臥たり起きたりの明け暮れながら、それまでに溜まった疲労が体力を奪っていたのか、小五郎は瘧を病んだ。
間歇的におとずれる熱と震えになやまされながら、畳の青さだけが目にたって新鮮な部屋のうちで、少年の夏は闌(た)けていった。
(もう十年もこうして臥ている気がする)
発熱の予感を気だるい体におぼえながら、そんな埒もないことを考えたりした。
(あるいはあと十年先もこうしているんじゃないか)
奥の間の床の上で、庭に舞いくる小鳥や、うつるといけないからと注意する父の目をぬすんで時折様子を見にきてくれる母や妹だけを相手にすごす日々は、あたたかく平和で、しかし平和なぶんだけじわりと湿るようにみじめで、日一日と自分の身を腐らせていくような気がした。
といって外に出てしまえば、陵辱の日々の記憶のかたみが、そこここで小五郎を待ちうけては、忌まわしい追憶へさそうにちがいないのだが。
(どこへ行けば――)
どうせ汚辱の過去は消せないのだ。この先どこで何をしても、結局解決にはならないのではないか。
(眠っているほうがましというものかもしれない)
たとえこの身は徐々に朽ちていくとしても――。
そういう退嬰的な思いが、体の恢復を遅らせているのかもしれなかった。
(大丈夫、か)
考えたくもないのに、小五郎の思いは勝手に来原のところへ落ちていく。さっき母から彼の訪問を告げられたせいかもしれなかった。父の言いつけで見舞はことわっているが、それでも来原は三日に一度はきっとやって来て、小五郎のようすを聞いて帰るのだという。
「良いかたに懇意にしていただいて」
母は喜んでいたが、小五郎は彼の来訪を聞くにつけても何やら気ぶっせいで、もういっそこの熱が下がらなければいいと思ったりした。
やつあたりだとはわかっている。
母が考えているように、体をこわした小五郎を家まで送りとどけてくれたというだけでも彼は恩人である。まして、小五郎だけが――正確には小五郎と来原とあの男たちだけが知っている来原の大立ち回りは、それ以上に小五郎を救ってくれたことになるはずである。
それが、どうしてこんなにも鬱屈をさそうのだろうか。
『もう心配しなくていい』
あのときの彼のことばを反芻してみる。
(心配しなくていいなどということがあるだろうか)
たぶん来原は、それをもう犯されることはないという意味で言ったのだろう。それはたしかにそうかもしれない。けれど、それで事態の何が解決するというのか。
(甘えだな)
と小五郎はわかってはいる。
ここまで来原は手を貸してくれたのだ。あとは自分ひとりで考えるべき問題だろう。それでもいつまでも来原のことばに拘泥し、その内実を彼の力に俟って埋めたいと願ってしまうのは、やはりあの瞬間の自分にとって、まぎれもなく彼が救いだったからなのであろう。
彼が大声とともに踏みこんできたあのとき、ただ恐ろしいとしか感じなかったその姿を、小五郎は徐々に、慕わしく思いかえしてみる。そうして、
(馬鹿な)
と、すぐに自分のその奇妙な安堵を否定する。
来原は、不義と破倫を悪む男である。その彼の前で肉欲に濡れた痴態を晒しておいて、彼に救われようなどとは馬鹿げている。来原は自分の体が常ではなかったから男たちにしたようには制裁をくわえなかっただけで、この体がもとに戻れば、やっぱり自分も彼に罰せられるのだろう。
(もう、それでいい)
小五郎は目をとじた。
もっとも、彼は自分で紡ぎだしたその答えを、自分でほんとうに信じているわけではなかった。来原がいずれ制裁する意図でもって見舞に来ているのでないことは――小五郎に対して悪意のないことはわかっている。けれども、そう考える以外に、小五郎には来原という男の自分のなかでの持ちあつかいかたがわからなかった。憎まれていると思っていたほうが、自分の汚辱をめぐる一切に整頓がつくという意味で、いっそ、よほど楽であった。
陽射しがいよいよ盛夏の烈しさを漲らせる頃、小五郎の瘧もやや革まった。
高い熱が出て、昼も夜もよくわからぬままうなされ、時折体を浮きあがり去ろうとする意識は、暗い瞼のうちに曖昧な模様をえがいた。
大崎が、いた。
小五郎の隣で、いつかのように詩経かなにかをひろげて、ときどきどこかしらの字句を示して見せる。その指先の白さに、彼だと気がついた。
「どうしておいででしたか」
息をはずませて、小五郎は尋ねた。藩校にも姿をあらわさず、病臥中とのみほのかに洩れ聞くばかりの大崎が、目の前にいることが嬉しかった。二度と言葉を交わせまいと思ったことも忘れて、小五郎は頬に血の色をのぼらせてなつかしい彼を見上げた。
――が。
「大崎さん」
不安が胸を刺す。その訴えかたがわからなくてただ彼の名を呼んだが、ぞくりと背のつめたくなる感じは濃くなるばかりだった。
大崎の顔が、見えない。
ぼんやりと輪郭はわかっているのだが、その造作も、無論表情も、水の中で見るようにゆらゆらとおぼろに揺らいで、たしかな像を結ばなかった。
「大崎さん」
思わず手を伸ばすと、彼はするりと立ち上がり、背をむけた。そのままずんずん向こうへ歩いていく。小五郎はすぐに追いかけたが、どうしたことか足が鉛のように重く、いっこうに追いつけない。
「どちらへおいでですか」
切り裂くように叫ぶと、彼は一度ふりかえった。そうしてなにか言ったようだったが、その声は小五郎の耳には届かなかった。
どんどん、彼の背中が遠くなる。何とかもがいてあとを追おうと思うのに、足ばかりでなく体じゅうが金縛りに遭ったようにこわばって、動けなかった。大崎の姿は次第にぼんやりと霞み、やがて煙がかき消えるようにしてその姿がなくなった。
たぶん夢なのだと、途中で気がついてはいた。それでももう一度彼の声が聞きたくて、夢の中の小五郎は叫んでいた。
そうして目が醒めたとき、布団のなかで汗みずくになって、だらしなく涙をこぼしている自分を発見した。頭がひどく疲れきっていて、そういう自分を情けないと思う心すらおこらなかった。
熱は、なかなか下がらなかった。
おなじ夢を何度も見た。回をかさねるごとに小五郎の焦燥は増し、彼をひきとめたい思いは強く切になるのに、やはりあいかわらず大崎の声は聞こえず、顔も見えなかった。
(どうして……――)
病中の徒然と高い熱が、その狭くかぎられた範囲にますます意識を集中させてしまうのか、一日の半分はきっとその夢のことを考えていた。たかが夢と思うのに、醒めるたびにあらたな悲しみが胸にひろがった。
(私が不潔だから)
それで大崎は顔を見せてくれないのだろうか。そういう恠力乱神のたぐいのよしなしごとまで考えて、はっとして頭を振ったりした。
本当にこわいのは、嫌われることではない。ひたひたと胸を湿らせてゆく憂いは、かたちのない予感をともなっていた。小五郎はその渺とした影の、しかししんとして暗い色におびえた。それは、頼りなく病にうなされる体がもたらす、肉体の不安だったろうか。
あるいはその心細さがさせたことだったのかもしれない。
体の震えがややおさまった日、小五郎は父に尋ねたのである。
「来原さんはもうお帰りですか」
と。
その日も彼が来ていることを、離れた客間の気配で知っていた。
小五郎が寝ついて以来、頻繁に見舞に来てくれる来原を、「お伝染ししてはいけないから」と父は病室へ通さなかったが、といって毎度玄関先の立ち話で帰すのも気がひけて、いつの頃からか、母が客間へ引っ張り上げて茶菓子などすすめているのである。
「それさえいつもご辞退なさろうとするのだけれど」
と、母は可笑しそうに小五郎に話してくれた。
「私が叱られるから、というと『それはいかにも恐縮ですから』とおっしゃって上がってくださるのですよ」
その謹直なようすがおかしい、と母はほがらかに言う。
来原は客間へ通されてもかしこまって菓子には手をつけないが、母が「おきらいですか」と問うと、
「好物です。いただきます」
という、その台詞も辞儀の角度も、いつも判で捺したようなのだという。
「といって――そう、人様のお噂を申し上げるのははしたないけれど、あの方は決して堅苦しい一方ではないのね。向き合って座っていると、じっと黙っておいででも、こちらは何やら和やかな風に吹かれているような、ふしぎな気持がするのです」
ああいう方を、何といったらいいのでしょうね。女の私にはわからないけれど。
母は小五郎が病みついて以来、いつも気遣わしげに眉を曇らせていたが、ただ来原の話をするときばかりは、莞爾(にこにこ)とやわらいで嬉しそうだった。
(なるほど、そういう方か)
両親は来原と小五郎が親しいものと思っているらしかったが、あの日初めて言葉をかけられた小五郎は、剛直者という以外に、彼のことをほとんど知らない。かえって母の話から、そういうところもある人かとぼんやり思いをめぐらしてみるのだった。
そのせいかどうか、来原に訪われることへの気鬱な感じは、少しずつうすらいでいった。それで、ある日父に言ったのである。
「今日はもう、来原さんはお帰りですか」
と。
診療を了え、かたわらの盥で手を洗っていた父は、ちらりと顔をあげて小五郎を見たが、やがてそれを客間を透かしみるようにむこうへ向けて、
「いや」
とみじかく答えた。
「お話をしてはいけないでしょうか」
「なんぞ、用事か」
「用事ということはないのですが……」
ただ会って顔が見たいのだとも説明しかねて言いよどむと、父は気の毒そうに眉をさげて、
「急ぎの用事でもなければ、まあ、よしたがよかろう」
盥から手をあげ、雫をはらった。
「伝染りましょうか」
「大方感染するほどの病勢ではなくなったとみえるが……それでもよそ様の跡取りに万一のことがあってはな」
父はそれなり話を打ち切ったが、あとでそれを母に話したらしい。すると今度は母が来原に話したのだと、あとになって小五郎は聞いた。
つまるところ、めぐりめぐって来原が父に懇願する態になって、結局父が押し負けたらしい。それから二、三日してまたやってきた来原は、とうとう小五郎の病室へ通された。
彼は、小五郎の記憶にあるよりもすこしだけ面痩せて見えた。
「このようななりで」
と小五郎は言った。ほかに挨拶のしようがわからなかった。布団から滑りでようとするのを、来原がちょっと顔の前へ手をあげてとどめた。
「あの、」
と小五郎はさらに何かいおうとしたが、言葉が思いうかばず、やむなくだまった。
そもそも、先に父にこたえたとおり、べつだん用事があったわけではないのだ。
「起きていてもいいのか」
ややあって、来原が尋ねた。なにか、ものを言いたくないのを無理をして絞りだしているような、喉奥で重く軋らせた声だった。
(むりもない)
小五郎はそれを来原の自分に対する軽蔑のあらわれなのかと思った。が、彼は意外なことを言った。
「俺は、あの日お前に果たさなかった用がある」
それで足繁く見舞に来ていたのだという。
「幸いに、今日はお父上が奥に入れてくださった」
「ええ……」
ためらいながら頷く。来原の顔は心なしか蒼ざめて、頬のあたりに微妙な緊張が感じられた。その頬がむずむずと動いたのは、何度か口をひらきかけては奥歯を噛んでとどめたせいだろうか。
何度めかのその動作ののち、
「俺は」
と低い声で言った。
「あの日、お前を捜していた」
彼の両手は、正しく折った膝の上で握りしめられている。その手の下で、袴の皺が深くなった。
「お前を見なかったかと人に尋ねたら、納屋のほうへ行ったと聞いたのだ。それで――それは、まあ、いい」
と、さすがにそこは言いにくそうに話を飛ばして、しかし、彼の言いしぶっているのは、さらにその先のことのようだった。
「大崎はな」
来原の重苦しい声がその名前を告げたとき、小五郎ははっと顔をあげた。それは小五郎がずっと気にかけていたにはちがいないが、まさか彼から聞くとは思わない名前だった。
「大崎さん……」
夢のなかのように、あわあわと口にした。
「大崎さんが、なにか」
大崎の名を出したからには、来原は自分と彼が懇意だったことを知っているのだろう。が、あるいはそれ以上のこと――知られてはならないことまで知っているのだろうかという恐れは、そのときの小五郎には湧かなかった。ただ、懐かしい名前にひきずられて、けぶるような恍惚のなかで問いかえしていた。
「俺に、兄がある」
と来原は言った。
「俺にとって来原の家は養家で、兄というのは実家の兄だが。これが、大崎の親族と親しい」
その兄が、聞いてきた話なのだという。
「大崎は――大崎は臥ているそうだ」
「はい」
小五郎は悄然としてうなずいた。そんな噂は聞いていた。あるいはあんなことのあった藩校へ出てくるのがいやで家に籠もっているのではないかとも思ったが、それでは本当に体が悪いのかもしれない。
(そうだとしても)
きっかけはやはり、自分のせいだと思うのだが。
「お見かけしなくなって、もう、ずいぶんになるようですが」
問いかけると、来原はこころもちうつむいて、
「ああ」
かすれた歎息を洩らした。
「お前、御進講の話を知っているか」
「存じております」
と言ったのは、かつて大崎の秀才の誉れがほとんどその絶頂にあったころ、その俊穎の証拠としてもっぱら取り沙汰された、両君御前での講義の内定のことであった。
それが、
「立ち消えになった」
と来原はいう。
「なんでも大崎が辞退したいと強く望んだらしい。御尊父が理由を訊くと急に震えだして、倒れこんでしまったそうだが」
「それは――」
と小五郎は息を呑んだ。
大崎がいつぞやの試験での不正を自訴して出ると言ったとき、小五郎が賛成しかねた理由はそこにあった。
多少とも志のある学徒にとって、御進講はこのうえもない名誉である。大崎は、平生の成績からいって選ばれるのは当然だったが、それでも彼の家では喜んだことだろう。しかしそれも、もし不正のことが公になれば、藩としては取り消さざるをえまい。
(おとなたちにしたところで、むざとあの人からその資格を奪いたくはないはずだ)
大崎が御進講にあたるのが適当でなかったということになれば、推挙した人のほうがかえって迷惑するであろう。誰もきっと事を荒立てたくはない。
(それなのに――)
彼はずっと、ひとりでそれを気に病んでいたのだろう。その心痛を、あの夕の出来事がさらに深刻なものにした。
(あの大崎さんのことだ)
やはりもう自分は御進講の任に堪えないと、激しく思いつめたのだろう。目をとじると、彼の肉の薄い、白い頬が夢のように瞼に浮かぶ。大崎の正直さを、小五郎は悲しいと思った。
彼は清廉で美しく、しかし強くはない。
大崎の家の前を、何度か通ったことがある。その門からは見えない奥の一室で、細い躯を横たえながらひとりおのが身の不潔を責めている大崎を思って、小五郎はするどく酸いものにきゅうきゅうと胸を灼かれる気がした。
「ご容態はいかがでしょうか」
こみあげてくるものをぐっと嚥みくだして尋ねると、来原はそれには答えず、
「そうだな」
と不得要領な相槌を打った。そうして、容易ならぬことをつぶやいた。
「大崎の家では、よそから養子をもらう話もでているらしい」
「そんな、」
小五郎はおもわず寝巻の襟を握りしめた。そうしていないと、ひゅう、と急きこんで息を吸った喉の奥から、肺腑がえづき出てきそうな気がした。
よそから養子を迎える。それは、大崎が廃嫡される可能性を示唆していることではないか。
「大崎さんは、それほどお悪いのですか」
来原の話が本当なら、大崎は御進講を辞退したい理由については話していないはずで、だとしたら廃嫡の理由は純粋に健康上のことでなければならない。
「さあ……」
来原は、言うのを憚ったのか、あるいは本当に知らないのか、言葉を濁した。
彼の額に、じわりと汗が滲んでいる。すでに盛夏のことで、病衣一枚でいる小五郎でも袖や帯のあたりにうっとうしさを感ずるのだが、来原はきっちりと襟を詰めたまま、暑そうな顔もみせず、ただ鬢の毛を汗に濡らしている。
表では蝉がけたたましく鳴いている。その喧噪をよそに、じっとりと沈黙が蒸れてゆく。
「大崎がな」
と、来原が重い口をふたたびひらいたとき、小五郎の頭はすでに、ぶりかえした熱にうだりつつあったのかもしれない。
「うわごとを言うらしい」
来原の声は真綿に包まれているように内に籠もって、遠くに聞こえる。
「お前の名を呼ぶそうだ」
と告げる言葉さえも遠く――――
(大崎さん)
軒端へ飛び移った蝉がいるのか、蝉時雨のなかにひときわ高い鳴き声が混じる。その音が自分の頭蓋の中でなり響くように感じて、小五郎の体はぐらりと揺れた。蝉の声のむこうに、人声が聞こえる。多分来原だろうと思った。蝉の声はこんなにも喧しく、頭の芯をじかに震わせているのに、来原の声はおぼろに霞んで届かない。ああ、と歎息した自分の声さえ遠く、そうして吐いた息の内臓から茹で上がったような妙な熱さが、肌にまとわりついて不快だった。
崩れようとする体を、誰かの腕に支えられて布団へ横たえられる。その腕は来原のようでもあり、しかしまた大崎かもしれないと思った。
「この熱がおそらく最後だな」
と、父がつぶやくのが聞こえた。水を使う音がするのは、盥で手を濯いでいるのだろう。
「これが引けば治るだろう」
だから今しばらくは辛抱していよということだろう。あるいはもう安心してよいと、父は言ってくれたのかもしれなかった。
それでも、寒気と震えはとまらない。
来原は、もう帰ったのだろうか。
額に置かれた濡れ手拭いの下で、小五郎は喘ぎあえぎ、もう何刻前のことかはっきりしないその記憶を手繰りよせた。
「大崎はお前の名を呼んでいる」
来原がそう言っていた。
もしかすると、大崎も自分とおなじく瘧を病んでいるのだろうか。高い熱にうなされながら、しきりと唇をふるわせて洩らすのだという。
――すまない。
と。
すまない、すまなかった、許してほしい――大崎は小五郎の名を呼びながら、きまってそんな詫びの言葉を口にするらしい。それはいかにも真率で、切に苦しく聞こえるのだという。
(大崎さん――)
小五郎の目尻を、涙がこぼれた。
男たちに命じられて大崎と交わった夕、小五郎はたしかに悲しかった。見世物にされたことも、あんなかたちで大崎との淡い交誼(したしみ)の日々がうしなわれたことも。しかし何よりつらかったのは、大崎との媾合によろこびをおぼえてしまったこと――そうしてそのよろこびを大崎に厭われたことにちがいなかった。
それでも、軽蔑されるだけならまだよかったのだ。
(どうしてあの人が詫びるのだろう)
自分の不潔を憎んでくれるなら、そのほうがいい。あるいは犬に噛まれたとでも思って、不慮の事故として片づけてくれればまだしも救われる。
――すまない。
大崎の、おそらくは縊られるような苦衷のうちから絞りだしたことばは、小五郎の胸を深くえぐった。
(あの人にとってはどこまでも、苦しい過ちだったのか)
自分の体に触れたことも。ひょっとすると、互いに知り合ったことさえ。
――私は、それほどまでにあなたを穢してしまったのですか。
あなたの学殖も、人物も、そのうえに来るべき将来をも。
いつかの媾合のあと、悦楽に酔ってさらに手を伸ばした自分をふりはらった彼の、怯えたような灰色の瞳を思い出す。記憶の中の彼の虹彩はしだいに暗くぐるぐると渦を巻き、鋭く裂けた深淵となって、小五郎を呑み込み、黒い光の向こうへ拉し去っていった。
高熱は、それから二、三日つづいた。
はっきりと覚えているのは、母が重湯をもってきてくれたところまでだった。小五郎はようよう一口だけそれを嚥みくだしたが、なにやら咽までが痺れてあとをうけつけず、やむなく濡らした綿で口を湿してもらっているうちに、とろとろと気怠いまどろみへさそわれた。
それから先は、つねに外界と薄皮一枚をへだてた淡い色の世界にただよっているようで、浅い夢のきわに、睡るとも破られるともなく、ふわふわと浮いている心地だった。ただし浮いている、とはいっても、なにぶん病中のことであるから、普段まどろんでいるときのような心地よい感覚ではなく、どちらかといえば駕籠にでも酔ったような、胸のよくない感じがしているのだったが。
真夏の午後、厚い布団にくるまっているのに、ひとりでに体が震えて、歯の根ががちがちと音を立てる。自分の体が熱いのか冷たいのか、小五郎にはもうよくわからなかった。水の中にいるような、周囲の音も景色もゆがんで遠い心地だった。震える体を自分の腕で抑えたいのに、指一本すら思うようには動かせず、そしてそういう体の重さは、心のはたらきまでも鈍重にした。寝巻が濡れるほど汗をかき、節々は痛み、目をあけると天井がまわるようだったが、それが果たしてどれほどの苦痛なのか、それすら小五郎の意識はとらえがたく朧になっていた。
(死ぬのかな)
と思い、
(まさかそんなこともないだろう)
と思いかえす。
ただそれだけが能の、機械仕掛けの木偶になった気がした。
ちかちかと、瞼の奥で星が明滅する。時折意識が途切れるのは、眠っているのだろうか。
(気持がわるい)
もしも体の自由がきいたならば、そのとき小五郎は手足を大きく投げ出すか、泣き叫ぶかしていたかもしれなかった。
疼痛をうったえる関節のほかに、ぞわぞわと血が蠢く感覚が襲う。それはやがてある一点をめざして凝り、小五郎を狼狽させ、苛立たせ、ついには泣きたいほど惨めにした。
いつか、仲間うちの誰かに聞いたことがある。
人間、もう死ぬかもしれないというときは、体が最期ののぞみを託して、生殖能力を高めるのだと。
『だから肺病に罹った年寄なんぞが、案外まらばかりは元気だったりするものだぜ』
そのときはただ笑って受け流したその言葉が耳奥によみがえるのを、小五郎は断罪の言葉のように聞いた。
体の中心が熱い。
何とはいって淫らなことは考えていないのに、そこはひとりでに頭をもたげ、存在を主張している。血の沸きたつ感覚が病んだ体を不快に掻きたてる。自分の意志にさからってしだいに熱くなるそこを、今の体力ではどうすることもできない。
苦しい、と思った。
それ以上に情けなくて、ひどく悲しかった。
それを単なる生理の反応として片付けるには、小五郎のここ最近の経験は爛れすぎていた。痛いほどにあつまってくる血の滾りを、自分の不潔さの証明としか思えなかった。
(もう、いやだ――)
自分の体が呪わしかった。解放されない苦痛と、病気の熱が加速させる恍惚のなかで、小五郎の意識はしばしば遠いくらがりをさして浮游した。
そうして、どのくらい経っただろうか。
ふと、人の声を聞いた気がした。
小五郎は額に汗をにじませ、肩で息をしながら、はっとその声に耳をすませた。
熱の靄にへだてられて、それはよく聞こえない。しかし、かすかに空気をふるわせてつたわる響きは、ひどく涼しげで、浄らかなものにおもわれた。それは、自分の体に凝る熱を払い、昏い靄のなかから救いだしてくれるような気がした。
考えるいとまもなく、小五郎は闇のなかへ腕をのばした。実際には布団からわずかにもちあげたにすぎなかったであろうその腕は、しかし、すぐにひやりと心地よい手にすくいとられた。
「大崎さん……」
と、われしらず口にしていた。
たちまち淡い夢寐の映幕に、大崎の姿があらわれる。今まで何度も夢に小五郎をなやませたのとはちがって、彼のおもざしははっきりと見えた。やさしく、まぶしげに、そうしていくらかさびしそうに笑っている。
「大崎さん」
さしだした手を、彼の手がにぎる。彼はなにもいわなかったが、滲むようにほそめた目がたまらなく懐かしく、小五郎は涙を溢れさせながらその手を握りかえした。
あやまらなければならないことがたくさんあった。それだのに、彼のひんやりと熱を癒すような手にふれたとたん、今までさまざまに考えていた謝罪のことばはすべて消し飛んで、小五郎は母にはぐれた子のように、彼のやさしさに必死でとりすがった。
「もう、いやです」
甘ったれたことばが口をついて出た。
「いやです。いやだ、こんな……」
声に涙がからみ、みっともなくうわずる。吐きだすほどにやるせなさがつのり、じっとしているとそれが澱のように体の底に溜まっていきそうで、小五郎は自分からとった彼の手を、今度は乱暴に振りはらおうとした。
しかし、離れるかにみえた彼の手は、あべこべに小五郎の手を強くつかんだ。がっしりと握りこまれて、それまでやさしげに触れていたその手に、山脈のように浮きだした筋と骨とを感じる。その力強さの前に小五郎は一瞬ひるみ、それから今度は回転する火輪の前へ身を投げ出すように、いっそう激しくしゃくりあげて、ついにその言葉を吐いた。
「もう死にたい」
と。
彼の手がわずかにこわばる。小五郎はもう止まれなかった。
「死にたい。こんな体になって、私はもう――」
啜り泣きながら腰をよじった意味は、彼につたわっただろうか。
小五郎の視界はすでに、涙に曇っている。あたりはほの白く明るく、それでいてぼんやりとしていて、いったい昼なのか夜なのかもよくわからなかった。そもそも場所さえ――たしかに自分の居室に寝ていたはずだが、部屋の壁も天井も、調度もみなどこかへ消えうせてしまって、布団の温みだけが睡るまえのままの、そのふしぎな空間のなかで、ただ握りあわされた手の感触だけを恃みに、小五郎は深く裂けた傷口をさらけだしている。
「こんな……――」
見せたくはない。知られたくないのに、弾けた肉から噴きだす血を止めかねるように、彼の前へその暗部は示される。
痛いほどはりつめたそこが、ひときわ硬く熱をもつ。
「死にたい――――」
殺してくださいと、ほんとうは言ってしまいたかった。しかしそればかりは憚って、耐えている苦しさに唇を噛む。
はじめそっとしなやかにふれていた手は、今は小五郎の手を砕かんばかりに大きく固くなって、小五郎の病的な熱とはちがうあつさを感じる。死にたい、と口にした一瞬だけ、その指先にかすかなためらいを感じたが、それはやがて力強さの奥に押しつぶされて、今は小五郎の歎きを叱るでもなくふりはらうでもなく、ただ大きな掌のうちにくるんで、肉の厚い沈黙をつづけている。
小五郎はしだいに嗚咽をやめて、目をとじた。握られた手は傷口から流れる血をすこしもぬぐってくれようとはしないのに、ふれている節のかたさは甘いやすらぎをあたえてはくれないのに、その平らかで太々とした沈黙は、ふしぎな安堵をもたらした。
その安堵の海の上に身を横たえて、小五郎はしばらく自分を鎮めようとこころみたが、やがてそのどうにもならないのを感じて、ふたたび睫毛をふるわせ、頬を濡らした。
と、彼のもう一方の手が伸びて涙をはらう。耳もとになにかささやきかけられた気がして、
「――――え?」
小さく問いかえしたが、答えはかえってこなかった。かわりに布団のなかへ手がもぐりこんでくるのを感じて、
「あ……」
見ひらいた目には、しかし、白く明るくけぶる光以外に、なにも見えなかった。わずかに身をよじったが、抑えられてすぐに屈した。
本当は、待ちかねていたのだ。
そう自覚したとき、新たな涙が頬を伝った。それをぬぐってくれるかもしれないと期待した手はすでに布団のなかでその作業をはじめていて、涙よりもよほどするどく神経を刺戟するそちらの感覚に、小五郎は背を反らせてかなしく顫えた。
[24回]
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