西洋の暦のことくらいは知っている。
まだようやく攘夷書生を気取りはじめたほんの白面の頃、ひと月が三十日だったり三十一日だったりという妙な暦法を教えられて、夷人はややこしいことを考えるものだと思った。
「農期をみるのに困りませんか」
と言ったら、その頃西洋砲術を教えてくれた師――暦法もその師から教わったのだが――は、たださえ大きな眼を一瞬さらにぎょろりとひろげて、それから天を仰いで笑った。
「君は、なかなかいいことをいう」
顔を赧らめた自分の肩を叩いて、
「いや、本当さ。なかなかそこですぐに農期のことになど思い及ぶものじゃない。人足の変装もしたかいがあったというものだ」
御政道というものは、人足や百姓、果ては吉原の忘八まで、天下蒼生のためにある。君がそれを了解(りょうげ)してくれて何よりだ――。
そう言って深くうなずいたその人はとうに亡いが、彼の英気に充ちた一種の奇相を、二十余年を経た今も木戸はありありと思い出すことができる。
それは、いい。
あるいはあのとき、誕生日の風習についても聞いたかどうか――。
閏月がないから日は毎年同じ時期を動かない。だから連中は正月ではなく、各々の誕生日ごとに年をとるのだと、そうして互いにそれを祝うのだと聞いて、ずいぶん面倒なことをするものだと思ったが。
それを知ったのはもっとあとになってからだったかもしれないし、誰に聞いたかもよくおぼえていない。いずれにしても、釈迦や孔子ならばともかく単に普段つきあっているというだけの相手の誕辰の日を、いちいち調べたり覚えたり、ましてや祝宴を開いたりしていられるものだろうか。
(毎日が祭になってしまうじゃないか)
奇習だなと、そのときも思ったのだろう。それきり、べつに気にとめたこともなかったのだが。
「だから、誕生祝いの講釈はお前にしてもらわなくてもいいんだ」
俺だってその程度のことは知っている、と浴衣がけの胸元を扇ぐ手をとめずに、窓辺によりかかったままで木戸は言った。
だらしなく立てくずした足の爪先のむこうでは、やはり浴衣の襟をくつろげた井上が、木戸の呆れ顔を予想していたように、にやにやと笑っている。
「じゃあ、何をお聞きになりたいんです」
それからちょっと伸びあがるようにして窓の外を見た。水音のこだまする舟宿とはいっても、さすがにこの時期では涼しくもない。それでも舟は繁盛で、川下りの客のさざめきがさっきから近づいては遠ざかっていく。井上が覗き見たのは、袖の花が水にこぼれるほどたくさんな芸妓たちを乗せた舟だろうか。
「なんで俺の誕生日なんか知ってるんだ」
木戸も華やかなその舟をちょっと目で追いながら尋ねると、
「そんなの」
造作もない、とでもいいたげな井上の声が肩越しにかえってきた。
「木戸さんがいつだったか自分でおっしゃったでしょう」
「覚えてないな」
「俺は覚えてるんです」
いささか得意気である。西洋人ならばここでおおげさな感謝のことばをのべて、それでは私の誕生日にともに盃を上げてくれますかとか何とか、気障ったらしいことをいうのだろうが。
木戸は西洋人ではないし、自分の誕生日に興味もない。第一、井上にいわれるまでそんなことなど忘れていた。
――否。
だからといって祝ってくれるというのを無下にする理由はないのだ。木戸がさっきからべつに面白くもなく酒を舐めているのは、そういうことが理由ではない。
「で、これが何だって?」
手をのばすのも億劫で、目顔でそれを指した。二人の間に、刀が一振置かれている。井上はばかに嬉しそうにうなずくと、姿勢を正して木戸にむきなおった。
「西洋では誕生日に贈り物をするんですよ」
「知っている」
「だから、これを差し上げます」
ずい、と井上の手が木戸のほうへそれを押しやった。
「お前なあ」
木戸は団扇の動きを止め、盃を下へ置いた。
あげます、じゃないよ、と言った声が、我ながら情けなく間のびしている。へんな溜息とともに発声したせいだが、溜息をつきたくもなるではないか。
「これ……」
木戸はそこでようやく井上がさしだした刀に触れた。
「もともと俺のじゃないか」
何年ぶりかで見たそれは、長く離れたせいですっかり木戸とは他人の顔つきをしていたが、かつて日ごと夜ごとに思い出しては焦がれた、まごうことなき木戸の愛蔵品であった。
井上は、事務を執らせれば急進のアラビア馬流であるが、彼一個の癖(へき)としては案外に骨董が好きである。
木戸もその道は嗜むほうであるから、同病者としての井上との会話は楽しい。
が、これが井上でなければと、その実木戸は何度おもったかしれない。
骨董を愛する者のすべてがそうであろうが、木戸も井上も、蘊蓄だけで満足してはいない。名品があるときけば見に行くし、何より手もとに置いて朝夕眺めるのは数寄者気取りとしては最大の冥利であった。
木戸はもちろん、欲しいものは値と相談して購ったし、ときに人が好意でゆずってくれることもあった。
が、井上はそうではない。
旧藩の頃、彼は回天のための活動資金を鬼神のようなはたらきでかきあつめた。ときにその手段は暴の域に達し、強請りまがいのことまでやっていたのを木戸は知っている。知っていてとめなかったのはそれが道のためだと思ったからである。ときに非常の手を用いなければ、天下のことなど動くものではないと思っていた。
ところが、井上は結局はそれが彼の性格というのか、事が天下国家でなくとも、わりあい日常的に、その種の横暴をやる男なのである。
たとえば、どうしても欲しい逸品がひとのものであったとき。
まさか強奪まではしないが、威したりすかしたりさまざまにいいくるめて、ときに騙し討ちのような真似までして、自分のものにしてしまう。やられたほうは相手が井上だけに、泣く泣くあきらめざるをえないのであった。
その、井上が。
あれはもう何年前であったか、木戸の家で床の間に架けてあった刀に惚れこんだ。
はじめはただそれを褒めているだけだったが、手にとって眺めさせてやっているうちにだんだんと雲行きがあやしくなり、まずはこちらを探るようにそれとなく、しまいには露骨に所望した。
「ほかのにしてくれないか」
ほかのものならどれを持っていってもいいからと、あのときはほとんど拝むむようにして言った記憶がある。
井上が名品だと思うものは、木戸にとっても名品である。どうしてもその一振だけは手放したくなかった木戸が、なぜかあべこべにそう懇願してさえ、井上はそれではあきらめましょうとはいわなかった。押し問答の挙句、彼は頬を上気させ、鼻の頭に汗までうかべて、
「じゃあ拝借します。ちょっとの間貸してください。それならいいでしょう」
うんというまで帰らない気色をみせたので、木戸はついに折れた。
渡してしまったあとで、ひどく後悔した。なにせあの井上である。返してくれようとはおもわれなかった。
(ああ、どうせなら)
交換で井上から彼の蔵している珍品のひとつも毟りとってやればよかったのだと、木戸にはめずらしくそんなさもしいことまで考えた。
(あれは、むら煮えの刃文がぞっとするほどいいんだ)
美姫に恋するように、うしなった刀の姿が胸を去らなかった。
(拵えだって特別で……)
ひょっとすると妖刀だったのかと思うほど、奪われていよいよ木戸はその刀に魅せられ、冗談ではなく眠れない夜もあった。井上に会うたび返却をうながしたが、彼はいつものらりくらりと言いのがれるばかりで、返してくれる気配はなかった。
完全にふっきれるまで、あれからどのくらいかかったろう。
死んだと聞かされた恋人が生きているのに会ったような心持で、しかし激しく恋した昔はあまりにも遠く、木戸は渺茫とした思いにうたれながら、何年かぶりで手元に帰ろうとしているその刀を、がっくりとうなだれて見つめていた。
転売されなかっただけ幸運というべきかもしれない。それにしても。
「お前」
低く呻るように言った。
「差し上げますといういいぐさはないだろう……」
俺のなんだぞ。
さすがに頬ずりまではしなかったが、ひとたび触れた瞬間からさまざまな感興がわきあがってきて、木戸は手の顫えを制しかねるほどであった。その対面の状を、井上はあいかわらずにやにやして眺めている。
(どうせ、こういう男だ)
というのは、つきあいの長い木戸にはわかっている。責めても無駄だと思った。いいぐさは実に気に入らないが、しかも恩着せがましく誕生祝だなぞという根性は恕しがたいが、今はこの美しい恋人がふたたび自分のもとへ帰されたことをもって賀とすべきであろう。
幸いに、井上はそこは数寄者だけに大切に保管していたらしく、鞘に傷もなく、柄巻や下緒の色ももとのままである。
(ともあれ、よかった――)
木戸は、もう井上のいることなど忘れてひさびさの鑑賞に耽った。すでにその重みは木戸の手になじみ、かつて身近で愛した日々がすっかりよみがえったようだった。
が。
あ、と小さな声を木戸はあげた。
(笄が……)
一度抜きはらって刃文をながめていたのを、ふたたび鞘にもどそうとしたとき、そこに気がついた。
笄が、新しいものにかわっている。
以前のはすこし錆びてつくりも平凡で、井上に見せたときも、これだけはつくりかえようと思っていると言ったのだったが。
やはり井上もそこが気になったのだろうか。木戸は笄の頭をつまんでするすると引き出した。井上が新しくつくらせたということは、彼はいよいよこの刀を自分の所蔵にしてしまうつもりで、それならばよく返してくれる気になったものだと思いながら。
「あ」
滑り出てきた笄を掌にのせてみて、木戸はもう一度声をあげた。
まだまあたらしい金(かね)の色をしたそれには、こまかな文様が施されている。毛彫細工で、菊花と松葉の――――。
「聞多」
木戸はそこではじめて井上をふりかえった。彼はあいかわらずにやにやと笑っていたが、傷だらけの顔にわずかにはにかみらしいものがうかんでいた。
「いろいろ考えたんですよ。これでも」
何がいちばん喜んでくれるのか。でもあんたは何だって嬉しそうにするんだろうから。
「結局、あんたから取り上げたものを返そうと思ったんです」
せめて罪滅ぼしに、そんなものをくっつけてね、と、井上は木戸の手のなかの笄を顎でしゃくった。
「やっぱり取り上げたつもりでいたんじゃないか」
木戸が苦笑すると、そりゃそうでしょう、と彼は団扇の柄で首筋を掻いた。
「あんただって返ってくるとは思わなかったはずだぜ」
「威張るなよ」
「あの頃は、だってね」
むず痒そうに口を曲げる。
「あんたの大事なものを俺が失敬しちまえば、あんたが二六時中俺のことを考えて暮らすだろうと思ってね」
「うん?」
笄の毛彫模様を指でなぞりながら、木戸はちょっと首を突き出した。その視線がいたたまれないとでもいうように、井上は唇をむずむずさせながらそっぽを向いた。木戸は数秒のあいだだまってそれを見ていたが、
「馬鹿だなあ」
井上のいった意味を呑み込んで――すぐに呑み込めなかったわけでもないのだが、そういういわば可憐な心ばせと井上とが容易に結びつかなかった――、木戸はおもわず噴きだした。
「馬鹿ですよ」
「お前の馬鹿のせいで、俺は毎晩泣き濡れて過ごしたんだからな」
「俺のことは思い出しました?」
「思うもんか」
木戸が吐きすてると、だから、それ、と、井上は背をまるめるようにして、彼がつくらせた笄を指した。
「それがお詫びということで、ゆるしちゃもらえませんか」
「詫びなのか」
「だめですか」
「祝ってくれるんだろう? 俺の誕生日だからと言ったのはお前じゃないか」
気に入ったよ、と笄を目の高さにかざしてみせると、井上はだらしないくらいに嬉しそうに笑った。
「今度、うちから何か持っていくか?」
笄を鞘に納め、下緒をもとどおりにして脇に置いてから、木戸はそう尋ねた。べつに返してくれなくていいから、というと、井上は首を横に振った。
「いいよ。あんたの家で見るから」
「欲しくないのか?」
「欲しいけど、いいよ」
あれもこれも俺が欲しがっているかもしれないと思うと、あんたは家にいても俺を思い出すだろう。あんたにはそっちのほうが効くんだって、今の俺は知ってるからね。上目遣いににやりと笑われて、木戸はもう一度、
「馬鹿だな」
と溜息をついた。
「馬鹿ですよ」
とおなじく答える井上の膝が木戸の膝に触れ、裾に彼の手がかけられる。
「暑いじゃないか」
汗になる、というと、汗だくでやりたいんだよ、と、皮一枚の下に情火を埋ずめた顔でささやかれた。
「俺の誕生日なんじゃないのか」
「だから好きなだけいかせてやるって。俺の村正で」
「お前の爪楊枝がなんだって?」
ふん、と鼻を鳴らして笑いながら、しかし火照った体を押しつけてきた井上に、木戸はやわらかく身をあずけた。
「おめでとう」
と耳許でささやくのがくすぐったくて、よせよ、といいかけた声は、かわいた唇に吸われて消えた。
[21回]
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