目ざめたときは、すでに日が落ちたあとである。巷間三千人と謳われる門弟たちの足さばきに磨り減った床が、労れきった体の節々に冷たく喰いこむようだった。
桂はゆっくりと目だけをうごかした。一度同じ状況からあわてて飛び起きて、派手に吐きもどしたことがある。
顔の横に、面金が置かれている。誰かがはずしてくれたのだろう。竹刀もすでに片付けられていた。
(どのくらい寝ていたものかな)
溜息をつくと、喉に焼けるような痛みが走った。またあの突きを喰らったのだと知って、情けなく眉を曇らせる。
(両先生がお留守だったからなあ)
弥九郎か新太郎がいれば、こうもだらしなく伸びるまでには撃ち込ませなかったにちがいないのだが。どうした、もう腰が抜けたか、と怒鳴りつけられたときの骨の割れるような衝撃を思い出して、桂はもう一度溜息をついた。
(稽古というには、どうも)
批評がましくそう考えるのは畢竟自分の弱さだとは思うのだが、それにしても桂は不審でならなかった。現に、ともに出府してきた郷国の人たちがいうのである。
「お前、あの仁に何かしたのか」
と。
無論桂が何かしようはずもない。第一、入門以来まだひと月にもならないではないか。
斎藤新太郎が廻国修行で萩へ来たのは、今年の九月だった。神道無念流の練兵館といえばその驍名は田舎にあってもかまびすしいほどで、藩ではよろこんで彼をもてなした。さらにはじめてじかに見るその竹刀さばきのめざましさには、老成をもって知られる高官たちがしきりに声をあげ、伸び上がるようにして見入ったものだった。
結果、日をおかずして藩士の出府入門のことが決まり、桂は藩費での選には洩れたものの、私費留学をゆるされて郷関を出た。
新太郎とは彼の萩逗留以来すでに知り合っていたし、老先生の弥九郎もよくしてくれた。ただ、誰よりも出来るとかねて聞かされていた三男の歓之助だけは、道場にあがった桂が慇懃に挨拶したのに対して、にこりともしなかった。
(俺と同年だといったな)
桂も、そこはまだ若い。
弥九郎や新太郎ならばともかく、同齢の歓之助から人とも思わぬようなあつかいをうけるのは、あまり面白いことではなかった。指名をうけて立ち会ったとき、つい、その苛立ちが剣先に出た。
だからというわけでもないのだろうが。
道場で失神したのは、あのときが初めてだった。なるほどあれは自分の剣が邪剣であったと思った。われながら虚心にそれを反省したのに、しかし以後も歓之助の態度はかわらない。あいかわらず挨拶をしてもろくに会釈もかえってこないし、立会いになれば惨いほどに打ちすえられる。
「よさないか」
見かねた新太郎が止めてくれたこともある。
「これは稽古だ。誰が撃ち殺せといった」
「撃ち殺すぐらいの気概がなくては、いざというとき物の役には立ちませぬ」
歓之助は息もみださず抗弁したが、ついに弥九郎に大喝されて、黙礼して去った。
「どうもあれは逸りすぎていけませんな」
「なりばかり大きくてな。青いのよ」
弥九郎と新太郎が頷きあったのは、あるいはそう言うことで桂を慰めてくれたのかもしれなかった。
(――鬼歓、か)
江戸市中に鳴りひびいた彼のあだ名を思った。誰がつけたのかしらないが、おそらく剣技だけを指していったのではないだろう。
それにしても、と桂は痛む体をかばいつつ起きあがって、冷たい床の上でふたたびそのことを考えた。
なるほど歓之助は誰に対しても――父や兄にさえ愛嬌らしいところを見せない男だが、桂に対する峻烈さは格別である。ひとが「何かしたのか」と問うのも当然であろうし、桂自身もそのあたりを訝った。
けれども歓之助は桂には話しかける隙すらあたえてはくれないのだから、理由を尋ねる機会もない。まして弥九郎や新太郎に訊くわけにもいかなかった。
かくして桂は、三日に一度はきっと、歓之助のために嬲られていたのである。
『世間はな』
去年亡くなった父のことばを、出府以来これでもう何度目かわからないが、やっぱり今日も思い出した。
『実にいろいろなことがある』
と、あれは何のときだったか、桂を相手に目をほそめて言ったものである。
『五尺ぽっちの――お前はもう少し大きいが、まあ天地の曠大さにくらべればちっぽけなものさ。その小さな体でひねくりまわす智慧などたかがしれている。いずれ世の中へ出てみろ。そこらじゅう椿事だらけ、人は珍物だらけだ。しかしそういうものときまっているのだから、いちいち動ずることはない』
父がもし百石や二百石取りの武士であったなら、もうすこし道臭のする訓戒を垂れたのかもしれない。和田の家は――桂の生家はもとをたどれば主家と同祖で、本来の家格は決して卑(ひく)くはないのだが、父はどちらかといえばそういう父祖累代のしかじかといった話を照れくさがるほうで、躾は武家風ではあったけれども、ふだんの訓えはむしろ洒脱であった。
(外を見まわせば皆珍物、か)
歓之助はべつに変わり者というわけでもなさそうであったが、今のところ桂にはそう考えておくよりほかに仕方がない。
(まあ、いい)
理由などどうあれ、つまりはこちらの腕が鈍いからやられるので、稽古を積んで打たれなくなればそれですむのだ。
そう思いきってしまってから、桂はふと、
(湯屋へ行こうかな)
まだ痺れている首を左右にひねりながら、肌に噛みつくような江戸の風呂を思った。あの熱さにはいくぶん辟易するのだが、そういえば歓之助などは熱くなければいけないと江戸っ子らしいところを見せて、日に二度はきっと出かけては風呂焚きを叱りつけていると誰かが噂していた。剣は豪宕そのものだが、元来は癇性な男なのかもしれなかった。
思えば、どうしてそこで気がつかなかったのだろう。
糠袋をやみくもに肌にこすりつけながら、洗い場の湯気のなかで桂は溜息をついた。
(日に二度といえば、朝と夕にきまっているじゃないか)
そうして道場から近い風呂もきまっている。今まで昼に来ていたから出くわさなかったまでのことで、桂が通う風呂は、歓之助にも馴染みの風呂だったのである。
(悪縁だなあ)
泉下の父が聞けば心得が甘いと笑うかもしれないが、桂はつくづくそう思わざるをえない。
隣でやたらと頭にかぶる湯が、床で撥ねて桂の臑に飛ぶ。
(何も、風呂まで)
そんなふうでなくても、と思う。歓之助の入湯のしかたは、いかにも猛烈であった。
さっき出会い頭にあわてて挨拶した桂に頷いたきり、彼はひとこともものをいわない。そのくせその場を離れるでもなく、遠慮して場所を移ろうとした桂を、目顔で引き留めた。桂としては、ひどく気まずい。
(腹でも痛くなったふりをして上がってしまおうか)
そうも思ったが、道場の外でまでなにかと気をまわすのは、いささか業腹でもある。ままよ、と思い、思いながらなおも時折ちらちらと横目で歓之助のようすをうかがった。
彼は盥の湯でざぶざぶと顔を洗っている。手を動かすたび肩の肉が盛り上がるようで、なるほどこれが剣豪の体かと桂は感心した。案外に色が白いのは、道場にばかりいるせいだろうか。
べつにそうぴったりと睨めつけていたつもりもないのだが、そこはやはり剣豪の勘であろう、桂の視線を察したように、
「……飯」
顔を伏せたまま、不意に歓之助が呻いたので、桂はあやうく持っていた糠袋を取り落とすところであった。
「はい?」
「飯は」
「飯、は……?」
「飯は喰ったかと訊いている」
歓之助はいかにも短気らしく鼻を鳴らして言った。
「は、いえ」
まだすませておりません、とあわてて返事をすると、歓之助はそうか、と盥の湯を捨てて、今の会話などなかったかのようにさっさと湯槽へ浸かりに行ってしまった。そうして呆気にとられた桂が、ふたたび気をとりなおして体を洗いはじめてからいくばくも経たぬうちにざぶりと上がってきて、すれちがいざま、
「外にいる」
押しつけがましくそう言い捨てて、桂の返事も待たずに出て行った。
湯屋の戸口を出ると、外は雪であった。
(寒い)
両手を羽織の中へ引っ込める。歓之助に待っていると言われた(のであろう)以上、ゆっくりと湯に浸かるわけにもいかず、桂の体はすでに冷えはじめていた。
入口の脇に、果たして歓之助は立っていた。待ったとも来たかともいわず、彼は桂の姿をみとめると、だまって背をむけて歩きだした。お待たせをいたしました、と告げて、桂は仕方なく、返事もしないその背中について歩いた。歓之助の足どりは一歩ごとにじりじりと雪を踏みしだくようで、そのくせ駆け飛びそうに軽く、彼の道場での足さばきそのままであった。大股ぎみに、点々と間遠く印されていく足跡を観察しながら、桂は無論迷惑は迷惑であるのだけれども、ふとどういうわけだか、風呂からここまでの出来事に一種軽妙なおかしみを見出している自分を感じていた。さすがにそれは歓之助にはわかるまいと思うと、何やら愉快で、彼の後ろでそっと笑いを噛み殺した。
(蕎麦……)
歓之助が足を止めた店の看板を見上げて、小五郎はおもわず首をかしげた。
「好かんか」
ぎろりと顔半分だけで振り向かれて、いえ、と咄嗟に首を振ったが、
(あの稽古のあとに、蕎麦か)
とは思わぬでもない。
桂もずいぶん動いたほうだが、歓之助はそれこそ鬼神のように道場を隅から隅まで駆けまわり、ほとんど法外な荒稽古をつけている。そのあとで摂る食事にしては、蕎麦はいささか軽すぎるように思った。さっき風呂で見た岩のような体が、蕎麦などでできあがるだろうか。第一、朝までに腹が減るだろう。
が、歓之助は桂のそういう思案すら見透かしたふうに、
「あんたが米の飯がいいならそうするが」
戸に手をかけたまま、さっと桂の体を一瞥して、
「米が飲み込めるかどうかだぜ」
その喉、と桂の襟のあたりを顎でしゃくった。そこで初めて桂は思い出して、ああ、と喉へ手をやった。
腫れている。
風呂に入っているあいだもそこは熱をもって疼いていたのだが、歓之助のことに気をとられて、つい忘れていた。なるほど米だの魚だのを食っては、あとで閉口するだろう。
「蕎麦がいいようです」
歓之助の気の回るのに内心おどろきながら、ちょっとはにかみ笑いをうかべて答えると、彼はにこりともせずに、まあ二、三日はそうだろうな、と言ってふたたび背をむけ、店の中へ入っていった。
たかが蕎麦とはいえ、ものを嚥みこむのは辛かった。あらためて歓之助の打撃の凄まじさを思って、桂は何度か喉元へ手をやりながら、時間をかけてその粗末な晩餐を喫した。
歓之助はといえば、つるつると蕎麦を平らげてしまったあと、茶漬だの芋の汁だの、果ては亭主の酒の肴だったらしい香の物だの、好き勝手に持って来させては食べている。そうして別に文句もいわずに、桂がのろのろと蕎麦をすするのを待っていた。
「あんた」
桂が顔をしかめながら揚玉だか何だかを飲みこんでいるとき、ふとひとりごとのように彼は言った。は、と顔をあげると、目をあわせようともせずに、その視線は漫然と膳の上に落ちている。
「あんたは、どうしたい」
「どう……」
桂は箸を置いた。
「どう、とおっしゃいますと」
「何、」
歓之助はいい加減に日にあたりすぎて脂の抜けきったような、いやに黒々とした鰯の干物をつついている。
「この道で喰っていくつもりか、と訊いたのさ」
その左手が、竹刀を振るしぐさをしている。
「それは」
桂が口ごもったのは、歓之助にからかわれていると思ったのである。道理であろう。入門からひと月、彼から一本もとれず、稽古の劇しさに堪えかねて喪神することすでに十余回におよぶというのに、剣で喰うも喰わぬもないではないか。
桂はこころもち頬を赧らめて、丼のなかへ目を落とした。そうしてつゆに浮いた葱をだまって眺めていたが、歓之助がなおも、どうだ、と尋ねるので、仕方なく小さな声で答えた。
「私にそれほどの才分がありましょうか」
その口吻はいささかふてくされていたかもしれない。が、歓之助はべつに笑うでもなく、ただわずかにふしぎそうな顔をして、
「才分がどうしたね」
と言った。桂は内心あきれながら、
「剣で身を立てる気かとおっしゃいましたので、ついそうお尋ねしたまでです」
それから、
「歓之助さんの半分でも天が私に才を藉してくれていればと思ったものですから」
などと言わでものことをつけたしたのは、そこがまだ、とって二十歳の未熟さというものかもしれなかった。
桂は、言ってしまってからそっと唇を噛んだ。歓之助が軽蔑するかと思ったが、意外にも彼は急にむずかしげな表情になり、
「あんたは妙なことを考えるんだな」
腕組みして、変に沈鬱らしくつぶやいた。
『才分なんぞというものは』
その夜桂は、つめたい布団のなかでまんじりともせずに、歓之助がいった言葉を反芻しつづけた。
「あんたはそれを、天恵だと思うのかね」
歓之助は決して饒舌ではなかったが、桂に対してこれほど多くの言葉を労してみせたのは、今日のそのときがはじめてであった。彼は真剣で、ひょっとすると道場にいるときよりも熱を帯びて見えた。
「たとえばあんたが鬼神も恐れるような剣聖に生まれついたとして、それが天恵かね」
「はあ」
歓之助の様子がいつもとちがうのにちょっと面くらいながら、桂はごく穏当な答えを用意した。
「それは、稽古で身につけられる以上のものが生来そなわっていたとすれば、やはり天稟というものではないでしょうか」
ところが歓之助は不服げに、
「俺はそんなことを聞いているんじゃない」
と横を向いた。
「では……」
「天稟でもサンピンでもなんでもいいんだ。それが果たしてお恵みとよべるかというのさ」
「呼べませんか」
「呼べるもんかね。いいか、俺はたしかに竹刀をとってはあんたに――大きい声じゃいえないが、兄や親父にもひけはとらんつもりだ。こいつは稽古の数じゃない。そういうふうに生まれてきたのさ」
「はあ」
なるほど、歓之助のいうことは斎藤門下の者なら誰でも認めるところだろう。決して自惚れではなく、彼にはおそらく生まれつき、凄まじいほどの才分がそなわっている。しかし、
「それを俺は恵まれたなどと思っちゃいないぜ」
と歓之助はいうのである。
「誰が恵まれたなぞと思うものか。鬼才だか妙技だか何だか知らないが、そんなものが天恵であってたまるかね」
「では」
桂は首をかしげた。歓之助の話は何やらあちこちが抜けおちていて謎だらけだが、いつしか桂は、単に彼の相手になってやっているのではなく、まじめにその話に聞き入っていた。彼の弁は巧くなく、さして面白いことがあるとは思えないのに、何だか妙に気にかかるところがあって、桂はいちいち相槌を打ちながら、歓之助の不器用な言葉の先を探っていった。
「では、何です」
桂が問いかえすと、歓之助は一瞬目をとじた。次にその目をあけたとき、見慣れたはずの瞳に、いつものすすどい光とはちがう、いやに年嵩におもえる翳りが宿っていた。
「呪いさ」
と彼は言った。その面差しはどことなくくすんでいるのに、声はかわいてむしろ爽やかだった。
「俺の剣は、乱世の剣だからね」
歓之助は桂の酌を断って、手酌で盃をあおいでいる。彼の膳の脇には、もう四、五本の空の銚子がころがっていた。体が酒精を欲する質なのだろう、盃をかさねても顔色ひとつ変えるでなく、普段よりもかえっておだやかに見えた。
「親父や兄のは道場剣術、そういってわるければ修身の剣さ。――これは誓って見くびっていうのじゃない」
道場剣術が程度の低い剣だとは少しも思わないのだと、歓之助はくどいほどに繰りかえして、それから、
「俺はそれこそ孔孟の徒が昔の聖賢をありがたがるのと同じくらいに、ああいった剣を――あの人たちを尊いと思っている。神々しくおもえるときすらある。俺だって、」
と言いさしてすこし唇を噛み、え、という顔をした桂とかちあった視線をばつがわるそうにそらして、
「俺だって、できればああありたい」
歯軋りするようにして低く言った。
「大先生たちのように、ですか」
「笑うか」
「いえ……」
笑いはしないが、ひどく意外だったことはたしかである。桂は歓之助について、どちらかといえば、己の才を恃んで彼の父や兄までも軽く見ているものだと思っていた。それが今日の彼は心底から羨ましげに、弥九郎と新太郎の剣を称えているのである。
「ああありたいが、俺は、俺だけは乱世の剣に生まれついてしまった。どうにもならんのさ」
「それが、呪いですか」
桂にはぴんとこない。歓之助が乱世の剣、弥九郎や新太郎が修身の剣というのはなるほどそうかと思うのだが、しかしなぜそれが呪いであろう。まともに立ち会えば(それは上長に対するつつしみとして避けているようであったが)強いのは断然に歓之助で、皆そう思っているからこそ、「九段の鬼歓」の剣名は江戸市中に熾んなのではないか。
ところが歓之助は、
「道場剣術なら、それでいいのさ」
まんざら皮肉らしくもなく、ふと桂が心細くなったような淡い笑みを洩らした。
「道場剣術ならば剣名の誉れと、それに増長しない修養とを心懸けるのは一生の大事だ。しかし俺の剣は乱世だぜ。刃に血塗らずに得た名声や、士大夫の恭謙が何になるね」
歓之助の眼は、手の中の盃にたつさざなみにむけられている。こうして見ると、存外密度の濃い睫毛をしていた。深い影が、黒い瞳を覆っている。
「なるほど今の世は騒がしい。しかしまさかにふたたび匹夫が白刃をふるって天下をとらんずなんて世がくるものかね。少なくとも俺の生きているうちはないだろうさ。すると俺の剣はね、」
歓之助はそこでもう一度黙りこんだ。しばらく片手で盃をゆらし、やがてそれもやめて薄明かりのなかに凝固した。それから思い出したように二、三杯立て続けに注いでは飲んで、
「だから、呪いさ」
酒に溶けるような声で、ぽつりとつぶやいた。今度は桂にも彼の意はよく通じた。しかし何と返答したものかわかりかねて膳の縁を眺めていると、
「これで施してもらったと思えなど……天道はそれほど非ではあるまいよ」
その口ぶりには、聞く者の胸を圧するにがさがこめられていた。
(乱世)
帰るみちみち、歓之助も桂も、たがいに無言であった。
彼とどうやって別れたか覚えていない。ただ桂は灯のない部屋のなかで目ばかりぎょろぎょろさせて、蕎麦屋での話を考えつづけた。
(乱世……)
おもえば気恥ずかしいようなことばである。歓之助自身もそう思っているだろう。しかしほかに適当な形容が見つからないほどに、おそろしくそれに似つかわしく生まれついてしまった歓之助のひそかな鬱懐を思って、桂はふしぎな物寂しさをおぼえた。
(乱世など)
歓之助のいったように、そうたやすく来るものではあるまい。昨今の紛擾で剣術流行りとはいっても、やはり弥九郎や新太郎ほどの温雅さがあってはじめて容れられる、今はつまりそういう世であろうし、これからもそうだろう。
(俺は)
と、そこで桂はふと首をかしげた。歓之助のいるべき乱世にも、弥九郎や新太郎の出る世にも、自分はほどほどに暮らせるようでもあり、しかしあまりに心もとない細民としてしか居場所はなさそうにもおもわれる。
(さて、俺は)
この世のどこでどう息をしたものかな、と思った。剣で喰っていくつもりか、と言った歓之助の言葉を思い出して、それに惹かれるようでもあり、そうでないような気もして、畢竟そういう腰のさだまらなさに、我ながら情けない思いがした。そう考えてみると、遅く生まれすぎた憾みはあっても、「乱世の剣」というはっきりした命題をもって生まれてきた歓之助が羨ましく、あれはやっぱり天恵というものではないかと思ったりした。
眠られぬまま夜をすごし、白々明けのうちに道場へ出た。
外は霜で地面が白く粉をふいたようになり、足裏に伝わる床の冷たさが痛いほどだった。
(誰もいないな)
この時刻であれば当然だろう。桂は竹刀をとって、先日師に直された型の確認をはじめた。それから素振りに入ろうというところで、みしりと床板を踏む音を聞いて振りかえった。
「あ、これは、」
おはようございます、と膝を折って丁寧に礼をした。内心、わずかに動揺している。桂は頭を下げたまま、こちらへ向かってくる男の足の指先を見つめていた。そこにわずかでも彼のいつもとちがう表情があらわれてはいまいかと思ったのである。
「あんたも早いな」
その声はいくらか眠たげに、しかし案に相違してなにげないものだった。一応愛想らしいことを言ってくれたのが、変化といえば変化かもしれない。
が、桂が顔をあげ、もう二言三言挨拶に及ぼうとすると、歓之助はいつものように仏頂面で、煩わしそうにそれを制した。それから、
「防具を」
ぼそりというと、自分は何もつけないまま、黙って竹刀だけを取ってきた。
蹲踞している桂の前に立ちはだかり、まだか、という顔でこちらを見るので、桂はしかたなく正座して、防具をつけにかかった。
面金をつけると、その表情は歓之助からは匿れる。桂は冷えて薄赤く染まった彼の足先を見つめながら、ゆうべの出来事を思った。
乱世の剣なのだと、歓之助は彼自身をそう言った。今の世にそれが何の振るいどころがあろうかと自嘲し、歎き、修身の剣に生まれついた父や兄が羨ましいのだと言った。誰もが鬼才と認める彼によもやそんな憂悶のあろうとは知らなかった桂は大いにおどろき、ひとの一生の課題ということについて眠らずに思いをめぐらせてしまったのだが、さて一夜明けて歓之助のようすはどうであろうかと、半ばは親身に、半ばは女のような物見高さでそれを思った。
が、当の歓之助はといえば、そういう物思いのつけ入る隙もないほどに、いつもながら面白くもなさそうな顔をして、びりびりと鋭い気を漲らせている。そうして、
「まだか」
と言ったかと思うと、癇ばしったようすで竹刀の先で二、三度床を突き、只今、と立ち上がった桂の面をいきなり横殴りに撃ちかかって、寸止めにとめた。それから、一歩よろけた桂が体勢をととのえるのを待って、
「どこからでも、あんたの好きにかかってくるがいい」
人を舐めきったような、そのくせ妙に余裕のない調子で宣して、防具をつけていない体を桂の前にまるごと晒した。
「未熟者が」
とは、よくよく御念の入った叱られようである。
桂は板敷の上に上体だけようやく起こして、大股に歩み去ってゆく歓之助を見送った。
(いまさら)
と思っている。
自分の腕が未熟なのは知れきった話で、今さらそれを言うにも及ばないではないか。さらに歓之助は、竹刀を合わせているあいだ、こうも言ったのである。
「自惚れるな」
と。
それはおもわず桂が首をすくめたほどの、烈しい響きであった。
が、べつに桂は自分の剣に自惚れなどもってはいない。相手が歓之助ならばなおさらである。いつぞや初めて立ち会った日には青臭い苛立ちから剣先に驕りが出たが、今はそういうことはないはずであった。
(案外……)
その言葉の意味に思いめぐらしてみて、桂はふと微笑を禁じえなかった。
あれは、桂の無言の詮索に対して言ったのだろう。
ゆうべの桂は疲れてはいたが正気だった。歓之助も、酒はずいぶん飲んだが正体をなくすほど酔ってはいなかった。桂がそうであるように、彼もゆうべ自分が話したことを忘れてはいないだろう。
だとすると。
ゆうべも思ったことだが、歓之助はあれでどうして、気持の繊やかな――それは他人に気を配るか否かといったこととはまるで別だが――男であるらしい。そうして彼自身はおそらく、自分のそういうところを快く思ってはいないのだろう。それがつい、洩らすべからざることを桂に洩らしてしまった。桂としては、歓之助の言ったことに驚きもし、彼のようすが気にかかった。
(これほどの剣才をもって生まれながら……)
なおああして悩み煩うか、と、竹刀を構えながら桂は思っていた。あれはたしかに邪念であったろう。そうしてその念を、歓之助にさとられてしまった。桂は決して彼を憐れんだつもりはないが、ひとから胸のうちを勝手に忖度されるのは、歓之助のような気位の高い男にとっては我慢ならないことだったのだろう。彼は吼え、怒り、結局今日も桂はめちゃくちゃに打ちすえられたのである。
ただ――――……
(突きははずしてくれたんだな)
そろそろと喉へ手をあててみる。そこは昨日以来まだ熱をもって腫れていた。歓之助はあれほど容赦なく撃ちまくったように見せながら、すでに傷めているその場所だけは避けてくれたものらしかった。
(妙な人だ)
まだ痛む喉をさすっていると、入れ替わりに新太郎が入ってきた。
「なんだ、やっぱり君がやられたか」
桂があわてて膝を折ると、彼はその前にどっかと胡座をかいて、
「歓之助のやつがぶりぶりして出てくるのに会ったから、そうじゃないかと思っていた」
あれは本当にしょうがないな、と言いながら、桂の顔色を観察して、
「どこかひどくやられたようなところはないかね」
自分の顎をさすりながら尋ねた。
「聞けば昨日もずいぶんだったというじゃないか。荒稽古は大いにやればいいんだが、あいつのはどうも一方的すぎるからね」
「いえ、私が未熟でありました」
「未熟者を虐待するのは士大夫の剣じゃないぜ。――まァしかし、」
新太郎はそこでちょっとまじめな顔つきになって、
「君は、なかなか筋がいい」
おごそかに、といえばおおげさだが、なにかしずかな気迫をもって言った。
「……そうでしょうか」
桂にはにわかに信じられない。新太郎は笑って、
「そうさ、何だね、俺の言うことを信じないかね」
そいつはこまったな、と言った。新太郎は歓之助とはこれがおなじ兄弟かと思うほど快活で、いかにも江戸っ子らしいさわやかさをもった男である。彼はその声までさわやかにはずませて、
「俺のめがねじゃあ不安かわからんが、本気で言ってるんだぜ。君は筋がいいよ」
「それは、」
と桂は首をかしげた。ゆうべ歓之助がしていた話を思い出す。
「修身の剣でしょうか」
「うん?」
新太郎は、おそらくその議論を歓之助から聞いたことはないのだろう、すこし考える顔をしていたが、やがて、
「いや、ちがうな」
歓之助とよく似た黒い瞳でじっと桂を見すえて、
「世を啓く剣だ」
それは、ふしぎに持ち重りのする声であった。
「世を――」
桂には、その答えは意外であった。やっぱりゆうべの歓之助の話が、そのことばをとらえようとしてひっかかる。彼の受け売りをして、新太郎に尋ねかえした。
「しかし、剣で天下をとろうなどという世がふたたびまいりましょうか」
「それは来ないさ」
新太郎はあっさりと言った。
「俺のいうのはそういうことじゃないよ。君はその剣を元手にして世を啓くんだが、その事業の成るとき、きっと剣のことなど忘れているんだ。けれど忘れるというのは喪くすことじゃあない。身についたものほど見えにくいというやつさね」
「何の謎です」
「謎じゃないよ」
新太郎は体を反らして笑った。桂にはますますよくわからない。わからないながら、どうやら自分はからかわれているわけではないらしいことだけは了解した。なにかひどく重々しい託宣を聞いたようで、そのくせ風の吹きわたるような何ともいえないかろみが、頭上高いところで白く光っているような気がした。
「しかし、なあ、」
新太郎はまだ笑いの余韻に浸りながら、桂をしげしげと眺めた。
「君は変わっているな。ずいぶんやわらかい。しかし芯がないのかと思えばそうでもない。むしろ剛直だ」
「私にはよくわかりませんが……」
「それそれ、そういうところさ」
新太郎はひとりで嬉しそうにしていた。
「そういうところが厄介でね」
「厄介……でしょうか」
「いや俺は面白いと思うがね。しかし、何だな、あいつはそれが苦手だろうな」
「あいつ……」
「歓之助さ」
はあ、と桂は力なくうなずいた。いささかうちとけたものと思っていたのに、新太郎の目から見ても、やはりそうなのだろうか。
「私は嫌われておりましょうか」
「そう思うかね」
新太郎は神妙らしい顔をして桂の顔を覗きこんだ。しかしじきに堪えきれなくなったらしく、ぶっと噴きだして、
「あいつはよほど面倒な男だな。君にこんなに気を揉ませて」
片手で額を覆って笑いだした。
「あの……」
「まあなんだ、俺などにはあれでも兄弟の礼のつもりか猫をかぶっていやがるが、君にはずいぶん開けっぴろげのようだからね。ああ気軽に八つ当たりされちゃあたまらんだろうが、まんざら悪い奴でもないんだ。せいぜい仲良くしてやってくれ」
「ですが、」
「あの気難しい馬鹿が、こうまで気に入った男もないんだ」
まあ君も迷惑だろうが、あれの身内として頼むよ。そう言った新太郎の声は、澄みきったやさしさに盈ちていた。
(やっぱり――)
あの人は恵まれているじゃないか。呆れるような、しかしふわりと心地よいものに肌を撫でられる思いで、桂はそっと笑った。歓之助の剣は、彼がそれを自分の天命と信じたようには、振るう機会がないかもしれない。しかしだからといって彼の前途は、彼が失望したほどには無味乾燥ではないにちがいない。
(そんなことをいえば、あの人はまた怒るだろうが)
生意気だと彼は言うだろう。お前こそどうするつもりかと、むきになってやりかえすだろう。また実際、自身のことについては何がどうともわかりかねる自分なのだ。
(それでも)
歓之助にゆるされているかぎりは、彼に近づき、彼を知り、彼がすすんで何事かを語ってくれる自分であろうと思った。それはなにも親切のつもりではなく、そうすることで自分自身にもひらけてくる道すじがあるように思えるからである。
「若先生」
桂は顔をあげ、新太郎によびかけた。
「歓之助さんの剣は――まことに失礼ですが、どういう剣とご覧になりますか」
すると新太郎はちょっと片眉をはねあげるような表情を見せ、それから、
「そうさなァ」
唇の端にさも愉快らしい笑みをふくんで、
「はねっかえりの剣だな」
あれは腕は恐ろしく冴えちゃあいるが、遣い手としてはまだまだ、子供だよ。そう言ってちろりと試すように桂の顔を見た。桂がだまっていると、
「鍛えようを誤れば乱臣賊子の剣にもなろうさ」
まんざら冗談でもなさそうに言う。
「そのときは、若先生はどうなさいます」
「それはもちろん斬り伏せるがね。まあしかし近頃見るところではそうはなるまいよ」
なにせ、ね、と新太郎はしきりにうなずきながら、
「いいお目付役ができたからね」
おかげで俺も安心さ、と、膝を拍って立ちあがった。
「若先生、それは――」
「ああ、今朝も冷えてやがるなあ」
二の腕をさすりながら二、三度肩を上げ下げし、壁に掛けてある竹刀を取ってきて、
「君は、まだやれそうかね」
座ったままの桂を見おろして尋ねた。
「――は」
新太郎の顔に朝日が射して、彼のあかるい血の色がいっそう生き生きと見えた。
「勉強させていただきます」
いそいで防具をつけなおして立つと、裸足の裏にふたたび床の冷たさがびりびりと食い込んだ。黙礼のあと、正眼に構えた新太郎の竹刀の先が、まっすぐ自分の喉に向けられる。
「どこからでも打ってきなさい」
その鷹揚な口調はまるで歓之助とはちがうのに、声はやはり似ていて、それは至極あたりまえのことであるはずなのに、桂は不覚にもふっと笑いを洩らした。
(はねっかえりか)
さっきの新太郎の言葉まで、思い出すとなにやら妙に可笑しかった。また雑念にとらわれていると自分を叱ったが、こればかりはどうにもならなかった。
上段にふりかぶって高く気合の声をあげ、新太郎がそれに応える。二人の間に白く息が凝って、その茫とした輪郭がひどくやわらかに見えた。
外をゆったりと流していく物売りの声が、空気の冷たいせいか、ぴんと細く、冴え冴えして聞こえた。いかにも年の暮れだな、と思った。そうして暮れてゆく年よりも、迎える年のほうにそわそわと気をはずませている自分を発見した。
明ければ、二十一になる。
なんということのない足し算に、しかしなぜだか桂は不思議な感興をおぼえて、その胸苦しいようなざわめきから逃れるために、大きく竹刀を振った。
[31回]
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