襖の奥へ通ると、そこはもう磧なのかと思った。
すでに膏肓を冒された病人の寝室など、もっと暗くて黴くさいものとばかり予想していた大久保は、部屋中に滴るような初夏の気に、一瞬わずかに眼を見ひらいた。
まだ新しい畳の、藺草の香もすがすがと青い。その畳のすぐ下を流れているように、鴨川は潺湲たる響きで耳底を洗う。開け放った障子のむこうに濡れる緑が、白い床の上に青い影をひろげている。
その人の顔が青白く見えるのも、あるいは若葉のせいかもしれない。
大久保が訥々と挨拶をのべると、木戸は肉の削げた頬にわずかに笑みをうかべて、物憂げに体を起こした。
「どうぞ、そのままで」
と言ったときには、彼はすでに床の上に座り、寝衣の襟を直してしまっている。
緑の波に浸された部屋のうちで、
「いかかです」
「おかげさまで」
と交わす言葉の、そこだけかわいた、馬鹿ばかしい無意味さ。大久保はふと、彼とのあいだに今まで何万言と費やしてきた無為のことばたちを思った。あれらの言葉の骸は、今どこに捨てられてあるのだろう。
「大久保さん」
と木戸がおだやかに自分をよぶ。こういうとき、きっと彼はまた無意味な会話の端を自分の鼻先にひろげてみせるのだ。そうしていつでも自分はそれを拾いあげてしまう。
(もう、どれほど――)
飽きもせずにくりかえしてきたことだろう。否、本当は互いにとっくに飽いていたのだ。気ぶっせいでいやでたまらず、それでも交わらないわけにはいかなかった。
(面倒なことだ)
長い年月、相手を面倒だと思う以外に、互いの認識のしかたを知らなかった。結局面倒に思ったまま、永遠に別れることになるのだろう。
縁のむこうを、ゆるやかに風がわたる。緑と土の匂いがさわさわと揺れて、木戸は眩しげにそちらを振りかえった。そうして葉桜の梢に白い顔をむけたまま、
「大久保さん」
ともう一度言った。
「はい」
「鹿児島は、もう暑いでしょうか」
「さて……」
と大久保も外の緑を見やる。
「京のようには蒸しませんので、南国のわりには、存外」
暑くはない、というのを省いてそう答えると、木戸はちょっと首をかしげて、
「しかし、じきに夏です」
「はあ」
「兵は暑いでしょう」
みな冬の支度で出征しております、という。大久保は兵の装備にはさほどに興味をもてなかったが、仕方なしに、はあ、そうかもわかりませんと頷いた。
はじまったか、と内心思っている。
木戸は鹿児島の気候の話がしたいのではないだろう。
京都よりはるか西南、大久保の生まれ育った――そうして今度のことで捨てた――その地では、なおも激しい兵戈がつづいている。私学校の動きが不穏だと東京に伝えられるよりもずっと前から、木戸は薩摩士族の不羈と暴戻についてはほとんど吼えるようにして非を鳴らしていた。曰く、眼中ただ藩国のみあって皇国あるを知らず。曰く、国帑の費え、人民の損耗を顧みざること甚だもって悪むべし。大久保はそれらのいちいちを尤もだと思ってはいたが、といって大久保自身どうにもならない。県庁は県令以下大久保を憎悪している。手きびしく裁断してやったところで、威令に服するなどということがあろうはずもなかった。
さかんに諜報活動をおこなって懲罰の機を待つ一方で、実際大久保はこまりぬいていた。もうお手上げだという思いもつねに持っていたのだが、まさかそれを他藩の廷臣――木戸もふくめて――の前で見せるわけにもいかない。結局鹿児島一条については大久保らしからぬのらくらした弥縫策をかさねることになり、それが木戸などには身びいき、ゆるしがたい不公正と映ったのだろう。木戸はさかんに責めたて、歎き、ついには泣いて、しかしその訴えが肩すかしを喰らうごとに近頃は目に見えて憔悴し、とうとうこの京都行幸の途上、臥せっきりで病を養う身となった。そうして御所に伺候はなかなか叶わぬものの、毎日のように長い手紙や建白書を書いては、大久保に送りつけてくる。その内容の正論であるだけに、大久保は正直なところすっかり辟易して、もてあましていた。
だからあまりゆっくり見舞に来なかったというわけでもないのだが。
いま木戸に面とむかって鹿児島は、などと言われてしまうと、何やら尻のあたりがむずむずするような、居たたまれない感じが感じがおこって、早く退散するための言い訳やら何やらを、つい、考えている。
が、意外にも今日の木戸の口ぶりには、大久保を責める色はなかった。
彼は青葉の翳に溶けるように、しずかな微笑をうかべながら、
「なかなか、征討は難しいでしょうな」
などと、とても世間には聞かせられぬようなことをさらりと言った。
「薩軍といえば隼人のむかしから精強で知られておりましょう。寄せあつめの鎮台兵では、どうも」
「元亀天正の時分の一騎討ちならばそうかもわかりませんが」
近代戦というものはそうではないということは――つまり一軍の勝敗が個々の力量の単純な総和にはならぬということは、軍事に素人の大久保にもわかっている。第一、かつて大村の後ろ盾としてさかんにその論をとなえたのは、木戸のほうではなかったか。今ここでそれをあべこべに彼に説きかえしてやるなど、ずいぶん馬鹿げている。
しかし木戸はそれもやっぱり本題ではなかったらしく、大久保の反論にあっさりと頷いて、今度はまたべつのことを言った。
「西欧のように鉄路がひらけていないのが、かえって幸いでしたよ」
「はあ」
「今に長屋の店賃くらいの高で鉄道へ乗って、二、三日で鹿児島でも熊本でも、行けるようになってごらんなさい」
そう言う木戸の口許には、皮肉らしくもない、ふわりとした笑みがただよっている。
「方途さえあれば、ね」
ふたたび外のほうへむけられた彼の目は、あるいは幾重にもかさなった青葉を透かして、はるか西南の空を眺めようとしているのだろうか。
「薩軍の陣営へ馳せ参じたいと思う者は多いでしょう。それこそ、京でも関東でも、奥羽からでも――」
「そうした士族の動揺を抑えるためにも、鹿児島は早急に平定せねばなりません」
肚に力をこめていったが、木戸はふいとそれを逸らすように首をかしげて、
「相手が士族だけですむなら結構ですが」
なおも微笑をつづけている。
「しかし」
と大久保も緑の香のするほうを見上げた。
「私の国の士族と申しますのは、実に鼻持ちのならないところがありまして」
「農工商と行をともにはしない、というのでしょう。それは存じております。存じておりますが――」
隊列に加えてもらえないまでも、走りつかいぐらいはするでしょう。そういう裾野のひろがりは、弾薬の数よりもむしろ恐るべきではありませんか。――容易ならぬことを口にしているくせに、木戸はやはりどこまでもふわりふわりと、緑に濡れた畳の上を、爪先立ちに舞っているような感じがした。
「ずいぶん、そこはね」
葉桜をゆらす風が油っ気のない髪を乱して、木戸は長い指でそれをかきあげる。
「輿望がちがいますよ。東京の不人気さかげんときたら」
東京というのは、つまり政府のことをいったのだろう。その東京と――……
(わかっている)
大久保はこみあげてくる苦いものを、奥歯で磨りつぶした。
誰の、とは木戸はいわなかったが、政府とくらべものにならぬほどの輿望をあつめているのは、つまりは西郷であろう。衆庶の歓心を買おうとするなどといってかつて木戸はしきりに顔をしかめていたが、それは多分に予断の勝った見方であるとはいえ、彼のいおうとするところは大久保にもまんざらわからぬではない。むしろ御一新ののち汚れ仕事を極端に避けるようになった西郷に対して、もっとも不満を感じているのは当の大久保であるといっていい。
が、今日の木戸は、それすらもはや関心事ではないといった風情で、ゆったりと青葉の色の風に髪をなぶらせている。そうして、
「錦絵はご覧になりましたか」
などと、妙なことを大久保に尋ねたりする。
「錦絵――ですか」
「ええ。開戦からこちら、絵草紙屋もずいぶん繁盛だそうですよ。おおかた構図は旧弊なんですが、なかなか勇壮な、いい絵もありましてね。近頃のでは陸軍大将勇戦の図とかいうのが、こう、政府軍をねめつけて馬上ゆたかに……どこへしまったかな」
木戸は敷布団の端をひっくりかえして、ああ、掃除をさせたときに片付けてしまったか、などと言っている。呑気な市井人のようである。
「あなたはそんなものまでご覧になるのですか」
「聾桟敷で隠居していると暇でしてね」
「隠居などと――」
反論しかけるのを、木戸はただ微笑で封じた。べつに気迫らしいもののないその笑みに、しかし今そのことでまともに議論する気はないのだといわれている気がして、大久保はあとの言葉をのみこんだ。
木戸の立場は隠居ではない。だが、遠からず恢復してふたたび廟堂の采をとり給うべしとは、大久保には言えなかった。木戸自身、もうそれは信じていないことだろう。もとにもどした布団の端を叩いている手、その手首も、大久保が知るよりずいぶん細くなった。
「まあつまり」
とほとんど唐突に彼はいう。なにかひとりで考えているとき、彼はいつでもこうだった。「ああいったものが飛ぶように売れるのが今の世間だということですよ」
薩軍の勝利を皆が期待している――木戸はそう言いたいのだろうが。
「世間、でしょう」
と大久保は言った。
「公議輿論とよべる体のものではありません。民心はいつでも浮薄なものです」
「その浮薄な民心の蒙を啓けえぬまま、荏苒今日まですごしてきたのは我々政府の罪ですよ」
「それを悔やむのは今すべきことではありません」
「それはね」
木戸はいくぶん眩しそうに目をほそめた。
「あなたの場合はそうでしょう」
彼の長い睫毛が、頬の上に青葉の色の影となってゆれている。
「あなたには今よりのちの仕事が山とおありです。悔いている暇などないでしょう。これは、私の仕事です」
「仕事――」
「罪責、というほうがたしかでしょうか」
とにかく、私の領分です。だから、あなたはいいんです。彼は雨のあとの木々の葉ずれのような声でつぶやいてから、
「西郷は」
とはじめてその名を口にした。
大久保の顔は、多分、そのときわずかにこわばっていただろう。木戸はそれをどうとったのか、失礼、と言い置いて、
「西郷翁は」
と言いなおした。べつにそれはどちらでもよかったのだが、
「仁政を布くのだそうですね」
と微笑みかけられたとき、さすがに大久保はいやな心持がした。
「そのように、吹聴していると聞いておりますが」
それは木戸も知っているはずである。
(なにを今さら)
と思った色は、多分面上にあらわれていたろう。
――仁政。
それは西郷が言ったことなのか、どうか。
(あるいは、今の――)
今の西郷ならば、いわぬものでもあるまいと思う。彼はひょっとすると譎詐奸謀を事とした昔をことさら悔いて、ありもしない東洋豪傑や士大夫の風に自らを泥ませようとしているのかもしれない。いずれにせよ薩軍が掲げる仁政なるものは、結局は子供のむずかりと書生論にすぎないと、大久保は思っているのだが。
「仁政といわれて、草木もなびく。よほどかれらは仁に飢(かつ)えていたのでしょうか」
木戸の口ぶりは決して大久保をなぶっているのではなかった。といって真剣に思いなやんでいる風でもなく、ただゆったりと、緑陰のなかをただよっている。
「さあ……」
青葉の香りが、さっきよりも濃くなっている。その匂いのなかに呑みこまれてゆく気がして、大久保は手指を握りしめ、背筋を緊張させた。木戸はそれをわかったのかどうか、涼しげに睫毛をそよがせて、
「これもやっぱり錦絵の詞書にあったのですが」
などと言う。
「東京は苛斂と収奪の府だと、もっぱら怨嗟されているのだそうですよ」
「お気になさるのですか」
「気になりますよ」
木戸の吐息に緑の香がゆれる。
「それはずいぶん気になります。仁政とはそも何なのか」
あなた、どう思われますと水を向けられて、大久保はちらと片眉をあげたが、そのまま黙りこんだ。木戸が答えをもとめていないであろうことを、その言葉つきに読みとったからである。
仁政。
仁政。
その語の胡乱さを、木戸もまた感じているのだろう。感じながらやはり、その語感のはなつ圧倒的な道義性の前に、身の竦む思いをせずにはいられぬにちがいない。
「あなたは」
と大久保が思わず口にしてしまったのは、あるいはその萎縮の居心地のわるさを、われと我が声で叱りつけようとしたのかもしれなかった。
「仁政をなさりたいのですか」
「どうでしょうね」
木戸はわずかに目をふせた。その顔が存外曇って、もの思わしげに見えた。
「仁政とやらが孤児や浮浪に飴玉をくわえさせて回ることならば、あえて官に身を置いて、そういうくだらぬ御恵投のまねはしたくありませんな」
「……――」
大久保は我にもなく、一瞬気おくれがした。それから、
(ああ、そうだった)
と、自分のうかつさを叱った。
「意外ですか」
数秒の沈黙の意味を、木戸が問いかける。
「いいえ」
みじかく答えた。
そう、何もおどろくことなどない。木戸は本来、こういう男ではなかったか。
肉の落ちた体が、その温顔にどこかしら孱弱な風情を添えているとはいえ、木戸はずっと昔の青書生のころから、大久保の知るかぎり、しおしおと優柔であったことなど一度もなかった。
あるいは彼は、情にもろいかもしれない。しかし情実にほだされて節を枉げることはない。そのあたりはむしろ、頑ななほどであった。木戸が甘いの手ぬるいのという向きもあったが、かれらは単に、専断の勇ましさを好む浮薄の徒であったのだろう。木戸がいつでも容易に動かないのは女々しい逡巡のためではなく、軽挙をいやしむだけの見識と肚のかたさがあったからにほかならない。
だから大久保は、木戸のやりかたをかならずしも好まなかったが、彼を軽んじたことはかりそめにもない。いつでも木戸は手強く、やっかいで、大久保の心象にうつる彼の影は大きく重く、ときに獰猛ですらあった。
(そう、耶蘇坊主の施しのような「仁政」など――)
それをしたいか、と木戸に尋ねるのがそもそも愚問であったろう。彼はふたことめには人民、人民ととなえるほどの民政ずきであったが、門前の細民へ憐れみを垂れてまわるばかりが能の布施業趣味ではない。国家中興の基(もとい)を建てるため、必要とあらば非情の行いもあえてする。それは、いまの政府のなかでも、おそらく木戸や大久保の世代だけが知る厳しさであった。
(それを、あの男は)
と、大久保は、追想がそこへおよぶと、たちまち苦い思いにかられた。おなじことを、多分木戸も考えている。現に彼はふたたび、
「西郷翁は……」
と口にした。
「西郷翁だとて、何もお救い小屋のまねごとがしたいわけではないでしょう。だから私は不審なのです」
なぜ西郷がことさら苛政を理由に政府を指弾するのか、対するに仁政――それもおよそ抽象的な――をもって説くのか。考えても解けぬ、不審で――いっそ不思議でならないと木戸はいう。
(知るものか)
と、大久保はその濃い髭の下で唇をひきむすんだ。すでに戦端はひらかれているのだ。
「なんとか真意を問う手だてはないものでしょうか」
と木戸はいうが、もはやその機はうしなわれている。同時に、大久保の関心もまたそこを去ったのだ。
「いまさら、それを聞いたところで……」
「無用の感傷だとおっしゃる……?」
木戸の声はやわらかに凪いでいた。かしげた首のうしろで、風が光っている。
「感傷、ね」
大久保はひとこともそうだとはいわないのに、木戸はなぜかそのことばが気にいったようすで、顎へ手をやって頷きながら、ひとり反芻している。
「感傷なのかもしれません。とすれば、あなたには無用でしょう。あなたには向後なすべき仕事も企図もある。西郷はあるいは敗れても――破らねばなりませんが、這回の挙は翁畢生の事業となるでしょう。するとつまり私ばかりが」
言いかけて木戸は自ら愧じるように首をすくめ、
「こういっては婦女子の愚痴のようですけれどもね」
と苦笑した。
「あなたばかりが――?」
「そう。私ばかりが……こんなところでこうして臥ているわけです」
あとはさすがにいわなかったが、おそらくこのまま命尽きるのだと、木戸は言いたかったのだろう。
「まあそれも――そんなことを恨むのも、ずいぶん年甲斐のない、青臭い話ですが」
それはそれとして、どうも私はあの仁がなにを考えているものか、べつに追討の軍略のためというのでなしに、気にかかって仕方ないのですよ。――木戸はそんなことを言って、端座した腹のあたりで折り返している掛け布団の皺をひとつ、指先でなぞった。
「しかし、知ってどうなさいます」
「べつにどうもしません」
「どうも……」
「ですからそこが、あなたと私のちがいですよ。あなたは先をごらんになる。私は来し方のことを、近頃あれこれ考えるんです」
「それで、西郷ですか」
「これで御縁は深かったつもりですからね。翁には悪縁だったでしょうが」
「あなたもそうお思いだったかと」
「さあ、そんなふうに思った昔もあったかもしれませんが。今はただ、懐かしいばかりですよ」
ざわざわと葉ずれの音がして、木戸の顔に落ちた影がゆれる。大久保はふと、彼の吐息が若葉色をしているように錯覚しかけた。
「私は今回の暴挙は何が理由であろうと絶対に認めない。幾万の兵と軍費を投じようと断固討滅すべきです。しかしそのこととはべつに、西郷老人その人は、ひょっとすると百年の知己ででもあるかのように……」
懐かしい。
懐かしくてならないのだと、木戸はちょっと下唇を噛みしめるようにしながら言った。おそらく今ここに西郷が現れれば、彼はつかみかかるようにして難詰し、狂したかとおもわれるほど憤るにちがいないのに。
けれども大久保には、木戸のそういう感情――と呼ぶよりも一種の感覚は、よくわかるような気がした。
西郷は政府軍がかならず討ち果たす。とすれば、木戸と西郷は、おそらくそう時を違えずに長逝することになるだろう。なにかひどく大きなものが去ろうとしている感じが、大久保にはする。西郷といい木戸といい、かれらはその存在一個で、すでに時代そのものであった。かれらはいずれも自分自身についてはひどく淡泊であったが、一方で相手の生命のうちに燃焼する時代を思うとき、
(西郷がついに逝くか――)
もはや自分が現世を捨てたつもりでいるだけに、大久保などよりもいっそう茫然とその衝撃にうたれる思いがするのであろう。
(おもえば、妙な関係だった)
二人をひきくらべてみて、いまさらのようにそう思う。そのむず痒いような変な滑稽味のなかにあるとき、大久保は西郷に対して感じる複雑な痛みをわずかに忘れることができた。
妙な関係であった。
互いにどこまでもちぐはぐで、しかし重く絡みあった、窮屈で気の塞ぐ間がらだった。それは西郷と木戸もそうだったし、自分と木戸についてもまたおなじであった。
(妙なものだ)
と、今度は呆れる思いで、大久保は深く息を吐く。喀ききった肺がいやに寒々として、青葉の匂いが滲みるようだった。
一体、自分と木戸との関係は何だったのだろうと、大久保は木戸のそれが伝染したのかどうか、益体もないことをぼんやりと考えてみる。
盟友などというやさしげな関係では無論なかった。だが政敵とよべるほどの角逐があったわけではない。ただひとついえることは、互いにひどく緊密な関係ではあった。
(緊密……)
大久保は自分で考えてみて、なるほどその形容の皮肉なそぐわしさにちょっと片眉をあげた。
木戸とは互いにこれほど荷厄介でありながら、一方で互いにだけわかるものがある。あらためてそう説きほぐしてしまうと、あまり気持のいいものではないのだが、それはたしかに認めざるをえないことであった。
理解できることがらの内容は、何といって具体的に示すことはできないのだが。あるいはそれは自分の腹心や、彼の郷党の仲間たちさえ知らぬ何かであるかもしれない。
(知らぬといえば)
と、大久保はふとそのことへ思いいたる。
余人が知らない彼のことといえば、彼を抱いた過去が大久保にはある。最後に触れたのは、おそらく萩に兵火がおきた頃だったろう。それまでに何度抱きあったかいちいち覚えてはいないが、いずれのときも、誘ったのは彼のほうだった。
一体、木戸はどういうつもりだったのだろう。
彼はいかにもなんでもないことのように、大久保の手をとり、唇にふれて、微笑とともに閨へ導いた。最初のときからそうだった。そのくせもう片時でもそうせずにはいられないというような、変にさし迫った鋭さを彼は匿していた。そうして、大久保の愛撫をせがみ、雨下に花が頽れるように乱れた。
なぜ、自分に抱かれるのか。理由を尋ねれば彼はいつでも惚れたと答えた。滴るような媚びをふくんだ眼差しはしかし、そのいつわりであることを露骨に伝えていた。
(――馬鹿げている)
大久保はそう思ったし、木戸もおそらくは同じだったろう。うそ寒い思いを懐きながら、互いに高めあい、汗に濡れて、精を散らした。
一体あの営みで、木戸は何を得たのだろう。
大久保はたしかに木戸の体を知ったが、それによってわかったことのほうが、むしろ少なかった。結局彼と共有――などといえば木戸は身ぶるいするにちがいないが――しているある感覚は、そういう次元の――体なり心なりが通ったか否かということには起因しないのだろう。
(だから、あの男も)
と、大久保は今こちら側へ続く空を睨み据えて軍陣に立っているであろう男の顔を思いうかべた。
西郷と木戸の間にもきっと、おなじ緊密さがある。
政論、主義ともに適わず、情誼も決して通わない。けれど、ただ、かれらは同じ時代を生きた。
無論互いにもっと年のちかい友人も、似た育ちをした仲間もほかに何人もいる。だが、同じ時間、同じ土地の上にただばら撒かれて存在することと、時代を共有することとではまるでちがう。その得難い知遇を、皮肉にも互いに決して好まない相手に見出してしまった。
大久保にとって幸いだったのは、その知己の位置に西郷もいたことだった。だが、それも今は昔の話である。
西郷は去り、木戸は残った。これもまた皮肉である。
(だがそれも、)
とそのとき大久保は、柄にもなく無常という言葉を思い浮かべたりした。
木戸はたしかに大久保のそばへ残ったが、やはりそれも一瞬のことである。彼もやがて大久保から――大久保の人生から去ってゆく。
「どうかなさいましたか」
問いかけられてはっと見上げた彼の顔は、鴨川の流れの音に透きとおって、ひどく眩しく、遠くに見えた。
「大久保さん?」
大久保はそのときまだ、うっすらと西郷のことを考えていた。彼はおそらくその故山に斃れる。祝福する気にはなれないが、西郷の本懐であろう。
それならば。
「萩に……」
「萩?」
「萩にお帰りになりたくはありませんか」
「私が、ですか」
木戸の微笑が一瞬、さざなみがたつように揺れた。それがおさまったあと、彼の瞳はまっすぐに大久保を見つめる。大久保の意のありかを、彼はおそらく正確に察したろう。
「あなたは、」
木戸の声はあいかわらず微笑をふくんで、決して大きくはないのに、なにか肚にこたえるような芯を感じさせた。
「さすがに『じきによくなる』などとはおっしゃらないのですね」
大久保は答えない。大久保の訥弁でなくとも、こういうとき、果たしてよく答えうる人間がいるであろうか。すでにこちらから『萩で死にたくはないか』と尋ねたのだ。あと何を言ってもいいわけか、つまらぬ慰めにしかならないであろう。
「あなたさえその気なら、辞官の勅許が下りるように手配できます」
「さあ、それは」
木戸の睫毛の狭い隙間を、青葉色の風がくぐりぬける。彼は御一新以来もう百遍も(という大久保の実感だった)辞任と帰郷を願い出ては大久保を手こずらせたくせに、今日の今日で案外なことを言った。
「官職云々のほうはともかく、帰る気はありませんよ」
「木戸さん、」
「あそこはすでに私の故郷ではない」
言い切った刹那、木戸の眼から微笑が消えていた。大久保はひそかに息を呑み、それを隠すためにゆったりと障子の外へ目をやって、そこでああ、と心づいた。
鴨川を隔てて、京の丸く葺かれた瓦の波が遠く消える、さらに向こう。天を衝くといった形容のおよそふさわしからぬ、これもいかにも京らしい、こんもりとつましく膝をかかえたような形のそれは。
「東山――ですか」
俗に三十六峰とよびならわされる山々の一峰、かつて彼のなじんだ祇園からもほど近い山の頂に、この京でかつて彼とさかんに交わり、慷慨し、泣き笑いをともにした人々の若い骸が眠っている。大久保の前ではあからさまにいわなかったが、木戸がことあるごとにかれらを悼み、懐かしみ、今もかれらと――かれらの志とともに生きてあるつもりでいることは、そのそぶりのはしばしから察していた。
(感傷――……)
そう苦々しく思ったことも、ないではないが。
しかし今となっては、木戸のその感傷もまた、ささやかな望みとして嘉せらるべきであろう。
(では、東山に)
かれらとともに眠りたいというのが、木戸の最後の願いなのであろう。思えば萩は、彼を怨嗟する声が、前原を討ってのちもやまない。そういう郷里の感情の複雑さというのは、ほかならぬ大久保が誰よりも知りぬいていることであった。
が、木戸はそこでまたすいと目をほそめた。
それは大久保の忖度のありようをすべて見切っているといわんばかりの、ある冷ややかさを湛えた底深い眼で、その光をひたとあてられたとき、大久保は不覚にも背筋の寒くなるのを覚えた。
――かなわぬ。
そんな感じが、圧倒的な質量で腹の底に撃ち込まれる。何か重たく巨きなものが、目の前にずんと居直っているような気がした。その冷や汗がでるばかりの奇妙な魁偉さは、木戸という男の持ち前なのかもしれないし、あるいは死に赴く人の、あまねく放つ何物かであるのかもしれぬと思った。
「そう、東山……ね」
青葉色の、透きとおった闇がつぶやく。
「それもありますが」
大久保は黙って耳をすませた。闇は殷々と、その鼓膜の底をふるわせる。
「主上はいま京におわします。政都は、仮にではありますが、この京ということになりましょう」
ですから。
「私は京におりますよ。あとのことは存じませんが、体の滅びぬうちはここにありましょう」
(なんと)
なんという強靱さか、と大久保は思った。木戸の声はやわらかであるのに、その体は痩せて病みおとろえているのに、彼の強さはほとんど大久保の精神を圧倒しようとしている。
「お好きですか」
と、ただ一言だけ、彼に尋ねた。どういうつもりだったのか、自分にもよくわからない。京が好きかと訊いたのか、政府が好きかと訊いたのか――。ただ木戸はその真意を尋ねかえすことはせず、そうして即座に、
「大嫌いですよ」
と答えた。彼の頬を光るものが一筋伝って、大久保はその言葉の真実であることを知った。
いつも内衣嚢(ポケット)に入れている懐中時計を、今日にかぎって忘れてきていた。東京の木戸の家の応接間には凝ったつくりの置時計があったはずだが、この病室には床の間のちょっとした飾りのほかに、調度らしいものは何もないらしい。
ずいぶん、長居をした気がする。
今何刻ぐらいかと、大久保は日の高さでそれを知ろうとしたが、障子の外はただ緑がきらめくばかりで、かえって何も見えなかった。
「お疲れではありませんか」
病身の彼に問うと、だまって眼のはしだけで微笑して、するすると身を横たえ、布団のなかにおさまった。裾をはたいてやろうと大久保が伸ばしかけた手は、存外強い力で枕元へ引き寄せられる。どうしたのか、と尋ねる間もなく、彼の側へ寄せた頬に長い指が添えられ、唇がかさねられた。
(あいかわらず――)
と、大久保は一体自分がおどろいたのかそうでもないのか、ただ、木戸の唇の感触に、過去の彼との口づけのはしばしを思い出していた。
男にしては、ずいぶんとやわらかい。初めて触れたときからそう思っていた。
そうして深く吸うと、なぜだかいやに甘いのだ。
それをたしかめようと舌を進めた大久保は、果たして思ったとおりの感触がそこにあるのを認めて、
(なるほど)
安堵したような、しかしひどく索漠とした気持になった。この舌と唇は、本当に遠からず亡びるのだろうか。だとしたら彼がかつて自分にむけた難詰や痛罵や、あるいは閨で聞かせた謎かけといったものの数々、その意味の総体は、それからあとどこへ行くのだろうか。
彼の呼吸を奪うのをおそれて、大久保は長くは貪らなかった。唇を離し、そっと木戸の顔をたしかめると、彼はいくらかくすぐったそうに、そうしてどこか自嘲ぎみに笑った。
「木戸さん――」
「あなた、」
木戸が口にしたのは、しかしそれとはべつのことだった。
「あなた、鹿児島へはもう帰れませんね」
「はぁ……」
それについての感傷をとうに捨ててかかってしまっている大久保には、木戸の問いかけはいささか間が抜けて聞こえた。が、一瞬ののち、それが彼なりの慰藉と共感のことばであると気づいて、今度は「それで結構です」と深く頷いた。
帰れない。
帰ろうとも思わない。
それは自分も木戸も同じだった。故郷が甘い懐かしみに盈ちているなどというのはよほどの粗忽か道楽者の妄想で、自分も木戸も、そんな微温的な仕事のなかに生きてはこなかった。だからといってべつだんそれを寂しくも誇らしくも今の大久保は感じていないが、しかしずいぶん遠くまで来たことだと、木戸などは思うのだろうか。
「御一新以来、私は鹿児島とは他人です」
木戸の枕を直してやりながら、大久保は低く言った。
「私は東京で死にます」
そんなことをことさら誰かに宣言するのははじめてだった。木戸は笑うかと思ったが、すこし首をかしげるようにして、長い睫毛をゆるゆると伏せた。
「その頃の東京は……」
言いかけて下唇を噛み、わずかにその皺を湿す。ふたたび大久保を見上げた顔は、かつて見慣れた、皮肉らしいような、じゃれているような、彼一流のからかいの表情だった。
「まあ、きっと、私の住みたい東京ではないでしょう」
木戸はあるいは、彼の住みたい日本といいたかったのかもしれない。
「でしたらあなたのお好みに沿うように、万事御指導くださればよろしい」
「あなたにおまかせしますよ」
「あなたの住みたくない東京になっても……?」
「小さなことです」
と木戸は言ったが、それからふと気がついたように首をもちあげて、外の葉桜を見つめた。
「桜」
「はい?」
「招魂社の桜ばかりは、伐らずに残してくださいますね」
「はあ……」
九段下でいま青々と葉を繁らせているであろうあの木々は、そういえば染井の木戸屋敷から移し植えたものであったろうか。
「無論境内の木など伐りはしませんが、それで……?」
「それだけです」
木戸はこちらへむきなおって微笑んだ。
「それさえお約束くださるなら、あとは、べつに」
病室のなかを風が流れる。さらさらと響くのは、鴨川の流れか、木々の葉ずれか、それともくすぐったそうに首をふった木戸の髪の揺れる音だったうか。
(馬鹿な。もう……)
石段の上を見上げて、大久保は自分の迂闊さに溜息をついた。
花が咲いているはずはないのだ。すでに、五月になろうという頃ではないか。
「よろしいのですか」
すぐに戻ってきた主人を訝しんで、馭者が小腰をかがめる。
「ああ。やってくれ」
開けられた扉の隙間に、長い体を屈めて潜りこむ。「参詣にいらしたのでは」と問われたが、答えずに座席に腰を下ろした。
(花の頃には来なかったが――)
馭者が彼の席へ戻り、馬の尻に鞭があてられる。車輪の軋む音がして、しだいに後ろへ流れようとする景色のなかに、大久保は最前くぐりかけた大鳥居を見やった。
今年も境内は花見の客でにぎわったと聞く。花につられてそぞろ歩き、稲荷と招魂社の区別がつかぬような細民たちでも、神殿の前を通れば手を合わせたろう。あるいはそれを見越して、木戸はあそこへ桜を植えたのかもしれない。
彼の愛してやまなかった人々が、彼を置いて去った人々が、それでも春のはなやぎに囲まれてあるように――。
(つい、来そびれた)
と大久保は思ったが、それからすぐにその感慨も馬鹿げていることに気がついて、額に手をやり、首を振った。
(木の芽どき、と呼ぶには晩いというのに)
どうかしている。疲れているのかもしれなかった。あるいはそこらじゅうに盈ちている青葉の匂いが、ぼんやりと頭を霞ませるのだろうか。
(花の頃に来ていれば、などと――)
ひとにいえば正気を疑われるだろう。実際大久保自身、その思いつきが不審でならない。
花の季節に来れば、木戸に会える気がした。など――――――
東山の木戸の墓所から桜が見えたかどうか、大久保は憶えていない。
彼の柩を送ったのは、京の濡れたような緑の色がいよいよ濃い、正装の背がうっすらと汗ばむ初夏のひと日だった。高台寺から霊山の参道を上る白い道に、はや陽炎が立っていたことを思い出す。
大久保らのあとにつづいた会葬者は、文字通りの黒山の人だかりであった。
「巡査の数を増やしたほうがいいでしょうか」
その朝そっと相談に来た伊藤に、
「見合わせましょう」
とだけ大久保は答えた。さして理由はない。ただかつて木戸が、巡査の護衛をわずらわしがったのを思いあわせたにすぎない。当の木戸が骸になってしまっている以上、今さら気をまわしたところで仕方ないのだが。
「東京に分骨のことも考えたのですが、御遺族が無用だといわれましたので」
まだ葬儀のはじまるまで間があった。伊藤はだまって柩の番をしているのが落ち着かないのか、洟をすすりながらいろいろなことを言った。大久保はそのいちいちに返答はしなかったが、ただ東京と聞いたそのときだけ、ふと顔をあげて伊藤をふりかえった。
「東京へ……」
「いえ、ですからとりやめになったのですが」
「そうでしょうな」
「はい……」
「東京なら、私が」
「は?」
「そういう約束でしたので」
「あの……」
伊藤はこまったように首をかしげていたが、大久保はだまってかぶりを振った。
東京で死ぬと、あのとき彼に言ったのだ。つまりそれは、自分もまた帝都で政務を執りながら斃れて後已むと、多少気障ったらしいことばでいえばそう誓ったつもりだった。
それが、自分から彼へのはなむけのつもりであった。
『招魂社の桜さえ残してくださるのなら』
と彼は言った。あとは何も望むことはないと。
『あなたの安んじて瞑目なさる東京ならば、まあ私は……』
その日大久保は、長い読経のあいだ、ずっと木戸の声ばかりを聞いていたように思う。
いつか彼の病室で聞いたその声は、大久保がおもわず目を見はったほど、明るく青く澄んでいた。
『あなたの悪口を言いながら、桜でも眺めておりますよ』
この世に年を経るごとに、一年は短くなるものだと思う。
草いきれの中を彼の柩を護って東山を上った、その木戸の一周忌も近い。
大久保は彼を最後に見た、鴨川べりの葉桜の陰を思った。
(到底京へなど行けまいが――)
その日には九段へ葉桜を見に行こうかと、すでに遠くなった鳥居の向こうへ思いをめぐらした。彼の姿を捜すためでなく、彼が愛した人々のこころを慰めるために。
車輪の音が高く響き、窓の外を初夏の東京の街が流れる。大気を塗りつぶすほどの木々の緑は、京のそれとはわずかばかりちがう色をしていた。
[36回]
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