(ああ、忘れていた)
文箱のなかから、長い指が一枚の書付をひろいあげた。
(急がなくてもよかろうが……)
机の上にそれをひろげて眺めながら、山県はいささか長い顔をかたむけて、その処置について考えた。
否、処置といったようなおおげさなことではない。
さきに、井上馨が大蔵少輔に就任した。
井上はうるさ型のやり手で、勅命が下ったその日からもう湯気の出そうな勢いで省内を走りまわり、走るところがなくなると今度は外へ出た。そうしてあちらこちらの省庁へ上がり込んでは、予算のことやら何やらで(井上にまったくその権限はないのだが)下僚の尻を叩き、やれ見積もりを出せの報告が遅いのといっては始終眉をつりあげて唾を飛ばしているのである。
(――迷惑な)
西郷の下で陸軍省の事務をとりあつかっている山県は、井上にうるさくせっつかれて無論そう思ったが、といって彼のすることは大筋で間違ってはいない。
「歳末に出費があるだろう」
「あるかもしれませんな」
ほかの仕事で忙しかった山県はつい仏頂面をしたのだが、
「なんだ。追加予算が要らんのか。要らんなら好都合だ」
といわれたのであわててひきとめた。
「三日待ってやる。見積りを出せよ。出さなんだらもう知らんからな」
まくしたてるようにそう言って、またせかせかとどこかへ消えていった。おおかたほかの省庁も、ああやってどやしつけて歩く気なのだろう。
嵐に見舞われたような格好の山県は、それが去ったあともがらにもなく茫然として、しばし下僚に指示をすることも忘れていた。
それが、昨日のことである。
「何せあの井上がうるさい」
というと、部下は皆心得ていて、
「ははあ」
いかにもお気の毒といった顔で頷いた。今朝登庁すると、書類はちゃんとできあがっていた。井上のやかましさというのは、よほど聞こえたものらしい。
渡された分だけきちんと綴って提出したつもりが、一枚綴じ忘れがあった。なにげなく文箱のなかを検めていた山県はそれに気がついて、しかし今すぐどうする気にもなれず、机に置いて横目に眺めながら茶を啜っている。
(三日待つと言ったのだ)
今、彼の部下は出払っている。戻ってから大蔵省へ届けさせればすむ話だった。
だが。
(相手はあの井上さんだからな)
昨日は三日と言ったが、今日になって気が変わっていないともかぎらない。また万一虫の居所がわるければ、「さっき綴じ忘れた」などと言って若い者が渡しに行けば、例の雷を落とされかねないであろう。それで、
(どうも、苦手だ)
山県はさっきから青白い眉間に皺を刻んで、溜息をつきつき湯呑を弄んでいるのである。
井上という男を、べつに山県はきらいではない。
ただ、自分とは毛色がちがうと思っている。かつて高杉晋作に親しく接したことではおなじだが、かれらのような血気は山県にはなかった。井上は山県を臆病だといってわらったが、山県にすれば井上とははなから条件がちがっている。門閥の家に生まれた井上は、多少のことなら門地がものをいって藩でもかばってくれようが、山県にはそうした後ろ盾はなにもない。井上の大胆さは、ある面では親がかりの子供のわがままに似ていると思っていた。
(今も――)
井上がああして気焔をあげていられるのは、結局は庇護する人があるからなのだろう。
あれこれととりとめもなく考えながら、山県はひとりで馬車を遣り、大手町の大蔵省へむかっている。
大蔵省は、べつに井上のせいでもあるまいが、なんとなくざわついて、忙しげだった。
(じき、廃藩置県のこともある)
政府は成立のそのときから、つねに爪に火を点すような経営をつづけている。予算の捻出と配分が、じかに国家の浮沈にかかわる。内外に多端なこのとき、省員は皆小井上のようにして走りまわらねばならないのだろう。
「井上さんはいるかね」
若い吏員をつかまえて尋ねると、執務室にこもっているという。
「めずらしいな」
おもわずつぶやいた言葉に、
「はっ」
相手は緊張しているのか、不動の姿勢でこたえた。笑って肩でも叩いてやるといいのだろうが、あいにく山県はそういう気配りとは無縁である。だまって頷くと、彼の前を離れ、廊下の奥にむかって歩きだした。
ただ、いくばくかの感慨がないではない。
(従五位とはこうしたものか)
ひとりごとを洩らしただけで、若い者がしゃっちょこばって敬礼をする。もっとも彼が山県の位階まで知っていたかどうかはわからないが、ともあれ、自分の境涯はずいぶんと変わった。
(もう、ひとのせいで腹を切るような心配もしなくていいのだな)
若い日に見上げた、高杉の癇ばしった顔を思い出す。
そのかみひどく破天荒なその人に仕えてずいぶん危うい思いをしたことを思いあわせると、なんだか可笑しくもあり、そうしてかすかに寂しかった。
井上の部屋は、省内の喧噪からはやや離れた奥にあった。前に立ってふと見ると、扉の真鍮の把手が手垢で黒ずんでいる。諸事容儀にこだわる山県ならば使丁に命じてきれいに磨かせるところだが、井上も井上の部下も、こういった点にかけては無頓着なのだろう。
(とにかく仕事さえ上がればいいという人だからな)
井上のような男に仕えるのは、幸かあるいは不幸か、山県にはよくわからない。ただ相当に人を選ぶであろうとは思った。
来訪をつたえるため、ゆっくりと扉を叩く。一年ほど洋行していた山県の仕草はなかなかなめらかである。
応答はなかった。
(さて、どこに――)
廊下を振りかえる。省内の人間が居場所を知らないとなると、ちょっと面倒である。なにしろ井上は、動くとなればどこへ飛び出していくかわからない。
(書付でも挟んでおくか)
片手で衣嚢(かくし)をさぐり、矢立を取りだしながら、もう一方の手で扉の隙間をたしかめようと把手を握った。すると意外なことに、ちいさな音をたてて把手は回ったのである。
(開いているのか)
井上のことである。どこへ行ったかは知らないが、思いつくまま施錠もせずに駆けとんでいったのだろう。
(入ってもいいだろうか)
機密の書類でも散らばっているかもしれないが、仮に山県が見たとしても問題はないだろう。もっとも、わざわざ拾って眺めるような真似はしないが。
とにかく、さっさと用を片付けてしまいたかった。綴り忘れた書類を渡すだけのことなのだ。それを、井上がああいう気性なものだから、山県が――今の山県ほどの位置にある者でも、いろいろ気をまわしてもちあつかわねばならない。そう思ってみるといささか業腹であった。
(机に置いておけばいいだろう)
紙切れ一枚ひっ提げてわざわざここまで来た自分が急にいまいましくなり、山県はぐいと扉を押しひらくと、彼にしては乱暴な足音を立てて、ずかずかと中へ入りこんだ。
(机、机、)
胸のうちでそうつぶやきながら室内を見わたした山県は、
(机――――-……)
操者をうしなった木偶のように、一瞬かくりと体をふるわせると、あとはのっぺりと蒼白になってその場に凝固した。
井上は、在室していた。
しかし扉打(ノック)の返事がなかった段階で、自分はどうしてさっさと諦めて帰ってしまわなかったろう。それができなくとも、せめて扉を開けたそのときに気づくべきであった――そう思ったのは、ずいぶん経ってからだった。
山県は瞳孔まで凝結したように、息をするのもわすれて窪んだ目を部屋の湿った空気になぶらせていた。
そう、師走というのに、部屋の空気は湿っていた。そのよどんだ生あたたかい気のなかに、獣のような息遣いが響いている。
「狂介か」
と井上がふりむいたが、その姿勢が尋常ではない。
彼は部屋の中央に置かれた応接用のソファに膝をつき、座面におおいかぶさるようにして上体をかたむけていた。だけではない。その体の下に、人がいる。井上の、くつろげられた衣服が皺になっている腰の両脇から、裸の脚が突きでていた。
何をしているか、一目瞭然である。それなのに山県は、
「何を……」
おもわず間抜けにもそう口にしてしまった。
「何をって、お前、」
井上は悪びれもせずに笑う。そうしているあいだも彼は、抱え上げた脚の奥にむかって、やすむことなく腰を突き入れていた。
山県の手のなかで、書類が汗に皺ばんでゆく。出て行こうと思ったとき、さらに驚くべきことに気がついた。
井上の体の陰になって、組み敷かれている相手の顔は見えない。はじめ山県は、井上が枕芸者でも連れ込んだものかと思った。いかに不羈の男伊達を気取っている井上でも、それはさすがにやりすぎである。とりあえずこの場は去って、あとでそう言おうと思ったのだが、
(あれは――)
山県もまさか不犯ではない。抱えられている臑の骨の太さと筋の張りに、すぐに気がついた。
(男の脚ではないか)
馬鹿な、と思ったとき、
「聞多……、」
井上の体の下から聞こえた声に、山県はいよいよ蒼ざめた。
「聞多、どけ」
普段より甘くかすれてはいるが、その声はまぎれもなく――……
「どけはねえだろ」
井上が彼のほうに向きなおる。ずいぶんぞんざいな言葉遣いをすることに、山県はまた驚いた。
「挿ってるじゃねえか」
「抜け……!」
「抜けねえよ。あんたが締めつけるんだもん」
ほら、と井上が揺さぶる。悲鳴があがった。
「すげえなあ」
井上が笑いながら、ちらりとこちらへ視線をよこす。そうして、
「見られると、いいんだ……?」
あんた本当に助平だもんなあ。狂介がびっくりしてるぜ。言いながら、腰の横で宙を掻いていた脚を、さらにぐいと押し上げた。
「や、ああ……っ」
「狂介」
井上は子供のように屈託なく笑った。
「用なんだろ。もう少し待ってろよ。じき終わるから」
もうここまできたら、この人すぐに達くから。
山県は返答もできず、見えない柱と杭でもって磔に遭ったように、床にびんと佇立していた。
(こんなことが……)
しかも井上の口ぶりでは、今日がはじめてではないのだろう。
「木戸さん……」
なにかひどく恐ろしいことを口にするかのように、山県は慄えながらその名をつぶやいた。
井上の責める角度が変わり、その肩ごしにときどき顔が見える。顔立ちは間違いなく、見慣れたその人のものであるのに、表情は山県のまるで知らないものだった。
「聞多、あ……、」
甘くもつれる舌で、自分を犯す男の名を呼ぶ。
「締めすぎだろ」
井上の声もまた、男の悦びにかすれている。あいかわらず、上長を相手にしているとはおもえぬ口調である。普段から彼にはそういうざっかけないところが――特に木戸に対しては――あったが、それでもこうまで伝法ではない。情人どうしだけが知る、閨のきまりごとのようなものなのだろう。
それにしても、どうして自分は逃げなかった(逃げるというのもおかしいが、まず心情的にその表現が適当であった)のか。あとから考えて、山県は何度も唇を噛んだ。だがそのときはただ目の前の光景にひどく打ちのめされて、彼の心気はほとんどはたらきをうしない、文字通り立ち往生していたのである。
「あ、は……っ、あぁ、」
木戸の両手が、井上の首にしがみついている。交わっている場所が立てる音からも、二人の媾合がかなり激しいものであるのがわかる。木戸は、苦しくはないのだろうか。
(こんな声で……)
こんな場所でこんなふうに犯されて、こうも悦ぶ人だったのだろうか。
山県は、べつに疎遠というのではなかったが、つい木戸に親しむ機会はもたずにきた。もともと門地は段違いであったし、職掌のちがいからも、そう深い交わりを結ぶことはなかった。それでも、桂小五郎といえば天下の名士であったし、また木戸と名乗りを変えてのちも、彼の才識と手腕については、山県はひととおりの理解と敬意をもっているつもりであった。
それを、喪ったというのではないが。
まるで知らずにきた(それが当然だが)木戸の淫蕩な秘密に、山県はただ驚愕し、むしろいっそ恐怖さえしていた。
「おい」
井上がにやりと口辺をゆがめてふりかえる。
「見てろよ。面白いぜ」
こっちに回れよ、といわれて、飢えて死にかけている犬が餌を見せられたように、ふらふらと井上の指すほうへしたがってしまう。それはまったく一個の暗示だった。熱と吐息と、淫楽のにおいのするほうへ、山県はおびきよせられていく。
かれらの真横に立つと、汗に濡れた木戸の肌がよく見えた。桜色に蒸気した頬や胸は、蒸れるような情痴の気で、淡く霞むようだった。かろうじて腕にひっかかった襯衣(シャツ)は背中の下でもみくちゃになり、しかしまだわずかに残っている糊のあとと、あくまで白いその色とが、いかにもこの場に不似合いで、淫靡におもえた。
井上は胸に抱えさせるようにして押し上げた木戸の両腿を、指先が喰いこむほどきつくつかんで、上からの角度で木戸の中を苛んでいる。腰を押し込むたびに濡れた肉が悲鳴をあげ、木戸の唇からすすり泣くような声が洩れた。
「いい声で啼くだろ」
横目でちろりと山県を見る。木戸にもそれは聞こえているのか、ふるえながらかなしげに首を横に振る。しかし腰だけはさらに求めるように、井上にあわせて揺れていた。
「聞多、聞多……、」
昇りつめていく体の狂おしさを歎くように、木戸の声は涙もよいの切なさを帯びていく。そうして声にならぬ声が高くはじけたと思う刹那、彼は背をしならせて、びくびくと四肢をふるわせた。
「きつい、」
井上が呻き、木戸に覆いかぶさるようにして痙攣する。
幾度かの波に、かさなりあったままの体がするどく浮いては沈む。
数秒のあいだ、死んだように動かなくなったかれらの横で、山県は、自分の全身がじっとりと汗ばむのを感じていた。
井上の手巾(ハンカチーフ)が膚を撫でていくあいだ、木戸はぐったりと体を投げだして、時折思い出したようにこまかく肩をふるわせていた。うすく開いた目が、長い睫毛の隙からぼんやりと井上の手を見つめている。
「お前、さあ、」
裏返した手巾で自分の体を手早く拭い、寛げていた衣服をもとに戻すと、井上はぎしりと座面の撥条をきしませて、ソファから降りた。
そうして、頭ひとつぶん低い位置から、面白そうに山県を見上げる。
「本当に終わるまで待ってたな」
ぐしゃり、と山県の手のなかで音がする。さっきからずっと握りしめていた書類に、われ知らず力をこめたらしい。ちらりと井上の視線がそれを追ったが、ふたたび山県の面上にもどってきた。
「用は、それか?」
目をほそめて山県の蒼白な顔を眺めたまま、手の中の書類を指さす。いわれたままに動くだけの白痴のように、山県は黙ってそれを井上に差し出した。
「ああ、これねえ」
急ぎじゃないだろ、これ。さっと目をとおして書類の概意をさとったらしい井上は、大きな傷痕ののこる顎を撫でながら、にたにたと笑った。
「三日待つって言っただろ」
「伺いましたが……」
井上の気まぐれを恐れてさっさと持参したのだとは無論いいかねて、山県は沈黙した。否、そもそも井上の言いたいのは、そういうことではないだろう。
「お前も金仏みたいな顔しやがって、なあ」
瞬間、山県はびくりと退こうとした。その腕を、思いがけないほどの力で抑えられている。
井上のもう一方の手は、山県の股間にあてがわれていた。
「ふうん、ご立派な手ごたえじゃねえか」
なあ、と舌なめずりをする。蛇のような舌だと思った。
「こんなになっちゃ、もうひとりでにはおさまらねえだろ」
「離せ、」
「離すよ。俺はお前の御宝刀になんぞ興味はねえからな。ただ、そのままじゃ辛いだろうと思って、親切で言ってやってるんじゃねえか」
「な、」
言い返そうとしたが、井上はその隙をあたえず、
「ねえ、木戸さん」
交情の余韻をまとって横たわる木戸に声をかけた。
「狂介が困ってるぜ。あんた、なんとかしてやりたかないですか」
助けてやりたいだろう。人が困ってるの、ほっとけないもんな、あんた。言いながら、それごろうじろとばかりに、山県の袖を引いて木戸の前に突きだそうとする。
「よせ、」
精一杯凄んでみせたが、柳に風とばかりに涼しい顔で――そうして淫らな、皮膚の底にどろりとした澱をかかえた顔で笑っている。
「見なよ、木戸さん。こいつさあ、」
引き据えるようにして山県を、彼の手の届きそうな場所まで近づけると、井上の手は山県の洋袴(ズボン)の金具にかかった。
払いのけようとして、押さえられる。それを逆に押さえこもうとして、本格的な攻防に入ろうとするところを、
「狂介……」
はじめて木戸が、山県に声をかけた。
それはいつもの呼び名であるのに、その声音は常の呼びかけとはまるでちがっていた。山県の体が、瞬時に神経の回路を止められたようにこわばる。
部屋の空気は決して濁ってはいないのに、木戸の姿は、風呂の湯気のむこうに見るように淡くけぶって目に映る。彼の肌が、まだ薄く色づいているせいかもしれなかった。
頬が、その下をめぐる血の熱さのために、じんわりと照りかがやいている。乱れた髪が汗で額に貼りついて、その影の下から、黒い瞳が朧ろな視線をこちらに投げかけていた。白い腕がもちあがり、山県をもとめるように宙にかざされる。
拒まなければいけない――。たしかにそう思ったはずなのに、体は動かなかった。
熱塊が凝(こご)ったように思惟ごと立ちつくしている山県の衣服の前を、井上の手が器用に寛げていく。
そこに触れられた瞬間、さすがにびくりと体が跳ねた。
「おいおい、本当にご立派じゃねえか」
井上の手が、すでに痛いほどに存在を主張しているそれを、外気のなかへ取りだしてしまう。
「枯木みてえな体しやがって、ここだけはどうして、大兵じゃねえか」
からかっているのか、いまいましがっているのか、井上はつづけざまに舌打ちをした。
それから、
「よかったな」
ひどく悔しそうに、木戸にそう言った。
「狂介」
抱擁を乞う子供のように、あるいはそれを受けとめる母のように、木戸が白い両手をひろげる。
「どう……して……」
唇をふるわせながら、すでに時期を失した問いを意味もなくつぶやいて、それは山県の最後の抵抗であったかもしれない。
が、
「狂介」
それが聞こえていないように、木戸はもう一度山県の名を呼び、蕩けるように微笑んだ。そのやわらかな、甘く懐かしくさえある笑みの奥に、しかしぬらりと蟠る粘性の光を見たとき、山県はもう、その恐ろしいものに呪われていた。井上がなにかいったようだったが、聞きとれなかった。呪(しゅ)に打たれた体はかえってしゃんとして指先までするどく冴え、井上を押しのけて、猛然とその昏い裂け目へ向かっていった。なにやらそれは、この世の涯てという感じがした。
両脚を押しひろげると、珊瑚色にやわらかくほころんだ木戸のそこから、とろりと溢れでるものがあった。その感覚がたまらないのか、眉根を寄せて溜息をこぼす。
腹につきそうなほどに反りかえった陰茎をその入口にあてがい、山県もまた、小さく息をついた。
濡れた感触は、井上の施したものだと思うと多少抵抗がなくはない。が、それよりも、触れた瞬間からすでに山県を呑み込もうとして貪欲にひくつく襞の淫らさが、その先を知りたいと思う欲を煽った。
「ふ……っ、ぅ、」
ゆっくりと腰を押しつけると、泥田に沈むように、先端が吸い込まれる。ためらうような、おそれるような木戸の呻きは、
「あ……!」
傘をひらいたように大きく張ったそこがぐぷりと滑り入ったとき、かすれた悲鳴にかわった。
「は……っ、あ、あ……」
じわじわと奥まで犯すと、木戸は吐息を悦びにふるわせながら、白い喉を反らせて蹂躙に堪えた。
(なるほど、これが)
井上が犯していた体か、と思う。
かれらの痴態には無論驚いたし、いつからそうだったのだろうといっそ戦慄する思いですらあった。が、しかしこうして抱いてみると、木戸の体にはそういうことにありがちな暗さや頽廃のにおいはなかった。
ただ、ひどく淫らで、今度はその淫らさに、ふとおそろしくなるような気がした。
木戸の中は、熱かった。
粘膜のすみずみまで潤っているのはたしかに井上のせいではあるのだが、しかしそれとはべつに、木戸自身の慾が蒸れて滴るのを、山県は感じていた。男にあたえられる淫楽にそこはやわらかく泥み、滑らかであるのに、そのくせきつく締まった。
「な、すげえだろ」
井上が二人の体の境界をのぞきこんで、にやにやと笑う。彼は楽しんでいるようでもあり、けれどどこかびりびりと逆立ったところをのぞかせていた。
「こんなもんじゃねえんだぜ」
言うなり、二人が交わっているソファの傍らに膝をついて、木戸の乳首をひねった。
「ひぁ……っ!」
木戸の背がしなり、中がさらに収縮する。
「わかるだろ……?」
井上の眼にぎらぎらとしたものが宿る。それはさっき木戸の微笑の奥に見た光に似ていたが、その実まったくべつなもののようにもおもわれた。
井上の唇が木戸の乳首を吸い、もう一方をその手が慰める。
「よせ、聞多、聞多やめ……、」
その間も木戸の粘膜は、山県を激しく揉み込むように蠕動する。
「動いてやれよ」
言われるまでもなく、そうするつもりであった。
「狂、介……」
ふせられた睫毛の影と、今にも零れそうに湛えられた涙の暈を帯びて、木戸の瞳は滲んで見える。閉じることを忘れたらしい唇からは、甘い喘ぎがたえず洩れていた。
「あ、いい……」
白い太腿が、いとおしむように山県の腰を挟む。
「いいってよ、よかったな」
井上はあいかわらず横に膝立ちして、木戸に悪戯を繰りかえしている。
「ん……聞多より、硬い……」
嬉しげに木戸が囁く。山県が眼を見ひらくより先に、
「なんだよ」
井上が舌打ちをした。
「仕方ねえだろ! 俺は、あんた、二回目だったじゃねえか」
「ん……」
木戸はわずかに挑むような色をみせて、曖昧に微笑んだ。畜生、と井上が鼻に皺を寄せる。それからいかにもいまいましそうに山県を睨みつけて、
「おい、お前、硬いんだってよ」
いわれなくても聞こえている、と思ったが、
「いつも、こんなふうに……?」
木戸を揺さぶりながら、べつのことを尋ねた。
「ああ?」
井上が片眉を吊りあげるあいだも、木戸の嬌声が響いている。
「いつもってほどいつもじゃねえけど」
大きな傷痕がさらにひきつれるほど顔をしかめて、
「見てるとむらむらするだろ、この人」
(べつにむらむらした覚えはないが……)
体はたしかに絶品だ、と思った。ただ山県は、だからといって今後、日常的に木戸を抱けるようになりたいとは思わなかったが。
山県がだまっていると、井上はそれをどうとったのか、
「や、あぁ……っ!」
屹立している木戸の陰茎を、乱暴に握った。
「聞多、離せ……、」
「な、締まるだろ」
もっと締めてやるよ、というなり、だらしなく蜜をこぼしている鈴口を親指でくじる。
「いぁ……っ!」
「……く、」
山県もおもわず奥歯を喰いしばった。経験したことのない熱いうねりが山県を巻きこみ、深いくらがりの奥へ拉し去ろうとする。
「聞多、」
木戸がするどく叫び、今まで肩のあたりに投げだしてふるえていた腕を振った。いて、と声がしたのは、井上のどこかを打ったものらしい。
「離れろ」
触れていた手を引き剥がす。
「なんで」
「狂介と……」
白い指先が、山県の頬に添えられる。
「狂介とする、から……」
な、と微笑みかける顔は、しっとりと汗に濡れている。上気した肌の、熟れた淫慾のにおい。山県はふたたび、歯を喰いしめねばならなかった。
触れあえるかぎりの肌を密着させ、上にずりあがっていかないよう肩のあたりを抱きながら、木戸の体を揺すりあげる。井上がしていたように乳首を口にふくんでやると、彼の爪が山県の背を掻いた。痛い、というかわりに、ねぶっていた乳首に歯を立てる。首を振りながら全身で逃れようとする体を自分の重みで押さえつけ、腰を抱えなおしてさらにきつくくわえさせる。と、わずかに角度のかわった責めたてに、木戸の体がおどろくほどしなった。
「や、あ、あぁ……っ」
高い悲鳴に、おもわず動きを止める。木戸は吐精こそしなかったが、かるく極まったらしく、山県の下で甘くふるえている。
「あーあ……」
井上はソファの横に胡座で陣取り、膝の上に片肘をついて不機嫌そうに顎をささえている。彼は自分で山県をけしかけたくせに、いよいよいまいましげに唇をゆがめた。
「見つけやがったな」
畜生、と吐きすてるようにつぶやく。山県にはその意味がわかった。
(ここか)
熱くうねる木戸の濡れた肉を、さっきとおなじ場所をねらって擦りあげる。
「ひ……っ」
苦しそうなほど反応する。そのくせ脚は山県の腰にきつく絡み、貪欲に続きをねだっていた。
「狂介……」
まるで自分の名とはおもえないほど、切なげに、淫らな響きをもって唱えられるその音。同時に、隙間なく山県を咥えこんだそこが、男の慾をひき絞るようにきゅうきゅうと吸いついてくる。山県はきつく腰をとらえると、ねじ込むようにして肉を穿ち、奥へ搏ちつけた。
「ん、は……っ、あ……!」
木戸の声が山県の動きにあわせて揺れ、波打つ。抱きしめた体は堅いのに、触れた場所から自分が蕩けていくような気がした。
「ぁ、いい……」
木戸の溜息に、あたりがしっとりと湿ってゆく。
「もう、あ、狂介、もう……っ」
限界を訴えて顫える体をゆるさず、陰茎を手で縛めてさらに犯した。井上がなにか言ったようだったが、聞き返しているようなゆとりはなかった。
「や、も、ああぁ、」
すすり泣く木戸により深い快楽を強い、激しく音をたてて交わりつづけた。山県が最後を迎える瞬間、彼にもそれをゆるしてやると、もう声もだせず、壊れそうなほどに痙攣を繰りかえした。
「終わったんならどけよ」
井上の声で、山県は我にかえった。つかまれた腕に、痛いほどの力がこめられている。井上の顔は蒼褪めて、その無表情さにかえって肚のうちの烈しいなにごとかが燃焼していた。
山県は黙ってゆっくりと木戸の中におさめていたものを抜いた。ん、と木戸がわずかに呻く。男をうしなった彼のそこからは、井上と山県、二人ぶんの淫慾の溶液が、どろりと溢れてソファを汚した。
汗と精とにまみれたまま、ぼんやりと虚空に瞳をなげかけている木戸に、山県はなにかいおうかと思ったが、それも馬鹿げていると思いなおし、無言のまま彼の体を離れた。背をむけて身支度をととのえていると、その後ろで、木戸がちいさく声をあげるのが聞こえた。
おそらく、あ、とか、え、とか言ったのだろう。眠りをやぶられた人が、しかしまだ醒めきらぬ夢寐のうちから、あえかに呼びかけるように。
なにげなく振り向くと、ふたたび木戸に跨っている井上の姿が目に入った。
木戸もそこで完全に気がついたのだろう。もがくような仕草をみせた。
「よせ、」
が、ぐったりと萎えた腕は、手もなく井上に押さえこまれる。普段の山県ならば止めていたかもしれないが、今はただ全身が気だるく、それよりも頭のほうがぐったりと活動性をうしなっていて、
(ああ……)
ただ溜息をついたばかりで、あとはぼんやりとその光景をながめていた。
「嫌だ……」
哀願するように言う声すら、痴態の余韻に濡れている。
「硬いほうがいいんだろ? さっきより硬いぜ、俺」
「もう、疲れた……」
「じゃあ構わねえから寝てなよ。ここだけ貸してくれれば、勝手に楽しむからさ」
ほら、と言うのにあわせて木戸が細く啼いたのは、井上が挿りこんだのだろう。
「ずいぶん出されたな。ぐちゃぐちゃになってるぜ」
「や……」
「ちょっと動かしただけで音がしやがる」
その音は山県にも聞こえていた。それにかさなって、木戸が弱よわしく洩らす、熱に魘されるような声も。
「ほら、硬いだろ」
「んぅ……」
口づけられて、木戸の声が苦しげにくぐもる。しかし責めかかる井上の舌に夢中で舌をからめるさまは、その営みが苦痛ばかりではないことをたしかに伝えていた。
「ん……っ、ん……」
井上の口づけにこたえながら、木戸は手さぐりで井上の手をもとめ、指をからめた。井上の指が、さらにきつくそれをとらえる。そうしてかれらはゆっくりと、深く結びあった。
「どうしてあんなことをするんです」
うつむいた山県の視線の先にある床は、がたごとと音を立てていた。革張りの椅子に掛けた体も、一緒になって小刻みに上下している。
すこし眠るという木戸のために、部屋に鍵をかけ、井上と山県は外に出た。そうして行くあてもなく、冬枯れの帝都を馬車でさまよっている。
「さあ、なあ……」
横に座っている井上は、両側(そく)の窓を流れる官衙群のだだっ広い庭や玄関先に佇む木の、白茶けた葉が風に鳴るように、無感動な声でこたえた。
(なにを空とぼけて……)
と思ったが、横目でちろりと盗み見た彼の顔は存外真面目で、山県はおもわず目をそらした。それに気がついたふうでもなく、井上は窓の外をぼんやりと眺めたまま、
「どうしてだろうなあ」
病者がちいさく伸びをするような息遣いで、ゆっくりと言った。
「ただ、ああしたいのかと思ったんだよ」
ぷいとそっぽを向いている井上の表情は、山県からは見えない。ただ、人気のない池の水面に気泡がはじけるようなその声の感じが、山県をなにか虚ろな思いに誘った。
「鍵もかけずに誘ったのはあの人だからな。お前が部屋の前に来たときだって、隠れようともしなかったし、だから、ああしたいんじゃないかと思ってな」
「ですが、どうして……」
「知らねえよぉ」
唄うように長く伸ばして、溜息をつきながら、井上は片腕を座席の枕の上に載せ、頭の後ろで肘をついた。
「だけど、あの人なりにあるんだろう。何だか知らねえけどな」
「ある、って……」
「あの人なあ」
遠くの山でも見はるかすように、ぼんやりとつぶやいた。
「はじめからああだったんだよ」
「ああ、とは」
「俺が初めて抱いたときから。もうすでに、ああいう体だった」
出来上がってたんだ、と言う。その意味は、木戸の体を知った山県にはわかる。
「だから……まあ、俺にわからないことは色々あるんだろ」
「訊かないんですか」
「訊く筋合がねえよ」
「そうでしょうか」
首をかしげると、井上はふんと鼻を鳴らして、
「訊いたって言うタマかよ。お前、あの人は、あれでなかなか剛情だぜ」
「はあ……」
「いいんだよ」
井上はやや下をむいて、頭を掻いた。
「日頃めったに我を張らない人だろう」
さっきと矛盾したことをいう。
「あんまり自分のしたいことも人にはいわないから……あれくらいは好きにしたらいいさ」
「ですが」
井上の横顔に問いかけた。
「お好きなんでしょう」
ごとり、と車輪が石を踏んだ。井上は道の具合をたしかめるように窓の外をぬっと覗いた。やがて首をひっこめ、しかし顔はあいかわらず外のほうへむけたままで、山県の問いにはついに答えなかった。
「井上さん」
「なあ、」
彼は山県の言葉をさえぎった。そこではじめて前にむきなおり、どさりと音を立てて上体を背もたれに沈めた。
「いーい体だろう?」
窄めたような笑みが、口許にうかんでいる。その奥歯に、酸いものでも噛みしめているようだった。
「俺は、初めてゆるされて抱きあったとき、びっくりしたな」
わかるだろ、と山県に水をむける。
「はあ……」
なるほど、たしかに山県も驚いていた。木戸が男に抱かれることにまず驚いたが、それ以上に、彼の体はあまりに男の慾にかなっていた。あれほど淫蕩で甘美な肉体は、またとあるまい。
「だけど、な」
とつぶやく井上の顔からは、最前までの渋みは消えていた。
「きれいな体だぜ」
井上の眼が、遠くに霞むものを追いかけるように、ぼんやりと淡い灯をともす。山県はその灯の先に目を凝らし、しかしすぐにあきらめて自分の膝のあたりへ視線を落とした。
(きれいな、か……)
なんとなくわかるような気がした。しかしきっと井上にいわせれば、半分もわかっていないのだろう。だから山県は、返答をやめて沈黙した。
「馬鹿だと思うか」
井上の声に、風の通りぬけるような自嘲がまじっている。
「さあ……」
目をあわせるのが変に億劫で、山県はわずかにうつむいたまま首をかしげた。
「俺は、思うぜ」
思うんだがなあ、と井上は首を反らせて低い天井をあおぐ。
「実際馬鹿だが、どうにもならん。きっと、もう……」
――このままなんだろう。死ぬまで、な。
このままというのは彼自身のことなのか、木戸のことなのか。山県にはわからなかったが、それを問うのもひどく無益なことにおもえて、ただ曖昧にうなずいた。いずれにしても、井上は苦しいのだろう。
(木戸さんだって――)
きっと楽ではないにちがいない。山県のみるところ、井上が思っているらしいほど木戸は彼に対して淡泊でも、また彼以外とのことについて放埒でもなさそうであったが、それを今井上にいうことも、やっぱり無益であるにちがいない。
「どうにもならねえのよ」
井上は、今さっきまでのやさしげな憂いをごまかすように、今度はおどけて言った。
「困っちまうだろ」
「まあ、それは……」
と、山県は唇をちょっと湿して、
「お医者様でも草津の湯でも、といいますからな」
「お前でもそんなこというのか」
からからと哄笑してみせてから、
「お前、まさか惚れやがったんじゃねえだろうな」
と低い声でいった顔、その顔にうかべた険は、おそらく芝居ではなかったろう。
「さあ……」
と山県はもう一度首をかしげた。
たしかに、木戸の体はよかったが。
「多分、そういうことはないと思いますが」
これからも、という思いを語尾にただよわせて答えた。
「え? そうか?」
井上は自分で言ったくせに、拍子抜けしたように顎をつきだした。
「まァそいつは好都合だが、またどうしてだね。良かったんだろ?」
「それは、」
まあそうですが、と口ごもってから、
「あなただって、抱いてから惚れたわけじゃないんでしょう」
「生意気をいうじゃねえか」
「それに」
山県はすいとひとつ息をついて、さっきまで井上が眺めていた窓外の景色を見やった。
どうということもない、冬枯れの寂しい帝都である。御一新以来さびれていた山の手の屋敷町に、しかし、今は徐々に官庁関係の普請がすすんでいる。人足の半纏の背中の赤い文字が、この風景のなかの唯一のいろどりであるかもしれなかった。
(御一新とは、ずいぶん殺風景なものだ)
それは今だけのことかもしれないし、ひょっとするとこの先ずっとつづくのかもしれない。そういうなかで、生きていくのだ。誰も彼も。
「それに、何だよ」
井上が口をとがらせる。
「ああ、」
と山県はむきなおって、
「惚れてしまえば、ずいぶん苦しいでしょうから」
「女みてえなことをいやがる」
「あなたを見ていて思うんです」
「ぬかしゃがれ」
井上はぎっと歯茎を剥いてみせたが、それ以上はなにもいわず、また冬枯れの面に視線をうつした。山県は彼の頭のうしろから、やっぱり同じほうを見た。そうして、
「どこまで行くんです」
と、かれらを乗せた馬車の行く先を尋ねた。
「知らん」
井上はふりむかずに答えた。
「そのへんぐるっと回れって言っただけだからな。馭者の行きたいところに行くさ」
「では、結局は大蔵省へ帰るのですね」
二人して木戸を抱いた、その場所へ。木戸はまだ寝ているかもしれないし、あるいはもう帰っていないかもしれないその場所へ。
「そうせにゃならんだろ」
井上はまたさっきのように、頭の後ろを掌でささえて肘をついた。ぐい、ともちあげたくるぶしをもう一方の膝の上に載せて、
「暮れは御用繁多だからな。考えることばかり多くて、いやになるぜ」
ふん、と払いのけるようなみじかい溜息をついた。彼の頭のかげからわずかに、その息が白く曇るのが見えた。山県はそっと自分も息を吐いてみて、そのときはじめて、それが白く濁っていることに気がついた。冬ですな、といいかけたが、そのあまり唐突なのに気がついてやめた。
あとはただ、馬の蹄と車輪が土を踏む音ばかりが、かれらのしずかな呼吸の間を軋ませていた。
[34回]
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