廟堂の門前につけた馬車に乗り込もうとしたところで、声をかけられた。
「お帰りですか」
ひょっこり、という形容がふさわしいいかにものんきな足取りで、男は門脇から現れて会釈を寄こした。ちょうど車を降りて、主人のために扉を開けようとしていた馭者は、男に気がつくと慇懃に礼をした。ひとめで上物とわかる洋服を、しかしいくぶんだらしなく着崩して、それが奇妙に似合っている。雑駁な雰囲気のなかに、顔にある大きな傷が眼をひく男である。
呼びとめられたほう――木戸は、ああ、とかるく頷いて、
「聞多も帰るのか」
やってきた男に問い返した。
「はあ、まあ……」
井上は言葉を濁して、木戸と馬車を交互に見、それから、
「木戸さん、馬車ですか」
わかりきったことを訊いた。
「うん。お前は? 歩いて帰るのか」
「そのつもりだったんですが、木戸さん、どこか寄りますか」
「いや。まっすぐ帰るが……」
「じゃ悪いんですが、俺も乗せてってもらえませんか。途中まででいいから」
実は、と井上は頭を掻いた。今朝はちょっと「いいところ」から俥で来たのだが、帰りは家から馬車を呼ぼうと使いをだしたら、雇っている馭者が急に疝痛を起こして来られないという。歩いて帰れない距離ではないが、ゆうべの深酒が効いていて、できれば車で帰りたい。と、そういうことだった。
「天罰覿面だな」
と木戸は笑った。
「ゆうべはどこだ、深川か、新橋か」
「大鳥居のほうですよ。大籬じゃあないがいい店があって……あー、あの、今度紹介するから……」
二日酔いの頭痛でもするのか、顔をしかめて頭を押さえる。寄せた眉の下から、懇願の眼差しが木戸に送られる。
「わかったわかった」
苦笑を手の甲にすべらせて、もう一方の手で井上の肩を叩いた。馬車に乗るように促してやりながら、
「しかしお前、あんまり玄人ごのみの変な店なんかうろつくなよ。弾正台に知れたら煩いぞ」
「木戸さんだって人のことは言えんでしょう」
「俺なんか御一新以来ずいぶん淡泊だよ。耶蘇坊主みたようなもんさ」
「嘘くせえ」
にぎやかに応酬しながら厚い布張りの座席にならんで腰を下ろす。馭者が一礼して扉を閉めようとしたとき、ふと井上がそれを遮った。
「木戸さん、帰ってから予定あります?」
「いや……」
「じゃちょっと付き合ってくれませんか」
「どこへ」
まさか今から吉原か、と木戸はさすがに鼻白んだ。日は傾きかけてはいるが、宵までずいぶんと時がある。
が、井上の顔は存外真面目だった。
「相談したいことがあります」
「急ぎか」
体は大丈夫なのか、と木戸が訊いてやると、井上はにっと笑って、
「ほかに替えられない用事なもので」
という。それはよほど大事な案件だろう。ことによっては今後の政府全体の動きにかかわるかもしれない。自分もできるだけ早くその内容を聞いておいて、機敏に手を打つ必要がある。
とっさにそこまで考えた木戸は、
「どこがいい。うちはあいにく居候どもがうるさい。おまえのところか、どこか――」
「うちも料亭もうまくありませんな」
井上は木戸の言葉を途中で抑えた。
「どうも本朝の建築様式というのは、風通しがいいぶん密談には不適きですよ。われわれの私邸はともかく、諸官衙は今後一切西洋建築にしてしまうことですな」
「それは費用が……」
「まァその議論は今はいいやね」
自分で言いだしておいて伝法な口調で打ち切り、
「いっそ馬車の中がいい。聞き耳を立てられる心配はないし、車輪の騒音でまず話は外には洩れない」
「ああ……」
なるほどな、と木戸は頷いた。
「妙案かもしれんな」
「でしょう」
井上はいかにも嬉しそうに、にっと口をひろげて笑うと、
「時に君」
と、扉の前に佇立したままの木戸の馭者へ呼びかけた。
「君は心配いらんだろうな。まあ何しろ馭者台は壁の外だ、聞こえやせんだろうが、万々一なにか聞くことがあっても、よそへ洩らしはするまいな」
風雲をくぐりぬけた男だけがもつ、底光りのする眼でじろりと見た。若い馭者はびくりと体を硬直させ、
「誓ってそのようなことはございませぬ」
深く辞儀をした。
「あんまりおどかしてやるな。彼は信頼できるよ」
木戸が苦笑して井上の腕をつついた。
――人のいないほうへ出て、一刻ほど適当に走らせてくれ。
井上はすっかり主人顔で、木戸の馭者に命じた。馭者は山出しの純朴な青年であったから、自分が鞭をとる車で顕官どうしの重要な密議がおこなわれるらしいことにひどく感激して、「ははッ」と大仰にかしこまり、緊張の面持ちで馭者台へ戻っていった。
馬車はゆるやかに走りだした。
「相談というのは?」
途中何度か木戸が尋ねたが、そのたび井上は
「もうちょっと、街中を抜けてから」
とだけ答えて、容易に口を割らなかった。
これはよほどのことだろう。国体にかかわることにちがいない。下手をうてば御一新の大義が揺らぎかねない――木戸は窓外に流れるまだ「江戸」の夢の中にあるような東京の街並をながめながら、思考の蒸れつのった熱を逃がすように、ゆるゆると息を吐いた。
やがて市中の殷賑を去り、馬車は山の手にさしかかった。
このあたりは今は多くが駿府へ移り住んだ、大名・旗本の空き屋敷が続く。新政府の連中の邸宅や官庁として接収された建物もあるが、まだ多くが主を喪ったままで、あたりはひっそり閑としている。手入れをする人もない庭木の枝は、そっと救いを乞うかのように街路へ手を差しだし、茂った葉がこのところの寒気で紅く色づいているのもなにやらあわれである。
木戸はゆっくりと首をめぐらしてそれらの景色を眺め、人の世の変転にうたた物憂さをもよおした。維新回天の中心に彼もいたわけで、この屋敷町の主人たちを逐ったのも結局は彼でもあるのだが、そういう「勝利」のかたみを見て快とおもえない、むしろどんな事業もおわってしまえばつまらぬものだと、ことばにすればそういうさびしげな感慨を抱く複雑さが、木戸自身面倒に思いながらどうにもならない彼の持ち前であった。
「――木戸さん」
「え……」
呼ばれて振り向くと、意外な近さに井上の顔があった。
「……ああ」
「どうしました」
「どうもしない。何だ」
「今何か窮屈なことを考えたでしょう」
「なんだ窮屈なことって」
「さあねえ、俺なんぞにはわかりませんが」
と井上はにやにやして、
「そういうときは、いったん目をつぶっちまえばいいんですよ。ものの譬えじゃなく、本当にぎゅうっとね。頭をサラに戻すんです」
「だから別に何も……」
「やってごらんなさい」
ずい、と身を乗り出し、木戸の目を見すえて言った。真顔である。井上のたまに見せる押しの強さに、木戸はなぜかいつもさからえない。
「こう、か……」
すこし顎をひき、瞳を閉じた。
「そう」
答えた井上の吐息が、顔にかかった。えっ、と身を引こうとしたときには井上の体で壁際に押し詰められ、目をあけないように、熱い掌で瞼を覆われていた。抗議しようとした口は、野蛮な唇に押えられ、蹂躙される。
「っ、ん――――!」
井上の舌がいっそう深くまで入ってきたとき、木戸は腹筋を使って起きあがり、その勢いとともに思い切り腕を突っ張って井上をつきとばした。
「っと、あぶね」
井上は座席に片手をついてあやうく上体をささえた。
「なんなんだお前は!」
口の端からこぼれた唾液を手で拭いながら睨みつけると、井上は悪びれずに舌をだした。
「木戸さんのいい人でしょ」
「知らん!」
「途中ちょっと流されそうになったくせに」
「なるか! 話があるというから来てみれば……」
「話はありますよ」
「じゃあさっさと済ませろ」
「話ったって、あれだぜ。木戸さんが思ってるような無粋な話じゃないですよ。こう、たまにはしっぽりと語り合いたいなーと……あだっ!」
「この馬鹿!」
唇を寄せて近づいた井上の額を、木戸の掌がしたたかに打った。
「なんだってお前はそう……」
「だってあんた最近いつも難しい顔してただろ。たまには息抜きするのもいいじゃないですか」
「お前が抜きたいのは息じゃなくて別のものだろ!」
「あははははは」
井上は弾けるように笑って、それからもう一度、木戸に顔を寄せた。木戸は露骨に不機嫌さを顕してじろりと睨んだが、今度は叩かなかった。すると、井上は笑いを引っ込めてじっと木戸を見つめる。
(いやな目をする)
と木戸はおもった。
いつもいつも、この男の調子のよさに自分は抗弁しようと思うのに、その理屈がいよいよあと一押しというところへくると、男はこの目で自分を見る。情慾と、それだけではない熱さを宿した眼差し。どこかにふしぎなやるせなさの翳りがあって、それがこちらの肚の底あたりに重くこたえる。見つめられつづけると皮膚のうちがざわざわとして、ひどく居心地がわるい。
(ああ、)
いつものように、とうとう木戸は目をそらした。見はからったかのように、井上の指が頬を撫でる。
「ま、俺が抜きたいのはたしかにこっちですけど」
「――――!」
思わず体が撥ねた。井上の手がそこを握り込んでいる。
「あんただって溜まってんだろ」
「…………おまえ、」
井上はただ触れているだけなのに、その指遣いを憶えこんでいる体が、勝手に反応する。上がってくる息を逃がしながら、木戸は上目遣いに井上を見た。
「二日酔いはどうなったんだ」
「あー嘘うそ」
井上は愉しそうに手を動かした。
「酒は過ごしましたがね、残るほどじゃないですよ」
「謀……っ、たな」
「謀ったうちにも入らない。木戸さんが甘いんだ」
まあつまり、と耳朶に唇を触れさせて、
「惚れた弱み、だろ」
かすれた低音での囁きに、木戸の体が弛緩する。その隙をついて、窓に頭をもたせる格好で、斜めに体を倒された。片脚を座席の上に持ち上げられ、恭しく靴を脱がされる。座席の上下に割られた脚のあいだに、井上が片膝を乗り上げてくる。その間も、あの目が木戸を見つめている。居心地のわるさに腕で顔を隠すと、すぐにそれを払いのけられた。
「いまさらだろ」
「全然いまさらじゃない。なんでよりにもよって馬車の中なんだ」
「飽くなき探求心てやつですよ」
「ほかをあたれ。俺は探求したくない」
「またまた」
かるくいなして唇を貪られる。そうしながら、井上の片手は器用に木戸の上着をくつろげ、シャツのボタンをはずした。つづいてベルトに手がかけられる。車輪の音が響く車内で、しかしそのかすかな金属音は、いやに高く耳についた。明るいなかで肌を晒すのははじめてではなかったが、今回はさすがに勝手が違いすぎる。
(なんだってこんなところで)
半ば屋外のようなものだし、馭者はいるし人が通るかもしれないし、何より狭苦しいではないか。そう思いながら、その不自由さ、不安定さに熱を煽られている自分を木戸はわかっていた。
井上はときどき淫蕩な笑みをうかべて木戸の顔をのぞきこみながら、作業に没頭している。場所が場所であるせいか、それともそういう光景を愉しむ気なのか、井上は木戸の服をすべて剥かず、中途半端に残している。せめて下はすっかり抜き取ったほうがそのあとを進めやすかろうに、わざわざ膝のあたりにとどめおかれて、その窮屈さに木戸は変に慾を刺激される。
「おまえ……」
黙っているとますます熱が高まりそうで、いまいましさ半分の溜息とともに問いかけた。
「楽しいのか、男の股ぐらなんぞまさぐって」
「ああ?」
木戸の太股を撫でていた井上は、笑いながら顔をあげて、
「そりゃ、たのしいですよ」
言うなり内股を強く吸い上げ、歯を立てた。木戸が咄嗟に声を呑む。
「あんたがいい顔するからな」
「な、っ……――!」
抗議しようとしてひらきかけた唇を、木戸はつよく噛まねばならなかった。中心が井上の口に飲み込まれ、同時に後ろに指を入れられた。
「……はッ、……っ、」
必死で声をこらえながら、井上の動きから目を離すことができない。ときどきにやりと笑いかけてくる井上と目が合う。その井上の顔も、中途半端に服をまとったまま折り曲げられた自分の膝も、間に見える座席の紅い色も、だんだん滲んだ像を結びだす。
「聞多……」
たまらずに手を伸ばして、井上の頭を押しつけてしまう。あと少しで解放を迎えるというとき、井上の指と舌は同時に退いた。
「あ……」
今、さぞ自分は物欲しそうな顔をしているだろう。その推測が正解だとでもいうように、滲んだ視界のなかで井上がにっと笑う。屈辱すら、熱に変わる。
「聞多、もう……」
「やっと探求する気になったな」
男の余裕を悔しいと思うよりさきに、片脚を持ち上げられ、井上の熱を押し込まれた。膝に服がひっかかったままのせいで、思うように脚を拡げられず、その窮屈さが新たな刺激になる。
「あ……ああっ――!」
体がふるえるのにも容赦なく、一息に奥まで突き入れられる。
「あんまりでかい声出してると、さすがに聞こえるぞ」
車の前方――馭者台のほうを顎でしゃくって、井上は人差し指を木戸の唇に当てる。噛んでやろうかと思ったが、下肢の熱に力を奪われておぼつかない。舌なめずりしながら井上が笑う。その表情に、粘膜が勝手に収縮する。
「たまんねぇな、あんた」
井上の汗が唇の上に落ちた。熱にうかされた木戸の舌は、無意識にそれを舐めとってしまう。木戸の中で、井上の慾がさらに硬く膨れあがる。
「、っん……」
「いますぐ吉原の大楼でお職が張れるぜ」
しかしそう言いながら井上は、木戸の中に自身を収めきったまま、なぜか動こうとはしない。
「聞多……」
焦れた木戸が自分から動こうとすると、
「まあ待ちなよ」
井上は鼻歌でも唄いだしそうな余裕をみせて、体全体で木戸にのしかかり、動作を封じてしまう。
「なんで……」
「いいからいいから」
なにがいいんだ、と下から睨みつけたとき、がたっと大きな音を立てて車体が撥ねた。
「あっ」
咄嗟に木戸は井上にしがみついた。揺れそのものに愕いたのではない。ただ馬車が揺れ、乗っている人間も同時に揺れた。木戸の中で井上もまた急に弾むように揺れ、その刺激が焦らされた体には耐え難かったのである。
「ひっ……あ、あ……」
馬車は、それまでよりあきらかに大きく車輪を軋ませている。道が悪路に入ったらしい。ときどき大きく左右に傾いだりして、そのたび木戸の内部は、井上をきつく締めつけてしまう。おそらくわざとなのだろう、井上の角度は、ちょうど木戸の弱い場所を剔るかたちになっている。噛み殺してもまた喉を迸る声が、泣き声にも似た湿り気を帯びている。
「あー東京府下だけでももっときっちり道普請させにゃならんわなあ」
こりゃ危ねえなあ、と井上は愉しげに言い、ときどき揺れにあわせて深く浅く突き上げてくる。
「聞多! も……、頼む、から……っ」
木戸の快感は限界まで張りつめ、これが最後かと何度も思い、そのたび巧みに外される。体が、頭が、こなごなに弾けて深い闇へ墜ちていきそうな気がする。死ぬのを怖いと思ったことはないのに、底なしの快感の淵に沈むのは恐ろしい。死んでも仕事は遺るが、ひとたび快感の底の底へ墜ちてしまえば、自分が自分でなくなる気がした。
だから、どうかもう解放してほしい。
木戸は涙を絡ませた声で懇願するが、井上はまるでどこ吹く風である。
「だって馭者に一刻走れって言っちゃったもん俺」
この揺れじゃあ声を掛けても聞こえないだろう。だから我慢しなよ。
ふっ、と口まで垂れてきた汗を吹きとばしながら、井上は男臭さに噎せかえるような笑みをうかべた。木戸の瞳は涙で潤みきっているのに、井上の細めた目の横をあらたに流れる汗の、光の変化までがはっきりと見えた。
「あ、また締まった」
「貴……、様ッ」
「我慢しろって。大人だろあんた」
「い、一刻も、こんな……あ、くっ」
「相当譲歩してるぜ俺。一刻じゃ全然足りねえっての」
「こ…っ、の、化け物……!」
「あ、いいねえ」
化け物はいいや、と井上がふきだす、その胸や腹のこまかな顫えすら、ぴったりとあわさっている肌の熱をさらに昂めてゆく。
あとどのくらいこうしていなければならないのだろう。あとどのくらい……。
熱が脳を冒し、快感が自分の肉もこころも貫いてゆく。解放を待つがための思考すら焼き切れようとするのを、木戸は眩暈とともに遠く感じた。
轍ははるか郊外へつづいてゆく。農夫が鋤鍬でならしたなりの荒れた道の上を、獣が跳びはねるように、馬車は激しく上下する。
しっかりと手綱を握り締め、栗毛の色もつややかな二頭の馬を叱咤しながら、誠実な、愛すべき若い馭者は、自分も国家の大事にかかわっているのだという晴れやかな緊張をひとり頬に上せ、またひと鞭、馬の尻を打った。
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また無駄に長いよ!
聞多がこんな無体ばかりはたらいていて
木戸さんに投げ飛ばされて簀巻きにされたり
火鉢投げつけられたりしないのは
結局なんだかんだいって木戸さんが
いやじゃないからだと思います。
聞多はこの馬車の中での旨味を俊輔に教えていればいい。
そしてかの有名な、俊輔の馬車で芸者とホニャララな
エピソードが完成すればいい。
[23回]
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