「まっすぐ三田尻まで行ったほうがいいんじゃないか」
それまで顎を沈めんばかりにして火鉢を抱いていた木戸が、ふとそこへ気がついて顔をあげると、
「いえ」
寒気に顔をなぶらせながら、井上は振りむかずに答えた。ちょっと端唄をうたわせたばかりで妓(おんな)を帰してしまったあと、彼はさっきから窓べりに体をもたせて、霏々として散る雪を飽きもせずに眺めている。寒くないか、と尋ねても、さあ、と首をかしげるばかりで動こうとしない。閉めてくれる気はないらしい。墨堤を白く塗りつぶす暮れの雪が、井上が首を出している障子の隙間から時折部屋に吹きこんでくる。木戸はあきらめて、自分の羽織のなかへ首をうずめるようにしながら、火箸で炭をつついた。
「俺はいったん神戸に入るが、やっぱりお前は……」
「俺も神戸に行きますよ」
大阪にも一度戻らなければならない、と彼はいう。造幣頭という職掌上それは道理ではあるが、しかし井上に格段の実務が課されているわけではない。
「かえって今は国のほうが仕事が多いんじゃないか。諸隊の連中のようすが不穏だという話は聞いているだろう」
「不穏というなら造幣局のほうも不穏でしてね」
「それは、まあ」
そうかもしれないが、と木戸は一度積んだ炭をふたたび崩しながら、
「べつに職工が鉄砲をかついでうろついているわけでもないだろう」
ちょっと口ごもるようにして言った。こういう場合、たいしたことではないと言ってやるほうが井上の気持がほぐれるのか、反対にただ事態を軽侮しているように聞こえるのか、微妙なところである。
井上が大阪で苦労しているらしいとは、木戸もかねて聞きおよんでいた。
造幣頭である彼に対して、さかんに喰ってかかる下僚の一派がある。井上の性格に多少圭角がめだつせいもあるだろうが、多くは「薩長の成り上がりが」という反感によるものであるらしい。たいていのことで降参する井上ではないから、木戸に対してはべつに愚痴らしい愚痴もいわずに勤めているが、ただ一度だけ、
「もう大阪暮らしはいやだな」
と言った。おそらく、それが彼の本音だろう。
といって、井上が大阪という土地を好かないというわけではない。彼はつまり、東京でこそ働きたいのだろう。十数年来彼と文字通り生死をともにしてきた伊藤は、彼よりもずっと年少でありながら、今は大蔵少輔の地位についている。かれらと親しい大隈などは、大蔵大輔と民部大輔を兼任している。それらを見て、井上が技癢というのか、男子としての切なさを感じぬはずはないだろう。
いま少し、と木戸は何度か言った。かならず中央で官途に就けるようにするから、いますこしのあいだ辛抱してほしい。そう言うと、井上はぜひそうしてほしいともいやだともいわず、ただ曖昧に笑っているだけだったが。
(いつまでも大阪に置いておくものか)
木戸自身、井上は中央でこそ映える男だと思っている。ただでさえ人手の足りない今、多少使い手を選ぶきらいがあるにもせよ、井上ほどの男を大阪で遊ばせておく馬鹿はない。井上の登庸に難色を示すむきは多かったが、それもむこう半年か一年のあいだにはかならず説き伏せて、彼を東京に迎えようと思っていた。
(そうして代わりに辞めてもいいな)
と考えている。井上と入れ替わりに大阪へ、これは造幣頭などではなく無役で下って、京阪の地を渉猟してあるくのもいい。そうして最終的には国へ帰ってしまうのだ。もっとも、それを言い出せば当の井上が引き留めるにちがいなかったが。
そんなことをとりとめもなく考えていたとき、木戸に帰国の命が下った。ただし隠遁のためではなく、復命ののちは昇官してさらにつとめよ、という内意つきの命令である。
御一新は意外にあっけなく成ってしまった。それは幸いなことにはちがいないが、急拵えの政府はいかにも脆弱である。財政しかり官制しかり、何より軍事面においてしかりである。
「都府を守護するにはよろしく常備兵をおかねばなりませぬ。その兵の数が足らぬのです」
大村益次郎があの異形の頭を振り振りそう言っていた。足りない、とても足りないと彼は歎き、ついにはこれでは政府とはよべぬとまで極言した。
「あまりそれは余人(ひと)に洩らされませんように」
木戸はそっとたしなめたが、その効果はさしてなかったとみるべきだろう。箱根で大村の遭難を報らされた木戸は愕き、帰京後にその死を聞いて慟哭した。大村も、井上とはまたちがったかたちで敵の多い男だった。性格上の衝突はともかく、政治的な紛紜の過半は自分が大村をしてその境地へ至らしめたも同然だと思えば、ようやく四十九日を迎えようかという今も、ともすれば涙が膝を沾そうとする。
そういう木戸がかろうじて慰めとしているのは、大村のめざした軍制の内実が、わずかずつでもととのいつつあることで、だから近日、苦手の大久保と同行という辛苦に耐えて、帰国の命にも服したのだった。
(諸隊の動揺も抑えられるならば一石二鳥)
と木戸は考えている。
戊辰の兵火が偃(や)んでのち、することもなくなったかれらのなかには、博打で身をもちくずしたり、つまらぬことから闘争におよんで斬ったり斬られたりする者もあるという。そういうかれらの規律を糺し、精選のうえ御親兵として編成しなおすのが、今回木戸に課された役目である。
あと数日で、東京を発つ。折から上京していた井上も、それでは同船しようと言いだした。常ならば妙案だと賛成する木戸が今回にかぎってそれを渋っているのは、近頃井上の家に不幸があったためである。
先月国元で亡くなったという井上の兄を、木戸は知っている。井上よりも七歳年長の彼は温順な能吏で、彼が立派な跡嗣ぎとして家を守っていたからこそ、兄弟の父も次男の馨にはあまりうるさいことをいわなかったのだろう。高杉家のただ一人の男子であった晋作がつねに父の譴責と家の束縛を苦にしていたことを思えば、井上の立場はまことに気楽なものであった。
その井上が東京で兄の訃報をうけとったとき、葬儀はすでに済んでしまったあとだった。それはしかたのないことだが、だからこそ、兄の死を知った今、井上は一刻も早く帰るべきではないか。木戸はそう思ってさかんに早々の帰国をすすめたのだが、井上はのらりくらりとかわすばかりで、一向に国へ帰ろうとしない。どころか、さして用もない神戸へ木戸と一緒に降りるという。
「お前なあ」
話しかけても、井上はそっぽを向いている。木戸はとうとう立って行って、彼が眺めている窓障子をぴしりと閉てきった。
「……あぶねえ」
あやうく挟むところだった、と井上は真面目な顔で鼻先を撫でている。
「そんなものはちょん切ってしまえ」
「なんです」
「なんですじゃないだろう。お前、兄君に香華のひとつも手向けてさしあげるのがそんなにいやか」
立ったままじろりと顔をのぞきこんでやると、井上はいかにもその近づけられた顔が邪魔だというふうに顎を引き、口をへの字に曲げて、やがてぷいとそっぽを向いた。
「聞多」
「えーえ」
下唇を突きだして鼻に皺をよせている。ふてくされたときの彼の癖だった。
「いやですねえ」
おおせのとおり、兄の弔いなんぞいやですとも。小馬鹿にしたような節をつけて言う。その程度の狃れなれしさは、日頃の二人のあいだによくあった。だから木戸がおもわず眦を裂いたのは、そういうことではなく、亡兄の恩に報いようとしない井上の態度が癇にさわったのである。
「お前の父君や兄君が、お前のためにどれほどの御苦労を忍んでおられたと思う」
そう言葉にしてしまえばなにやら道臭が勝っているが、木戸はなにもここで孝経の講義がしたいのではない。木戸自身、不孝をかさねたまま死なせた父母があり、義兄がいる。井上に投げつけたその言葉は、井上よりもむしろ翻って木戸の頬をしたたかに打つのだった。
井上が一瞬ぐっと黙りこんだのは、木戸のようすにそういう苦衷を感じたからでもあろう。
「誰の、」
と木戸は歯噛みするようにして言った。
「誰のおかげで、お前……」
「わかってますよ」
答えた井上の声には、さっきまでのふてくされた色はなかった。
なにか疲れたような、やるせなく曇った調子に、木戸もはっと口をつぐむ。
「わかってるんです」
井上の視線が、木戸が閉てきった障子にあてられている。それは鼻先がつくほどのそばにあるのに、彼はひどく遠くを眺めているように見えた。
「だったら……」
見おろしていることの居心地のわるさに、木戸はするするとその場に腰をおろした。井上は横顔でかすかに笑ってみせると、
「だからですよ」
障子の桟をかりかりと指で掻いた。
「だから、帰りたくないんです」
井上の爪に弾かれて、桟がちいさくかわいた音をたてる。その響きの寂しさに気をとられて、木戸はいうべき言葉をついに見うしなった。
井上の気持を見栄だと嗤う考えかたも、あるいはあるかもしれない。けれど彼の単純といえば単純な、しかしそれだけに(理解されにくいが)篤実な性格を知っている木戸は、ただ彼の抱えた切なさに打たれるほかなかった。
今まだこのときに、井上は兄を喪いたくはなかったであろう。
単純勁烈にできている井上の理想のなかでは、その故郷に帰るときには功成り名を遂げて、いわば錦を飾るのだという思いがあったであろう。今はまだそのときではない。彼は伊藤や大隈に遅れをとり、大阪の地でくすぶっている。路地裏で雨に濡れた犬のようなその姿で、兄の墓前に――自分の放縦な志士活動のかげで火の粉をかぶっていてくれた兄の霊に向かって手をあわせることは、気がすすまぬというよりもいっそ大悪を犯すような心持がするのだろう。いざとなれば井上は善悪の規矩など超えてみせる男だが、こと今回の件にかぎっては、兄の霊を穢す気がしてたまらないのにちがいない。
そういう井上の観じきってしまえば子供のような、筋が通るようで通らない、ごつごつした奇妙な頑なさが、木戸はきらいではなかった。
「そうか」
ちいさく、溜息のようにつぶやくと、
「神戸は、」
と、井上がふれているのとおなじ桟の上を指先でなぞった。
「神戸は、近頃ずいぶん変わったろうな」
井上がゆっくりと振り向く。
「お前、鎖を買える店を知らないか」
このあいだ懐中時計の鎖が切れた。案内してくれるか。そう言うと、井上は一瞬まじまじと木戸の顔を見かえしたが、やがてちょっと首をすくめ、目を閉じて笑った。
「金鎖でしたっけね」
「うん」
「どこで切ったんです」
「どこでということもないが……」
「ふつうに使うぶんにゃそうそう切れませんよ。おおかた息も絶えだえな女の指がからみついて……」
「よせよ」
木戸はそこではじめて笑って、
「俺はお前とちがうからな。盛装のままお立ち合いだなんて行儀のいいことはしないぞ」
「どうですかねぇ。こちらがそのつもりでもにっくき怨敵が承知しないってこともあるでしょう。いざ尋常に勝負勝負とせきたてられちゃあ……」
「馬鹿だな」
肩をゆすって笑う。さざなみのような動きが空気を介して互いに伝染しあい、おなじ波のあいだをゆるやかにたゆたう。
横桟の上を行きつもどりつしていた木戸の指が、ふと井上の指にぶつかった。どちらも避けず、そのままわずかな温もりを分け合う。
「聞多」
ならんだ手を見つめながらよびかけた。
「造幣局のほうは、俺が何とかしてもいい」
だから、ざっと概況を聞かせてみろ。そう言うと、井上はだまって首を横に振った。
「いやなのか」
「心配してもらうようなことはありませんよ」
それは遠慮しているというよりも、頑として退かぬ意志をにじませた口調だった。
「話してくれないのか」
「まだ。……もう少し、あとだな」
井上は井上なりに、考えていることがあるのだろう。みじかく答えたきり、薄い唇をひき結んでじっと障子紙のむこうを見すかすような目をつづけている。
(俺が犯していいいわれはないな)
井上の、覚悟といえばおおげさだが、それに近い肚の固さを、である。その横顔は、おそらく彼も無意識であろうが、しだいにじわじわと険しさを加えていく。今後の造幣局の宰領のことを思案しているのだろう。
「神戸と、大阪と……それが済んだら、山口に帰れよ」
それだけは念を押すと、井上は今度はあっさりとうなずいた。造幣局を無事にまとめおおせれば、少しは亡兄に対して面目が立つと思ったのだろうか。
「じゃあ、」
安堵とさびしさと――それは井上に頼られなかったからというような女々しい感情ではなく、彼の決意のきびしさに対して感じた一種のかなしみであった――に、木戸はちいさく溜息をついて、腰を浮かしかけた。
「俺は帰るよ」
そうして今さらのように、いつまでも井上と指を触れあわせているおかしさに気がついた。
が、立ち上がると同時に引っ込めようとした手は、
「聞多……?」
ひったくるような強さで井上に捕らえられた。
膝を立てようとしたところを思いきり腕を引かれて、木戸の体ががくりと崩れる。あやうく障子を突きやぶりそうになるのを腰をひねってこらえ、反動で井上に覆いかぶさる。背にまわされた彼の手が単に衝撃を支えるためだけではないのを、倒れ込んだ畳の上ですぐに合わせてきた唇の熱さに知った。噛みつくように吸い上げられたまま、体に弾みをつけて転がされ、今度は井上が上になる。
「聞……、」
べつに抗おうというのではないが、いつにない乱暴さにおどろいて一旦首を振って逃れると、下から彼の顔を見あげた。
こちらの体を刺し貫くような眼が、ぎらぎらと、どこかあやうげな光をたたえている。
「どうした」
「木戸さん、」
と呼ぶ声はかすれている。
「今は何も話すつもりはない、ないけれどもとにかく苛々してしょうがねえから抱かせてくれと言ったら、あんたどうします」
「どうって……」
抑えつけられた手首の先で、木戸は意味もなく指を丸め、またひらいた。それを二、三回くりかえしてから、
「俺も近頃くさくさしていけないからどうにかしてくれと言ったら、お前、どうする」
彼の眼の光をやわらげるように微笑うと、木戸の手首をほとんど締め上げるようにして握っていた力が、一瞬ふっとゆるんだのがわかった。
自分の体の上でみせる井上のふるまいが、今日ばかりは木戸には意外であった。
抱かせろといっておきながら、どこかにためらいがある。
苛々してしょうがないから、と彼は言った。おそらくそれは本音なのだろう。しかしきわめてぶっきらぼうにそれを告げておきながら、木戸の体で――というよりも木戸との交歓によって憂さ晴らしをすることに、うしろめたさを感じずにはいられない、井上はそういう男だった。
(損な性分だな)
と可笑しくなる。
身勝手なくせに妙なところに律儀で、しかもその律儀さを自分でもてあまして、ともすればわれとわが手にぐしゃりと丸めて、とげとげした塊になったそれを相手に投げつけるような真似をする。その真意がわかる程度に親しくしている仲ならばともかく、多くの場合はただ反感を買うだけであろう。
造幣局で生じている軋轢も、おそらくはこの井上流に対する周囲の不慣れ(慣れろというのも迷惑な話なのだが)のせいにちがいない。
そう考えているあいだも井上の手はせわしなく動き、動きながら時にわずかにたじろぐ。そのたび木戸は身をよじって衣を剥ぐ彼の手を助け、その背に腕を廻して先をうながしてやった。
(好きにしていい)
彼が気後れする必要はどこにもない。木戸にしたところで、ただ井上が欲しいばかりに抱かれるのではないのだ。
だまっていると――ひとりでいると、引きずり込まれそうになる暗闇がある。それは泥田のように粘ついて、一度足をとられたが最後、容易に這い出すことはできないであろう深淵である。
大村を喪ったこと、国で不平を鳴らしている連中のこと、諸制度の調わぬこと、士庶が開明に嚮かわぬこと、それらの解決のために大久保と手を携えていかねばならないこと――――……。
思いわずらえばかならず、木戸はいつしかその黒い淵を覗きこんでいる自分に気がつく。
(いっそ飛び込んでみてもいいのだ)
憂鬱さをもてあまして最後にはそう思うのだが、しかし今はまだ自分にその自由がないことは、誰よりもよくわかっている。
決して私怨のあるわけではない有為の士を討ち、かれらの妻子を飢凍せしめ、老若を罪し、無辜の民を戦火に巻き込んだ。それらの犠牲は予期していたよりもずっと寡なかったとはいえ、「御一新」の美名の下には、つめたい屍と渇きあえぬ血涙が今も風に哭いている。そうである以上、
「あんたひとりの体じゃない」
ときに捨て鉢になっている木戸の気分をめざとく嗅ぎつけて井上は言うのだが、そういわれてしまえば木戸は、にがく微笑してその言葉の前に項垂れるほかない。といって、井上の肚にはそこまで深刻な意味はなく、おそらくはただ郷党の連中の気持を汲んでやってくれ、という程度のつもりなのだろうが、木戸は井上のこの諌言に遭うとき、いつも骨をひしがれるような痛苦をおぼえるのだった。
(この身ひとつさえままならんか)
ちいさな自棄(やけ)をおこしてみるほどの勝手もゆるされない。それが、あるいは今後はかりしれぬ災禍の種ともなりかねない御一新を、衆庶の上へもたらした責めというものであろう。
(苦しい――)
大久保はもちろん、広沢や、大村にさえ言ったことはない。ないがかれらも、おそらくは同じ息苦しさを――肺が潰れるほどの重圧感をかかえているだろう。だから、誰もそれを口にすることはない。言えば愚痴である。愚痴で国家は保てまい。
それでも。
体のうちに粘っこく溜まってゆく黒い澱を、どうしたらいいのだろう。
へどろのようなそれに浸かった臓腑が重い。胃が沈み、肺腑をこえ、今に脳髄まで冒されてしまえば、それからあと自分はとてもものの用には立つまい。
(それがいかんというのなら)
ほんとうは、解決にならないことはわかっている。だが禅坊主のようにゆっくり内省しているひまなど今はない。だから木戸は、もうどうにもたまらぬと思ったとき、肉体の愉悦にそれを散らしてしまうことを思いついた。
思いついたというよりも、ふと目の前に垂れさがっていた花の枝をひきむしるようにして、木戸はそこに喰らいついたのだった。
「聞多」
抱かせろと、高飛車に井上は言った。彼はそれを自分に強いたと思っているかもしれないが、こちらはまたこちらで、うしろ暗い動機があるのだ。
すべてひっくるめて情慾と呼んでしまっても、無論、嘘ではないけれど。
(馬鹿だなあ)
井上の首筋に頬をすりよせ、口角をつりあげてみる。それは自嘲というよりも、安堵の笑みに似ていた。
(どうも、案外……)
と情けなく自分をかえりみる。ただ乱暴に体をぶつけあって、がむしゃらに昂めてしまうつもりだった。若い時分、妄念が萌すと道場へ出て竹刀を振るったように、汗とともに思考する気力そのものを散らしてしまおうと思っていたのに。
体は熱くなるのに、頭はあいかわらず井上のことを考えている。それもひどくゆったりと、彼の体温をあじわいながら。
(気持いいな)
人肌の手ざわりが、人のぬくもりが心地よい。その感覚に、木戸はここ最近の状況に、思ったよりも参っている自分を発見した。
それでも、井上はやはり木戸より若い。
あるいは、雷がどうとか噂されるような、彼の気性のせいなのだろうか。
ためらっていたはずの手はしだいに熱を帯び、性急に、烈しく木戸を責めたてはじめた。
「木戸さん、」
とよびかける彼の眼が、獣慾の色に濡れている。答えるかわりに首をかきよせて口づけをねだると、呼吸を奪われるかと思うほど強く、深く吸われた。
井上は、その不遇の明け暮れ、積もる鬱懐を大阪でどう飼い慣らしているのだろう。
まだ何も語りたくないという彼は、いつかそのときがきたら、何もかもざっくばらんに木戸にうちあけてくれるだろうか。
あるいは井上のことである。晴れて中央へ出て、それまでの屈託がなくなってしまえば、あとは日々の仕事にかまけて昔のことなどさっぱりと忘れてしまうかもしれない。
それなら、それでいいのだが。
今はただ交歓に耽りたいという井上の率直さを、たとえそれが身勝手から出たものだとしても、木戸は気に入っていた。
そもそも、何も知らずにいた自分だった。
井上がこうまで気を腐らせていたことも、こういうかたちでひとに――ほかならぬ自分に甘えることのある男だということも。
だから今日ばかりは井上がどう振る舞っても、何をされてもいいと思った。
けれどもほぐれきらない体の内を、湯気がたばしるほどのせわしさで擦りあげられたとき、木戸はさすがに悲鳴をあげた。
「いっ……」
食いしばった歯のあいだから、軋るような吐息が洩れる。
「待っ……もっと、ゆっくり……」
井上の背を抱いた手がこわばり、汗ばんだ膚(はだ)に爪をたてる。それが痛かったのだろう、彼もわずかに呻いた。
そうして、「好きなくせに」とかなんとか、いつもの彼ならばそんなことを言いながら笑うはずだった。
ところが。
「……わり、」
木戸の肩を抱き、獣の親子がそうするように強く頬をすりあわせてきた彼は、苦しげな息の下で小さく詫びた。かすかにふくんだ笑いの色は、鋳つぶした自嘲のそれに似ていた。
「…………――」
木戸は怯えたわけではなかった。ただそれを聞いた瞬間、ひとりでに体が縮こまり、それから絞られるように震え、疼いた。
「なんで、」
はっ、と井上が息を切らす。
「なんで締めるんだよ」
「んぁ、」
知らない、と言うだけのゆとりもなく、赧らんだ井上の首筋にしがみつく。体の奥で、彼の慾望がさらに怒張するのを感じた。
「そんな顔すんなよ」
かるく眉をひそめた井上の表情は、ある種の寂寥と、蒸れかえるような気だるさを匂わせていた。乱れて額に貼りついた前髪を掻きあげられ、無意識に出していたらしい舌をきつく吸われる。
「……止まらなくなるだろ」
低くささやかれて、木戸は思わず制止しようとしたが、その声もすぐに深い口づけに奪われる。
「ん――――」
引き剥がそうと肩を押しかえした手をおさえつけられ、さらに体全体でのしかかられて、さっきよりもさらに劇しく犯される。
「木戸さん、」
耳朶を噛まれて、大きく背がしなる。
「痛い、か」
「ん……」
目だけでうなずいた。しかしもう井上を抑える気はない。井上も、動きを緩めるつもりはないのだろう。
「ちょっと、こらえてろよ」
よくしてやるから、とささやく声の、傲岸なくせに苦しげな、わずかに許しを乞うようですらある微妙なゆらぎ。それが変に胸を塞いで、木戸は足りない空気をもとめて喘いだ。
「聞多、」
突き上げられるたびに、呼吸が跳ねる。井上の昂ぶりにいつしか木戸の粘膜が応え、きつく絡みついて悦びをしめす。濡れた音が耳を犯して、その淫らさにさらに体がふるえた。
「ん……っ、はぁ、あ、」
打ちつけてくる腰に脚をからめながら、ああ、繋がっていると木戸は思った。これほど開けっ広げな男でありながら、しかし、井上の考えていることは、完全には(あたりまえなのだが)木戸にはわからない。大阪で何があったのかも、これからどうしてそれをおさめる気なのかも、木戸は知らない。井上は井上で、木戸の辛苦をすべては知らないだろう。
ただ、互いにふすぼった鬱懐のあることだけは察している。それを持ちよって、互いにその内容は知らないながら、ささくれた部分をぶつけあって、擦りつぶすように身をかさねている。
なにかを埋めあおうとは思わない。実際埋められもしないだろう。けれどただ抱き合っている肉の熱さののちに、生まれてくるふしぎなおだやかさがある。そこへむけて今はひたすら、互いの体を貪った。
「あ、あぁ、」
腰の下に手を入れられ、さらに強く引き寄せられる。奥をきつく抉られて、その苦痛にまじって――それ以上にぞくぞくと背筋を駆けあがるものがある。
「ひ、っあ、」
「いいか……?」
「ぁ、もう……もぅ、」
閉じた瞼の裡に、黒く大きな波がうねる。それは眩しく光っているようでもあり、また深い暗闇のようにも見えた。肉が撓むほどの律動をうけて、木戸はその波をまともにふりかぶり、高所から転げるようにして、ぐんとさかしまに墜ちていく自分を感じた。深い波の底で息もできず、ただ目の前の体にしがみついた。
「木戸さん」
呼んだ声は井上の断末魔のはずであったのに、なぜかひどくやわらかく、墜落してゆく木戸の体をそっと掬いとるように響いた。
「五郎三郎殿は、何がお好きかな」
まだ半ば胸の上に乗り上げている井上の体の重みを感じながら、木戸はぼんやりと口にした。
低い天井の白っぽくかわいた柾目の色が、剥きだしの肩に寒い。
「……兄ですか」
井上は木戸の胸の上でつぶやいて、それからふと空いた間を取り繕うように、かるく乳首を噛んだ。
「ん、」
「さあ。まああれでやっぱり、女は人なみに好きだったんじゃないですか」
「食い物の話だ馬鹿。……ぁ、」
「さあ、ねえ」
俺とちがって、飯の旨い不味いを言う人じゃなかったからなあ。そう言いながら木戸の肌を弄ぶ井上の仕草は、ことさらに亡兄への傷ましさを追い散らしているようだった。
「だけど、酒は好きだったろうな」
ぽつりとつぶやいた言葉が、彼の唇に吸い上げられてぷくりと腫れたその場所から、粘膜を透りぬけて体の奥へ染みわたる。
「そう何度も一緒に飲んだわけじゃないですが、酒があればだいたい上機嫌でしたよ」
といっても陽気にさわぐほうじゃない。どちらかといえばしんねりした酒なんですがね。どこがどうともいえないが、なんとなく、ああ嬉しそうだなと思うんですよ――。
そのとき井上は、はたしてそれを木戸に語って聞かせているつもりだったかどうか。ただ彼の声は無限の懐かしみに盈ちていて、木戸の喉奥を変に甘酸っぱくさせた。そのゆるやかな痛みに、木戸はやわらかく身をよじる。
「じゃあ、神戸で洋酒でも買っていくか。それとも灘の――」
山口へ着いたらぜひその霊前に詣でたいと言うと、井上はいいとも否ともいわず、ただ木戸の唇を求め、深く貪った。
「やらせろよ」
ぶっきらぼうに告げられた親愛のことばに木戸は目をとじて、微笑で報いた。
井上は、またなにかを思い出し、追懐の甘ぐるしい波間をたゆたっているのだろうか。ぬったりと重い流れの合間にようやく顔を出した者が必死に息を継ぐように、彼の律動はさっきよりも烈しく、容赦がなかった。
「や、ぁ、……はぁ……っ、」
腰のあたりが骨まで痺れ、自分がちかちかと光る飛沫になって散っていく気がする。強すぎる快楽にふと怖くなって、井上から逃れようと足掻く。
「なんで、今さら、」
逃げようとするのかと問う、彼の雄の眼に肉の奥まで灼かれる。
「だっ……、もう、」
「なんだよ」
「や……すぐ、いく……」
「いいよ」
きつく首筋を吸われる。多分、痕がのこっただろう。
「いきなよ」
彼のかすれた声が耳朶を甘く打つ。
「あんたの気をやる顔を見てるときが、いちばん気持いい」
「聞、多……――」
だったら見ていろと言いたくて、しかしそこまでの長い言葉を紡ぐだけの空気が足りない。木戸は大きく喘ぎながら、喉を反らし、汗に濡れた井上の肌の下でひきつれるように体をふるわせた。
終わってしまえば、きっと、外の雪景色のように、渺茫とした白い地平がひろがっているだけなのだ。それでも、今はたしかに求めあっている。
「聞多」
悲鳴のように呼んだ唇に、彼の口づけがあたえられる。日頃馴染んだあたたかさに、爪の先、髪のひとすじ一すじまで、滴るほどに潤ってゆく。
どれほど愉悦を追ったところで、それで盈たされるわけではないけれど。
ただ井上の膚の熱さにひととき安堵し、できうれば彼もそうあれかしと希って、木戸はありったけの熱と悦びを、肉の奥に凝らせて彼を抱きしめた。
[32回]
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