見はるかす海原の果てに陸影を見なくなってより数日、首をめぐらすかぎり空と水だけの風景も、はじめこそめずらしかったが、雲が流れ、波が高低するほかはどこまで進んでも変わりばえのしない眺望に、やがて一行の誰もが倦み、毎日食堂に張り出される経緯度の、前日との差を計(かぞ)えるだけが唯一の慰めになっていた。
「あの男は内海しか知らなかったからなあ」
もう何度も読んでしまった、出航前に横浜で仕入れた新聞を読むともなしに顔の前に掲げながら、木戸は溜息をついた。
「どなたのことです」
人もまばらな――夕食後ほかにすることもない船内では、皆めいめいの部屋にひきとって早めに寝てしまうのが常だった――談話室で、木戸の向かいの椅子に腰かけた伊藤は、船窓から、これもやっぱり見るともなしに海を眺めていた。
「なに」
と木戸はその視線の先を追いながら曖昧に笑って、
「船乗りなんぞそんなに面白いものでもあるまいと思ったのさ」
いくら海が好きだって、こうも毎日海海海、海ばかりではなあ。今に体に鱗でも生えてくるような気がする、とぼやいた。
「案外生えてたんじゃありませんか、坂本さんなら」
伊藤が苦笑とともに言う。
「内海ばかり漕いでいましたけれど、それもやっぱり、蛟龍が池に潜むならいで」
「ふん」
木戸も笑った。伊藤の冗談が可笑しかったのではなく、自分が誰のことともいわなかったのに、さっさと気をまわして答えてしまう彼のいかにも少壮の才子といった会話の感覚が、ぬったりと退屈なこの船の暮らしには不似合いに、変にきびきびして思えたのである。
「まあな」
自分の肩に手をやり、ちょっと揉むようなしぐさをしながら首をまわした。
「あの先生なら鱗が生えたってそれはそれで面白がったろうが、俺はそんな気味のわるいものになるのはごめんだな。せめて八百比丘尼の餌になるくらいが功徳だが、こう外海に出てしまっては、喰ってくれる美女さえいやしない」
「西洋では美女に啖われるのじゃなく、人魚が美しい乙女の姿をしているんだそうですよ」
「ほう」
木戸はすこし眉をあげた。実に他愛のない会話だが、日々こうしてどうにか無聊をなぐさめている。伊藤も今晩はどこまでも木戸との無駄話に興じるつもりなのか、身をのりだして、両手を自分の肩から胸のあたりにかざした。
「こんなふうに」
波打つ金髪、のつもりらしい。
「腰から上は美しい娘の姿で、こう、素肌に髪を長く垂らして」
佳い声で歌って、船乗りを惑わせるんだそうですよ、と、伊藤は自分もまるでその人魚を見たかのように、嬉しそうに鼻の下を伸ばしていう。
「絵にもよくあるんですが、悩ましげで、なかなか乙なものですよ」
めずらしいところでは、人間の男と夫婦になるなんていう伝承もあるんだそうです。伊藤が言ったので、
「ふうん……」
と、木戸は片頬で笑った。
「夫婦に、といったって、どうするんだろうな」
「どう、とは」
「いやさ、」
木戸は卓の上に肩肘をつき、指先で自分の顎を撫でた。
「腰から下は、魚なんだろう? どう……するのかと思ってな」
眼もとだけで笑ってみせた。それだけで伊藤には充分だろう。果たして、ああ、という顔でちょっと唇を突きだして、彼は下を向いた。
「また、不意打ちでとんだことをおっしゃいますね」
「そうでもないだろ」
お前が今さら照れるような玉か、と言ってやると、べつに照れてはいませんが、とむくれて、
「涼しい顔でだしぬけに妙なことをおっしゃるからです」
「だしぬけもなにも、人魚が小股の切れ上がったいい女だと言ったのはお前だぞ」
「小股の切れ上がった、までは言ってませんよ」
「股、ないもんな」
ところで、と木戸は足を組み、膝の上で両手の指を絡ませた。洋装をするようになってから、おぼえた仕草である。
「人魚が唄うのは、歌だけなのか」
木戸の頭からは、すでにさっきまでの剽げた空想は消えている。自分の考えを追いかけるように、ゆっくりと瞳をうごかしながら問いかけると、さすがにつきあいの長い伊藤にはその呼吸がわかるものらしく、
「歌だけ、とおっしゃいますと」
今までのあきれた笑いをひっこめて、真面目に問い返した。
「容色(きりょう)がよくて、声がよくて、おまけにちょっと婀娜っぽい。男と生まれてこれに食指を動かさずにいられるわけがないが、いい気になって鼻毛を抜かれていると酷い目に遭う、というんだろう。つまり外面如菩薩内心如夜叉の譬えそのままじゃないか」
「はあ、」
わかったようなわからないような顔で、伊藤がまばたきする。
「これで人魚がよほど学問でもできる――泰西の詩家を呻らす雅文をものするなんていう女丈夫か、そうでなくてもせめてその歌が救いの調べだとかいうんなら、サトウのいうこともわかるんだがな」
「サトウ……ですか?」
伊藤が首をかしげる。
「サトウって、あのサトウですか」
「あのサトウさ」
腕組みして頷いた。
「ほら、いつかお前が梅暦を読ませてやったら、えらく叱られたそうじゃないか」
それを思い出すたびに、木戸は苦笑を禁じえない。
日本の世態人情を手軽に知りたい、とサトウがいったので、それならと伊藤は春水の梅暦を贈った。なぜまた梅暦だったのか木戸は詳しく聞いていないが、伊藤もべつに深くは考えず、単に手軽に買えたからそうしたのだろう。
で、サトウに言った。
「あなたも日頃武張った連中ばかり相手にしていては身辺が殺風景でいけないでしょう。これは我が国の子女の胸を蕩かしたloveの物語ですよ」
サトウは喜んでそれを受け取ったが、次に再び会ったとき、
「あれがloveですか」
彼はしきりに首をひねり、あんなものはloveではない、と歎いたという。
「肉を愛するのではない、loveとはつまり霊を愛するのです」
そこから先、サトウが何を言っているのか半分もわからなかった、と、あとで伊藤は木戸にぼやいた。字句の問題ではない。ひととおりの言葉の意味は了解したが、どうももうひとつ、すっきりと肚にこなれないというのか、腑に落ちない。うまく説明できない、と伊藤は言ったが、その感覚は、木戸にはよくわかった。
「霊、といわれてもな」
木戸は笑いながら溜息をついた。
「しかしそんなことを言いながら、連中だって坊主のほかは、皆女を抱くんだろう」
「私もそれを言ったんですがね」
「言ったのか」
「そうしたらあの男、loveを識る者は、よし肉を欲したとしても、その肉は崇高な霊を宿した肉である、そうでなければ誰をも愛しえない、と、こういうんですよ」
「なんだそれは」
「つまりですね、」
サトウは、木戸などにはおよそ滑稽におもえるほど、厳かに宣したのだという。
『ひとりの女の知性、才識、その他あらゆる人格的なるものを尊敬し、その前にひざまずくのです。その想いがなければloveではない。それはただの肉欲です。一体に、日本にはどうやらloveがない。女はただ色香のみで咲き、手折られるだけの徒花でしかない。実際の彼女らがそうだというのではありません。だが残念ながらこの国ではそういうふうにしか遇されていない』
なんだそれは、と木戸はもう一度言った。
「つまり君子の交わりを、男女の間に結べというのかね」
あ、ご明察、と伊藤がうなずいた。
「どうもそういうことらしいんですな。僕にはさっぱりわかりませんが」
「そんなごたいそうな女傑に、男が惚れるかね」
お前はなんでもいいかもしれないが俺はどうも閉口だな、と言うと、僕だっていやですよ、と伊藤が口をとがらせた。
その、サトウの“梅暦を難ずるの論”は、木戸と伊藤のあいだで、今では懐かしい一場の笑い話になっている。
――そういう……。
とめどもなくおもえた木戸の回想は、そこで止んだ。
「そういう、サトウのいったような、まあ女権論がだな、」
連想はふたたび人魚のことへかえってきて、木戸は思う。
「西洋の人魚の姿にはどうも、生かされていないようじゃないか」
人魚が男を惑わすのはその美しい顔であり、なまめかしい肢体であり、官能に訴える声である。女の「霊」の崇高さとやらはどこにあるのか。
「古い伝承なんだろうから、現状とは、それはちがうだろうけどな」
しかしなかなかどうして、女子の人格とやらいうことについては、西洋でもかつてサトウのいったほどには顧慮されていないにちがいない。
「あの娘たちは苦労するだろう」
おなじ船に乗って渡航する、五人の女子留学生の前途を思いやった。
サトウのいったような霊がどうのという相愛の説には与しかねるにしても、木戸は向後女子に相当の教育を授けるべきだと考えている。多分に理想論ではあるにもせよ、その理想は西洋においてはなお一層歓迎されるところだろう。しかし、理想のまばゆさで娘たちを幻惑して新時代の賢婦に仕立てあげたとして、彼女たちが実際に生きてゆかねばならない世間は、果たしてそれをよろこぶだろうか。結局世間は彼女らにもひとしく“人魚”の美をもとめ、若くあえかな理想家たちに、かえって非難のまなざしをむけることになりはすまいか――――。
まだ前途は遼遠だというのに、それを考えると木戸は、なんとなく気が重くなる。おもえば、彼女たちは皆幕臣か、賊名を蒙った藩士の娘である。その立場はいかにも頼りなく、しかし洋行を決意した志は男子のそれよりはるかに壮烈で、そのぶんだけ可憐であった。
「……ああ、」
と、伊藤がはたと顔をあげた。
「そういえば、会津の山川家の娘がいたでしょう。夕食前、あれに少々頼まれごとをしました」
「うん?」
「船旅は退屈だから、その間あちらの学校に編入するための初学を済ませてしまいたい、とか。自学しているけれど、なにか心得ておくべきことでもあったら教えてほしいというんです。いや、熱心なことです」
「あれは家老の妹だろう。さすがに文武精錬を謳われた会津の娘だ」
痛々しいような思いで、木戸は歎息した。
「それは是非ともよくはからってやれ」
「ええ。それでなにか手習い本のようなものでも作ってやろうかと思ったんですが……」
「なるほど」
それは早くかかったほうがいい。となると、伊藤もここで自分と駄弁っている場合ではあるまい。
「大仰にいえば、あの娘たちの一日の遅れは、日本婦人の一日の遅滞だからな。お前もなるべく早く応えてやるがいい。俺はまだここで夜の海でも眺めているから、消灯時間にならないうちに……」
今日できる調べ物はしたほうがいい、と言うと、そうですねえ、どうも荷が勝ちすぎるようですが、ひきうけてしまいましたからねえ、と伊藤は腰をあげた。軽薄のきらいはないではないが、伊藤のこういう気さくさは、故郷を離れて不安でいるにちがいない娘たちには救いになるだろう。
礼を述べて辞し去ろうとする伊藤に、ただし、と念をおした。
「御国の大事な預かりものだからな。絶対に変な真似はするなよ」
「しませんよ」
第一あの娘はまだ子供ですよ。むくれてみせるので、
「女なんてすぐに変わるもんだぞ」
とほくそ笑むと、
「木戸さんも一度サトウに叱られればいいんです」
捨て台詞を残して去っていった。
ひとりになった木戸は、いよいよ手持ちぶさたである。部屋に帰って寝てしまえばいいようなものだが、もともと宵っぱりの木戸は、旅枕の微妙な緊張と昂ぶりもあって、深更にならなければ寝つかれなかった。
(さて……)
さっき伊藤が眺めていた、丸い、小さな船窓を覗くと、波が白くきらきらとかがやいている。
(月が……)
首をかたむけて見上げてみたが、月は沖天にかかっているらしく、海面と空の下半分だけが切りとられた狭い窓からは見えなかった。
(外は寒いかな)
襯衣(シャツ)のカラーを掻きあわせながら立ち上がると、談話室をあとにし、甲板へつながるラッタルを昇った。
窓の内側から見たよりも、その夜の月は青白く大きく、ほかの船も、鳥さえもその姿を見ない波の上を皓々と照らしていた。自分がこうして出てこなければ、今夜ついに誰も見る者はなかったのではないかと思われるほど、その月はしんと張りつめた寂寞をもって、黒い空の中央をするどく射抜いていた。かたちはいくらかいびつで、満月にすこし充たない。
天地にただ汝(なれ)と吾と、という気分で木戸はその青い光に濡れていたが、無論甲板にはちゃんと当直の見張員がいる。まだ若い彼は、木戸が甲板に上がってきたのに気がつくと、怪訝な顔でじろりと一瞥をくれた。こんな時間に何をしにきたのか、とでもいうつもりだろう。木戸は彼の横を通りすぎながら、
「冷えるな」
ひとこと言って、微笑んだ。無論その絶東の島国の言葉は彼にはわからなかったろうが、意外(であったろう)な挨拶をうけた青年は、ちょっと気を呑まれた顔で、かすかにうなずくようなしぐさを見せた。
月を浴びながら、冬の夜気に首をすくめてゆっくり甲板の上をひろっていると、ふと、知ったにおいが鼻をかすめた。これは、とそのにおいの記憶に思いあたる前に、木戸の目はその男の姿をとらえた。
「大久保さん――」
船尾のあたり、太い手摺にもたれて、大久保が煙管を吹かしている。
「ああ、これは」
振り向いた彼は、いつものように慇懃に礼をした。木戸も一揖して歩み寄る。
「お寒くありませんか。こんなところで」
妙な男に会うものだ、と思った。
もっとも、広くできているとはいえかぎられた空間のなかで、かぎられた人数、いつどこで顔をあわせたところでなにもおかしくはないのだが、今の月見の気分に、大久保の闖入――もとは大久保が先に甲板にいたのだろうが――はどうもふさわしくないように思われた。
遠出だったりなにかの儀典だったり、慣れないことのある前の晩は、きまって眠れない子供だった。たのしみにはちがいないのだが、ああかもしれない、もしこうなったら、と、非日常のなにごとかに対するおそれと、それに対処する術を、悩むというほどではないにせよさまざま思いめぐらして、そうするともう目が冴えてしまう。その癖がこんな歳になってもまだぬけない。
さすがに目だってそわそわするようなことはなかったが、横浜の港を離れる前から、淡い憂いをともなった緊張がつづいている。それは旅人が峠の峻険を前に、背中の荷の重さを案じる思いに似ていた。
その感覚をもてあました木戸の上に、今照る月はいかにも冷たく明るく、美しい孤独をたたえていた。その光に洗われて今までの緊張を脱ぎさり、澄んだ心もちになっていた木戸は、しかし大久保の姿をみとめると、急にもとの焦燥――というとおおげさだが、種類としてそれにちかい――のなかへ引きもどされた。
(いやなやつに会うことだ)
そう思いながら、表面はあくまでおだやかな笑みをうかべて、大久保のすぐ横へまわり、つめたい手摺にふれる。大久保も、いつもの韜晦めいた微笑でそれに報いた。
「部屋では吸えませんのでね」
失礼、と顔をそむけて煙を吐く。
ああ、と木戸はうなずいた。
そういえば乗船したとき、そんな注意があった。吸えないなら吸わなくていい、と思う木戸は、そんなことはすぐに忘れてしまっていたが。
「ずいぶん難儀しておられるでしょうね」
「まったくです」
これで時化でもしたら、空の煙管を噛んで堪えるはめになりそうですよ、と言うので、木戸は思わず声をたてて笑った。
「子供の指しゃぶりのようじゃありませんか。いや、失礼」
「いえ、まったく路傍の捨て児同然です」
大久保はまんざら冗談でもないらしく、憂鬱げにうなずいてから、
「ところで、あなたは」
と木戸に水を向けた。
「煙草ではないのでしょう」
「ええ」
木戸は濃い瑠璃色の空を見上げて、
「月が……」
とだけ、ちいさく答えた。あいかわらず雲もなく、それは上天にかがやいているのに、さっきまであれほど美しく見えていた月は、今はただのあえかな白い光にすぎなかった。
「ほう」
と大久保も空を見上げた。彼はべつに感想をいわなかったが、しばらく月を眺め、それからゆっくりと木戸に向きなおり、なるほど、とつぶやいて微笑した。何がなるほどなのかわからなかったが、大久保は大久保なりに、月を賞でにきたという木戸の感性を嘉(よみ)するつもりらしくおもわれた。
「アメリカまで……」
大久保と月とがあまりにちぐはぐで、なんだか居心地がわるかった。さっきは天涯に月と自分とただふたつのみ、と思うまで自分の心はあの光の清冽さに寄り添っていたのに、今はふたたび世上の塵埃にまみれた自分に戻ってしまっている。その感覚がやりきれなくて、木戸はさっと話頭を転じてしまった。
「アメリカに着くまで、あとどれくらいありましょう」
「さて……」
大久保は手摺にかん、と煙管を打ちつけて灰を落としながら、
「順調にいって二十日から二十五日、ということでしたから、まだまだ……」
「遠いですね、西洋は」
言ってしまってからふときまりわるく思ったほど、木戸のその言葉は感傷に盈ちていた。大久保は気づいているのかどうか、表情もかえずに
「ええ」
と頷いた。
そのみじかい返事が何やら心もとなく、木戸はかさねてなにかいおうかと思ったが、ますます埒もない愚痴になりそうで、結局黙って手摺から海を見おろした。黒い海面に、月の光が波の凹凸の数だけ揺れていて、まるで子を産んだようだと思った。誰の胤(たね)とも知れない、ただ光の色ばかりが似た、かなしい鬼子を。それは、まるで……――
と、大久保が木戸の視線を追って首を突きだし、
「くらげのようですな」
無感動に言ったので、木戸は首をすくめて苦笑した。
――と。
突然慌ただしい靴音とともに、若い見張員が二人の傍までやってきて、何やらまくしたてた。番を交代したのか、さっき木戸が見た若者とはちがっている。
彼の言葉は木戸にはわからないし、大久保もおなじだろう。が、どうやらあまり舷側に寄るなと注意しているらしい。
「わかった」
木戸は手をあげて、手摺から離れた。大久保も半歩離れてそれにしたがう。
「やかましいことですな」
木戸は溜息をついた。甲板を中央まで戻ってきた二人のうしろで、さっきの男はまだなにか言っている。船室に戻れだとか、おそらくそういうことだろう。もうだいぶん、夜も更けている。
「我々をよほど未開の蛮人だと思っているらしい」
大久保もだまって苦笑しつつ、頷いた。
「お互い、あわれなものですな」
と言うと、
「まあ、今は――」
いいかけて、薄い唇を引きむすび、紅毛の見張番をふりかえった。きらりと光った小さな目が好戦的で、木戸はおやと思った。今度の洋行に、大久保はずいぶん、客気を燃やしているらしい。無論自分にもそれはあるのだが、大久保にくらべるといささか文明なるものへの卑屈な畏怖と、また逆に冷笑とが勝っているようである。
「どのみち、もう冷えます。もどりましょうか」
煙管を衣嚢(ポケット)にしまいながら大久保が言う。ふとその表情の乏しい顔に、自分の膿んだはらわたをぐちゃりと押しつけてやりたい気になった。
「あの連中は、自分たちの船で黄色い蛮族がなにかおかしなことをしでかさないか、よほど気がかりだと見えますな」
話の意図をさぐろうとするように、大久保が黙って木戸の顔を見る。
「ねえ、大久保さん」
木戸はできうるかぎりの懶惰と頽廃のにおいを醸して、大久保に笑いかけた。
「いっそひとつ、蛮族らしい意趣がえしでもしてやりませんか」
客室がならぶ船内の区域の隅、船員たちの私物を保管している物置があるのを、木戸は知っていた。しかも当面使わない衣類や雑貨といったものが主であるその部屋は、普段施錠されていない。
「ああ、やっぱり空いていますよ」
たやすく空いた扉に子供のような歓声をあげて、大久保を引っぱりこんだ。彼はべつに表情もかえず、黙って木戸に連れられるなりになっている。
「これはまた、奇観ですね」
足を踏み入れた瞬間、真っ先に「暗いな」と思った。灯りもないから当然なのだが、くわえて室内には木箱がうず高く積まれており、どうやらそれが本来船窓から入るべき月光を半ば以上遮っているらしい。
「また、ずいぶん……」
木戸は眉間に皺をきざみながら精一杯目を凝らし、部屋をうずめる荷物に触れた。それらは塊ごとに網がかけられている。そうして壁や床に縫いつけてあるらしい。荒天の揺れにそなえてあるのだろう。
(足の踏み場もない)
と思ったが、手にふれるものにつかまりながら、ほそい通路(になっている空間)をすこしずつ奥へ進んだ。
「もとは客室だったのですね」
不意に大久保が言った。え、と振り向くと、薄闇にぼんやりと浮かぶ彼の白い手が、荷物と荷物の合間に光る扉の把手を指していた。
(あ、納戸の――)
それは、木戸や大久保らの部屋にあるものと一緒だった。徐々に暗がりに慣れてきた目でさらによく見ると、壁に打ちつけられた、特徴のある寝台の姿もたしかめられる。もっとも、それはこの部屋ではすっかり荷台と化しているのだったが。
(ああ、でも、それなら――)
ふと素敵なことを思いついて、木戸は期待に胸をときめかせながら、荷物の山を分け入った。部屋のどん詰まり、半分ちかく埋もれた窓のそばに、目指すものは果たして彼を待っていた。
「大久保さん」
ごらんなさい、というように、後ろへついてきた丈長の影をふりかえる。
「ね」
笑いかけると、大久保の眼もともすこし笑ったようだった。
――姿見。
だった。
木戸の部屋にも、同じ位置にそれはあった。壁に打ちつけられた大きな鏡は、ちょうど窓からの光が差しこむ位置にあって、身づくろいには便利だった。
(こんなものが備えつけになっているとは)
西洋人は洒落ているというのか、にやけているというのか――苦笑しながらも、おそらく一行のうちでもっともその調度をよろこんだのは木戸だったろう。
その、姿見を。
「さあ」
大久保にむけて手をさしのべた。
――使いたい。めいっぱい、この趣向を。
大久保が手をとる。
「あなたはほんとうに敏くておいでになる」
彼の順応性によろこびの声をあげながら、もっと、もっと自分の慾をかなえてほしいと、木戸は淫蕩に微笑んだ。
「あの連中が知れば蒼くなるようなことを、せいぜいたっぷりと楽しんでやりましょう」
唇の端をこれ以上ないほどふしだらな形につりあげると、大久保もまた、ぎりぎりまで抑えた雄が夜に呻るような顔で笑った。
「あ、あぁ……」
充分なあかりのない中で見る鏡のむこうは、妖しい暗さに翳って、しかしその不明瞭さがかえって木戸の熱を煽る。
鏡面の端に手をつき、中途半端に服をはだけて、背後から覆いかぶさる大久保の愛撫をうけている。鏡の中で結びあう視線がひどく淫靡で、大久保の眼のするどい光が、皮膚の下へもぐりこんでくるようにおもわれた。
なぜ、彼を誘ったのだったろう。
彼の姿をみとめるまでは、実に澄んで静かで、風雅を友とする旅人が気のおもむくまま漂白するように、ふわりふわりとした心もちでこの行途にのぼっていたのに、それがいまはなにやら気重で、しかしそのぶんだけ勇壮の感じがなくはない。
(征ケヤ海ニ火輪ヲ転ジ、か)
細く美しい声で、壮行の辞を贈ってくれた人のことを思い出す。あれはなかなかの名文だった。木戸はそのほとんどを諳んじている。
……陸ニ汽車ヲ輾ラシ、万里馳駆、国威ヲ四方ニ発揚シ、恙ナキ帰朝ヲ祈ル――
(条公にしては剛悍な)
おかしくもある。あの人は、女のように白く繊い手で、それでも気負いたってあの文章を書いたのだろう。あのいかにもやさしげな顔に、血の色をのぼらせて。
おかしい。しかしそれよりもいっそう、いじらしい。
(国威ヲ四方ニ発揚シ――)
さて、なかなか……と、木戸は三条を、それから自分たち一行を憫笑したいおもいにかられる。今はその島影も水平線のむこうに没した故国は、たしかに十分に美しい。木戸は平田派ばりの国学の徒ではないが、ごく自然な感情として、国体の尊貴をうたがったことはない。しかしそれを西欧諸国にむかって「発揚」するとなると、こちらの言葉が通ぜぬように、結局はそれも、かれらの理解するところとはならないのではないか。
(連中の信じるのは、力だからな)
それも軍艦と大砲、工場の輪転機といった即物的で、殺風景な。無論木戸はそれらの価値を認めているし、興味もあるのだが、だからこそそこにたちまじって日本の「国威ヲ発揚」するとなると、はなはだこころもとない思いがするのである。
すでにこの船内の設備にしても、泰西文明世界の椋鳥である自分たちをおどろかしている。そうしてその様子が同船の西洋人たちにつたわるたび、ひそかなあなどりをうけているのを木戸は感じている。腹立たしくもあり、みじめでもあり、馬鹿げている気もする。
(向後少なくとも三十年……四十年は、こうして道化に徹せねばなるまい)
木戸は蒼古として美しい、しかし同時に可憐な祖国について、そう見ている。その道がどれほどの艱苦を必要とするか、まだ誰にもわからない。市井のひとびとにわからないのはともかくとして、一国の経綸をあずかっている自分たちにもわからない。
(――それは、罪ではないのか)
だからこそ内治も多端なこの折に、ものものしく行列をつくって海を渡るのだが。結局木戸はそこで、「見たいような、見たくないような」というこどもじみた期待と畏れに逢着せざるをえないのである。
それが、自分ながらきわめてわずらわしい。
ひるがえってどうもそういう屈託はないらしい、むしろ弾んでいる(気味がわるいのだが)ようですらある大久保を見ると、なにやら無性にいまいましく、腹立ちまぎれに自分の膿んだ傷口を彼になすりつけてやりたいような気になるのである。
(馬鹿馬鹿しい)
大久保に抱かれるとき、自分はいつも愚かしい。
しかし気持のとげとげしさ、うそ寒さとは裏腹に、否むしろそれが募るほど、体は快楽に溺れていった。
鏡に映る自分の顔が、淫らな悦びに熟れている。
「あ、そこ……」
肉の中に潜りこんでいる大久保の指が絶妙な場所を掻く。快感をうったえると、
「ええ」
承知している、というように、大久保は執拗にそこを擦った。
「ああ、」
大きく喉を反らせながら、鏡の中の自分から目を離せない。陶然と目を細め、うすくひらいた唇の端から白痴のように涎を垂らしている、情けない姿。
(ああ、見られている)
大久保の底光りする眼が、鏡越しに自分をとらえている。もっと見せつけたくて、木戸は少しずり下ろされただけで太腿にとまっていた洋袴(ズボン)を、腰をひねって下に落とした。体の動きにあわせて大久保の指が意外なところを抉り、そのおどろきにまた声をあげる。
暖房もない室内では、剥きだしになった下肢が寒かった。それでも露わになったそこは期待に熱くなって反りかえり、すでに天を仰いでいる。木戸は片手でゆっくりとそれを扱いた。大久保から、よく見えるように。
「大久保さん……」
もう、こんなに、と自分の欲情をしめすと、ええ、ともう一度彼は頷いた。
「私もですよ」
と、腰を押しつけられる。彼の硬さがつたわって、木戸は溜息とともに中の指を締めつけた。
「ですから、こちらはもう、いけませんよ」
我慢していてくださいね、と、前を握った手に彼の手が添えられ、そこからひき剥がされる。鼻を鳴らしてむずかってみせながら、しかし、体は期待に濡れていた。
大久保の熱が押しすすんでくるごとに、木戸の淫肉は前回の記憶をとり戻し、彼の形に添うようにねぶりついて、さらに奥へと誘う。
「あ、あ……」
まだ、もうすこし奥へ届くはずだ。木戸は壁に打ちつけられた鏡に両腕を突っ張って、さらなる侵入を待った。
が、
「どうも、うまくありませんね」
進めていた腰を止め、背後で大久保がつぶやく。え、と思う間に、木戸の中を盈たしていた熱が引き抜かれた。
「や、」
喪失感にかなしげな声をあげると、うなじを甘く噛まれた。やがてその疼くような感触も去り、
「いかがです、このほうが」
声の位置が低くなった。振り返ると、大久保は床に胡座をかいた格好で座っていた。
「大久保さん」
「おいでになりませんか」
両腕を差し出されて、妙に睦まじげなその仕草に、木戸は不覚にもふらふらと膝を折る。そうして彼の肩に抱きすがろうとすると、
「逆ですよ」
と体を返された。
「さあ、あちらを」
彼の長い指が鏡をさししめす。
「ああ、」
なるほど、と木戸は片頬で笑った。それから大久保に背を向け、彼の膝に手をつき、もう一方の手でさっき途中で去ってしまったそこをかるく握ると、自分の欲望が淫らに咲き割れている場所へ導いた。そこは不意に熱を奪われたさびしさと、待ちかねた期待とでひくひくと顫えている。先端を押し当てただけで、甘い痺れが体をはしった。
と、大久保の手が彼の膝に置かれた木戸の手をとり、
「このほうが」
彼の首のうしろへ回させる。そうして反対側の木戸の脚を、膝裏に手をやってもちあげた。
「あ……、」
「そのまま、おいでください」
「ん、」
木戸がゆっくりと体を沈める。
「ほら、」
といわれるまでもなく、彼の眼はじっとそこを見つめていた。快楽にだらしのない自分の体のうちでももっとも淫らなそこが、今しも大久保に犯されて、嬉しげに彼を銜えこんでゆくさまを――――
「あ、入っ……」
「もっと深く入りますよ」
そこがよく見えるようにだろう、大久保が木戸の脚をさらに引きつけ、大きく拡げて抱えあげる。
「い、ぁん……っ」
いつもと違う角度に体がおどろいて、彼をきつく締めつける。そうしながらもじりじりと腰を落とし、限界まで奥にうけ入れた。
「あ、あ……」
体が歓喜にうちふるえる。しかし情火に蒸れてゆく脳髄に一点、青くつめたく醒めたところがのこるのは、大久保と肌をかさねるいつのときにもおなじことだった。そうしてその醒めた部分が自分の意志にさからってなにごとかを考えはじめようとする、その不愉快な裏切りをふり払おうとするように、木戸はことさら快楽に身をゆだね、大久保に犯されている自分を感じようとした。
その点、今日の趣向はまずまずである。
鏡の中に、汗ばんだ肢体をくねらせ、悩ましげに眉根を寄せる、淫らな自分の姿があった。大久保と繋がっているそこは、はしたなく勃ちあがったところから滴るものに濡れて、赤く熟れた肉を晒している。そうして時折ひきつるような動きを見せながら、絶対に離すまいとするように大久保に喰らいついている。
これは、快楽なのだ。
体がこれほど悦んでいるのだから、快楽でないわけがないのだ。
そう思うことでかけのぼってゆく熱にさらに弾みがつく。木戸は大久保の肩にまわした腕を支えに、自ら腰を上下させた。埃くさい船室の中に、雄の臭いと、濡れた粘膜の音がたちこめる。
「あ、はぁ……っ」
しかし大久保は動こうとはせず、逆に木戸の前を指で戒めて、その逸走を遮った。
「まだ、ですよ」
耳許に低い声で囁かれ、木戸の背が跳ねた。
「そんなに急いでは、よく見えないでしょう」
鏡にむかって問いかける。木戸も鏡越しに大久保を見た。いつものきらりと鋭い眼に、情欲の暈が淡くかかっている。
さあ、ゆっくり、と、子供をあやすように大久保が言う。胸を抱かれ、なだめるように動きを封じられた。
「あ、あ……」
焦れったさがかえって官能を煽る。しかし大久保はいたって平気なようすで、
「さっき、談話室で」
と意外な話をはじめた。
「面白いお話をしておいででしたね」
「談話室?」
「いらしたでしょう」
「おりましたが……」
木戸は荒い息をどうにか逃がしながら、憎らしいほど平然としている大久保の顔を、鏡のなかに見つめた。なに、私も……と彼が眼をほそめる。
「ちょっと立ち寄ったのですよ。村田に用がありましてね。部屋にいなかったもので、あるいはあちらかと……結局会えませんでしたが」
「ちっとも……気が、つきませんでした」
だからどうしたといってやりたいのだが、内側の感覚に堪えながら、木戸は話の続きを待っている。大久保の話は、いつでも無意味ではありえない。こんなときでも、一見無益におもえる話の先に、目の眩むような法悦の世界を用意している。彼はそういう男だった。そうして木戸は――木戸の体は、大久保からあたえられる法悦に、いつでも待ち焦がれている。
「あなたと伊藤君のそばに、こう、衝立があったでしょう。私がいたのはあの裏側でしたから」
「はあ……」
そんなものがあっただろうか。
「ご挨拶しなければとは思ったのですが、何やら艶っぽいお話をしておいででしたから、お邪魔をするのも気がひけまして」
「ああ、人魚……ね、あれは、べつに、」
猥談というのでもなかったのですよ、といおうとしたが、声を発するたびにおきる中の微妙な振動に、埋め込まれた大久保の形をいっそう意識してしまい、あとがつづかない。大久保は、百も承知なのだろう、ねっとりとした手つきで木戸の前をなぶり、耳許で低くささやいた。
「ええ。私も無聊の慰めに、つい立ち聞きしてしまいました」
御無礼を、おゆるしいただけますか。親指が先端の割れ目をくじるように動き、木戸は悲鳴をあげる。
衝撃がやや落ち着いてから、
「あ、なたは……?」
鏡越しに問いかけた。まぎれもなく大久保の、しかし彼そのままではない、本物と偽りのあわいの、ガラスごしのその姿。
「あなたは、どうお思いになりました」
聞いてらしたのでしょう。人魚の話ですよ。快楽のために中途半端に甘く重くもつれている舌に、不似合いなつめたい話題をのぼせる。
「人魚と人間でどう交わるのかという話ですか」
「そうじゃなくて」
彼の肩にあずけた手で、かるくその頬を引っ掻いて笑った。
「サトウが、梅暦をくさした話ですよ」
「ああ」
大久保は頷いたが、すぐにはその先を答えず、何を思ったか木戸の首をかたむけさせて口を吸った。
「ん……」
何度か角度をかえて、舌を入れられる。体の奥で、少し彼が容積を増した気がした。
「大久保さん」
首を振ってその蹂躙からのがれると、彼の唇に親指をおしあて、かるく爪をたてた。答えろ、というように。大久保はつまらなさそうに溜息をひとつつくと、
「なるほど耶蘇教徒のいいそうなことだと思いましたよ」
聞き取れぬほどの声でぼそぼそと言った。それだけでは要領をえなかった木戸が続きをうながすと、彼はまだ言葉にしあぐねるようすで、考えるふうを見せながら、ぽつりぽつり、語った。
「サトウのいうのは、つまり――……」
――つまりそれが、耶蘇教徒の理想なのでしょう。人間は神が創らせ給うたというかれらは、神が人間だけに下された、万物にすぐれた霊性をこそ愛さねばならないと考えている。たとえそれが男女の間のことであっても。
そういう意味のことを、大久保はごくまわりくどく言った。
「ははあ……」
それはなんとなく木戸も考えていた。それで、というように、腰を揺すってやる。大久保はわずかに息を詰め、しかし、と呻った。
「しかしそういわれても私は耶蘇ではありませんのでね」
「ええ、」
「肉と霊など、分けて考える必要を感じません」
「同感です」
「ただ、霊なるものの、きわめて重要だということは承知しておるつもりですが」
「へえ」
なかなか、これは、と間に浅い溜息をまじえながら、木戸は笑った。
「意外なことを伺います」
「そうでもないでしょう。……たとえば、」
相手が仮に賤業婦だったとしてもですよ。大久保は耶蘇教徒の真似なのか、そんなことばをつかった。
「――賤業婦に対してさえ、惚れたはれたという心もちは、容色だけを動機にしては起こりますまい」
「心意気、ですか」
「まあ、サトウ流に霊といっておいていいでしょう」
「最終的に惚れるか否かは霊、ですか。これは面白い」
木戸は貫かれたままお預けを喰うのに堪えきれず、二、三度自分で腰を振り、
「じゃあ大久保さんも、霊より下等の欲はしりぞけてしまうほうの宗旨ですか」
わざと淫楽のにおいをただよわせて尋ねた。すると大久保は木戸の動きにあわせて一度大きく突き上げ、木戸が背をしならせてあげたその啼き声とほぼ同時に、
「いいえ、どうせ結局は霊なんですから――とすれば、きっかけは何であっても同じでしょう」
容色でも肉欲でも、終局の霊さえたしかなら、おそれる必要はないではありませんか。彼の体は木戸を淫らに犯しているのに、その声はしずかに冴えて、おごそかだった。
「ですから私は、霊に信頼を置くことは、サトウより重いつもりですよ」
容色がすぐれていることは望ましい、肉のこともずいぶん愉しみは多い。私はそれらに大いに迷いますが、霊という局所はどうしても外れえないものです。だから、外貌の美しさ、肉の誘惑といったこともことさら避けようとは思わない。それらをすべてひきうけたところで私と相手の何が堕落するわけでもないと思っています――――
つまり、と大久保は少しそこで言葉をくぎって、
「あらゆることは皆、そうです」
「そう、とは……?」
木戸は今は首をかたむけ、背後にある大久保の顔を見つめている。
体は快楽を追って疾りだしたいのに、大久保の話のつづきが気にかかる。彼はこころもち伏し目になって、ときどきそっと唇を湿しながら、低い声でゆっくりと話している。なにか重要なことをいうときの、それが彼の癖だった。
(どうせ、一番肝腎なことはいわないくせに)
互いにそこはあくまで政治場裡に生きている。どれだけ議論をかさね、意見を通じあっても、一朝事あれば、場合によってはふいと裏切られるかもしれない用心も、裏切って顧みない覚悟も常にできていた。
そのくせ――だからこそ、彼がすすんでなにかいおうとするとき(それはめずらしいことだった)は、木戸はどうかしてその全部を聞いておこうと思っていた。たとえそれが一場の戯れにすぎないとしても。
「つまり、何につけ真実というものは動かしようもないのですから、それを目指す過程など――まして動機などどうでもいい。私はそのように考えております」
「最初は肉を欲したとしても、かならず霊に辿りつくのだと――?」
「馬鹿でなければ、まあそうです」
今度の挙にしても。ごく低く、ひとりごとのように言った。
「西欧世界を視るということの、それが一見浮華を追うだけのしわざにおもえても、そこに、かならず――いや、」
よしましょう、と言って、大久保はそれなり口をつぐんだ。木戸は無意識のうちに食いいるようにして彼を見つめていたが、大久保の表情には、木戸のその視線に対する当惑げな感じがあらわれていた。
「あ……」
木戸もなんとなくきまりわるく、目を伏せた。
(なるほど)
妙に枯れたようなむず痒さをおぼえて、そっと苦笑する。
「あなたは、なかなか」
大久保の頬を撫でた。
「どうして、少年のようでいらっしゃる」
「お嗤いになりますか」
「いいえ、ただ意外だと思ったのです」
そうして、こう申せばそれこそあなたはお笑いになるでしょうが、と前置きして、
「ひとの心の純潔なんぞというのは、おかれた境涯が修羅場になればなるだけ汚れるものですが、あなたはぎりぎりの切所へくると、ひととは逆に純乎として澄んでゆかれる。あなたのそういうところを、私は尊くおそろしく拝見しておりますよ」
これはほんとうに、掛け値なしに――……。そう言って、大久保のつめたくきらりと光る目に、射るような視線を浴びせた。
われながら、面倒なことだ。
体を横に倒され、片脚を抱えあげられた姿勢で大久保に犯されながら、木戸は自分をそう冷笑した。
いつでもこうして厄介な手続きを踏まねば――彼とおかしな議論をしなければ、肉だけの合歓に酔うことができないのだ。そうまでして近寄らなくてもよさそうな話だが、しかし結局は(自分のためでなく天下の事として)大久保とやむなくつきあわざるをえないうえは、こうして交わることが木戸にはいちばん楽なのだった。
「あぁ、いい……」
横向きに寝そべったかたちで鏡に向き合っている木戸には、大久保が自分の体を出入りするさまがよく見えた。淫らな音をたてて二人の距離がなくなると同時に、たまらない圧迫感が肉のすみずみまで盈ち、またすこし遠ざかってゆく。その繰り返しをいつもは体の中だけで感じているのだが、目で見る今日はまた一段と感興がまさった。悦びと、もの狂おしさと、――そしてかわいた馬鹿馬鹿しさと。それらの裂け目に身を沈めて、木戸は長く尾をひいて啼いた。
「大、久保さん、……もっと、」
ねだれば簡単に与えられる。そうして大久保がきつく責めあげてくるのに応じて、深く体をひらく。実に愉しい。こんなときでなければ、こうも思いどおりになりはしない。大久保も、ほかの何もかも。
彼をいっぱいに頬張った粘膜のふちが赤く熟れて、彼か自分か、どちらのものかわからない蜜に濡れている。
(ああ、犯されている)
大久保の質量と硬さが、彼の悦びをつたえている。弱い場所を抉られて恐怖するようにわななき叫びながら、今こうしている時間の、大久保に抱かれている自分のかたちの頼もしさを思った。
今、木戸は大久保のおもちゃ――とよぶにはずいぶん彼は恭しくあつかってくれるのだが――だった。その目的のなんと堅固で、また自分のふるまうべき姿のなんと明瞭なことだろう。長い船旅の倦怠ゆえにつらつら渡航から帰朝後の前途を考えるうち、だんだん自分が何者やらわけがわからなくなってきた気のする木戸には、お笑いでなくそれが嬉しかった。男に貫かれるという、究極の形而下的な役割を自分に見出しているこのときが、なにかとても心丈夫におもわれた。
(いいのだ、)
と彼は思った。
自分は大久保のように思い切って西欧の風に泥んでしまう決心もつかず、といってサトウのようにそこに霊なかりせば、と眉をつりあげて美しいお題目をとなえるつもりもない。どうとも、向き合いかねている。だったらいっそ、大久保の玩具でいいではないか。
(いい、のに)
瞞着しきれない自我が、情火の猛るなかにそこだけ変に焼けのこってぐずぐずと火ぶくれたように疼き、その煩わしさに木戸は首を振り、目をつぶった。
「どうなさいました」
首筋に浮いた汗の玉を吸いながら、大久保がといかける。そういう彼の目ざとさも癪で、木戸は黙って答えなかった。
と、
「木戸さん」
深く入りこんだまま、大久保が動きを止める。
うっすらと目をあけてみると、熱にぼやけた視界に、彼がじわりと淫蕩に微笑むのが見えた。
「人魚になりましょうか」
(人魚……)
考える前に、抱えていた脚を下ろされ、両脚を揃えて折り曲げた姿勢を強いられる。大久保を受け容れている角度が変わり、そのおどろきと、あらたな場所にうける快感に身をよじった。
「こうして、ほら……」
彼は自分の首にかろうじてひっかかっていた襟飾りを引き抜くと、それで木戸の両足首をまとめて結わえた。
「あ……、な、何……」
抗おうとして、しかし体に埋め込まれた淫楽の塊のために果たせず、木戸は唇を噛んで身悶えた。縛られるのは苦手だった。体の自由を奪われては、快感の逃がしどころがない。繋がっている狭い場所だけで受けとめるには、大久保にあたえられる快楽は深すぎる。こわい、とつぶやいて、木戸はすこし泣いた。その涙を、薄い、蛇のような舌でちろりと舐めとられる。
「っん、」
ああ、みっしりと奥を盈たしているそれが。
自分の体を、欲が滴る場所を知りつくした雄の獰猛さが恐ろしくてならないはずなのに、
「大久保さん、」
木戸は口角を微笑のかたちにゆがめてねだった。
動いてほしい――。言葉にする前に、大久保の手がぐいと木戸の足首をもちあげる。
「ああぁっ!」
体を、繋がった腰を支点に無理に仰向けに返され、ぐるりと抉られるように中が擦れる。内臓が捻れるような圧迫感と、粘膜をかきまわされる痛みが、木戸の体をかたくする。が、それはすぐに、
「陸(おか)に上がった人魚には、こうしてよく男の味を教えておかねば」
耳に舌を這わせながら注ぎ込まれた大久保の声によって、甘い痺れに変わる。
「自分で海を捨てると決めたことも忘れて、ふらふらと波の底へ帰ってしまいかねないのですからね」
――特に今日のような、月の夜は。大久保の声が、ぞくりと骨を撫でる。
「ああ、美しい」
大久保が激しく腰を拍ちつけてくる。縛られた足を高々と持ち上げられている木戸は、彼にしがみつくことも、爪先で床を掻くこともかなわず、突き上げられる衝撃をまともに受けてがくがくと揺さぶられている。その、手酷く蹂躙されている感じが、たまらなく、いい。
「ほんとうに人魚のようですよ」
白くて、濡れていて、柔らかいのによく締まる。ほら、ご自分でもご覧なさいと脇の鏡を顎で指されたが、木戸にはもうその余裕はなかった。
「ぁん……っ、あ、」
「霊の肉のと、おかしな理屈に惑わされることはありません」
「や、……あ」
弱い場所へ捩じ込むようにしながら、奥を犯される。
「我々はあくまで、我々の流儀で――」
そうでしょう――?
囁きかける大久保の息が熱い。彼の細い顎から滴り落ちた汗が、木戸の胸を濡らす。そのかすかな感触を追って、体の奥で搾るように彼の熱に喰らいついてしまう。大久保はさすがに苦しげに息を吐きながら、
「あなたは霊も肉も、ふたつながら麗しくておいでです」
熟れてずぶりと頽れるような声で言った。
「あ、も……っ、もう、」
木戸はそれには答えず、
「いい、そこ……、」
ただ雄をねだる淫欲の裂け目になった。
「あっ、あ、いく、いく……」
「木戸さん、私は、」
しつこく何か言いかける大久保の声を遮って、
「や……っ、凄、い、」
いつもより派手に声をたて、自由にならない両脚のかわりに、そこだけで大久保に絡みつき、深く銜えこんで貪った。
(――云わせるものか)
ずるずると熔けてゆく体とは裏腹に、彼のつめたく冴えた脳は、睦言にかこつけた大久保のへたくそなおべっかを冷笑していた。
(なにがふたつながら、だ)
鼻にかかった嬌声をあげながら、白けた気持をもてあましている。
(肉も霊もくそもあるものか)
むしろ自分たちの関係には、肉も霊もそれこそ「ふたつながら」存在しないではないか。
体は無論、抱かれる悦びを知っている。が、互いに抱き合いたくてそうしているのではない。ましてや霊のことになど、永遠にいきつくはずはない。なぜなら自分と大久保と、互いに必要なのは、互いの個ではないのだから。
(せいぜい、――たとえば艦【ふね】を動かすのに罐を焚くように……)
それだけのことに、どうしてこうも大仰な芝居と韜晦と、屁理屈とが必要な自分たちなのだろう。
風が出てきたのか、それまで辷るような航走をつづけていた船が、急に大きく動揺をはじめた。当直の船員たちが慌ただしく駆けまわる気配がする。大久保も当然それに気がついたのだろう、ちょっと耳をそばだてるような表情をしたが、すぐにそれを掻き消し、揺れにあわせるようにして木戸の中を突きあげた。
「あ、あ、あ、」
波が舷側を叩くせいだろうか、船体のあちこちが、鈍く重く軋る音がする。
(――潰れてしまう)
と木戸は思った。
見渡すかぎり波また波の大海のなかで、この船はひどく狭くて苦しい。
部屋の外で船員たちがなにか怒鳴りあっている声が聞こえる。船はまさか沈みはすまいが、ひょっとするとどこかに故障ぐらいは出るだろうか。それともこの偉大な浮城は、黄色い未開人どもの心配をよそに、泰然たる顔で堂々アメリカに入港するのだろうか。
(いっそ……)
いっそ廊下でがなりたてている連中に、いま扉を開けられてしまえばいいのだ。「未開」の自分たちは、そこで文明の裁きをうけるだろう。霊の崇高さも知らず、しかし肉の悦びさえも、一点、まやかしでしかない、弱く愚かな自分は――――……
船はアメリカに行く。しかし泰西世界へ航(わた)る自分たちによって、祖国の無辜のひとびとは――外洋に出たこともなければ、蒸気機関を見たこともない、今日も無心に田を耕し、縄を綯い、飯を炊(かし)いでいるであろう可憐な人々は、どこへ拉し去られようとしているのか。
人魚の美を追う先に、霊なるものの幸福ははたして訪れるのだろうか。その問いを、大久保は無益なことだというが。そうしてその大久保の言には必ずしも感心しないのに、結局は手を携えてゆくしかない自分なのだが。
(ああ、見られてしまえばいい)
考えてもしかたのない、また今考えるべきことではないとわかっている。それでも消せない不安と後ろ暗さに自ら鞭打たれようとするように、
「あぁ、いい、あ……!」
背をしならせて叫んださまは、きっと撃たれた獣の断末魔に似ていた。
[24回]
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