腰を抱えなおし、引き寄せるようにして深く穿つと、木戸の手が布団の先へ伸びて畳を掻いた。
「ん……っ、ぁ、」
肩ががくりと沈む、その振動にも二人の交わりは微妙に角度を変え、井上を受け容れている粘膜が切なげに収縮する。
もっと奥へ行きたい。淫らに濡れた肉の裂け目を深く暴いて、木戸自身も知らないような場所に熱く滾った精を注いでやりたい。
腰をおさえたまま彼の背に胸をかさね、浮き出ている背骨に舌を這わせると、小さな悲鳴とともにびくりと全身がふるえた。もう何度か気をやった体は井上の愛撫に甘く泥み、わずかの刺戟にも滴るような悦びを示した。
本当は、もう寝かせたほうがいい。
朝が来れば木戸は今もうち寄せる波音がひくく聞こえている横浜港から、半歳余の洋行に発たねばならない。
それでも、別宴が果てて深夜に帰宿した彼を訪った井上が、さすがに露骨にそうとはいいかねて唇を噛んでいると、彼は自分から口づけて井上の襟に手をかけ、笑った。
「抱いてくれるんだろう――?」
と。
どうせ船旅は退屈なのだから、昼寝でもするからかまわないのだと言って、木戸はすでにのべてあった床の上にやわらかく体をひらいた。
あとは、夢中だった。
求めるままに応え、すこしも抵抗しない彼だったのに、井上は今日ばかりはことさら強くその体を押さえつけ、激しく苛んだ。木戸は時折苦しそうな表情を見せたが、いやだとはいわなかった。
「俺の形になってるぜ」
数日来毎晩重ねた肌の馴れ具合を、そんな言葉で木戸の耳にささやいた。だからこの先もずっと忘れてくれるななどと、恋人のような台詞はついに吐けなかったが。
「あ、ぅん……っ、はぁ……」
尻だけを高く上げて井上にあずけた格好で、布団にすりつけた頬を法悦の涙で濡らしながら、木戸の体は絶頂をめざして高まってゆく。彼の好きなところを狙って擦ってやると、ひゅう、と風の吹きつけるような呼吸を洩らして、膝でにじりあがろうとする。
「逃げなさんな」
ひくひくと顫えている腹へ、腕をまわしてきつく捉える。ちゃんと最後まで俺を感じてろ、いつでもいっていいから、とうなじに口づけながら告げると、木戸はもう思うようには動かないらしい首をようようこちらへねじ向けて、さっきまで畳を掻いていた手で井上の腕に触れた。
「一、緒に……」
一緒がいい、一緒にいきたいんだ。濡れた喘鳴のあいだから切れぎれに木戸は訴えた。その響きの体の芯を溶かすようなやさしさに、彼の深い場所を貫いていた井上の雄がいっそう熱くなる。
「聞多、」
彼の唇からほろほろと自分の名がこぼれる。それが闇のなかへほどけて消えてゆくのさえ惜しくて、自分の唇を押しつけて塞いだ。
「ん……っ」
喉の奥にくぐもった喘ぎまでも味わい尽くすように深く吸い、抱きしめる手で彼の陰茎の根元を縛める。苦しいはずのその所作にも木戸は抗わず、ただ顫えながら井上に身をあずけていた。
「俺も、もうじきだからさ、」
ちょっとだけこらえてろよ、と言うと、すすり泣きながらうなずいた。
「木戸さん」
名前を呼んでやると、井上を包んでいるそこが痙攣するように締まってこたえた。
開放のとき、彼のなかに注いでいるのはたしかに自分のほうなのに、自分の体の奥にもまた、あたたかく流れ込む何物かを感じた。
「気にしているか」
寝入ったと思っていた木戸から、存外たしかな声で問いかけられて、井上は枕の上の頭をひょいと浮かせた。
「何が」
「……さっきの」
西郷さ。横を向いたままで彼は答えた。
「西郷――」
ああ、とうなずいたのは同意したのではなく、ただ木戸の言っている意味に思いあたったまでである。
「さすがにぎょっとしたけどな。……まあ、別に」
背中から抱き寄せて、木戸が胸のあたりでかるく握っていた手をとった。
「心配してもらうほどのことでもありませんよ」
「お前が癇癪をおこしやしないかと思ってな」
「そこまで短慮じゃないつもりだぜ」
彼の襟足に顔をうずめた。あんたが帰ってくるまで、要らぬ苦労はかけないようにするさ。あたたかな手に指をからめてささやくと、苦労といったってな、と溜息のようにつぶやいて、彼の手が握りかえしてくる。
「どうせ日本を離れてしまえば、何もできやしないさ。留守組で頼みがいのあるのはそう何人もいない」
「その何人かに俺は入ってるんですか」
「だからこうして訊いてるんじゃないか」
西郷はどうもああいう態度だが、お前、こらえてやっていけるかと。今さら井上がいやだといったところで、明日は出立というときに人事のことなどどうにもならないのだが、それでもそこは木戸なりに気を遣っているのだろう。
「大丈夫ですよ」
と井上は笑った。
「ただ、ああいう物言いをする仁だったかと、意外に思ったまでです」
と言うと、
「そうだな……」
もの思わしげにうなずいて、長い指がゆっくりと井上の腕を撫でた。
『三井の番頭さん』
西郷がいつもの温顔を崩さずにそう呼びかけたとき、さすがに満座、息を飲む気配があった。当の井上すら一瞬わけがわからずに、黙ってまばたきをするばかりだったほどである。
「さあ、どうぞ一献」
かさねてそういわれて、ようやく井上は盃をあげた。何と挨拶したのかよくおぼえていない。何でも、こりゃどうも、とか何とか、間抜けなことを言ったものであろう。
「大西郷ともおもえぬ」
大人(たいじん)のすることではないと、あとで誰かがそっとぼやくのが聞こえた。おそらくいくらかは井上に同情してそう言ってくれたのであろうが、むしろ大方の心情はそうではないのを井上はよく知っている。
――あの大西郷にして、それほどの反感を抱えているのだ。
やはり井上は奸悪であると、ことに薩摩の連中はそう見ているであろう。彼等はいったいに質朴ごのみの、井上にいわせれば少し知恵の足りない木強漢で、金融活動や利殖といったことにかけてはまるでその有為さを解しない。どころか、貨幣にふれることすら一種の悪徳のごとく心得て、その道に腐心している井上をあたまから憎みきっている。
(薩摩の富強こそ、もとは抜荷で築いたものではないか)
西郷も幕末の頃はずいぶん金勘定のできた男だと聞くが、どうやら御一新後は支那風の士大夫を気どることにしたらしい。君子豹変か、と井上はそのことについては何の屈託もないのだが、ただ西郷流をもって任ずる三下どもの道心まがいが笑止だと思うのである。
そうして、
(そういう連中を怡ばすようなことを言う西郷か)
と、今日の仕儀には腹をたてるというよりも、麒麟も老いては何とやらか、と、いささかその人物を疑う気になったものである。
場は、使節一行の壮行会であった。無論政府の主だった面々は皆あつまっていたし、皆が見ていた。
西郷も井上もともに留守組である。盃の献酬をやる必要はないのだ。それをわざわざ井上の隣へきて、年長の西郷から銚子をむけて、あんな芝居がかったことをする必要はさらにない。さすがに咎めだてする者はなかったが、木戸や伊藤をはじめ、井上と近い人々が顔を青ざめさせたのは当然であった。
「だけど、西郷は」
首をかしげて、吐精後のぼんやりした頭で考える。
「あんなことをいうようじゃ、かえってもう、政争のなんのという柄じゃなくなってるんじゃありませんか」
ああいう芝居じみたことをして満足しているというそのこと自体、西郷がすでに政治家ではない証拠だと井上は思っている。そのことを木戸にいうと、
「西郷がそうなってはいよいよ厄介じゃないか」
と、わかるようなわからないような答えが返ってきた。井上は西郷についてはそれ以上掘り下げて聞こうという気もなく、
「まあ、それよりも」
ここしばらく考えていたことに思いあたって、むくりと布団の上に起きなおって腕組みをした。
「どうした」
木戸が追いかけるように身を起こす。
「よっぽど剣呑なのは、江藤のほうだぜ」
歯軋りするように低く呻くと、
「江藤……」
夢寐のつぶやきのように、木戸の声がぼんやりと闇にこぼれた。
江藤と井上の不和について、無論木戸は今はじめて聞いたわけではない。だが、井上にとっては小うるさい敵役でしかない江藤でも、国策のうえで障碍になるようなことはあるまいとみていたし、第一にかれらの対立にしてからが、多くは性格上の齟齬によるもので、政見にまつわる深刻な確執ではないと思っている。
だから、井上から
「むしろ剣呑なのは西郷より江藤だぜ」
と聞かされたとき、木戸はちょっと首をひねって
「江藤君か」
と言ったきり、別段の批評をのべなかったのである。
否、返答をさしひかえた理由は、それだけではないのだが。
「江藤君が、お前、そんなにきらいなのか」
いささか話柄をすりかえて尋ねると、
「嫌いだね」
鼻を鳴らした井上に、後ろから耳朶を噛まれた。
「そういうあんたは、あいつがお気に入りでしたね」
「べつに気に入りというのでもないさ」
「でも古くから知ってるんだろう」
「知っちゃいるが、そんなに縁の深いほうじゃない」
胸元を乱暴にまさぐられて吐息を零しながら、木戸は、やはり歓送のために横浜へ来ているその男の、朝臣というよりも壮士風な、いかにも心胆激越らしい面がまえを思いうかべていた。
はじめて彼に会ったとき、木戸はまだ双刀をたばさんで、桂の姓を名乗っていた。
当時藩の公用方をつとめていた自分を、今になって振り返ればずいぶん仕事に青臭さもあったと思うのだが、それでも三十六万九千石の藩吏であるから、相応にもったいつけたもてなしをうけていた。
そこへ佐賀を脱藩した江藤が、紹介もなく乗り込んできたのである。
場所は河原町の藩邸である。門番は当然江藤の入邸をしぶったが、いいから通せ、どうでも桂に会わせろと詰め寄られて、困じ果てて桂のところにやって来た。
「会おう」
と言ったのは、江藤を知っていたのではない。佐賀の産だという、ただその出自にふと興をさそわれたのである。文教さかんで近年はとみに蘭学に凝り、しかし他藩との交際は極端にきらうといわれている佐賀という国について、桂は日頃、よく知っておきたいと思っていた。向後長州が京で活動するにあたって、佐賀と意を通じておくのは悪いことではない。いま門番がその強情を訴えてきた江藤なる奇士は、脱藩の身であるとはいえ、彼からある程度は国元の藩情を聞くことができるであろう。
ありていにいえば、江藤に会わぬ先の桂の期待は、まあその程度であった。門番によればなんだかとっつきのよくない男だというし、その風体からいっても、佐賀の高級な藩吏などとは縁がなさそうであった。
(それでも、べつにつっぱねる理由もない)
むこうが会わせろというのなら、会って毒になる相手でもあるまい。
ほかに所用があればことわったかもしれないその面会を、桂はほんの偶然と気まぐれによってひきうけたのだった。
やがて通されてきた江藤は旅塵にまみれたまま、髷もいくらかくずれていて、しかも通せ通せと騒いだというわりにはその挨拶は不器用で、桂が水をむけてやるまでろくに口もきかなかった。
(なるほど、妙な男だ)
と桂は可笑しくなった。
しかし、話が世間並の挨拶をすぎて時勢のことにおよんだとき、彼のようすは一変した。
「葉隠など」
と、桂がせっかく振ってやった話題を、江藤はにべもなく一蹴した。
そうして、だから佐賀は名ばかり高くて発展せぬのだ、佐賀の害悪はひとえに葉隠とその文教制度であるとまで極論して、ほとんど絶叫せぬばかりに論じたてた。
「ですから、私は藩地を捨てたのです」
それからあと、桂はほとんど口を挟まずに、ただ彼の舌が熱するにまかせていた。それほど江藤の弁は流暢で、しかもその滔々として溢るるに似ず、内容は重厚かつ警抜であった。
「あなたは」
と、江藤の話の果てたとき、桂はほとんど彼の手をとらんばかりにして歎息した。
「失礼ながらそれほどのあなたにして、尊藩はお用いになりませぬのか」
言うと江藤は険のある眼をいよいよぎらぎらと光らせて、
「であるがゆえに」
尊公を訪ねて参ったのです、と傲然と言った。それほどのあなたにして、と桂が言ったことに対して、世間普通の交際感覚の持主ならば何か挨拶があってしかるべきであろう。が、江藤はそんなことには頓着しないようすで、自分の才幹のすぐれているのはきまりきっているという顔をしていた。そうして、
「佐賀には寡君はじめなるほど人物がおらぬではありません。しかし皆ただ藩土あるを知って皇国あるを知り申さぬ。あの頑冥と偏狭で天下の事が成りましょうや。またああして他藩との交わりを禁じておるは、藩士の目も耳も塞ぐようなもの。佐賀にあっては伏龍も蚯蚓に、鳳雛もついには雀となりましょう」
まるで自分が泥田をきらって天翔けようとする龍だとでもいわんばかりに、しかし大まじめで眉根をよせた。
(たしかに、あの藩風では)
と、江藤の器量と性格を粗々に知った桂は、野に捨ておかれている彼の才を、あるいは彼以上に痛惜したのだったが。
「どなたか、しかるべき士をご紹介しましょう」
京の政情に飢(かつ)えているはずの江藤にそういってやると、意外なことに彼は首を横に振った。
「そう長くは滞京いたしませぬから」
「では、どちらへ」
「帰るのです」
「帰るとおっしゃるのは――」
佐賀へですか、とさすがに桂が目をみはると、左様、と平然として彼は答えた。
「しかし、あなたのおっしゃる佐賀は」
つい今し方まで口をきわめて罵っていた――否、むしろ呪っていたというほうが適当であろう、その郷国へ。
「お帰りになって、どうなさいます」
「京で見聞きしたことを君側の馬鹿どもに聞かせてやらねばなりませぬ。遅疑していては佐賀は満天下に恥を晒すことになりましょう」
「ですが、あなたは」
「左様、脱藩の身ですから、帰れば罪せられます。しかし日頃上奏の分際にない軽輩でも、大罪人の陳述ともなればあるいは寡君の耳にもとどきましょうから」
私はそれに賭けることにした、と江藤はこともなげに言った。
「私は佐賀のために死ぬのはまっぴらだが、事は天下のためです。佐賀が荏苒鎖国の態をなし、有為の士を天下に放たぬ上は、皇国に著しい損失となりましょう」
(これは)
そこまでいうのかと桂はおどろいた。有為の士とは江藤自身を指して(ふくめて、というべきか)いったものであろう。そのくせ彼はその種の自信家にありがちなけれん味をすこしも感じさせず、どれほど傲岸な言葉を吐いたところで、ただ冷厳な観察の結果そう言うのだという第三者的な落ち着きに満ちていた。
桂は、もはや彼をとめなかった。自分とひとつしか違わないという江藤の、どこか青臭い壮気にあきれるようでもあり、またうらやましくもあった。
(龍の牙を矯めるわけにはいかぬか)
分別くさい説教など彼には無用のことと思ったが、ただ彼を死なせたくはなかった。彼のいったように、やはり、天下蒼生のために。
いよいよ明日は京を離れるのだと、これまでの礼を言いに江藤が藩邸へ来た日、桂は彼の手をつよくにぎった。
「くれぐれも、皇家の御為、御自愛なさいますように」
満腔の思いをこめてそう言うと、江藤はちょっとふしぎそうに桂の顔を見つめたあと、
「私は無駄死にはしません」
それから、彼にしてはめずらしく考えるふうで、
「しかし、」
と小さくつぶやいた。
そのあとを、ついに桂は聞いていない。
江藤はおそらく、命を捨てるべき時節がきたらそのときは死ぬ、という意味のことを言うつもりだったのであろう。それは桂とておなじ覚悟で生きているのだが、しかし江藤のようなどこまでも理詰めにできている男の場合、彼のなかで死に行きつく筋道ができてしまえば、機をみるよりもその条理のさす方向にしたがってさっさと死んでしまいそうな気がしたのである。
それを、桂は彼にいわせたくなかった。いわせてしまえば――そのことを口にするたびに、彼は死のほうへおびき寄せられていくのではないかと、咄嗟の間に思った。
――だからといって、あんなことをしなくてもよかったのだが。
考えるよりさきに体が動いていた。気がついたら、彼の手を握ったまま、かわいた唇に自分の唇を押しあてていた。
あ、と思って離れると、さすがに江藤は変な顔をしていた。それでもなお力強い光をうしなわない彼の眼、その視線をうけているのがきまりわるくて、
「あの、」
なにかこの場をまぎらすことを、桂はいおうと思った。
それを遮ったのは、今度は江藤の側である。
(いっ……)
痛い、と思ったときには、もう彼は離れていた。
特段面白くもなさそうな顔で、彼は傲然とこちら見返している。その唇がむずむずと動いて、覗いた舌の不自然な赤さに、桂は自分の唇が噛み切られたことを知った。
「……たしかにお約束しました」
しずかに宣した声に、
(ああ、)
さすがに葉隠の国なのだと思った。
それが、文字通りの血盟のしるしだというのであろう。傷つけられた粘膜の、じんじんと熱をもって拍動するような痛みに、桂は江藤の精神の韻律を感じた。それはいかにもととのって隙がなく、しかしそれだけにどこか殆(あやう)げで、桂になにか肉体の官能とはちがう、ふしぎな恍惚をもたらした。
仰向けにさせて抱き寄せると、木戸の体はくたりと井上の腕に沈む。そのぼんやりとさだめどころのない感じは、遂情のあとにありがちなことではあるものの、またそれだけが理由ではないことを、井上はわかっていた。
「そんなに江藤が気になるのかよ」
もとはといえば自分がその話題をもちだしたのだったが、しばらくの別離をひかえて情の交わしおさめという夜に、木戸に考えごとなどさせたくなかった。
まして、あの面憎い江藤のことなど。
「あいつはたしかに切れ者ですがね」
と顔をしかめていったのは、まんざら悋気のためばかりでもなかった。
「どうも気性が根っからの青書生だぜ。てんで周旋ということを知らないんだから、議論はともかく、あれに采配を委せちゃ危なっかしいよ」
井上がなぜ江藤を気に入らないかといえば、最終的にはそこに尽きる。また江藤は江藤で、よくいえば融通無碍、わるくいえば――いおうと思えばいくらでも悪評のある井上を、その悪評以上に憎みきっているらしいのは、やはり彼一流の仮借のなさというのか、一種の原理主義のためであろうとおもわれた。
(だから佐賀者なんてえのは)
舌打ちしたいいまいましさを、木戸の前ではどうにかこらえている。
(血も流さずうまうまと御一新の収果にありつきやがっただけに、ガキのような小理屈をこねやがる)
江藤の議論というのはなるほど議論としては精巧にできているが、鑑賞に堪える刀がかならずしも業物ではないように、幕末のころからすさまじいばかりの死線をくぐってきた井上などの目から見れば、精緻にすぎるあまり実地の役には立ちそうもない。それでも現在の自分たちの仕事といえば、寄るとさわるとまず議論からはじめねばならないのだから、どうしても江藤のほうに分がある。啖呵は得意だが議論となると不調法な井上は結局彼に押し負ける。だけでなく、
――馬鹿が。
という顔を露骨にむけられる。それは嘲罵ではなく江藤のごく自然な感情の無意識な発露なのだったが、それだけに井上の屈辱は深かった。
(だからって恨んじゃいねえが)
栄誉とか体面とかいうことに関して生来ごく淡泊な井上は、その都度腹は立てても、べつにその仇(あだ)を報いてやろうとは思わない。ただ、
(ああいう手合を上に立たせては、どうも治まるまい)
と思うのである。それを逐一順序だてて説明することは、やっぱり井上には苦手だったが。
「わかっているさ」
と木戸は言った。
「お前の言いたいことはわかるつもりだ。――俺も同じことを考えている」
「どうですか」
ふんと鼻を鳴らすと、木戸はくすぐったそうに肩をゆすって笑った。
「よわったな」
「何が」
「お前はそう言うし、江藤君は江藤君で俺を信用してくれないんだ」
「何だよそれ」
どうにも癪でたまらずに首筋へ噛みついたが、木戸は答えず、だまってふくふくと笑いつづけた。
『お話があります』
正院の廊下で、だしぬけに江藤によびとめられたことがある。
「なんだろう」
と微笑んだ木戸を、例によって彼は愛想なくむかえる。
「ここでお話ししてもかまいませんか」
すでに使節団のことが決まったあとの慌ただしい時期で、広い廊下にはひっきりなしに人が行き交っていた。
「君の話したいという内容がわからないから、私には何ともいえませんが……」
「ごもっともです」
江藤は笑いもせずにうなずき、
「しかし私は差し支えないと存じますから、失礼をしてこのまま申し上げます」
「どうぞ」
「大蔵大輔のことです」
と聞いたとき、木戸はおもわず、ああ、と口許へ手をやった。江藤は表情も変えない。
「井上大蔵大輔を、現職に留めおかれるのですか」
「それは、」
廟議できめることだ、と木戸はいいかけたが、江藤がそんな返事で承服する男ではないと思いかえして、
「そのつもりですが」
と鷹揚に答えた。
「それは、なぜです」
「なぜといって……なにかご異存でも?」
「なぜか、とうかがっております」
(なるほどな)
木戸は苦笑した。
『俺と江藤が仲違いするなんていうが、俺はべつに何にもしちゃいねえよ。あいつがつっかかってくるんじゃねえか。いまいましい』
井上が全身の毛を逆立てるようにして吐きすてていたのを思い出す。たしかに江藤にはそういうところがあった。ただ、それを井上は自分への敵意のあらわれと解したようだったが、ひとつには単に彼のくせなのだろう。
(わるい男じゃないんだがな)
腹をたてるほどではないが、ときにもてあます思いのすることはある。それでも江藤の才幹を愛する木戸は、彼の問い(詰問というべきか)に答えてやった。
「井上は、理財に明るいので」
あなたもご承知のとおり、財政をまかせられる人間は今の政府にいくらもいません。そういうと、江藤は一旦はうなずいてみせてから、
「しかし、単に利殖の法に長けているということと、一国の経綸においてそれをなしうる器量とはまた別のものでしょう」
木戸と二人で話すには不似合いなほど朗々と声をはりあげた。廊下に散らばっていた人々が、盗み見るようにこちらを振り返る。かれらは皆無関心をよそおいながら、その実、この対話のなりゆきを息をひそめて見守っているのだ。江藤と井上との関係は、いつのまにかそれほどの関心事になっていたらしい。
(つまらん政府になりおおせたものだ)
井上も江藤も、欲得ずくであらそっているのではない。それを、どちらを支持するともなく、ただ勝敗の帰趨を眺めているというのは、つまりはどちらにつくのが自分の将来にとってめでたいか秤にかけているのであろう。
そういう連中に、これ以上互いの会話をきかせてやることもない。木戸は黙って歩きだした。江藤は肩をいからせながらついてくる。
「井上大蔵大輔は、とかく私利を充たそうとなさる」
「そういうところはないではないな」
といって井上はさほどに強欲というわけでなく、ただの昔の悪癖なのだが、それを江藤にいったところで納得するとは思えないので、木戸は曖昧に微笑んでおくにとどめた。
「捨ておかれてよろしいのですか」
「それはもし国庫を喰い荒らすようなことでもあれば、しかるべき処罰をせねばなるまいよ」
自分にあてがわれた執務室の前まで来た木戸は、ドアを軋らせて中に入った。江藤もあとへつづく。
「そのしかるべき時節を、きっとあなたは見失わぬと断言できますか」
「というと?」
応接椅子にかけた木戸は、向かいの椅子を目顔ですすめたが、江藤は立ったまま体の両脇で拳をにぎった。
「お二人は同郷でおいでです」
「江藤君」
木戸は背もたれに深く上体を沈め、ゆっくりと脚を組んだ。いささか芝居がかった動作といえなくもないが、べつに江藤に見せつける意があったのではなく、ただそうして一呼吸おくことで、激しないように自分を制したつもりである。
「見くびってもらっては困る。先頃の国元の騒擾で、馬上叛徒を斬り伏せたのはこの私だ」
つとめておだやかな声をだしたが、それでもつい、きろりと上目遣いに彼を睨みすえた。江藤は動じたふうでもなく、やはりよく光る眼で、だまって木戸を見返している。
「私はただ、あれが使いでのある男だと思うから推挙したまでのことです。もし今後あの男がつまらぬ商人風(かぜ)をこじらせて中興の障壁をなすならば、私はいつでも井上を討ち果たす。君も井上に不正の行いを見つけたら、そのときは遠慮なく糾弾するといい」
言いきってから、さすがにのぼせあがっているのを感じて、ふうっと長く溜息をついた。江藤はしばらくなにか考えるように癇性なまばたきをくりかえしていたが、やがて、
「私の官職もそのままですか」
とつぶやいた。
「君の?」
意外な問いに、木戸はとっさに返答できない。
「君のだって、無論、動かす理由もないが……不服ですか」
「いえ。ただ、こういうことをお話しした以上は、あるいは私が留まることは不適当かと思ったのです」
「なぜ?」
「私はやはり私の良心にしたがって――しかしそれが井上氏の仕事を妨げないともかぎりませんから」
それで政府に紛擾をおこすことは本意ではないと、いかにも四角ばっていう江藤に、木戸はおもわず微笑をさそわれた。
「やっぱり井上はだめかね」
「あなたのお考えはよくわかりましたが、それで私が本意するかどうかはまた別の話です」
「それは弱ったな」
「さきほどのお話で、私が納得すると思われたのですか」
それはききようによってはひどく非礼な言葉にちがいないのだが、それなりに江藤を知っているつもりの木戸は、ただもう、いかにも彼らしくおもえて、可笑しくてたまらなかった。
「君だって」
と、手の甲で口をおさえながら笑った。
「君だってどうでも井上を引きずり下ろそうというつもりなら、いちいち私にいわないほうがいいよ」
「それは、そうです」
なんだかぼそぼそと江藤は答えて、俯き加減に唇をゆがめた。ふしぎな所作におもえて暫時その顔を見つめた木戸は、どうやら江藤が笑ったのだと気がついて、あべこべに笑いをひっこめた。
「江藤君――」
「私は、これでも自重しているのです」
彼はなおもその不器用な(しかしつくりものではないらしい)笑みをつづけている。
「失礼ながら、私は多少はあなたの人物を存じ上げているつもりです。あれは、壬戌の、」
――壬戌の夏、お会いしたそのときから。
その声に感傷に似た匂いを嗅いだのは、あるいは木戸の錯覚だったろうか。
「あなたが情実で黜捗をおこなうような方ならば、私と親しく口などきいてくださらない。そもあのとき会ってくださらなかったはずです。佐賀者など、肚の知れぬ時勢の余計者だったのですから」
事実江藤は、他藩の藩邸で案内を乞うたときは、つねにそういう応対をうけたのだという。
「あの夏、別れぎわに、あなたは私に事を急くなと仰せでした。将来のために自愛せよといわれて、私はたしかにそれを守ると、あなたに誓ったのです」
「――ああ、」
木戸は曖昧にうなずいた。あのとき吸いよせられるようにして江藤に口づけた自分を、彼はその後何と思っているだろうか。
江藤は、すでに笑ってはいなかった。彼はしばらく木戸の顔をまじまじと見つめたあとで、
「お忘れですか」
尋常の事務の確認のように、きわめて無感動に言った。
「いや、」
「べつにお忘れでもかまわないのです。ただ、私はひとたびお約束した上は以後もそのつもりでおりますから、あなたが使節に発たれた後も……」
「……後も?」
「廟議で多少非義と思うことがあっても、その糾弾についてなるたけ無茶はしないつもりです」
「それは、井上と何かいさかいがあっても、ということかな」
「それもふくめて、です」
江藤は一歩あゆみ寄ると、木戸の掛けている椅子の前で膝をついた。そうして何をする気なのか、そのときには木戸にはもうわかっていた。
彼の指先が顎にふれる。それは男の手にしてはひんやりとしていて、いつか夢中でとった彼の手も、そういえばこんな感触であったかと思った。吐息が鼻先をくすぐり、唇がかさねられる。啄むように吸って、彼は一度離れた。
「あなたはお忘れになっても結構です」
私はお約束を違えません、と彼はもう一度おなじことを言った。
「忘れていないし、忘れないよ」
首筋をかきなでながらそう囁いたが、江藤はいかにも本気に聞かないといったふうで、木戸の頬に手をあてたまま、なにもいわなかった。
「本当だよ」
なだめるように唇をあわせると、ふ、と小さく息を洩らして江藤が笑った。今度のはまるで人がわりしたように、ひどくあざやかな笑みだった。
「何を考えてるんです」
白い胸に強く歯をたててやると、木戸の肩がびくりと顫えた。
「江藤がそんなに気になりますか」
「お前が江藤君がどうとか言いだしたんじゃないか」
「そうだけど」
木戸が江藤を気にかけていると思うのは、まんざら井上のひがみでもないだろう。井上には江藤はどうも虫が好かないが、またそれだけに、彼の才智の冴えはうるさいほどきわだって見える。木戸は木戸で、旧藩のころから藩内外の難物を相手に渡りあってきた男だから、江藤の性格の多少(どころではないと井上は思っているが)の圭角は気にならないらしい。御一新後の政府は実学をこそ重んずる、たとえ少しばかり徳に欠けるとも能吏でありさえすればよろしい、というのが木戸の持論で、だから江藤などはかえって彼の目には好もしく映るのだろう。
(なにも俺を庇ってくれとはいわないが)
「あまりかっかするなよ」
木戸は江藤のことについてはきまってそういう。
「そうわるい男じゃないだろう」
「俺だって悪い男じゃないでしょう」
「だから仲良くしろよ」
「あんたがいちばんいやなやつだな」
と言うと、彼は背を反らせて笑っていたが。
(頑固な男だな)
それは江藤についてではなく、木戸をつくづくそう思うのである。
木戸は何かと江藤を目にかけているが、江藤のほうでは毫もそれを恩に着るようすがない。それどころか、ときに木戸を井上と一緒くたにして批判の舌鋒をむけるのである。
『あまり増長させないほうがよろしい』
忠告する人はいくらもあったが、木戸は曖昧に礼をのべるばかりで結局とりあわない。一度理由を尋ねたら、
「そんなさもしい根性で人と仕事ができるか」
と言い、あとはなにも語らなかった。要するに、それが木戸の覚悟なのであろう。
「江藤君は、なあ」
肩を抱いている手に指をからめて、木戸はいささかぼんやりとつぶやいた。
「まあ、跳ねっかえりだからな」
「跳ねっかえりなんてもんじゃねえよ。あんなの俺じゃなくたって……」
「そのうち誰かとぶつかるだろうな」
だから、と木戸の手が伸びて、井上の髪をかきあげる。まぶしそうな目が、こちらを見上げて微笑んでいた。
「そこはお前がうまくおさめてくれればいい」
「な……、」
何だって俺が、と言いかけて、井上は唇を噛み、ぐしゃぐしゃと頭を掻いた。乗りあげた体の下では、木戸がやわらかに目をほそめている。井上に拒絶されるなどとはまるで思っていないふうに、満腔の信頼を寄せているような顔をして――――
「ずるいな、あんた」
「そうか?」
「よりによって俺にさせないだろう、普通」
人もあろうに、日頃あれほど江藤の弾劾をうけつづけている井上に、仲裁役を頼むなど。それはつまり、江藤が孤立しないように気をくばってやるということではないか。
木戸のいない政府で彼の帰りを待ちながら、彼のすきな江藤の――江藤なんぞの世話を、ありがたがられもせずに焼いて。
「きっとそうするなんて保証はできねえからな」
「そうなのか」
「そりゃそうだろ」
「江藤君は九年も前の約束をまだ守ってくれるつもりらしいけどな」
「なんだよそれ」
「お前には教えないよ」
でも帰ってきたら話してやろうか、と木戸は婉然と頬をゆがめた。彼はときどきこうして思わせぶりな罪をはたらく。
「あんたまさか、江藤と何かあったんじゃないだろうな」
「何かとは?」
「俺にいわせるのかよ」
むくれたついでに乳首をひねりあげてやると、木戸は一瞬ぎゅっと目をとじ息をつめてから、
「江藤君には、多分そんな気はないだろう」
他人ごとのように言った。
「あんたはどうなんだよ」
「俺は――――」
よく、わからないな。ようやく聞きとれるほどの声でそうつぶやかれて、井上は呆れるよりもなにかさびしい心持がした。それは木戸がどこまでも自分のものにならないことを思ってではなく、彼には実際のところよくわからないのだろうと、そのかすかな困惑を悲しく観じたのである。
井上などのように、気軽に好悪の感情を口にする習慣を封じてきた木戸は、自分が何を本当に求めるのかさえ、つきつめて考えればついにわからなくなるのではないか。
それをいえば、彼は笑って否定するにちがいないが。
「洋行中は、ずっと大名行列せにゃならんわけでもないんだろう」
ふと江藤のことを離れて訊いてみた。好き勝手に散歩なぞする自由な時間もあるのだろう、と。木戸はゆっくりとまばたきをして、
「さあ、毎日のこまかい日程まではわからないが、そこまで窮屈なものでもないだろう」
こころもち首をかしげながら言った。その唇を、かるく吸ってやる。
「ずいぶん、見るものは多いぜ。俺はイギリスしか知らないが」
「イギリスだけでも大したものさ」
「うん。……あんた、」
「どうした」
「きっと楽しいぜ」
そう言ってもう一度、今度は深く唇をあわせた。口づけの合間に、ひくく囁く。
「はじめは圧倒されるばかりだが、そう懼れるばかりのものじゃないことはじきにわかる。そうしたら、そこからが楽しいんだ」
だから、あんたも。祈るように、彼の耳朶に唇をよせた。木戸の体がびくりと跳ねる。
――せいぜい、物見遊山のつもりで羽をのばしてくるといい。
耳孔に舌をさし入れてやると、木戸の手がやわらかく胸を押しかえす。
「遊山じゃ困るじゃないか」
「遊山も馬鹿にしたものじゃないぜ。そう四六時中カリカリしてばかりじゃあ、かえって視野が狭くなるもんさ」
「お前もなかなか、きいたふうなことを言うじゃないか」
「憚りさま。江藤の守(もり)代だと思って聞いてくださいよ」
それから、一度きつく木戸の体を抱き、次にそれをうつぶせに返そうとした。
「またなのか」
と言われて、一瞬手を止める。が、離れようとした井上の体を、木戸の腕が抱きよせた。
「そうじゃない」
それは、いいんだ。見上げてくる眼は、すでに匂いたつような媚をしめして濡れていた。
「疲れてるなら……」
「言ったろう。船で眠るから問題ない」
だから、と固い腕がしなやかに巻きつく。ようやく井上にも彼の意が呑みこめた。また後ろからされるのはいやだと言いたかったのだろう。
「後ろ向きのほうが楽じゃねえか」
「そんなことはお前に関係ない」
「関係ないってこたねえだろう」
「なあ、聞多」
木戸が唇をうすくひらき、ゆっくりと舌なめずりする。紅い舌がぬらりと蠢いて、それだけで井上は下肢に熱が走るのを感じた。
「顔を見せてくれないと、別の男の名前を呼ぶかもしれないなあ」
「あぁ?」
情けないほど声がうわずった。さすがにこの場面で、そんなことをいわれるとは思わなかった。
「あんた、いくらなんでも……」
「どうする?」
「別の男って、江藤かよ」
「さあ、な」
「なんで、江藤なんか、」
言いながら木戸の両腿を押しひらいた。
「誰も江藤君だとは言ってないじゃないか。……ぁ、」
苛立ちに凝った先端を押しつけると、ぐぷりと音がして彼の中を盈たしていたものが溢れる。
「聞多……」
「俺は江藤なんか大嫌いだからな」
あんなのと顔つきあわせて、そういつまでももたねえよ。だから。
そこで一度言葉を切って、腰を進めるほうに集中した。抉るように奥を暴いてやると、木戸が濡れた呻きを洩らす。
「待ってるから。あんたを。……多分、」
――多分、江藤も。
最後は口のなかでもごもごと言った。それでも木戸には聞こえたらしく、一瞬目を見はったあと、すこしばかりくすぐったそうに笑った。
「じゃあ、それを楽しみに帰ってくるとしようか」
淫楽のなかにもゆるやかに凪いだ木戸の眼は、すでに波濤万里のむこうを映しているようで、江藤よりもかえってそれが気にかかった井上は、その瞼に口づけると、触れられるかぎりの肌を押しつけて、彼の熱い体を抱いた。
[39回]
PR