「そう珍しいものでもありませんが、色が」
と、伊藤はそれをとりあげて窓硝子をこぼれるしろい陽にかざした。晩秋の昼の光は、あわい桃色を帯びた磁器の肌の上を、なめらかに滑った。
ちょっといいでしょう、と、いささか遠慮のなさすぎる口調で、自分のもってきた花瓶を誉めた。
「横浜で英国人の店を冷やかしていたら、どうでもこれを持って行けと言いますのでね。これも功徳と思って買ってやりましたが、私はついぞ花なんか生けたことがない」
ね、と言いながら、花瓶の正面を木戸のほうへむけた。花瓶は一尺ほどの高さで、女の姿がかたどられている。希蝋時代の衣裳をつけた娘が、石造の滝壺の壁へ、露わな腕を寄せて身を凭せている。処女特有のししおきのやわらかさが伝わるような、艶な体つきで、かといって淫靡に堕してはいない。作者はよほどの名工かもしれない。
「ですから、どうぞ」
と、伊藤はそれを木戸が片肘ついている机の上へ載せた。
「今なら、木戸さんのお好きな菊がいい」
なんでしたらお宅へ届けさせましょうか、こちらでは邪魔になりますか、と如才なく訊いてやった。ここは正院の木戸の執務室である。
「菊、か」
さっきからそっぽをむいていた木戸は、ようやくそれだけ言った。
「なにも菊にかぎらないでしょうが、私は花の名を知りませんから」
伊藤は笑った。木戸がちら、と目をあげたので、もっと笑った。甘えたつもりである。
が、木戸は「そうかね」と言っただけである。不機嫌なのだ。不機嫌さの理由はだいたいいつもおなじだから、伊藤にはべつに不審でもない。この郷党の先輩の、こういうときの扱いもよく心得ている。
「お気に召しませんか」
と言うと、木戸はいくぶんきまり悪そうに、
「いや」
と伊藤にむきなおった。
「けっこうなものだ。ありがとう」
こういうところは律儀である。もともと木戸というのは人間がすきな質なのだと、伊藤は見ている。だからそばへ寄られれば、無下にはできない。木戸の佳さである。
(甘さでもあるかな)
と思う。といって伊藤はけっしてそのことを旨味に思ってはいない。むしろ、せつなく観じている。そしてはかない雑談にすぎない今の場合を、ありがたく思った。木戸の甘さをただの甘さとして、その可憐な美しさを堪能できることにほっとした。
欠陥が同時に美点になるという、人間のもっとも可憐な、そしてすこしばかげた情緒世界を、能力というつめたい規矩で勘定してゆくのが政治の世界である。伊藤が政治家であろうとするとき、木戸の美点はつねに奇貨として毟りとられた。そしてそのたび木戸は泣き、怒った。
そうではない時間が、この先輩との間に、こうしてまだほんの少しでももてるということが、伊藤を嬉しくさせた。
「横浜……」
と、木戸がちいさく呟いた。
「横浜か」
「はあ」
「私はしばらく行かないが、またぐっと拓けたろう」
木戸は白い指先で、花瓶の少女の足先のあたりを撫でている。口元に微笑が泛んでいた。
「ええ。日本人の商賈もずいぶん殖えました」
「松籟の音も凄まじい寒村にすぎなかったのにな」
木戸は頷いた。
「大変なものだ」
「ですが、路地を一歩入ればまあ貧民窟のようなものです」
「それはそうさ」
木戸は真面目な顔になって、
「田舎の水呑百姓が家も娘も売り払って、襤褸の上にようやく絹をかずいているようなものだ。その上っ張り一枚を剥いでしまえば悲惨なものさ。日本中がそんなものだ」
「なるほど、それは」
と伊藤は笑った。本物の百姓だった子供時代を思い出して、そんな生活を実際に知るはずもない木戸がさも沈痛な面もちでその譬えをもちだしたことが可笑しかった。
「大変ですな」
「大変さ。今にも干からびそうになりながら、それでも絹を着て歩かねばならない。そうやって万邦に互してゆくしか、日本の永らえる道はない。」
「なるほど」
と、伊藤はもう一度言った。今度は本気で感心していた。
(苦労なひとだ)
横浜で購った花瓶ひとつでそこまで考える。これでは年中胃だの頭だの痛がっているのも道理だと思った。
「俊輔」
旧名で呼ばれて、伊藤ははっとして木戸の目を見た。
「はい」
美しい瞼に縁どられた瞳は、馬関の海の夜の色である。
「おまえには失望ばかりでもあろうけれど、これでも私は、ずいぶん奔走しているつもりだ」
「はい?」
「年寄の愚痴だがね。これでずいぶん、精一杯だよ」
木戸は泣いているような、怒っているようなふしぎな潤みを瞳に湛えて、唇の端を皮肉にゆがめた。伊藤は意味がわからずに、ただほそい目をまたたかせた。
「だが、なおやれというなら私は逃げぬさ。構わないから言いなさい。今度はどうすればいい?」
「どうといって……」
「大久保さんは何と言っておまえを寄越したんだね」
あっと、伊藤は蒼ざめる思いがした。ちがいます、といわなければいけないのに、おどろきが彼から声を奪っていた。それが木戸にさらに誤解させた。
どうだね、と目顔で木戸は云っている。形のよい唇の端に、皮肉な笑いが浮かんでいた。
「まあ、いい」
木戸はつぶやいた。花瓶の処女の溜息のようだった。
「今言う用意がないなら、あとから手紙にでもまとめてくれればいい。大抵のことは怺えようと思っているから」
「木戸さん」
「菊でも……」
と、木戸は言った。
「菊でも生けようか。大久保さんが呉れた花瓶に」
ひりりとした悲しみを湛えた顔だった。
それは本当に私が見立てたんですよ。伊藤はようやくそれだけ言った。
「大久保卿は関係ありません」
「そうかね」
木戸は微笑していた。とりつく島のない、木戸の命いっぱいの諦観が美しく輝いている微笑だった。
[29回]
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