花霞などというなまやさしいものではなかった。
山も空も水も薄紅にけぶっているのはもちろん、櫓の軋む音や芸妓の笑いさざめく声にまで、ほろほろと花が咲きこぼれ、おぼろに揺らぐようだった。
(なるほど、これは聞きしにまさる――)
古歌にも名高い嵐山の花とはこのような眺めであったかと目をみはる思いがした。が、口にはださない。それを言えばいかにも藩地(くに)の田舎をさらけだすようで、(柄にもないことだが)気愧ずかしかったのである。
舟が、その横腹をきゅうきゅうと鳴らしながら岸に着く。船頭がいちはやく桟橋に降りる、その足音までが織り敷く花を踏むようにこんもりとやわらかに聞こえた。
(これが、京か)
もっとも、京はこんどが初めてではない。ただ、かつての滞京のときとはちがって時勢の紛紜からときはなたれた今、はじめて都下の景色をじかにながめたような気がするのである。
といって、世はいまだおさまったわけでもなく、周囲はかならずしもおだやかではない。だから今日も彼には供回りの人数がずらりとついていた。風雅の友とよぶには殺風景なその顔ぶれが彼はやりきれなかったが、しかしかれらの風俗だけは自慢であった。かれらは皆小銃を携え、西洋式の揃いの軍服をつけていた。
舟を降りた彼はその隊伍をしたがえて、馬上ゆたかに岸辺の道をゆく。馬のたてがみにも薄紅の花弁がからんでいる。鞍の前へ落ちたひとひらをそっとおさえながら、これはあの木か、それとも、と首をめぐらすと、ふと川沿いの旗亭の縁先に人がいるのが見えた。
(――はて)
ひとりは僧形だが、あとの連中は武家のなりである。いずれも筋目のとおった感じで、もしや知った顔もあるかとふとそちらへ馬首をめぐらしたとき、いちばん端近に座っていた男がこちらに気がついた。
(ああ、あれは――)
声をかける間もなく、男は弾かれたように縁をすべり下りると、袴の膝を正しく折って平伏した。残りの仲間もあわててそれにしたがう。
――と。
「なんだね」
初老の坊主はひとり座を動かず、こちらを覗きみるようにのっそりと首をのばし、また縁の下に拝跪しているひとびとを眺めわたした。そのあいだも、馬はかれらに近づいている。坊主のふてぶてしい面構えがしだいに鮮明になってきた。
「どうなされた」
坊主は縁先までにじり寄ると、手をのばして真っ先に拝礼した男の袴の腰をつついた。
「のう」
男はわずかに顔をふりむけたようだったが、何もいわない。坊主はなおも声を高くして言う。
「どなたかな、あちらの馬上の仁は」
男に問いながら、坊主はこちらにむかって昂然と顔をあげている。大方、わかっていて聞いているのだろう。この距離になれば、彼自身の羽織や、供揃いの道具につけた紋所が見えているはずである。
「のうのう、松菊殿よ」
子供のようにあどけなく発せられる声に、しかし無数の棘が含まれているのがわかる。げんに坊主はぎろりと目玉を光らせてこちらをにらまえているではないか。
が、それはともかく、
(ああ、やはり)
と彼は思った。
「松菊」と坊主は男を呼んだ。あれはやはり、長の木戸であったか。
(すると、隣にいるのが)
広沢かな、と思い、坊主を無視してかれらに声をかけようとすると、
「誰かとたずねておるに」
坊主が木戸の袴の腰板をぐいと引いた。さすがに木戸が振り向いた。
「御坊、おしずまりくださいませ」
平伏したまま、首だけを坊主にむけて叱る。
「肥前閑叟公にあらせられます」
木戸は重々しく言ったのだが、坊主は
「ほう、」
いかにもわざとだと示したげに、素っ頓狂な声をあげた。
「これはこれは」
狂言師かなにかのように大仰な身ぶりをつくり、馬前に膝を折った。
「閑叟様といえば天下の名公ではござらぬか」
「御坊、」
木戸が制するのもきかず、坊主はのびあがるようにして彼――閑叟の元結の結び目から騎っている馬の蹄までを、舐めるようにながめた。
閑叟はしかたなく馬を下りて地面に立った。ははっ、とあらためて頭を下げるしぐささえ、坊主のそれはひどく憎体だった。木戸がじつにきまりわるげに、
「こちらは清涼寺の雪爪殿と申されまして」
坊主を紹介した。ああ、と閑叟は思い、だまって頷いた。顔を見るのははじめてだが、名に憶えがある。禅坊主のくせに俗っぽいこと――時勢を慷慨するのが趣味で、国事を談じ、諸藩のはねっかえりどもと交わって、かれらが朝臣となった今、相談役のような体でそばをうろうろしていると聞いている。詩文をよくし、誰とも臆せずに交わるが、相手が貴種とみると居丈高になって威す奇人だという。なるほど、三十五万石の隠居とみてわざとつっかかっているのだろう。
(越前殿も酔狂な)
あきれるような、いまいましいようなその感情を、しかし閑叟は顔には出さず、微笑しながらそう思った。
たしか雪爪が政事に喙(くちばし)をはさむきっかけをあたえたのは、松平春嶽だったとどこかで耳にした。春嶽は雪爪の碩学と不羈の性質を慕ってわざわざ国の名刹の住持に据え、以後詩文、禅、国事とひろく談ずるようになったのだという。
(あの手の男は、毒だ)
ああいう手合いが国を紊すと、閑叟などは見ている。雪爪がもし佐賀に生まれていれば、まさか殺しはしなくとも、入牢ぐらいはさせていたかもしれない。いま家督を世子にゆずったあとでこそこういう男も面白いが、藩主であった頃ならばまず側には置かないだろう。閑叟は、雪爪という男をそのように直観した。
そういう閑叟の思いをよそに、坊主の無礼はまだつづいている。
「銃隊をしたがえての花見とは都ではついぞ聞きませなんだが、お国の風ですかな。してまた、それほどの武器と精兵をご秘蔵なされて、ただ花見の供となさるばかりで天下のためには一兵の援、一弾の給もお施しではない。これはすなわち、関東と薩長と相争うてともに斃るるをお待ちある漁夫のお智恵でもごさりまするか」
いや、葉隠れの士節とはまことに天晴れ、と、雪爪は芝居の台詞のように朗々と吐いた。
閑叟はさすがに一瞬、瞋りで蒼ざめた。
が、すぐにその表情を掻き消し、雪爪にあやうく躍りかかろうとする供を手で制したのは、雪爪の暴言がこの場合、満座の沈黙のうちの合議であることを察していたからだった。
――申されたり。
木戸も広沢も面をふせたままであったが、かれらの面上にはおそらく抑えきれずにそんな表情が泛んでいるのにちがいなかった。
――肥前の妖怪。
世上そう呼ばれていることを、無論閑叟自身も知っていた。
天下を睥睨するに足る国力を蓄えながら、動乱の巷に決して首を突っ込むことなく、東に幕府あるを知らず、西に天朝あるを顧みず、隠然割拠の態をまもっている。幕命にも容易に動かず、といって天朝のもとめにも言を左右にするばかり、これはもはや両者が共に潰えてのち、うまうまとその収果を手にする肚なのであろうと、そういう陰口をきかれていることに、いささかも感ぜぬ閑叟ではない。
だが藩士がその誹謗に焦れ、いっそ京に乗り出して天下の事にあたっては、と言い出すたび、
――捨ておけ。
みじかく叱って制してきた。
(なるほど)
と思う。
閑叟と佐賀藩のために決して名誉ではないその世評は、しかしある程度まではあたっているといえた。
(いまみだりに国費をついやし、少壮を死なせて何になるか)
水戸の殷鑑いまだ遠からざるうちに、大藩がつぎつぎとその二の舞を演じては、それで天下の事はどうなるのか。閑叟はそう思っている。彼は水戸派を好もしく思ったことはないし、一部の藩士がかれらの風を慕うのもいまいましく思っているくらいだが、かれらの熱狂を憂国の至情とみてやる程度の同情心がないではない。しかしそのかれらにしてああも早く暴発をくりかえしたせいで、水戸の人材は払底し、回天に大きく後れをとった。ひとり水戸が亡びたところであとに長がつづき、薩がでた。だからいいではないかという論も世間にはあるが、しかし薩長もこのまま富と人とを磨り減らしていくとすれば、あとはいかにもあやういではないか。金も人も無限ではない。
(三百諸侯がたがいに戈を交えているときではないわ)
恐るべきは列強の侵略である。それを防ぐために「蘭癖」に走り、政争にくわわらず、九州の端で営々と兵をやしなっていることがなぜ悪いのか。怯懦、陰険というが、むやみに財を散じ、士を殺すことのどこに救国の正理があるのか。
(待つ有るを恃めというではないか)
今は内に国を肥やし、人を育てるときだと閑叟は思ってきた。それを守ってきたことにみずから誇らかでさえある。暴騰を勇気だとこころえているはねっかえりどもにとやかくいわれる筋合はない。
――が。
一方で、雌伏をつづけるべき時勢もまた過ぎ去ったのかもしれないと思う。
「いかに、公」
散りかかる花の下でただ微笑している閑叟を前に、雪爪の大演説はいよいよ熱してくる。
「関東、奥羽では諸藩とも匹夫にいたるまでが天朝の御為に命を捨ててござる。いまなお公が輦下に寸兵をも差し出されぬのは別してお考えのあることでござりましょうか。すでに国是さだまった今、よもやお迷いではあらせられますまいな」
天下すでに斯くのごとし、公奚(なん)ぞ遅疑させ給うや――――。
もはや誰も諫める者もなく、閑叟の後ろにひかえた従者たちもただ気を呑まれて跪いているばかりである。
(すでに国是さだまれり、か)
閑叟ひとり、雪爪の前に顔を上げて、薄紅色の風にのんびりと頬をなぶらせている。
(なるほど)
ともう一度思った。これまでの仕儀についての批評はともかく、もはやあたら新式銃器を抱えて佐賀に引っ込んでいるときではないというのは、さほど肯綮をはずした言ではないかもしれない。
(まあ、あとはあれがうまくやりよるわ)
すでに家督をゆずって七年になる直大の顔を思いうかべた。
そうして、
「よかろう」
ただその一言だけを、雪爪までが一瞬目を見はったほどの晴れやかさで、高く宣した。
肥前佐賀三十五万石の前途は、このとききまったといっていい。
あとは、酒宴になった。
薩の大久保、越の中江といった面々も座にくわわって、都の春を酒に溶き、ゆるやかに喉を沾した。
閑叟は「妖怪」のわりには恬淡とした男で、雪爪に盃をやり、今後とも親しく交わることを約束させた。
それは、いい。
ただ、彼があとになっても喉に小骨がささったようにしてどうも愉快ではなかったのは、雪爪の暴言(であろう)とはちがうことである。
在野の雪爪はべつとして、あの日あつまった面々とはその後も頻繁に顔をあわせた。
閑叟自身が議定として官職に就いているためで、やはり何がしかの役付のかれらとは、出仕すればたがいに顔をみる。その、かれらの顔がいっている。
――さて、いつ御献兵あるか。
あの座での閑叟の「よかろう」のひとことを、皆半信半疑で注視している。
「よもや食言なさるまい」
という視線のある一方、
「なんといっても妖怪公だ」
と皮肉げな雰囲気も感じる。あの場でああ言ったからには佐賀藩兵は今日にも大挙して戦地に押し入るか、明日にもその洋式銃の響きが関東の空を震わすかと、かれらは不安半分に期待している。
実際、祈るような気持でもあろう。
初戦では官軍が勝利したものの、箱根から先ではやはり苦戦だと聞いている。佐賀の援軍は足摺りするほど待ち遠しいにちがいないが、大名の自分を相手にそうも露骨なことはいえないのだろう。
(まあ、すぐに出してやる)
すでにその手配はしているのだが、わざと閑叟はそのことをいわない。
(蘭癖とあざけったり、怯懦といってみたり……)
さんざん悪口されてきたことを閑叟は知っている。恨んでいるわけではないが、すこしばかり意趣返しのつもりで、なぶってやってもいいと思っている。そういう、いわば貴種らしい嗜虐の気持が、閑叟にはある。第一かれらが渇するようにして欲しがっている佐賀の洋式銃器は、「蘭癖」を指弾されていたころの閑叟が大苦心のすえに築いた財と、研究でもってつくらせたものではないか。
そういう機微を、もうすこしかれらの側がわきまえていてもいい。育ちが大名だけに、閑叟はただの便利屋あつかいにされるのは業腹であった。
(すこし、遊んでやれ)
悪意ではなく、むしろ無邪気にそう思っている。
「宇都宮がどうも、芳しくないようです」
木戸が白い顔をますます蒼白にしてそう言いだしたのは、閑叟が「二、三日遊んでやろう」と思っていた、その三日めのことであった。
場所は祇園である。今度の上洛ではじめて花街をおぼえた閑叟は、ときどき誰かを案内に、芸妓をあげて遊ぶことがある。もっとも大名の遊びだから、淡泊できれいなものである。
「松菊が重宝でしょうな」
土佐の容堂からそうおそわって、木戸を誘ったのもこれが何度めかのことだった。たしかに木戸は酒間のとりもちができ、しかもそれが下品ではなかった。
たまたま祇園に足が向いたということもあるが、ちょっと木戸の反応をためしたい気持もあった。上洛以来、木戸とはよく時勢を談じ、気心も知れている。城壁を設けぬというのか、彼はいたって話がしやすかった。
水をむけるまえに、彼は関東の戦況について話しだした。その話がどこへ嚮かうかは知れたことである。
――佐賀はまだ動かぬか。
暗に木戸はそう言っているのだろう。
(焦らしすぎたか)
と思わぬでもなかったが。
木戸はうつむいて唇を噛み、膝の上で拳を握りながらかすかにふるえている。閑叟が思うよりもなお、彼には前途に不安が大きいのだろう。
(そこへきて、佐賀の肚が知れぬではな)
ひとごとのようにそう思った。なぜ佐賀が動かぬのか。よもや幕軍へ趨るつもりではあるまいか。木戸の不安はそのことであろう。
「ちょっと、な、」
閑叟は芸妓たちに目くばせをして退がらせた。「佐賀の二股膏薬」の評判が、こんなところからも立っては面白くない。そうしてふたたび木戸にむきなおったが、眉間に深く憂いを刻み、今にも泣きださんばかりにしている彼をみたとき、ふと、ちりっとした苛立ちが喉奥を灼いた。
(お前にわからぬのか)
過日大勢の前で約束しておいて、それを反古にする自分だと木戸は思っているのだろうか。否、あのときの一言があってもなくても、ことここにいたってまだ隙あらば関東につこうかと考えているなど、そこまでこの男は自分を見くびるのか。
(お前とは、ずいぶん談じてきたはずだ)
かなりきわどい話も、閑叟はしたはずである。自分の肚はあかしたつもりであったのに、まだそこまで疑われるのか。
(ならば、いい)
ぐいと木戸の腕をひいた。彼がおどろいて顔をあげる。その悲憤に潤んだ眼にぎろりと威圧の光をあたえて、
「いくら要る」
低い声で訊いてやった。
「人数、銃器、弾薬、金子。随意に申してみよ。要るだけくれてやる」
はっと木戸が目を見ひらき、唇がふるえてなにかいおうとする。その先をさえぎって、
「そのかわり――」
指先で顎をもちあげると、彼はひどく傷ついたような顔でこちらを見つめ、声にならないつぶやきを洩らした。が、閑叟が聞きかえすまえにその唇は閉じられ、目は長い睫毛に伏せられた。
花にけぶる夜を越すごとに、日が長くなっている。
障子の外はまだぼんやりとあかるく、時折風邪に誘われて舞う花びらの影がちらちらと淡く映る。花は、もう終わりだろう。
夕方の薄明かりに透かして見る木戸の肌は、白くなめらかだった。ゆっくりと押し倒して襟を寛げ、裾を割ると、彼は目許をかすかに染めながら首をかたむけ、花が擦っていく障子のほうを見ていた。
なにか言ってやるといいのだろうが、閑叟はなにもいわない。ただ木戸がもののはずみのようにしてはじまった今日のこの交わりを、うたがいなく取引だと思っていればいい。首筋の薄い膚(はだ)を吸いながら、そう思った。
ぐいと胸をはだけさせると、木戸は寒いのか、ぶるりと肩をふるわせた。その肩から胸、腹と、厚くかさなった筋の層の上を、齢(とし)のわりにみずみずしげな肉が覆っている。
(これが、武人の体というものか)
大名育ちの閑叟には、皮膚の下に硬くぎっちりとつまったような木戸のからだつきがめずらしく、両手と唇をつかって、その感触をたしかめた。
そうして、
「これは、妙だな」
左右の胸の頂で存在を主張しているそこを、ぴんと指先で弾く。士人としての精神の緊張をそのままに凝固させたような、いかにもつましげな肉の硬さとは裏腹に、そこは赤く熟れてぷっくりと淫らに膨れている。
(女のような……)
あからさまに触れられるのを待つ風情のそこを掻き、また押し潰してやると、木戸は一瞬恍惚にさらわれる表情を見せ、しかしあわててそれを噛みころすように顔をしかめた。
(ほう)
初めて男を嬲る閑叟にも、容易に想像がつく。木戸の体は、すでに男の手によってひらかれ、犯される悦びを知っているのだろう。
閑叟自身、これまで仄かにそれらしい噂を洩れ聞いたことがないではない。だからこそ、意趣返しと戯れ半分に、簡単に手をのばすことができたのだが。
小さな陰茎のように勃ちあがっている乳首を、指の腹でひねってやる。あぁ、と木戸が声を洩らし、すぐに唇を噛んであとを抑えた。そのまま苦しげに白い顎をわななかせている。声をこらえよとも、聞かせろとも、閑叟は言ってやらない。堪えるも陥ちるも、木戸の好きにまかせた。不安げに目を潤ませている彼の姿が、やけに淫靡で、美しい。
片胸のそれを唇でつまみ、ちぎれるほど吸いあげてやると、彼は腕で顔を覆って身悶えた。そうしながら、もう一方の胸を突きだし、もの欲しげに腰をよじる。
「どれ」
指で転がしてやると、腕の下で切なげにすすり泣くのが聞こえた。
(ここで悦ぶのか)
木戸の痴態に閑叟もまた男としての欲を刺戟されつつある。が、同時に彼はまた、かつて反射炉をつくり、蒸気船に焦がれたあの情熱とおなじ種類の昂ぶりでもって、木戸の体を仔細に観察している。
(もう、こんなにか)
裾を払い、触れてもいない木戸のそこが痛々しいほど屹立しているのを掌に捕らえて、そう思った。それからさらにその小さなおどろきを口にして、もう一度木戸の反応をたしかめる。びくりと体をひきつらせ、かすかに声を洩らして泣くさまには玄妙といっていい情緒があり、これが閑叟にはひどく気に入った。
「乳をねぶられるのが好きなのか」
わざと無感動に尋ねながら、下帯を解いて捨て、じかにそこを擦ってやる。木戸はふるえながら顔の上から腕をはずし、おそるおそるといったふうにこちらを見上げた。そうして片手で陰茎を弄び、片手で乳首を嬲っている閑叟の、表情だけはうごかずにじっと見おろしている視線を苦しげに受けて、
「……はい」
聞きとれぬほどの声とともに頷いた。
「そうか」
閑叟はべつにそれがいいとも悪いともおもわない。だから何ともいわずにいると、木戸は軽蔑されたとでも思うのか、悲しげに睫毛をふせた。そうしながら抗いがたい肉の疼きに、息を乱し、下肢をふるわせている。
閑叟も、なにも木戸で生体実験をしているわけではない。思ったよりもあでやかにほころぶ体を前に、はやく自分の慾を強いたくなった。木戸の太腿に手をやると、彼はふるえながら自ら膝をひらいた。白い内股が汗に湿ってにぶく光を反射し、蛇の腹のようだと閑叟は思った。
(ここをほぐせばいいのだろう)
おぼろげな知識と見当をたよりに、窄まった襞に触れる。木戸が息を呑んだ。閑叟はその木戸が零したなまあたたかい慾の溶液をそこに塗りつけ、何度か襞をさすると、指をたててゆっくりと中をさぐった。
「ん……っ」
木戸の爪先が畳から浮く。彼は片手をはだけた自分の着物にからめ、もう一方の手を口にやって、指を噛んでいた。
(熱いな)
はじめて人間のそこにふれたが、その感触はちょっと目を見はったほどやわらかくぬめって、しかし絞るようなふしぎなうごきを繰りかえしていた。
(これは……)
中に入れば魂も蕩けるだろう。閑叟はさして好色なほうではないが、ごく尋常な男の観察としてそう思った。
奥まで穿ち、また抜いてみる。その動作を反復するあいだ、木戸は切れぎれに溜息に似た声を洩らし、しかもそれはだんだんと湿り気と切迫感を帯びていった。
これがかつての志士の、そしていまもかわらず英名を謳われている朝臣の顔だろうか。
木戸は頬をまさに今戸外で散らんとしている桜の色に染め、眉を快楽にひそめ、長い睫毛の影を潤むように揺らして、さらなる刺激をねだっている。噛んでいた手は頬の横に落ち、だらしなく開いた口から血のように紅い舌をのぞかせている。
(――まだ、)
固いとはわかっていた。が、それ以上生ぬるい痴戯にひたっていられるほど閑叟はこの道に老練ではなく、いまいましげな溜息をひとつつくと、腰を浮かせてみずからの袴を毟りとり、下帯を解いて、たちのぼる気の見えそうなほどに濃く情痴の香をはなっている木戸の体にのしかかった。
「……っあ、ぁ……」
一体、木戸は苦しかったのだろうか。
彼の四肢がびくびくと波打った、そのふるえの正体は閑叟にはよくわからなかった。ただ、押し入った肉は狭く熱く、閑叟の体に甘苦しい痺れをもたらした。
「すっかり出来ておるのだな」
おもわず、そう洩らした。
「はや男のための体になっておるではないか」
とりようによっては――否、どうとったところで酷い侮辱のことばにちがいないのに(閑叟に悪意はなかったが)、それが吐息とともに降りかけられる下で木戸はうっとりと体をしならせ、嬉しげに閑叟を締めつけた。
そうして、
「閑叟様……」
ようやくめぐりあった情人の名を呼ぶように、懐かしげに、水が滴るような声で閑叟を呼んだ。
その声にさらに腰を進めながら、閑叟はふと思い出して、
「あのとき……」
とつぶやいた。
「あのとき、お前はすぐに佐賀を発ったのか」
木戸がぼんやりと目をあける。
「あの、とき……?」
唐突な問いかけを意外に思っているであろう彼の感情に、そこも連動するのか、閑叟を包んでひくひくと蠢いている。
「いや、なに」
と閑叟がいうのは、文久三年の冬のことである。
癸亥の年といえば彼にも、おそらく木戸にもすぐに思い出せる。時勢は、その頃からいよいよ紛擾の度をくわえていた。前年、前々年あたりからその中心になって京都をひっかき回していたのが、木戸ら長州の少壮連中である。
閑叟などからみれば、ずいぶん無法なことも多かった。といって閑叟はその収拾に乗り出すつもりはなかったし、またその必要もなかった。
――どうも、朝廷は長州に壟断されておる。
そう思っていたのは閑叟だけではなかった。というよりも閑叟などよりずっと切実にそう感じていたのが薩摩と会津、あとはもちろん幕府で、結局かれらのために長州はつまずいた。
長州が一朝禁裏の守護を解かれたのは、その年八月のことである。薩会のいわば反撃によってかれらは勅勘をこうむり、京を逐われた。
「さもあろう」
国元でその報告を受けたとき、閑叟はみじかくそう言ったのみで、あとはなにも批評がましいことをいわなかった。
――馬鹿げている。
と思ったし、なにやらかすかに腹立たしくもあった。彼はそんなことよりも銃を買い入れ輪転機をうごかし、軍艦を五隻も十隻もつくって有明海にうかべたかった。
――豎子(こども)の火あそびになどかまっていられるか。
ともあれ、長州が天下を傾けてしまう前に自ら転んだのは幸いであった。あとはいますこし時間を稼いで、富をたくわえ兵をやしなわねばならぬ。
閑叟は、京都の政情には当分かかわらぬつもりでいた。すでに前年に一度上洛しているが、公卿と諸藩が入りみだれて朝議をもてあそんでいるという印象しかなかった。こんなことならばもはやまじわりを絶って、国元に引っ込んでいようと思った。
――薩摩も長州も好かぬ。
が、先方が意外に深情けであった。
政変から三月が経ったその年の冬、薩摩が手をまわして、閑叟に朝命が下った。政変後の時局を収拾するため――公武間の周旋にあたるため、上洛せよという。
――薩摩の陰謀のお先棒担ぎができるか。
閑叟は冷笑してこれを蹴った。薩摩の工作上手を、閑叟はそこは根が大名だけに、あまりさわやかには感じていない。
さらに上洛を避けた理由の二に、長州のことがあった。
長州は長州で、閑叟に秋波をおくってきている。
上洛のことがもちあがったとき、
――ぜひ馬関にて御休憩を。
熱心に勧誘された。ただのもてなしでないことはわかっている。閑叟を通じて、朝廷に弁疏しようというのだろう。
――行ってたまるか。
上洛をことわったのだから当然その話も立ち消えになるはずであったが、
――ならば、当方から。
と今度は言ってきた。藩士を遣わすから謁を賜れという。
「なぜそんなことを儂の耳に入れる」
長州から頼みこまれてきたのは、たしか江藤ではなかったか。
勝手なことを、とそのとき閑叟は江藤を叱った。
「しかし、大膳大夫様の御使者が、すでに当地にお着きでございますれば」
「誰が来たというのだ」
すると、江藤が言ったのだ。
「御前は、桂の名を御存じであらせられましょう」
と。
――桂小五郎か……――。
無論閑叟は知っている。当時桂はすでに、閑叟のいわゆる火あそび連のあいだでは天下の名士のようにいわれていた。
「桂とは、話せる男か」
ふと、江藤にそう尋ねた。
そのあと江藤が語った内容は、なかなか、閑叟にはおもしろかった。
結局、閑叟は桂を招(よ)んではやらなかった。
今この時期に長の桂に会うということ、それ自体がどれほど重大な意味を帯びるか、閑叟にはよくわかっている。巻きこまれてたまるか、との思いがあった。
「あのときのことを……な、」
いま閑叟は、名前も木戸に変わり、身分も朝臣にあらたまったその男の体を組み敷きながら、そう尋ねている。
「恨んで、いるか」
われながらどうも、女のようなものの言いようだった。その妙な余韻を押し隠すために、木戸の腰をとらえ、きつく突き上げた。噛みきれない悲鳴が白い喉を鳴らし、しかしすぐに陶然とした溜息にかわった。とうに粥を食うようになった子が、それでもはげしく母をもとめて乳を吸うように、木戸の中は熱く閑叟にからみついて愛戯をねだった。
「ふ……っ、はぁ、あ……」
よほどそこで咥えるのが好きなのだろう。自ら腰を揺らしながら、音がしそうなほどに締めつける。そうしながら、
「……いいえ…………」
かすれた声で、閑叟の問いに答えた。
「お会い、いただけようとは……思っ、て、」
はなから思っていなかった、という。
いまさら、どちらでもいいはずのことだった。会わぬときめたのは閑叟だし、それで時勢がどう変わったわけでもない。またあそこで会っていたところで、木戸や閑叟個人の身のなりゆきはともかく、時勢はやはり、変わらなかっただろう。それを恨んでいるかも何もないことだ。木戸も訝しく思っているだろう。
しかし閑叟の木戸への興味は、どうしてもそこから出発している。
否、木戸がどうこうというよりも、世評への後ろめたさ――閑叟は自身のそういう不安を認めたくはなかったが――というものであったかもしれない。
「会えぬとわかっていて」
ぐっと奥を突きほぐすように、腰をねじこんだ。木戸が背をしならせて啼く。
「なぜ、わざわざ佐賀まで来た」
「ん……、」
生唾を呑むようなしぐさをしたあと、
「主命に、ございますれば」
意外に澄んだ声で木戸は言った。
「主命」
よせばいいのに、閑叟はつい食い下がった。
「主命なら、なんでもしたか」
すると木戸は何かにせかれるように口をひらき、しかしわずかに息を吐いただけでそれを噛み、目をふせ、やがて閉じて、絞るように言った。
「わかりませぬ」
ひどく、苦しげであった。
「しかし、寡君は……」
あとどうつづける気だったのか、その言葉もやはり途中でのみこんで、唇を噛む。閑叟はすでに腰の動きを止めていた。刺激のしずまった体にするすると汗の玉を転がしながら、木戸は濡れた体を投げ出して、美しい眉根に憂愁をきざんでいる。
彼は沈黙していたが、その体の下に、はらわたを揉みしだくような煩悶が沸きかえっているのが見てとれる。
「寡君は」と口にしたときの彼は、なつかしいような悲しいような、うっすらとなにかに潤んだ顔をしていた。主命だから、と言ったのは方便ではなく、おそらく彼の真意なのだろう。旧主への忠節と、もっと素朴な慕わしさとが、彼のなかにはまだ濃く印されているにちがいない。
しかし、彼には国事がある。
『桂には、会わぬ』
かつてそう決めたとき、閑叟は江藤に、
「長州は何をする気でいるのだ。攘夷、攘夷と喚きながら、敵は結局薩会か。いまに毛利幕府でもつくりたい肚なのではないか」
と言った。そのとき江藤は重々しげに首を振って、
「私は長州候のことは存じ上げませぬ。しかし桂は、そういう男ではございませぬ」
と答えた。
「藩は道具だ、とあの男は申しました」
「道具――……」
回天の目的を果たすためなら、三十六万九千石を灰にしてもいい。彼は江藤にそう言ったのだという。それから今日までの彼の行動を考えるに、おそらくその言葉は嘘ではなかったろう。
が、いま木戸は、旧主への無限のなつかしさと敬慕のおもいを、眉宇のあいだに、かすかにわななく唇に、肌からたちのぼるぬくもりに、全身にうかべている。そうしてその思いに彼自身、苦しそうに瞳を翳らせていた。「藩は道具」といいながら「主命」を理由にわざわざ恥をかくような佐賀行きにしたがったのは、彼のなかでは両者ぎりぎりのところで矛盾せずになしえたことなのだろう。しかし、それももうあやうい。
「大膳大夫殿は」
頬に手をやり、目をあけさせると、彼の肌の下に染みこむように、ゆっくりと囁いてやった。
「なかなか、名君におわす」
木戸の瞳が揺れる。
「あの君は、みな肚の底におさめて黙っておられるが、まわりの連中のすることはなにもかも先刻見通しておられる、そういう方だ」
多少追従ではあったが、おおむね閑叟はそうみている。
「名君よ」
だから、といいかけたが、無用のことにおもえて、あとはだまった。その視線の下で、木戸が滲むように微笑んでいた。嬉しげに――寂しげに。
「浦賀の騒ぎがあってから、長くもない月日だというにな」
ほつれた鬢の毛を、指先ではらってやりながら言った。
「ずいぶん多くのものを見たことだ」
木戸がそっとうなずくように目をふせる。
「儂にわかるかと思うだろうがな、」
否定する隙をあたえず、
「お前にわからぬこともあるさ。――大名なぞ」
つまらぬものよ。
ほんのたわむれのつもりで言ったことばだったが、意外にもそれがすとんと胸に落ちたことに、閑叟は自分ながらひそかにおどろいた。なるほど、今までの何ともいえぬやりきれなさと、正体のわからぬ憤懣とは、皆そのひとことで説明がつくのかもしれなかった。
「大膳大夫殿にならおわかりであろう。儂もかの君のお気持は、なにやらわかるようでもある」
言いながら、かつて親しく言葉をかわしたこともないその人の、色白でまるく膨れた温容を、ひどくなつかしく思いうかべた。
木戸はゆっくりと目をしばたたきながら、閑叟を見上げ、またすいと目をふせたりしている。かける言葉に迷っているらしいその表情に、閑叟はからりと笑い、
「まあ、よい」
話はおわりだ、というように一度かるく唇を吸うと、ふたたび律動を開始した。
木戸はあいかわらず自分からは閑叟にふれず、自分の髪や、はだけた着物に指をからめて、あたえられる感覚に堪えていた。
つかまれ、と言ってやってもいいのだが、閑叟はなにもいわない。べつに意地悪でそうしているのではなく、いちいち思いやっていられるほどの余裕がないのである。
しがみつきもせず、声もおさえているのに、木戸の悦びはあからさまなほどだった。全身をしっとりと汗に濡らし、快楽を拒み、またもとめるのをくりかえすように首を振りながら、腰をよじらせて閑叟を誘導する。どう動いても感じるくせに、彼なりに好きな場所があるらしく、そこに当たると白い喉を反らせてからだをふるわせる。中はひとりでに潤って、閑叟をきつく締めつけていた。
閑叟はひくく吐息を洩らすだけで、あとはひたすら腰を動かしているのだったが、その実、声をあげたいほどにおどろいていた。
(こういうものなのか)
床で睦みあうということは、である。
閑叟は無論女郎を抱いたことはない。正室、側室にくわえてちょっと手をつけてみた女もかぞえれば、それなりに女は知っているものの、彼の抱いた女はいずれもこうではなかった。正室は将軍家から来た姫だから当然つつしみぶかく、そのことの最中もおとなしかったし、何人かいる側室も、やはり自分で腰を振ったりはしなかった。育ちもあっただろうが、やはり殿様の御前であるという遠慮がそうさせたのだろう。
ところが木戸は、これほど自分にへりくだってみせながら、快楽の前には、女たちにくらべればひどく奔放だった。どうにか押し殺そうとしているのはわかるのだが、どうも悦びに抗えない質であるらしい。目を閉じ、髪をみだしながら、みずから腰を揺らし、嬉しげに食らいつく。そこが立てる濡れた音は、そのまま木戸の嬌声のように聞こえた。
(はしたない)
そう思わぬでもなかったが、それ以上に木戸の肌は甘美で、しまいには閑叟は我を忘れ、のがれようとする肩を押さえつけて奥の奥まで犯し、やわらかな肉の中に精を散らした。
かるく体を拭ったあと、木戸は起きあがってゆっくりと衣服を着けた。時折、抱かれた感覚がよみがえるのか、手をとめて肩をふるわせている。すでに身仕舞いを了えた閑叟は床柱によりかかってそれを眺めながら、
「大事ないか」
とぶっきらぼうに訊いてやった。
木戸はわずかに顔をあげ、羞じらうようにしてうなずいた。それからややしばらくあって、
「佐賀からは……」
と半ば物思いのうちにあるような声で、ゆっくりと口にした。
「佐賀から関東まで、幾日ほどでしょうか」
「関東まで?」
「もう、まもなくお着きでございましょう」
なにがだ、と閑叟は言おうとした。しかしそれをためらったのは、木戸の眼が情交のあととはおもえぬほど澄みきって、無風の湖面のように凪いでいたからである。
木戸はわずかに微笑んだまま、つづけた。
「御人数にもよりましょうが、糧食には多少余裕がございます由、江戸から報せをうけております」
ですから、ご安心を、と木戸は言った。まるでそのいいようは、佐賀からはとうに献兵が出発しているかのようであった。そうしてそれは、まぎれもない事実でもある。
「なぜ」
閑叟はにがくつぶやいた。
「なぜ儂が兵を出したと思うのだ」
「なぜ……と申しまして、」
木戸はちょっと唇をひき結んでから、
「お出しにならない理由がございませぬ」
いささかさかしらにそう言った。
「儂に諾(うん)といわせるために、今日ここへ来たのではないのか」
「いまさら、私のような者が何を進言申し上げましょうか。公には、すでに、」
すでにきめておいでのはずです、と木戸は言った。事の理非を、あなたはわかっておいいででしょう――挑むようにも見えるその眼が、そう言っている。
(知っていて、抱かれたのか)
取引をよそおって体にふれたのに、木戸はすでに彼のもとめるものが手中にあると知りつつ、閑叟を受け容れた。ならば、それは。
「今日のことは、儂が命じたからか」
詰問というのでもなく、ただ子供のように疑問をただしたくて、そう訊いてみた。さっき木戸は主命だから恥をしのんだと言った。今回もやはり、そうせよと自分が強いたからなのか。
いいえ、と木戸は首を振った。
「おそれながら、公は私の主筋にてはあらせられませぬ。――ただ、」
ただ桜が……、と、そっと障子に手をかけた。
「花が、たいへんよい風情でございましたので」
「それと、どうかかわりがあるのだ」
「さあ……」
私にも、よくわかりませぬ。そう言って微笑んだ顔は、花のようだった。
木戸の手がするりと横へ動いて、障子を開けた。外はすでに日が落ちて、夜をわずかに切り裂いたような薄い月の明かりに、花が白く舞っていた。
「江戸の桜は、五分といったところでしょうか」
半分だけこちらに向けた顔に、後れ毛が艶にはりついている。
「奥羽は、まだだろうな」
と、閑叟はこたえてやった。
「戦地の将士に花を気遣うほどのゆとりはあるまいが、この閑叟、花は贈ってやれずとも、弾と黄金(こがね)はくれてやる」
それで、江戸も、白河以北も平らぐだろう。花がおわるまでに、まにあえばよいが。そういうと、木戸は夜露にうっすらと湿るように、目をほそめた。
「諸藩すべておだやかになりましたら、また花見にまいりましょう」
「京の桜は、もうおわりだろう」
「それでも。――雪爪殿もきっとよろこんでお供にくわわりましょう」
「あの坊主は苦手だな」
からからと笑って、
「供はお前ひとりで良いのだがな」
床柱に頭をあずけながら言うと、
「なかなか、そうもまいりますまい」
そう言ってもう一度障子に手をかけた。なぜだ、と尋ねようとしたが、彼の横顔の白さと花の色とがわかちがたく夜に溶けあって、閑叟はなんとなく口をつぐんだまま、朧な宵闇をながめつづけた。
[29回]
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