、熱くやわらかで、底のないうねりを繰り返していた。大久保はふと、夜の海を思ったりした。その海のなかで、大久保の冷厳さはたやすく砕け、蕩けきってうねりの奥へ消えた。最後には泣いて哀願する木戸をおさえつけ、慾の奔騰するまま蹂躙した。
(なぜ)
とは抱いている最中にも何度も思った。
なぜ抱いているのか、ではない。自分とて挑発されれば欲情する。故郷(くに)の風習で、男どうしということに別段抵抗はない。だが、長州はそうではないはずだ。というよりも木戸は―――。
(なぜ、誘ったのか)
女相手ならば気にもとめなかったろう。男女にはもののはずみということがある。男どうしでもあるいはあるかもしれない。だが、自分と木戸の間にそれがおこりうるだろうか。
(罠、なのか)
考えてすぐにうち消した。木戸にはこちらに対して恨みも打算もあるにちがいないが、それこそ女ではあるまいし、そこまで安い手をぬけぬけと打つとは思えない。だとすれば……しかし……―――。
大久保がそうであるように、木戸もまたこの情事に没入しきってはいなかった。熱のからみつくような媚態にどこか空々しさがあるのを、大久保は密着した皮膚をとおして感じていた。
だから、ことが畢わってともに眠り、その眠りもやぶられたとき、大久保は訊いた。
「理由を」
「なぜ」
と。
素肌のまま眠っていた木戸は、襦袢だけを着けて床に戻ってきた。そうして夜気に冷えた腕を大久保の首に回しながら、その問いを野暮だと笑った。
「いかにも私は、このとおりの不調法者ですから」
笑いもせずに大久保は言った。声をあげて木戸が噴き出す。
「面白い方だ」
「べつに冗談のつもりはありません」
「寝ておいていまさら理由を訊くなんて、ひどいな」
「ご気分を害したなら詫りますが、ここは枉げて答えていただきたい」
「ずいぶん色気のない尋問をするんですね」
あまりお愉しみいただけませんでしたか、と言うのでそれは否定すると、木戸は笑いながら両掌に大久保の頬を挟み、
「なぜ抱かれたかってそれはあなた、」
親指の先で大久保の唇に触れた。
「惚れているからにきまってるじゃありませんか」
「それは」
指が口の中へ差し入れられるのに大久保は顔をしかめながら、
「嘘でしょう」
「どうして」
「どうしても嘘です」
「女のような物言いをなさるんですね。あなたらしくもない」
「あなたがごまかそうとなさるからです」
「ごまかしてなんかいませんよ」
お慕いしておりますよ、心から。そう言って木戸は顔を寄せ、大久保の反論を封じるように口を吸った。
「お慕いしているからこそ、恥を忍んで東京にいて、職名を汚しているじゃありませんか」
そうでしょう? と挑発的に眼を細める。細められたなかにも、瞳は情欲の名残を湛えて妖しくかがやいている。
「ゆうべ私の話をずいぶん熱心そうに聞いてくださいましたが、実際上はまあ十分の一も私の申したようにはなりますまい。あなたのお説はうかがわなかったが、いずれ私と折り合わないことは心得ておりますよ」
「私は万事木戸さんの驥尾にしたがって……」
「よしましょう、それこそ嘘だ」
つ、と指先で大久保の首筋をなぞりながら、
「ですがもう、それはいいんですよ。何度あなたに騙されても、結局私は逃れられない。大官の空名だけを与えられて、志は折れ、人には嗤われて、それでもこうしてあなたに抱かれたいがために私は戻ってくる」
「まさか」
「惚れているんですよ。身も世もないほど」
「ご冗談を」
「冗談で女郎の真似なんかしませんよ」
木戸は大久保の体に冷たい四肢をからめ、首筋に顔をうずめた。
「だから、ね」
大久保のうなじに染みこむような声で言う。
「あなたはあなたのやりたいようになさればいい。ただしときどき、私のことも思い出してくださいね。何度鞭打たれても、血と涙と泥にまみれて、あなたにとっては愚にもつかぬ駄論を啼きわめいている私を」
そう言いながら、木戸は自分の言葉に昂奮したように、大久保の髪に指をさしいれ、耳朶に舌を這わせた。ぞくりと快感を煽られながら、大久保は一度木戸をひきはがし、正面からその眼を見据えた。
唇だけで、木戸は笑った。
大久保は射るように木戸の眼の奥を見つめ、無言のまま口づけた。そうして、片手でそっと、木戸の瞼を下ろした。木戸の言い分に納得したからではない。むしろ惚れていると言った彼のことばは、ますます白々しく響いていた。
木戸に惚れられたいわけではない。木戸の体の妙味は知ったが、だからといって木戸という人間に特別な興味は沸かなかった。しかし、木戸が自分に抱かれたがったわけを、というよりもそのわけをふくめて木戸が湛える深淵のほんのはしのところを、大久保はのぞき見たような気がした。
「惚れている、からです。それでいいじゃありませんか」
大久保は何も言いはしないのに、熱にうかされた声で、かきくどくように木戸が言う。
「あなたのほうには色々思惑もおありでしょうが、私はいたって単純なんです。ただあなたが欲しい、あなたに抱かれたい――……」
木戸は低く笑いまぎらして言っているのに、その声は大久保の耳には、悲鳴のように聞こえた。
“いたって単純なんです――”
(ああ、嘘だ)
と思いながら、木戸がさっき着けたばかりの襦袢を剥ぐ。
(つまりは、煩わしいということか)
木戸がいわなかった結論を大久保なりに導いてみると、どうしてもそこに彼一流の味気なさが吹きとおった。が、おそらくそうはずれてもいまい。
疲れた。簡単にいってしまえばそういうことなのだろう。
木戸をあまり好まない連中は、彼を書生臭の抜けない感情家だという。が、一面たしかに存在する木戸のそういう傾きにいちばん悩まされているはずの大久保は、木戸を情に訴えて籠絡できるとか、理想論にころぶ青書生だと見たことは一度もなかった。木戸は柔ではあるが弱ではない。
志士とはただの慷慨家ではない。ときに譎詐奸謀のたぐいもやらねばならないし、また仮にやらぬとしても、敵のそれに乗ぜられないだけの智恵はつけておかねばならない。木戸の温顔の奥に、そうした志士としての凄味が重くすわっているのを、大久保はおなじ風雲を経てきただけによく知っていた。木戸はしたたかというのとはすこしちがうかもしれないが、甘くも軽くもないことはたしかだった。彼の思考の径路もそこから繰り出される手段も、実は相当に複雑である。
(不幸なことだ)
と大久保は思う。大久保は木戸の理解者になるつもりはないが、やむをえざるつきあいのなかで彼の観察するところ、木戸のいかにも古株の志士らしいある種の底の暗さと屈折は、まず天性の彼の持ち前ではない。時代の風雲が彼をそのように鍛えただけのことで、本来性格的に適いていたかといえば、むずかしいところである。時勢というのはいつもそうしたものだから、別に木戸に同情心はわかないが、ただ観察の結果として(不幸だ)と思うのである。
ねだるように木戸が吐息を洩らすので、大久保は首から胸へ、時折強く吸い上げながら唇を這わせた。
木戸が自分に惚れていないように、大久保もまた、木戸にどうこうという思いはもっていない。それでも誘われれば抱けるのは、木戸が自分を誘うのとはまったくちがう感応の所為だった。
たとえそこに血が通わなくとも、複雑な駆引のなかだけで、十分に大久保は生きていけた。悪意と謀略と利害関係と。そういうかかわりかたが世界のすべてだったとしても、自分は深刻な痛痒を感じないだろう。そして駆引というのは、勝つこともあれば負けることもある。敗北の惨めさにまみれても、次の策を練ることだけを生き甲斐に、自分は泥の底で呼吸ができる。
木戸も、長らくそうして生きてはきたのだろう。
「大久保さん」
陶然と、しかしどこか底光りのするものを秘めて、木戸が眼をほそめる。
「何を考えてらっしゃるんですか」
「あなたのことです」
にこりともせずに大久保は答えた。
「それは嬉しいな」
「そうですか」
「ええ、とても嬉しいですよ」
そう言って下肢をいっそう密着させ、そこが互いに触れあうようにする。大久保の熱があがり、木戸の肌は粟立った。
「女じゃないんですから、どんなふうに扱ってくださっても結構ですよ。孕みませんし、あとで面倒なことも言いません。いいでしょう」
大久保が木戸の準備をととのえようと後ろに伸ばした指を拒んで、早く、というように木戸は脚を開いた。
「だって、惚れた私の負けなんですから」
負け、といいながら、木戸はやっぱり勝利者の顔をしていた。しかし同時に、大久保がこれまで見たことのないような、寒々した表情でもあった。
「いっそ本当に惚れてみてはどうです」
「だから、本、当……っ、」
さすがに苦しそうに、木戸は大久保を受けいれた。喘ぐ息の熱が、本物なのかどうか、大久保にはわからない。ただ、慾の深い裂け目のような粘膜だけが、正直に快楽を追い、潤んで蠕動する。その粘膜はたしかに木戸のものなのに、木戸の矜持もかなしみも、悔恨ももの憂さも宿してはいなかった。その粘膜だけが大久保に触れ、それによってやがて木戸は一個の肉塊となってうごめき、喘ぎ、啼く。
「難儀な方だ」
好いてはいない。寄り添うつもりもない。
ただ風雲を生きたかたみとして、おなじ時勢の爪痕をきざまれた命を、夜をこめて激しく、大久保は抱いた。
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