(大崎さん……)
大きな掌が、寝巻の裾を割ってそこへ辿りつく。びくりと白い喉を反らせながら、彼の手の感触を追う。
(もっと――そう、)
淫らに腰を擦りつけて、頭のなかをめぐる言葉ははしたないものばかりなのに、瞼の裡にうかぶのは、彼の涼やかな立ち姿や、清げに美しい横顔だった。
「大崎さん」
声に出して呼べば、彼は去っていってしまうのではないかと思った。小五郎の陰茎は彼の手のなかでとろとろと蜜を零している。その不潔と邪淫を彼はおそれて、自分をふりはらうのではないか。
しかし小五郎が熱い息を吐き、なやましく身をよじっても、そこをなでさする彼の手はひるみをみせなかった。むしろ、よりやさしく、あたたかく自分を包みこむ。体の中を奔騰する血が、その淫欲であることをこえて、大きな終熄へむけてわきたち、うねる。遠くに哮る波の色の、網膜を貫くような濃さに、背筋がゆるやかに痺れるのを感じた。
本当は、わかっていたのだ。
どうせ何も見えない目を、小五郎は長い睫毛の下に瞑った。その黒く濃い叢の根もとをかきわけて、大粒の涙が上気した膚(はだ)の上を滑る。
知っていたのだ。こんなふうに寝ついてから。あの夢を見るようになってから、もう、とうに。何もかも。
夢のなかで見た、大崎の白い手を思い出す。それは夕闇に咲く花のようにふわりと透きとおって繊(ほそ)く、輪郭までもがどこかおぼろげだった。
その手をまぶしそうに目のあたりへかかげて、揺れるように、闇に溶けるように遠ざかっていった彼の美しい――夢では造作も表情も見えなかったが、ただ美しいという感じだけは風が匂うようにして漂っているのだった――微笑。
すべてが淡あわとして儚くなつかしく、そうしてさびしかった。
どくん、と脈拍つような感覚が下肢をとらえ、その激しさに小五郎は小さく跳ねて声をあげる。いま、熱を帯びた体は、逞しい手によってなぐさめられていた。その手のなかで滾らせた快楽が、脳髄を白く灼き、やがて溢出のときをむかえる。
力強い掌が、どこまでも小五郎の慾を赦し、うけとめる。
びくびくと四肢をふるわせ、重く濁った法悦のしるしを吐きだしながら、小五郎はためらいもなくその液にまみれてゆく手の、厚い肉の堅さを思った。
かなしく、あたたかく。
意識がとぎれる一瞬前、
「――来原さん、」
かすれた小さな叫び声は、それでもきっと、彼に届いただろう。
「来原さんなんでしょう――――?」
あとは重い闇の底に、小五郎の体は深く沈んだ。まっくらな陥穽だとばかり思っていたそれは、しかし落ちていくあいだのわずかに生きのこった感覚に、甘くすずしい花の香を記憶させた。それはかつて白い花のようだと思った大崎の手が、夢とも現ともつかず、舞うようによぎっていった瞬間だったのかもしれない。
目ざめたとき、小五郎は一人だった。
病はその峠を越したのか、熱はすでに引いていた。病苦のためにみっしりと鉛が詰まったように悩まされていた頭は、今はぽっかりと静かになって、その閑寂をあっというまに蝉時雨が盈たしていった。高く、しかし気怠く、頭蓋を痺れさせるようなさざめきのなかで、小五郎は天井を見上げ、両眸(め)に一筋ずつの涙を流した。
額の手拭いを替えるために下女が入ってきたとき、すでにいう言葉はきまっていた。
「筆を――」
手紙を書こうと思った。文句は思いついていなかったが、何でもいいと思った。ただ来てほしいと、それだけ伝えられればよかったのだ。技巧は要らない。
(あの人は――)
たとえつたない文章でも、来原は、その誠意のあるところを汲んでくれるだろう。
下女が退室のために開けた障子の向こうに、わきあがるような入道雲の空が見えた。盛立ちおこるいのちのまぶしさに、小五郎は目をほそめ、しかし逸らしはせずに、瞼の痛いのをこらえて、青い空を、ふたたび障子に隔てられてしまうまでじっと見つめていた。
翌日になって、来原は来た。
いつもの謹厳な顔にわずかばかりの緊張の影をやどしているのは、あるいは彼にもなにがしかの予感があったのだろうか。
「来原さん」
と、小五郎は彼が止めるのを制して、布団の上に起きなおって言った。
障子に映る濃い緑が、彼の顔に複雑な陰翳を落としている。戸の隙間を洩れる光が、白い布団を盛夏の色に照らす。
来原は、目線だけでつづきをうながした。その表情に微笑でこたえて、小五郎は肚の底にことさら静けさをよび醒ますと、あとはひといきに言った。
「大崎さんは亡くなったのではありませんか」
来原は、しばらくなにもいわなかった。
遠くでほととぎすの声がした。その鳴き声の尾が天空に溶けるようにして消えたとき、
「なぜ――」
と、あの軋むような声で来原はつぶやいた。
「なぜそう思うんだ」
「なぜといって……」
小五郎は意味もなく寝巻の膝をさすった。
「とりたててお話しするほどの理由もありませんが、強いていうなら夢を――」
「夢……」
「はい」
夢を見ました。そう言ったとたん、あの苦しい幻影が――大崎がそばにいるのに顔も見えず、声も聞こえず、追おうとして果たせなかったかなしい夢の映像が、体のなかに入りこんでくるようにして蘇った。あの夢にはじめてうなされたころから、本当は予感していたのだ。
大崎の病状など知らない。しかしあの繊(やさ)しく美しい人は、渓間の白百合が雨に崩れた泥に打たれて折れるように、暴力と汚辱のなかではその身を保っていられないにちがいなかった。彼が理由もいわぬまま君公への御進講を辞退したと聞いたとき、それはつまりひろい意味での自裁なのだろうと思った。
けれども大崎の肉体が、土の下にあるとは小五郎は思わない。彼は夢に見たように、ふわりふわりと遠ざかって、やがて風に消えたのだろう。
――自分ばかりが、残った。
いっときは死ぬかもしれないと思ったのに、今もたしかに脈打ち、呼吸している体を、小五郎はわれとわが手に抱いた。傷ついても汚れても、淡雪が溶けるようにいなくなった大崎とはちがって、消えることのままならない肉体がここにある。
(あなたを殺したのに)
来原はだまってうつむいている。泣いているようにもみえるその姿が、小五郎の問いかけが真実であることを伝えていた。
小五郎は目を落とし、敷布に寄った白い波を見つめていた。悔恨よりも憤りよりも、たださびしかった。大崎を死なせたことも、その清冽すぎるはかなさも、そうはなれずに生きている自分も、それをなぐさめようとしている来原の無骨なやさしさも。
「きっと亡くなったのだと思っていました。あの方は――」
いいかけて、あとの言葉をなにももたない自分に気がついた。大崎は、なんだというのだろう。大崎の何を語る資格が自分にあるだろう。
けれどただ瞑目するにはさびしすぎる心をもちあつかいかねて、唇を半ばひらいてはとじる所作をくりかえしているとき、
「桂」
来原がみじかく自分を呼んだ。
「これを――」
彼は自分の懐へ片手を潜らせて、
「渡そうと思っていた」
と言ったとき、小五郎の前に示されたのは一冊の本だった。
「これは……」
つぶやいた小五郎の目は、すでに題字を読んでいる。
山陽の、日本政記。それだけで、それが大崎が来原に託した遺品であることを察した。
『日本政記はいい』
いつか大崎が言っていたのを思い出す。
『あれは士たるものがぜひ座右にすべき書だ。君は、読んだかね』
いいえ、まだ、といくらか気恥ずかしく首を振る小五郎に、彼はやわらかに微笑んで、
『君の学力ならばもう充分に読める。今すこし書きとめることがあるから手放せないが、それがすんだら貸してあげよう』
きっと君の役に立つ。そう言ってうなずいた目の透きとおるようなかがやきを、小五郎は今もおぼえている。特段に山陽が読みたかったわけではないが、大崎がその約束を忘れずにいてくれたことに、胸の苦しくなるような切ない喜びをおぼえた。
(さいごに、これを……)
大崎が何と言ってこれを来原に託したのか、小五郎は聞きたくもあり、しかし今はまだそのときではないという気がした。来原は大崎の遺品であるこの本を小五郎に渡すつもりで繰りかえし訪れては、結局果たさずに――大崎の死を告げることができずに、懐へそれを匿したまま、いつも苦い思いで帰っていたのだろう。その来原の苦衷を思うにつけても、そっと表紙を撫でる小五郎の指先はこまかに顫えた。
「かならずお前に渡してくれといわれた」
来原の声は重く軋んで、しかし無限のなつかしみがこもっているように思われた。
「俺は、いやだと言ったよ」
ひとりごとのように、そのつぶやきは小五郎と来原のあいだへ落ちる。
「きっとよくなって自分で渡せと言った。そうしたら奴はすこし考えるふうな顔をしたあとで、それはそうだけれども、遅くなるといけないから、と言ったんだ」
一刻でも早く、桂君に届けたい。頼む、と来原の手を握った彼の顔は、泣いているように見えたという。
「癒(なお)るつもりでいたのかもしれないな」
小五郎は何とも答えようがなく、ただ綴糸の先のほつれているのを、指の腹で縒りあわせた。本の四隅は擦れて丸くなって、大崎が何度も読みかえしているのがわかった。
(今さら日本政記でもないが……)
士大夫の心得とかつて大崎はいったが、すでにその資格を喪ったにちかい自分の汚辱を、今の小五郎は思わぬわけにはいかない。それを目のあたりにしていてなお同じ本を貸してくれようという大崎の情熱は奇妙でもあり、あるいは彼の病苦がそのへんの判断を曖昧にさせたのかもしれないと思うと、かなしくもあった。
いささかもてあます気持で、ただ何気なく表紙を披いた小五郎は、しかし本文へ目をおとすと、あっと小さく叫んで息をのんだ。
そこには訓点が丁寧に打たれているほか、ところどころ朱書で註解が入れてあった。大崎が訓むには必要としないであろうそれらの工夫は、小五郎のためにほどこされたものにちがいなかった。
(いつのまに、こんな……)
食い入るように紙面を見つめ、繰ってはまた見つめる。ほとんど息を殺すようにしてその動作をくりかえしていた小五郎は、最後の遊紙のところへたどりつくと、いよいよ目をまるくした。
それは、余白へびっしりと書き込まれた、懐かしい大崎の手蹟だった。文頭に桂小五郎殿、とある。
(私に――)
睫毛が紙に触れるほどの近さで、小五郎は大崎の端正な文字を追った。
『弟ハ大兄ニ雄志アランコトヲ冀望スルモノ也』
あまり説教じみていて恐縮だが、とことわって、大崎は次のようにつづける。
――近年国事はますます多端である。難に克ち君国の名を高からしむるは是れこの秋(とき)、少壮はすべからく奮起すべきである。だから、自分は今はひとたび退くとも、怠りなく孜め、他日かならず起つ。願わくは君も励めよ。君公の御前でいつかまた互いに見(まみ)え、斃るるときは御馬の前に倶にあろう。
「君公御馬前ニテ相共ニ斃ルルヲ得バ、此是我ガ最モ幸トスル処ニ御坐候……」
そのくだりを、小五郎はおもわず声に出して読んでいた。視界の隅に映る来原の膝が、はげしく顫えている。小五郎の手も声もふるえた。しかし、泣くまいと思った。
(あの人は……――)
まだ濡れているような墨跡の行間に、大崎の面影がうかぶ。
あの日彼にさしだした手は払われたが、それが決して拒絶の意味では――ましてや彼が逃げ出したのでもなかったことを、彼のいない木漏れ日の下に、小五郎ははじめて知った。
志を伸べよと、彼は言いたかったのだろう。嬲られても汚辱に泥むなかれと、高く清らかにあれと――――。
いつかまた御前で見えよう。その言葉が、大崎の声で耳底に響く。渓を落ちる飛瀑に打たれるような思いで、小五郎は背筋をのばした。大崎の声はどこまでもやさしく、しかしある烈しさを――びりびりと身を叩くほどの清冽さをもって、小五郎の内を流れ、洗っていった。
大崎は、繊細にすぎたのかもしれない。しかし弱くはなかった。鉈で叩き割るような豪宕さはなかったけれど、志操を持すこと誰よりも堅く、しなやかで、厳しいほど美しかった。いま小五郎の眼前にうかぶ彼の横顔は、心のひそやかな鋭さに彫琢されたようにひき緊まって、しずかにかがやいていた。
「桂」
しばらく沈黙した小五郎の気持を慮ってか、来原が声をかける。彼の両眼から涙が溢れているのを眩しい思いで見やって、小五郎は膝の上でそっと本を閉じた。
「私は」
と言った声は自分でも意外なほど落ちついて、それはかつてのような捨て鉢の諦観ではなく、今後人がましく生きていくために、決めるべき覚悟をようやく決めたのだと思った。
来原が泣いているから、自分はもう泣かぬと思った。彼の剛直さが、自分のなかに心棒をあたえてくれる。
「私は、かくありたいと存じます」
まばたきもせず、来原の目をまっすぐに見つめた。
かくありたい――大崎のように凛として、来原のように強く。それをことごとしく説明しようとは思わなかったが、来原は何も訊かず、ただ黙って頷いた。その眼は深くかなしみを呑みこんで、重い雄勁さをたたえた眼だった。
「大崎の家ではな」
やはり小五郎をまっすぐに見返して、来原は言った。
「まだあれの死んだことを藩には届けていないそうだ。いずれ、末期養子というかたちで他家からしかるべき継嗣を迎えることになるだろう。――その養子をな、」
と来原はそこでちょっと洟をすすり、天井を見上げて、
「あれのように育てたいと、お父上は仰せだったそうだ」
「はい」
小五郎も喉奥から熱いものがこみあげてきて、それ以上はどう返事したものかわからず、唇をひきむすんだまま、強く奥歯を噛みしめた。
蝉の声が、降るように白い病室へ注いでは二人の沈黙の上へ畳なり、あとからあとから敷き積んでいった。
藩校の大廊下を歩いていると、知った顔があちらこちらで、目ひき袖ひきしてこちらをうかがっているのがわかった。
以前ならば顔をふせて通りすぎたにちがいないその場面で、小五郎はくるりと振り返ってかれらを見据えると、
「おはようございます」
朗々とよばわった。
一人ひとりの眼を順繰りに射竦めるようにしてやると、かれらは猫の仔が総毛立つような狼狽をみせて、
「あ……ああ」
ようやく一人だけがうなずいたのを合図に、そそくさと逃げ散ってしまった。
(あんな連中に怯えていたのだろうか)
小五郎は拍子抜けしたが、しかし溜息とともに丸めかけた背を、強いてぴんと張った。かれらへの憐憫を、そのまま翻って自己嫌悪にしてしまうことはたやすい。けれど今の小五郎は、それが甘えの変形であることを知っていた。
(とらわれてたまるか)
大きく息を吸い込んで、昂然と上げた顔いっぱいに、盛夏の陽射しをうけた。
かれらがああいう態度に変わったのは、きっと来原を恐れてのことだろう。
(今は――)
と、小五郎は来原の精悍な顔だちを思いうかべて、そっと微笑した。
――今は、まだそれでもいい。
他日かならず、自分もまたひとの侮りに屈せず、ひとを虐げず、凛乎として己を保った士大夫になろうと思った。
来原も、そろそろ姿を見せる頃だろうか。
彼に会ったら、ひとつ頼みごとをするつもりでいる。
(大崎さんの家では、いつごろ御不幸を藩庁へお届けになるだろう)
しかるべき養子をもらう手続をとったのちに、大崎の死は公表されるだろう。断絶をまぬかれるためのその方便を――藩と多くの家のあいだで数かぎりなくかわされてきたある種の猿芝居を、大崎の潔癖さならばあるいはいやがるかもしれない。けれども、誰よりも父祖への孝養を重んじた彼は、自分が継げずに逝った家の無事につづくことを思って、ついには瞑目してくれるであろう。
その一連の手続がとどこおりなく済んだならば。
きっと来原にはそれが知らされるだろう。そうしたら、そのときは自分にも教えてほしい。そして来原と連れ立って、大崎の霊前に香華を手向け、深く彼の冥福を祈りたかった。
大廊下の日だまりは、いつかはじめて彼を見かけた場所である。その光のなかに彼の幻をえがいてみて、小五郎は自分の懐へ手をしのばせた。
彼から託された日本政記が、やわらかな紙の手ざわりを伝えてくる。彼の霊前に立ったときは、きっとこれを披いて見せようと思った。
あの遊紙に記された大崎の伝言、そのあとへ小五郎は返事を書きつけた。
――きっと、あなたの望んでくださったとおりに。
つねに節を高く持し、何事に遭っても志を汚さず、倦まずたゆまず、忠良の臣、烈々の国士たるべく孜めると、拙い文で彼に誓った。
「大崎さん」
唇のうちでひくく呼びかけた。
「私は心から、あなたが好きでした」
今も、ずっと。
口にした想いは、劇しくもあり、生々しくもあり、けれどうしろめたい感じはどこにもなかった。
(いつかまた、あなたに会う日まで)
窓格子のむこうの、かんと晴れわたった空を見上げた。
身を灼くような夏の日の下、骨を凍らすような冬の霜の上も、怖じずに歩いていこうと思った。
(幸いに、叱咤してくださる方もあるのです)
全身から火を噴きあげているような来原の猛烈さを思って、
(あなたとはずいぶんちがうけれど、似ているようでもあります)
あなたには、きっとおわかりでしょう。
折から格子の隙を照りつけてくる日のまぶしさに、瞼の上へ手をかざしながら、小五郎は遠く遠く、立ちのぼる陽炎のむこうへこだまするようなはるかな問いを、胸のうちに長く響かせた。
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