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大変お待たせをいたしました。
もう3ヶ月も前にリクエストを頂戴しておりました、 「治子さん視点での来原×桂」です。 「×」っていわれてるのに乗算になってない…… いや強弁すればかかってることになるかもわかんないですけど これはかかってない…… そして薄暗いです。 B様、まことに申し訳ありません。最後までお待たせしたのにごめんなさい。 なんとなく過去のこれ とかこれ とつながってます。 とりあえず以下に晒しておきます。 『忍びごと』
師走の日は短い。
下女が中食を下げていってからいくらも経たぬと思うのに、もうあたりはうす暗くなっている。床の上に起きて縫い物をしている目にはいささか難儀ではあったが、 「灯りを入れましょうか」 という下女へ、あわてて首を振った。 「いいのよ。そんな贅沢をしては――」 言いかけて、はっと口をつぐむ。下をむいておもわず笑った意味が、下女には通じなかったろう。 (――叱られる。) そう言いそうになった自分が、われながら可笑しかったのである。 (叱られはしないわね) 病中の自分に対してことさら甘いその人は、灯りどころか、欲しいといえば金剛石でも蓬莱の玉の枝でも取ってきてあたえてくれるだろう。 (今日もきっとおいでだわ) 毎日来なくてもいいと言っているのに、御用と来客の合間を偸むようにしてやって来る。 「そんなに急に悪くなったりしませんわ」 一度そう言ったらひどく悲しげな顔をしたので、以来口にしないことにした。 (ほかの病気とちがうのだもの) まずよくなる見込みはないと思いながら、そうして見舞にきてくれるうちは、今に床を上げられるというような顔をして、明るくふるまってみせた。べつに無理をしているのでもない。ただ、 『昨日より顔色がいい』 そう言ってよろこぶ兄を見るのが、治子には今は唯一の楽しみだったのである。 兄がなぜ萩に帰っているのか、実のところよく知らない。ときどき、山口へ行ったり下関へ出たりしている。おおかた、旧藩士の暮らしむきについてなにか天朝様から仰せつかって来ているのだろう。治子の臥ている次の間へも忙しく客が訪れては、兄と何か話していく。襖一枚の隣だから声はよく聞こえるし、その気になれば話の内容もわからぬではないだろうが、治子はつとめて自分を鈍に保って、聞かないようにしている。女が御用向きのことに首をつっこむものではないと、嫁ぐ前に兄から教えられた。 (いつまでおいでなのかしら) そんなことも、治子は知らなかった。聞けば教えてくれるのかもしれないが、なんとなく、治子のほうがためらった。今日も来るか、明日はどうかと少女のように待っている甘い楽しみが、自分にのこされたささやかなしあわせだと信じていた。 昨日は、兄は来なかった。 「県庁の方々がおいでですので、御歓談があるそうです」 兄にともなわれて下っている彦太郎が、兄の手紙を示しながらそう言った。 「お前は行かないのですか」 「私は半人前ですから。まだ人前に出せるような柄ではないから、母上に素読でも教わっておれと言われてしまいました」 「まあ」 それは、伯父様のおっしゃるのがもっともね。ちょっと眉をひそめてみせながら、治子は亡夫の忘れ形見であるこの長男が、その実なにやらまぶしくて仕方なかった。今年帰朝した彦太郎は、あちらにいる間に丈も伸びて、明けて十九になろうというその面差しは、亡夫と、それから兄にもよく似ていた。そうしてその息子をせめて一時でも自分のところへ遣わしてやろうという兄の気遣いを、胸を酸いものがとおるように、じわりと切なく感じた。 「明日はおいでになるようなお話でしたよ」 「ご無理なさらないようにお前から申し上げなさい」 「それはこの間も承りましたが、言うと叱られるんです」 「そこを上手におっしゃいな」 「母上はなかなか強情ですね」 彦太郎は笑って、 「そういえば伯父上もそのように仰せでした」 父親によく似た眉を、ちょっとはね上げるような表情をしてみせた。それが妙に垢抜けて、西洋人じみてみえる。 (すっかりあちらの人のようになってしまって) 齢(とし)が若いせいか、彦太郎は仕草まで洋装に馴染んでいるようだった。治子の病室の畳の上に折った膝が、いかにも窮屈そうであった。 「いつも洋装なの」 と尋ねたら、 「丈があわなくなってしまって」 という。彼の和服といえば留学前に着ていたものしかないのだから、それはそうだろう。当人は慣れた洋装のほうがいいのかもしれないが、天保生れの母としては、やはり、和服に凛乎と背を伸ばす男子であってほしい。 (いいわ、私が縫いましょう) 言えば彦太郎は遠慮するにきまっている。そこで治子はだまってひとりできめて、自分よりもうんと大きくなってしまった息子の袴を、病の床で縫っているのである。 勝手のほうで、人の声がした。 ――まあまあ……。 下女が恐縮してなにか言っている。治子ははっとして手をとめた。兄が来たのだろう。 (どうして玄関からお入りにならないのかしら) まるでこの家――兄と自分の実家なのだが――の当主は死んだ来原だとでもいうように、兄はここでは諸事一段へり下るようにしてふるまう。使用人はかえって迷惑するのだが、いっこうにあらためようとしない兄が、治子にはなにやら可笑しい。 (今日もお仏間からお回りね) くすりと肩をすくめる。兄は治子の病室へはまっすぐに来ず、まず仏間で両親と、彼にとって義兄にあたる治子の亡夫に線香をあげてからこちらへやってくる。日頃およそ杓子定規というところのない人であるのに、その習慣だけは判で捺したようにかわらない。 その間に、治子は縫いかけの袴を押入に匿してしまった。 やがて聞き慣れた足音とともに、兄が顔をのぞかせる。鴨居につかえそうな頭をちょっとすくめて、そのしぐさはまるで、日ごと痩せていく治子の姿を恐れるかのようだった。 「どうだ――?」 子供のころのように、やさしく自分に注がれるその声。 「ええ」 治子はちょっと目をあげて微笑んだ。 「変わりないか。咳は」 「落ち着いております。――兄様は」 お忙しいのでしょう、というと、 「俺は忙しくないが、俺の姿を見つけると忙しく追いかけてくるやつがあるんだ」 「つまりお忙しいんじゃありませんか」 「ちがうよ」 兄は枕元に腰を下ろすと、淡く笑ったまま治子の布団へ手を伸ばし、塵をひとつはらった。 (お痩せになったわ) と、治子はそう見ている。言えばきまって否定するが、兄もどこか、体がよくないのではあるまいか。もともと子供の時分は、多病なたちだった。 (兄様に別れたらどうしようかと思っていたけれど……) 母も、父も、早くに亡くした二人だった。腹の違う姉はいたが、真実骨肉とおもえるのは、治子にはこの兄ひとりだったし、兄もそう言っていた。その兄が何度か大病で寝込んだ幼い日、自分はもう胸がつぶれるかと思ったものだった。 それでも、幸いに。 (そう言ったら叱られるけれど) もう誰も見送らなくてすむのだと思ったら、治子には病苦のなかでそのことが何者にも代えがたい慰藉であるようにおもわれた。両親に別れ、夫に別れ、このうえ兄にまで先立たれたくはなかった。子供たちのことは、兄やまわりの人びとが、いいようにしてくれるだろう。勝手なようだが、治子はそこにひそかな安らぎさえ見出していた。 と、 「正二郎から、手紙は来るか」 ちょうど思いめぐらしていた子供のことを問われて、治子ははっと顔をあげた。 「――ええ、」 一拍置いて頷く。 「参ります。あいかわらずあまり達者ではないのが――」 「稽古が足らんのだろう」 洋行中の次男正二郎は、初学を済ませぬ年齢で渡航したせいもあって、本字まじりの手紙がうまく書けない。兄はそのことをひどく苦にして、読み書きの稽古をするようにしつこく言っていたが、どうもそれがわずらわしい年頃であるのか、思うように言うことをきかない。 「あれではお前も心配だろう」 なるほど、いわれてみればそれは心配でなくはないが、実は兄ほど気を揉んでいない治子は、ちょっと首をかしげて、きまりわるく笑った。 「私も、つい自分が苦手なものですから、教えそびれまして」 「教えるの教えないのという問題じゃない。あれは女のお前よりわるいじゃないか」 「ええ……」 いくぶん答えあぐねて、 「やっぱりいけませんわね、女親だけでは」 そう言ったのは、べつだん意味のあることではなかった。ただ、正二郎の読み書きが遅れているのは、彼がまだ自分の手許にいる頃、親としての仕込みが足りなかったせいではないのか。そういう(あまり深刻ではない)反省と、兄へのかるい謝罪の気持をこめて言ったつもりだったのだが、兄にはちがったふうに聞こえたらしい。 「いや……」 ひどく傷ついたような顔をして押し黙り、ややあってから、 「お前は、よくやっている」 ようやっと聞きとれるほどの声でそう言った。 そうしてまた間をおいて、 「思えば、二人ながら、」 とつぶやいたのは、あるいは兄の懺悔ででもあっただろうか。 「俺がお前から取りあげてしまったな」 「私が頼んだのでしょう。田舎にいてはだめだといって」 「言ったのは俺だ」 「そうだったかしら」 どっちでもおなじことだわ、と治子は言った。あの子たちも東京へ行きたいと言ったのだもの。それに。 「来原が生きていたら、やっぱり東京へやれと言ったでしょう」 「――生きていたら……」 兄は片手で顔を覆った。 「生きていたら、良さんだって東京にいたろう。お前も――」 そこではたと顔をあげて、なあ、と治子の顔を覗きこんだ。 「治、お前、東京に来ないか。そのほうがいいだろう。田舎じゃろくな医者もいない」 息苦しくなるような兄の視線を、治子は笑ってうけ流した。きっと今に兄がそういうだろうことは、ずいぶん前からわかっていた。 「ひどいわ、兄様。父上は立派なお医者でいらしたじゃありませんか」 「その時分と今とはちがう」 「私はここにおります」 「治子」 「ここで、来原と暮らしたのですもの」 兄の瞳が一瞬おどろきに見ひらかれ、それからかなしげにゆがんだ。なにかいおうとするのか、唇がふるえたが、結局一言もなかった。 「――馬鹿だとお思いでしょう」 ごめんなさい、と頭を下げると、やるせなさそうに目をふせる。その悄然と落とした肩に、治子は抱きついてすがりたい思いがした。 互いに子供だった、幸せなあの頃。 嫁いでのち、夫と兄がじゃれているのを半ばあきれながらに眺めていたあの頃。 あの頃のように兄のそばで暮らすことは、もう永遠にないのだ。 もう自分たちには両親はいないし、夫もないし、何より兄には、妻となった人がいる。自分とはずいぶん育ちも気性もちがうその人と、おなじ屋根の下で暮らせようとはおもえなかった。かつて自分が難しい義姉につかえて堪えた日のことを思うと、ああいう思いをして最後までひとのうちに厄介になるのは、病んだ胸の痛みよりなお苦しかろうという気がした。また仮に別戸をかまえるのだとすれば、今度はそれはそれで、知らない土地で自分が根無し草になってしまうようで、そうして死なぬ前からなにやら現世にないもののようになってしまう気がして、いやだった。 そういうもろもろの思いを、兄にうちあける気にはなれなかったけれど。 だから治子は、「来原と暮らした家だから」というその一言にすべてまぎらして、兄の追及を拒んだ。亡夫の思い出を守る貞淑な妻。むろん治子は来原を今でも慕っていたし、彼のために貞淑であろうとは思ったけれども、それだけではない複雑な、ときに醜い自分の感情を、そういう美しい虚像のなかに、この際とじこめてしまおうと思った。 兄さえ、欺(いつわ)って。 「この家がいいんです」 なしうる精いっぱいで穏やかに笑うと、兄はだまって頷いた。いまこのときこの兄は、自分の気持を、どれほど美しいものと斟酌していることだろうか。 (いいわ) ふりきるように、治子は思った。 (いいわ。だって兄様も――) 自分に黙っていることがある。騙しおおせたつもりで、このまま自分を見送ってしまおうとしている。それを恨むわけではないけれど――。 (これで、いいのね) そのあきらめと、底なしに深い寂寥が、妙に甘く胸を占めた。そっと兄の手を取ると、その手を握りかえしながら、兄は滲むような微笑みをうかべた。 「疲れたろう」 と兄が立とうとするのを、治子は引きとめた。どうしてだったか、今もよくわからない。ただ、互いの瞞着がさびしくてたまらず、そのさびしさと兄が帰る寂しさとを、とっさにとりちがえたのかもしれなかった。 「お忙しい?」 「忙しくないと言ったろう」 「では、もう少し」 いつもはむしろ見舞を遠慮する治子がそういうのに、兄はいささか面喰らったように見えた。 「もう休んだほうがいいんじゃないのか」 「では横になりますから、もう少しお話ししてくださいな」 ね、と甘えてみせると、兄はあっさりとまた腰をおろした。昔から、こうして自分のわがままにつきあってくれる兄だった。 「何の話がいいんだね」 洋行のことか、それとも、といいながら、横になった治子に布団をかけてくれた。 「もっと昔の話がいいわ」 子供のように布団の襟に両手をちょんとかけて、治子はねだった。 「だんなさまと」 と、ついその人に添うたころの呼び名が口をついて出て、ちょっと顔を赧らめてから、 「来原と兄様のお話を」 と言ったのは、それが無聊のなぐさめというよりも、いっそ切実に今生の思い出のつもりであった。そうして同時に、最後に一度だけ、兄を試してみたい――実際にはそこまで意地のわるい魂胆ではないのだが、どうもそうとよりほかにいいようがない――そういう甘えのあらわれだったかもしれない。 「お二人のお話が聞きたいんです」 「二人の、といって――」 兄はそれをなんとも解しかねるように小首をかしげて微笑ったが、治子はおだやかに食い下がった。 「兄様は、どうして私を来原へやろうと思われました」 「それは、土屋先生が……」 兄は歯切れがわるかった。それは古い話というせいもあろうし、また、来原に対する愛惜のおもいが彼のなかでまだ生がわきであるということでもあっただろう。しかしそれ以上に、兄がためらう理由を、そのいかにも甘苦しげな追懐の表情のうちに、治子はぼんやりと見出すことができた。 否、知っていたのだ。昔からずっと。 「土屋先生は土屋先生でしょう」 来原に治子を娶わせてはどうかと、はじめに兄に勧めたその人のことを、治子も早くから知っていた。 漢学者として城下では聞こえており、世子の侍読をつとめたこともあるという。が、その土屋矢之助に対しては、媒酌人であったという以上の興味はない。 「兄様は、どうしてそれがいいとお思いになりましたの」 「お前、不服だったのか」 おどろいたような顔をするので、 「まさか。ただ、あの頃兄様は江戸においででしたから」 ついうかがいそびれたと思ったんです。こうして臥ておりますと、昔のつまらないことばかり思い出しては気にかかるんですわ。笑いながらそういうと、 「べつにつまらなくはないが」 掛け布団と畳が接しているあたりに眼をおとして、 「それは、ずいぶんお前にも言ってきかせたじゃないか。江戸から文をやったろう」 「頂戴しましたわ」 あのときの兄のおどるような文面を、治子は今もおぼえている。 『人物至而宜敷く御上の御用にも相立候――』 とおりいっぺんの評語にちがいないのに、じかにこちらの胸へうったえるようなふしぎな力があった。同時になにか渺としたさびしさのようなものを感じたのは、あるいはその後の兄を見ての記憶と入りまじってしまったのだったろうか。 「頂戴しましたけれど、あまりくわしくは書いてくださいませんでしたもの」 「そうか?」 「そうよ。どちらかといえば、私へのお説教が主でしたわ」 「そうだったかもしれないな」 と兄は淡く笑った。治子にしてみれば、かもしれないどころではない。あのころ兄からの手紙が届くたび、気が重くなったものだった。 『来原に嫁ぐのがよい』 といわれたとき、治子はよその相応の家の娘が皆そうであるように、素直に 「それなら、そうかしら」 と思っただけだった。それだけで、この縁談はきまった。 『兄様のおっしゃるとおりに』 と返書すると、それからあとはめまぐるしい早さでことがすすんだ。ぐずぐずしていると治子が二十歳を迎えてしまうということもあっただろう。たださえ忙しいその支度の合間に、兄からは次々と訓戒の手紙が届いた。 曰く、武家の妻になる心づもりを深くせよ。曰く、教養を身につけよ。曰く、口かずをつつしみ、はしゃいでものを言う癖を矯めよ。そうしてそれらの心がけのすべてに、「良蔵様の恥にならぬように」との念押しがついていた。おかげで治子はその人を見る前から、来原良蔵というのはよほど気むずかしい人かと考えていた。 が、婚礼の日にはじめて顔をあわせた来原はひどく磊落で、大度というにふさわしい人であった。治子はいささか拍子ぬけしたが、しかし、しばらくして来原が家をあけることになったとき、あっと思った。 留守の間、家を守るうえでの注意を、出立の前夜、夫婦の床の枕上に正座して、来原はながながと述べた。その言いようが、兄にそっくりであった。なかでも治子が可笑しかったのは、 「お前の兄は桂小五郎だ」 と神妙な顔で来原が言ったことである。 あたりまえではないか、と治子は思ったが、来原がいいたいのはそういうことではなく、 「桂は天下の名士である」 ということだった。 「お前は決して桂の名に傷をつけぬよう、それだけは気をつけて暮らさねばならん」 (おんなじだわ) と治子はおどろき、それをかくすためにじっと面をふせていなければならなかった。 来原は、彼の身のまわりの世話についての感覚はごく鷹揚で、治子がときにそれをうまくできなくても決して叱らなかった。ところが、「小五郎の恥にならぬよう」というその一点について語るとき、人がかわったように口うるさくなるのである。 (兄様といっしょね) 兄もほかのことなら治子に甘すぎるほどであるのに、来原に嫁ぐときまって以来、 「お前は母上を早くに亡くしたから」 躾の行き届かないところがあったと、神経質なまでにそのことを言った。 (それほど心配ならよそへやってくださってもよかったわ) むろんそれが本心ではないが、治子はときにそうして拗ねてみたくなる瞬間があった。 だから。 「どうして来原へやる気におなりでした」 とは、そのころの治子が訊いてみたかったことであった。 今はもう、聞かなくていいと、本当は思っているのだが。そうして兄が明快に答えてはくれないであろうことも、今の治子は知っている。 果たして兄は、 「だから、良さんはな」 舌の重さをもてあますように、ことば少なに語った。その内容は、治子が嫁ぐ前、手紙でいってきた以上のものではなかった。それでも治子は、微笑みながら兄の話を聞いている。そうして低くしずかに響く声に耳を打たせながら、べつのことを考えていた。 兄と来原とが家に揃ったことが、ほんのわずかながら、あった。 来原は養子だったが、養父は彼が家にいることをよろこばず、ために来原と治子は、治子の実家に住んでいた。そこへ、帰国すれば当然兄は泊まる。 「恙なくお帰りで、何よりでした」 来原が義弟としての礼をとって下座に控えたとき、兄があわてて飛びすさったことを、治子は幸福な笑いとともに思いだせる。 「ご存じでしょうが、私は子供のころからすでに他家の人間です。ここの当主は良さんですよ」 丈の高い体をまるめて、汗をかきながらそう言っていた。しばらく問答があったが、やがて親しい友人どうしにもどって、肩を叩きあいながら杯をかわした。治子は給仕をしていたが、いくらもしないうちに奥へ引っ込んだ。ひとの妻になってはじめて兄の前にでるのが気恥ずかしかったからだが、そのせいだけでもなかった。 (あれは、まんざら――) 文飾というのでもなかったのだと、縁談が本ぎまりになった頃、兄からもらった手紙を思い出していた。 (三国一の花嫁、というのなら聞いたことがあるけれど……) 来原へ嫁ぐお前は三国一の果報者だ、と兄は書いてきた。まだ来原を見る前のことで、それをどう理解すればよいのかよくわからなかったが、しかし半分ほどは兄なりの祝辞なのだろうと、治子は年たけていただけに冷静にそう思った。 が。 (あのひとのほうが兄上のようね) 来原と兄とが歓談しているところというのを、治子ははじめて見たのだが、兄がまるで少年のような含羞をみせながら来原の盃をうけているようすが、妙に新鮮だった。来原のほうが四歳の年長だから、兄の側でいくばくかの遠慮があるのは当然としても、 (なんだか、ずいぶんまぶしそうに……) よほど来原を敬っているのだろうと、ふしぎな気さえした。 (女にはわからないものかしら) 来原はたしかに正直で肚がふとく、女の治子にさえ大人物を感じさせる。けれどもなにぶんまだ歳が若く、兄のいうような「この世にまたとない」ほどの円熟ぶりをみせるのは、もうすこし先のことではないかという気がした。もちろん、それを口に出していうようなはしたない真似は治子はしないが。 奥の間で兄の着替えや身のまわりのものをととのえていると、来原が自分を呼ぶ声がした。いそいで客間の前まで行くと、空になった銚子がころがる横で、来原と兄がなにか言い合っていた。 半分腰を浮かしかけた兄の袖を、来原がとらえている。その手をはずそうとする兄の手をはらいのけながら、 「おい、もう床をのべてくれ。俺は今日は客間で一緒に寝るから」 酒にうっすらと赤らんだ頬をかがやかせて、夫が命じた。が、兄は、 「だから、俺はいいよ」 と、また腰を上げようとする。 「なんだ、どうしてそう水くさいことをするんだ兄上は」 「兄上っていうな」 「おい治、」 来原は手招きするようなしぐさをして、 「お前の兄貴はな、今日はよそへ泊まるというんだぞ」 「あら――」 「いいじゃないか、泊まるところぐらい俺だって……」 「おい、こいつはな、江戸ではずいぶん悪さをしてな、」 「変なことをいわないでくださいよ」 「お前な、江戸暮らしで忘れたか知らんが、萩の妓(おんな)なんてお前な、江戸のようにはいかんぞ」 おかめばっかりだぞ、と来原はそろそろ呂律のあやしくなっている舌で噴きあげるようにして言った。 「第一お前のうちだぞ、ここは」 「良さんのうちですよ」 「違う。違うが、そう――それなら主人の俺が泊まれと言ってるんだ、国にいるあいだはここに住めよ」 「いやだな、やもめの小舅の居候なんて」 治子は割って入るわけにもいかず、敷居の前に手をついたまま、かわるがわる二人の顔を見つめるばかりだったが、結局は来原のいうとおりにした。兄が折れた格好だったが、 (どうしてああ強情を張ったものかしら) 下女と二人で布団を敷きながら、兄がかたくなに外へ出ようとしたことを意外に思った。 「どうして遠慮するんだ」 と来原は言ったが、一体、あれは遠慮だったろうか。 治子は昨日今日嫁したというわけでなし、そもそも家には先に亡くなった義兄の子供たちや、彼の三番目の妻がすでにごちゃごちゃと住んでいる。べつに兄が早々退散しなければならない理由はないはずだった。まして、新造らしくなった治子を気恥ずかしがっているというふうでもない。 ただ、ほんとうに兄は迷惑げだった。 それはこの家で自分たちと過ごすのをきらっているというのとはちがう、なにかやさしい、それでいてさびしげなものをふくんだ当惑の表情であった。治子ははじめ来原に加勢して大いに兄をひきとめるつもりだったのだが、兄のその表情に行きあたってしまうと、なにやら急に治子までさびしくなり、ただもうその感じに打たれて沈黙してしまったのである。 ともあれ、兄が泊まるということで落着したのはよかったと思った。あまり清潔ではない場所に兄が入りびたるのは、治子は決して好きではない。 (きっといろいろお話がおありね) 治子はひとり自分の居室に床をのべたが、兄たちのことが気にかかった。おそらく、すぐには寝(やす)まないだろう。 (お夜食でもさしあげたほうがいいのかしら) とりあえず寝酒でも、と思い、そのように支度して、昼間の繕いのまま客間へむかった。 夜の色が、深い。 治子は手燭をともしていたが、その小さな灯りのとどく空間の外は、すべてみっしりと密度の濃い闇が、あたりを埋めつくしているように感ぜられた。 (江戸の夜はどうなのかしら) ふと、そんなことを思ったりした。 部屋の前まで行くと、果たして二人の話す声がした。 が、障子にかけようとした手をはっととめたのは、その声がなにか癇ばしって聞こえたからであった。 「その話はもういいじゃないか」 来原の声が、障子をかすかにふるわせる。聞き耳をたてるつもりはなかったが、欄間の隙をぴりぴりと通りぬけてくるようなある種の緊張に、治子は動けないでいた。 「どうして怒るんです」 とは、兄の声である。 「怒っちゃいないが……しかしお前、」 「これは、まあ何です、義兄(あに)として言うんですよ」 しずかな口調に、しかし火を呑んだようなくるしげな烈しさがある。 「私は今日はじめて、あなたに嫁いだ妹を見ました。あいかわらずずいぶん不調法ですが、良さんは大事にしてくださっている」 「それは……」 そうだろう、とちょっと口ごもるようにして来原が答えた。ふ、と兄の笑う気配がする。 「ありがたい。実にありがたいことです。しかし――」 と、そこで兄の声が翳った。 「小五郎、」 「その厚恩を思うに――あれの喜びを思うにつけても、私は……」 「もうよせ」 来原の叱りつける声が、治子が聞いたことのない緊張を帯びている。がばり、と衣擦れの音がした。布団を撥ねのけたのだろうか。 「私は、恐ろしい――――」 兄の声が、ふるえていた。それもまた、治子にははじめて聞く声だった。 「私のような者が、あなたの縁者として側にあることが、この先――」 「馬鹿な。誰にも何も言わせはせん。第一あの連中は今では皆卑役ばかりじゃないか。誰に相手にされるものか」 誰も、と来原は絞りだすように言った。 「誰も、もう知らないことだ」 「しかし良さんは知っているでしょう」 「おい、いい加減に――」 「私も知っているんです」 兄の声に、涙が絡んでいる。 「誰が忘れようとも、私は覚えているんですよ。死ぬまで――」 あとは、悲しげな呼吸だけが聞こえた。きっと兄は肩をふるわせて泣いているのだろう。幼い日、母を亡くしたときのその後ろ姿が、治子の瞼の裡によみがえった。 「それなら、」 と、来原がゆっくりとつぶやいた。くるしげにかすれた声だった。しかしその苦痛は、兄のものとはちがうようでもあった。 「俺も死ぬまで憶えていよう。おぼえていて、それでもお前とともにあろう」 兄の欷歔の声がやんだ。 「そんなことはなんでもないんだ」 かわいた土を沾すような、来原の声。 「お前に妹を貰ってくれろといわれて、俺はおもわず膝を拍った。よくぞ今まで独りでいたと思った。いいか、これは――」 と、やや間をおいて、 「義兄弟の盃だ。弟から授けるのも変な話だが、まあ、受けろ」 「良さん、」 「飲め。飲んで二度とそのことは言うな。言わなくても、俺は忘れん。お前がどれだけ思いわずらっているか――」 舌を熱していた動力がとぎれるようにして、来原は長い吐息とともに沈黙した。張りつめていたものが切れたような、そのやわらかな闇の奥に、ふたたび兄のすすり泣きがよみがえった。 「良さん――」 母にすがる子供のような声だった。 「良さん、ありがとう……――」 あと、兄はなにか言ったのかもしれない。あるいは来原がひきとっただろうか。それから先は、治子は知らない。兄が「ありがとう」と言ったのをしおに、駆けださんばかりにして、治子はその場から逃げさっていた。 胸の底から喉へ、また目頭のあたりまで、じわりと灼かれるような疼きがはしった。饐えたかなしみが治子の体をとらえ、涙があとからあとから頬を伝った。それは膚(はだ)を沁みとおって、肉の奥まで滲んでいくような気がした。 勝手までほとんど小走りに行き着いて、そこの台の上へ膳部を置いた治子は、そのまましゃがみこんで、子供のように背を波うたせて泣いた。 なぜ自分が泣いているのか、なにが悲しいのか、そんなことはなにもわからなかった。ただ、兄は悲しいのだと思った。それで来原も悲しくて、ふたりのかなしみは今はひとつのものだと思ったら、そのかなしみの塊がそのまま自分の胸に迫るようで、苦しくてたまらなかった。そうして最後に兄の安堵の声を聞いたときにはもう、切なさでこわれそうだった。 よかった、と思った。ひどく悲しいのだけれど、しかしせめて二人がああして一緒にいて、それだけは何よりもよかったと思った。 話の内容は、治子にはすこしもわからない。ただ、兄になにか重大な秘密のあるらしいことが、そうしてそれを来原だけは知っているらしいことが、おどろきと切なさと、そうしてわずかな慰藉とをともなって、治子の胸を甘苦しく盈たした。 兄の秘密がどういうことなのか、知ろうとは思わない。来原がああ言っている以上、否、それ以前に来原が居る以上、治子は知らなくていいことなのだ。だからそれを詮索するかわりに、 (どうぞ、誰か――) と治子は祈った。 神仏にであったかもしれないし、あるいはべつのなにかに対してであったかもしれない。 (どうぞ、あの二人が……――) あとを何とつづけたらよいのか、治子にはわからなかった。そこでただ固く目を閉じて、長く濃い睫毛のあいだから涙を流しつづけた。 兄はあのとき治子が立ち聞きしてしまったことを、今も知るまい。自分もついに、それを打ちあけずに逝くのだろう。 今、治子は遠くないであろう死を前に、兄の昔話を聞きながら、そのふしぎなさびしさを思って、かすかに笑っている。 「面白いのか、こんな話が」 臥している治子の顔をのぞきこみながら、兄がたずねる。 「ええ、とても」 一度喀血して以来、治子の体はつねに微熱に覆われている。その気だるさのなかで、治子のおもいは過去と今とのあいだをふわふわと往き来していた。 (ついに、おっしゃらないのね) うらむように、戯れるように思うのは、兄と来原と、二人の秘密のことではない。来原が知らない、兄ひとりの秘密である。しかしよほど前から、治子はそれを知っていたと思う。 「お前は、へんなやつだな」 腕組みしながら兄が苦笑した。 「なにを考えているんだ、さっきから」 「さあ、何かしら」 「おかしなやつだ」 と、兄はもう一度言った。 「そうね」 治子は少女のように肩をすくめた。 「似ているんですわ、兄様と」 「似ちゃいないさ」 「いいえ、似ているわ。来原がそう申しましたもの」 口がすべった、と一瞬思ったが、そうでもなかったろう。きっと自分は、これだけは兄に伝えたかったのだ。伝えて、兄がどういう顔をするのか見てみたかったのだろう。 兄は、治子が思ったとおりの顔をした。 はっと目を見ひらいたあとで、すぐにその表情をうち消し、しかしぼんやりと治子の布団の胸のあたりに目を落としていた。次第になにか淡いものにけぶるような潤いがその眼にあらわれて、やがてそれも消えた。 「そうか」 と呟くように言った。 「良さんが、そう言ったか」 「ええ」 うなずいてみせながら、しかし治子は、そのときのことを兄に語ってきかせようとはしない。兄も聞きだそうとはしなかった。たがいに、必要のないことだったのだろう。 来原からそれを聞いたのは、あの、治子が正体の知れぬ涙に咽んだ夜からいくらも経たない日、兄がふたたび江戸へ戻った日の夜だった。今日はどのあたりで泊まるだろうか、江戸に着くのはいつごろか、とそれこれすずろに語る来原に、治子のほうから尋ねたのである。 無論、例の三人が三人してかなしんだ夜のことは、治子の記憶に新しかった。 「旦那様」 と呼びかけると、来原は箱枕の上の頭を、だまってこちらにかたむけた。 「わたくしは兄に似ておりましょうか」 ひと息に言った。来原は治子の顔を見ようとわずかに身じろぎしたようだったが、やがてもとのように天井を見上げて、 「それは、顔か。それとも気性のことか」 と訊きかえした。 「どちらでも」 治子も天井を見あげた。雨の沁みたあとが、黒ぐろと蟠っている。子供の頃、それが人の顔に見えてこわいといって兄に泣きついた。 「ふむ、」 来原はしばらく考えるようすで、その沈黙に治子が不安になりだしたころ、 「まあ、そうだな」 ひとりごちるようにつぶやいた。 「似ているだろうな」 春の午後に、ゆったりと陽をうけてうち寄せる菊ヶ浜の波打ち際、その波のおだやかな光をおもわせる、そんな声音だった。 「そうでしょうか」 治子は頬に血の色をさしのぼらせて訊いた。 「ああ」 「そうですか。――それは、」 ようございました。唇のはしをわずかに噛みながら、体のうちへ一語一語を沁みとおらせるように、治子はうなずいた。 うれしかった。 鼻の奥へ甘酸っぱいものがつんと抜けるような、胸のふるえるうれしさだった。 「よろしゅうございました」 とかさねていうと、 「そうかね」 来原はごく屈託なさげにこたえた。 (あなたには、おわかりではないのね) 全身を幸福のおもいに浸しながら、治子はそっと微笑んだ。 (わからなくっても、いいわ) ――私が、わかっているもの……―――― それから数年ののち、思いがけぬかたちで来原をうしなっても、治子が気丈にその身を持していられたのは、おそらくはこのときの思いがあったからなのだろう。 (誰にわからなくても、私はしあわせだわ) われとわが身を抱きしめて、そんなふうに叫んでみたいとおもった。 いつのまにか、あたりはすっかり暗くなっている。 「灯りを――」 と兄が下女を呼ぼうとしたが、治子は首を振ってことわった。 「このほうが、よく見えます」 「えっ?」 「ご安心くださいまし。病気がわるくなったんじゃありませんわ。ただあんまり、明るくないほうがいいこともあるんですの。兄様には――」 そういうことがありませんか。笑ってみせると、兄はふしぎそうな顔をしていたが、やがて、 「なるほどな」 なにか考えるらしい顔つきにかわった。その顔が、ふたりの息子たちに似ている。 「兄様」 布団から出した手で、ちょっと袖を引いた。 「どうした」 「あの子たちのことですけれど」 というと、兄の顔がすこしこわばった。遺言とでも思っただろうか。 「どうぞ、兄様のよいと思われるように、お導きくださしましね」 「なんだ、あらたまって」 「来原も、きっとそれを望んでおりますわ」 そう言って、兄のかなしげにゆがむ顔を正視しなくてすむように、治子はうっとりと目をほそめた。 (あの子たちは母に別れるけれど――) それが不憫というほどの年齢ではない。それに、かれらを兄のもとへやったとき、治子はすでに、母であることを半ば降りたつもりでいた。正式に兄の養子となった正二郎はもちろん、彦太郎までも。 (私の子ではなくなっても) どこまでも来原の子だ、と、そう思っている。来原の子を、兄が育てる。 二人をさずかってよかった、と思った。そうして、正二郎が兄の養子にのぞまれて。 かつて正二郎を送り出した日、治子には人なみの寂しさはあったが、それ以上に (ようやっと) という、安堵に似た思いが胸を盈たした。天人の大きな、やわらかな手にすくいとられるような心もちで、治子は正二郎の――また彼のまわりにひろがる皆の運命を、はるか高みから眺めわたした。 (あの子は、あれでいい) あの、来原によく似た面差しとやさしい気性をもつ子は、兄のもとで人がましく育っていくのだろう。 ようやくあるべきところにおさまった。そんな気がした。ずれていた建具がぴたりとはまったような、爽快さにも似たやすらぎがある。 「兄様」 と、治子はそっと手をさしだした。 来原は死んだ。そうして自分もじきに死んでゆくけれど、彦太郎と正二郎が兄のもとにある。来原の子を産み、兄に託す--その役目こそ自分の生まれ甲斐というものであったろう。それを兄に伝えたかったが、うまくゆかない気がして、治子はかわりにただ白い手を兄のほうへのばした。 「どうした」 あたたかい掌にうけとめられる。こうして手を握ってもらうなど、何年ぶりのことだろう。 「来原へやってくださって、ありがとうございました」 治子の手をさするようにしていた兄の指先が、一瞬撥ねるようにして、とまった。なにかもの問いたげに見ひらいた瞳に、涙の膜がかかっている。 「来原のところへ行って、治はしあわせでございました」 「治……、」 兄は上体をかがめて、治子の顔をのぞきこんでいる。つよく握られた手が、兄の頬にあてられた。まるで臨終の場面のようで、治子はそっと苦笑した。 しかしそれはたしかに、ひとつの終わりの瞬間であった。 「苦労を、してきたろう」 唇をふるわせながら兄がいう。 「忘れてしまいましたわ」 来原は早くに死んでしまったけれど。二人の子は遠くへやってしまったけれど。 ――それでも。 否、そんなことよりも。 「私が来原の妻でようございました」 兄がふたたびはっと目を見ひらいたのは、治子の言いまわしの奇妙さよりも、あるいはその表情のほうに驚いたのだったかもしれない。 (ああ、こんな顔で) 笑ったことがあったかしら、と治子は自分でそうおもった。病床のそばにはそれを映す鏡はなかったが、冬の朝の、凍った池の清水のように、かんとすがしく透きとおったものが、自分のおもてにあらわれているのを感じた。 兄はおどろいたように、そうしていささか不安げに、治子のその顔を見守っている。おそれなくていい、どうかこわがらないでと、治子は祈るように思った。そうして、 「兄様も、そうお思いでしょう」 澄んだ声でいうと、兄の顔がかなしげに蒼ざめた。 「治は、ちゃんと知っておりました。――もうずうっと前から」 「――――何を……」 「しあわせでした。ずっと、ずっと。これからも――」 最期まで、ということばは呑みこんだ。 「治子――――」 兄の顔は見えなかった。深くうつむいた頬を涙が流れているのが、手につたわった雫でわかった。 言わなくてもいいことだったかもしれない。言ってはいけないことだったのかもしれない。兄が、今日まで自分にも、死んだ来原にもひた隠しにしたきたのだ。それを暴いて得意面がしたかったのではない。ただ、伝えたかったのだ。 「私は本当にしあわせに過ごしてまいりましたから、だから――」 兄の手を、いとおしむように握りかえした。 「兄様も幸せでいてくださったら嬉しいわ」 あなたがどうかあの日々を、苦しみのうちに生きていなかったように。これからもどうか、悲しまずにいられるように。残りのいのちをかけてもいい。兄が、今日まで抱えてきたであろうさびしさから救われてほしいと、治子は切に祈った。 「治……」 兄がかすれた声で、治子の名を呼んでいる。その声は子供の頃から聞きなじんだ兄の声である。しかし子供の頃にはない、歳月に刻みつけられた痕が、幾重にもかさなった陰翳を生んでいた。 それは傷痕なのだろうかと治子は思った。兄は、痛いのだろうか。 (今度生まれてくるときは) 来原と、兄と、――それから自分と。過去のちいさな節目ごとに、どうすればいちばんよかったのだろうと思った。それから、どうしようもなかったろうと思った。多分これが自分たちの、最上の形だったのだろう。 「ねえ、兄様」 と、治子は明るい声をだした。 「彦太郎の袴を縫っておりますの。兄様のお若いころのがしまったなりになっておりましたから、それをほどいて。いくらもお召しになっていないようでしたけれど、縞がすこし派手なようでしたから、もうご用済みかと思って」 すん、と兄が洟をすする音がする。さっきまでの苦しく、やさしい時間はおわっていた。握りあっていた手が離れ、その手で兄はさっと涙をぬぐった。ふたたび治子のほうにむけた顔には、すでにおだやかな微笑がととのえられていた。 「よろしかったでしょう?」 「ああ」 鷹揚にうなずいた。 「あれの平服のことまで、俺は気がまわらなかったからな。好きにしていいが、無理はするなよ」 「ええ。かえって退屈がまぎれていいんですわ」 そこに、と押入を指さすと、兄は立って行って開け、さっきまで治子が縫いかけていた袴を見つけだしてきた。暗がりに、すでに二人の目が慣れている。 「ああ、よくこんなものがあったな」 縞の模様をひろげ、なつかしげに目の上にかざす。 「よくお似合いでしたわ、それ」 「ずいぶん昔だけどな」 まだあったのか、とひっくりかえしたり、紐をもてあそんだりしている兄に、 「いつか江戸からお帰りのとき、それをお召しでした」 滲むような微笑をむけた。 「そうだったか?」 「ええ。お戻りのときに家にお忘れになって、それっきり」 「そうか」 「一度だけ来原が拝借していましたわ」 なるたけ屈託なくそう言った。兄もなにげない微笑で受けた。 「ですから、」 と治子は手をのばした。その手に兄が袴を渡してくれる。 「彦太郎にも似合うと思うんです」 「ああ」 兄の手が、袴から離れる。布が兄の膚をすべって、やわらかななげきの音がした。 「そうだな」 わずかな湿り気をふくんだ青い闇のなかを、兄の声がさらさらと降りてきて治子の枕元に散り、やがて消えた。そのかけらのひとつでももしや見えはしないかと目をこらしたが、すぐにその子供じみているのに気がついて、苦笑してやめた。 PR |

