肩で息をしながら勢いよく扉を開けると、寝台の脇には大久保が座っていた。
「あ、どうも――」
一応非礼を詫びはしたものの、それどころではない。いっそ大久保を押しのけたい衝動をどうにかこらえて、寝台に横たわる木戸の顔を覗き込んだ。
「容態はいかがです」
眠っている木戸のかわりに大久保に尋ねると、彼はいつものように表情をうごかさず、
「ご覧のとおりです」
実に憎体な返事をした。井上は詰め寄りそうになったが、大久保もそこはさすがに愛想がなさすぎると思ったのか、
「今は落ち着いているようです」
と低い声でつけたした。
「今は、というと――」
「すでにお聞き及びかと思っていましたが」
「伺いましたが……それでは、」
「あなたが聞いたことで全部でしょう」
大久保の額ぎわに髪が一房ほつれかかって、蒼い影をつくっている。その影の下に落ち窪んだ目を曇らせて、彼はそれ以上なにもいわなかった。
大久保が立ち上がったのと同時に、井上はふらふらと彼の掛けていた椅子の前まで来た。そうしてすすめられもしないのに、また掛けたいと思ったわけではないのに、彼と入れ違いにそこへ座った。ほとんど腰が抜けていた。
(全部――……)
井上が木戸の病状についてどう聞かされたかなど、大久保が逐一知っているわけはあるまい。それでも双方の聞いた内容にさほどの懸隔がないことは、大久保の蒼ざめた表情でよくわかった。
(俊輔は……)
伊藤は、もう木戸邸へ着いただろうか。
大久保に呼ばれたあと、井上に木戸の急を報せた彼は、今はそれを伝えに木戸の家へ向かっているはずだった。彼はうまくやるだろうが、しかしこの世にただ木戸ひとりを頼って生きているような彼の妻に、何をどこまで伝えたものだろう。
――何も今日、明日どうこうなるというんじゃない。
伊藤の口調は、つとめてみずからを慰めようとしているように聞こえた。そうしてその空しいことも、かわいてふるえる声におのずからあらわれていた。
――今日、明日というんじゃないが、しかし……――――
そこまで言って伊藤は深く項垂れ、あとはようやく聞きとれるほどの声でつづけた。十年永らえることはおそらくないと――それは伊藤や自分の腸をかきむしるには充分な内容の宣告であった。
それから、伊藤はいくらかふらつきながら、木戸家への使いをみずから買って出た。木戸の居場所を告げたついでに、彼はそこに大久保が付き添っているのだと言った。
「あの人もずいぶん、こたえているようだった」
倒れた木戸の体を抱き、人を呼んた大久保は、駆けつけた伊藤が初めて見る狼狽の色を痩せた面いっぱいに上せて、むしろ彼のほうが病人のように、襯衣(シャツ)の襟を汗に濡らしていた。その後の医師の診察には伊藤も立ち会ったが、大久保はひどく蒼ざめて、なにか憤怒に似た表情をうかべてその宣告に聞き入っていたという。
(憤怒、ね)
井上は深く溜息をつきながら、木戸の白い寝顔を見おろした。彼と大久保との濃く緊密な紐帯――といえば木戸は身ぶるいしていやがるだろうが――を、あらためてふしぎなものに観じた。たがいに煩わしく思いながら、しかしどうにも切れぬ間柄である。こうして、木戸が体の自由をうばわれた病人になってさえ。その本人たちにもどうしようもない因縁が息苦しくて、大久保はきっと怒ったような顔をしたのだろう。単にともに国政にあずからねばならぬという以上の羈絆が、かれらをぎりぎりと縛めつづけているのだ。
それがどういうものなのかは、井上には(おそらく木戸や大久保にも)さだかにはわからないが。
(ともかくも、俺は)
あんたを失うのはごめんだと、口のうちで低くつぶやいた。
夕刻ようやく目をさました木戸は、釣台に体を移されて、自邸にひきとっていった。井上は玄関先までそれを送ったが、先に伊藤から事態を知らされているはずの木戸の妻と顔を合わせていたくなくて、すぐにひきかえした。帰りぎわ、木戸は弱よわしく井上の手を握り、わずかに微笑んだ。ものをいうのも気怠そうだった。
それから数日間、廟議は進捗せず、緊迫のなかにもぬらぬらと日はすぎていった。
大久保も西郷も互いに沈黙したままの重苦しい会議が終わった夕方、帰宅すると木戸からの手紙が届いていた。衣服を替える間も惜しく、暮れなずむ日の窓明かりで披いて見ると、存外手蹟はしっかりとしていた。先日の礼と、ここ二、三日で小康を取りもどしたことが書いてある。食い入るようにそれを読んだ井上は、そのまま小走りに玄関へ戻り、靴をつっかけて外へ出た。大声で馭者を呼びつける。
馬車に揺られている間、何度かその手紙を読みかえした。見慣れた木戸の字を眺めていると、今すぐにでも会いたい気持と、それとは逆に顔を見るのをおそれる気持とがこもごも湧きおこって、その鋭い奔流に鼻の奥がつんと痛くなった。
あの日昏睡している彼に付き添って以来、井上はその姿に接していないのである。恢復したときけば飛んでいってたしかめたいと思う反面、もしも彼が思ったやつれていたらというぎゅうっと胃の腑の縮むような恐怖もあった。馬車を走らせておきながら、井上はまだ、子供のようにぐずぐずと逡巡している。
東京の街はそう広くはない。車はすぐに木戸の邸の前に着いてしまった。位階相当の礼をもって馭者に見送られた井上は、かたちだけでも胸を張り、大官らしく重々しく歩いてみせねばならなかった。
そんなつまらない日常と非日常のくさぐさを、木戸に語ってみたかったけれど。
井上が室に通されると、彼は床の上に起きあがって、来たか、と手をあげて微笑んでみせた。思ったほど痩せてはいなかったが、ほつれ毛をまつわりつかせた頬が透きとおるように白かった。それだけでもう井上は胸が塞がるような気がして、ものもいわずに床の脇へ座ると、彼の寝巻の背をさすった。
「どうしたんだ」
と木戸が笑う。
「どうしたじゃないでしょう」
ぐっと喉がつまって、なんだか変な声が出た。
「悪かったな。もうだいぶんいいんだ」
木戸の手が井上の膝に置かれる。よく知った温もりに、体の奥の、骨よりももっと深いところがじんと痛んだ。
「いつから御不快だったんです」
「いつといって……腹具合の悪いことくらいはあるじゃないか」
「そういうことを訊いてるんじゃないって、あんたわかってるでしょう」
いつから無理をしていたのか。どうして隠していたのか。調子のよくないことは知っていたが、まさかそれほどの重態とはおもわなかった。帰朝後まもなくはよく抱き合っていたが、最近は西郷ら征韓派への対応に追われてなかなか時間がとれなかった。木戸が出てこないのも、それはそれで彼の政略なのかと思っていた。自分の迂闊さが呪わしい。
「……俺は医者じゃない」
木戸の体を抱き、首筋に口づける。腕のなかでたしかめてみると、その体の細くなっているのがあきらかにわかった。
「医者じゃないからあんたを治すことはできないが、それでも何も知らされずにいるのはいやなんだよ」
「俺の体のことは、お前には……」
「関係ないなんていうなよ」
指先が食い込むほど、薄くなった肩を強く抱いた。木戸はおそらく痛いにちがいないが、なにもいわなかった。
「あんたになくても俺にはあるんだよ」
帰朝後木戸に初めて会ったのは、正院の廊下だった。すでに官を辞していた井上は、しかし征韓さわぎのことが気にかかって時折様子を聞きに来ているのだったが、その日の帰りがけ、ちょうど非公式に帰朝の挨拶に登院した木戸と出くわしたのである。
元気そうだな、とか何とかいう木戸の腕を引っ張って書庫になっている空き部屋へ連れ込み、壁に手を突かせて立ったまま犯した。木戸の中がひどく狭くて、それは長らく――ドイツで大久保に別れてから誰にも触れられていないせいなのだと思ったら、胸が破れそうなほどに昂ぶった。場所柄を気にして木戸は声を噛み、けれど最後にはすすり泣いて、もう死んでしまう、と訴えた。
あの体はたしかに、洋行前とかわらぬ体であったはずなのに。
「どうして泣くんだ」
木戸の声がやわらかに耳朶を打つ。痩せた腕が、井上の背中をさすっている。
「泣いちゃいねえよ」
すんと強く鼻をすすると、木戸は井上の首筋に顔を埋め、悪かったよ、と小さな声で言った。肌にふれるその吐息があたたかくて、病人だとは思いながら、井上はきつく木戸の体を抱きしめた。
「あんたに休んでいろといえるほど、俺や俊輔は使いごたえのある男じゃないかもしれねえけどさ」
それでも、身勝手かもしれないが木戸の体をいたわりたい。少しでもつらくないように、彼が心穏やかでいられるように。木戸にそう伝えたかったが、彼はすべて呑み込んで微笑うだけのような気がして、井上はただ口づけだけをその唇に落とした。
「もう、横になりなよ」
疲れたろう。名残惜しさに胸を刺されながらゆっくりと体を離すと、木戸は井上の肩をつかんだまま、こころもち首をかしげた。
「抱かないのか」
口許に、淡い寂寥が匂っていた。それは井上に抱かれないことをかなしむのではなく、なにかもっと深い、しかし漠とした喪失にむけられていた。
「抱かねえよ」
井上は頭を掻いた。それがどういうわけなのかいまだにわからないが、木戸の体からはいつもなにか、甘いような香りがする。その香りに酔い痴れてしまえれば幸福なのだが。
「病人に無体を働くほど落ちぶれちゃいねえよ」
と言うと、木戸は滲むような微笑をうかべて井上の髪をかきあげた。
「大久保もそう言ったよ」
「来たのか、あの人」
「ゆうべな。すぐ帰ったが」
なんだか怒っていたよ、と木戸はこまった顔をする。そりゃそうだろう、と井上は溜息をついた。こればかりは木戸よりも大久保に同情する。あの男は決して木戸を恋しているわけではないが(そしてそれは木戸の側でもおなじことだが)、いっそ恋よりも強い執着のあることを、井上はかねがね察している。不調を匿された挙げ句、そちらには関わりがないという顔をされれば、さすがの大久保の感情も波立つであろう。
「気の毒だな、大久保さんも」
「なにが気の毒なんだ」
「あんたにゃわかんねえよ」
寝巻の襟から覗いた木戸の肌の白さが目に痛かった。
木戸の家を出ると、蒼い宵闇の色がとろとろと路上に流れでていた。
「歩いて帰る」
というと馭者はあわてて止めたが、強いてかれらを先に帰し、井上はひとりで青黒い景色のなかを歩いた。
夕日の最後の残光、そのあえかな明かりをうけて――そのほそい光すらまぶしそうに微笑んでいた木戸の顔を思いうかべる。いくぶん面やつれしたものの、そう重病人には見えなかったが。
それでも、十年先の世に彼はいないというのだろうか。
わずかに二月ばかり前、この腕のなかで、滾る熱に貫かれてふるえていた体。放してくれ、と懇願されたのを聞こえないふりをして、深く繋がり、何度も苛んだ。
『もう、死ぬ……』
しゃくりあげながら口にした木戸の耳もとに、あのとき井上は、無上の愛(かな)しみをこめてささやいた。
『一緒に死のうか』
と。
(結局聞きそびれたんだっけな)
小石をひとつ蹴りながら、井上は上衣の衣嚢(ポケット)にぐいと両手を突っ込んだ。
白い体を揺さぶりながら尋ねたあのとき、木戸はすすり泣くばかりで、何も返答しなかった。井上も、強いて答えさせようとは思わなかったが。
(まんざらその場かぎりの睦言でもなかったんだけどな)宵の空をふりあおぐようにして首をひねると、木戸の邸のあたりは濃い闇だった。その闇にどうか、彼が絡めとられてしまわないように。胸の苦しくなるような祈りをこめて、井上はもう一度小石を蹴りあげた。
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