桂の部屋を訪ねると、衣桁に紋服がかかっているのが目にとまった。
「お出かけですか」
と訊くと、
「ああ……」
机にむかって書きものをしていた彼は、こちらを見ずに生返事した。が、本当にうわの空でもないのは、その返事のあとで、
「七つ頃から、少し、な」
とつけたしたことで容易に知れた。
「で、お帰りは」
さらに尋ねると、桂は答えず、黙って筆を動かした。白い横顔に、微妙な緊張がうまれているのが見える。
高杉は、とりあえず桂が書きものを了えるまで待ってやった。桂は眉間に皺を寄せ、ひどくやりにくそうにその作業をつづけた。急ぎの仕事というわけでもなさそうだが、律儀に最後まで筆を運ぶのを、高杉は可笑しいような、気の毒なような思いで眺めた。
筆を擱いたのと同時に、
「お帰りは」
もう一度訊いてやる。桂はやっぱり机の上に目を落としたまま、
「多分、宵には……」
しぶしぶといった感じで答えた。
「ははあ、お早い」
高杉は目をほそめ、桂のそばへ膝をすすめた。彼が体をこわばらせるのがわかる。
「じゃあ、夜は空いてるんですね」
「晋作」
顎をとらえた手から逃れるように、桂は顔をそむけた。
「なんです」
「今日も、なのか……」
「もちろん」
桂が離れようとするのをゆるさず、美しい顔をしっかりととらえなおして、指先で耳朶にふれる。彼が肩をすくめる。
「どうして……」
「お互いいつ帰国を命じられるかしれない身の上じゃありませんか。こうして会えるうちに少しでもと思うのは、人情というものでしょう。それとも、」
すでに赤く染まっている耳に唇をよせた。
「いやなんですか」
そうは見えなかったけどなあ、と言うと、彼は今にも泣き出しそうな顔で唇を噛む。
(まるで生娘だな)
桂のその反応を嬉しいと思うよりは、むしろ不思議の感が濃い。
と、桂が、
「今日は、よせ」
下をむいたままで言った。
「空いてるんでしょう」
「眠りたいんだ」
つらそうに言う。たしかに桂の頬には、やつれた影がさしていた。
「もう、あれから……」
膝の上で拳を握りしめている。
「毎晩、じゃないか」
「毎晩欲しいんだよ」
腕をのばして、桂の堅い、しかし芯のしなやかな体を抱きしめる。よせ、と身をよじるのを押さえて、さらに腕に力をこめた。
「わかった、じゃあ今晩は俺は自分の部屋で寝ますから」
「あ……」
あからさまにほっとした顔を見せる桂の唇を、彼がかるく痛みをおぼえるであろう程度に噛んでやった。
「晋、」
「そのかわり、」
桂の怯えたような目が慾をかきたてる。実にいい目だ。だが――――
わけもなく腹が立って、高杉はぞんざいに言い放った。
「今やらせろよ」
一昨日の雨に濡れて、庭の桜はすっかり色が褪せてしまった。
はじめて桂を抱いた夜、花はすでに爛漫で、ようやく凋(おとろ)えようとする薄紅の花弁の、かすかな風にもなびいて散るしどけなさが、いかにも艶な宵だった。
そのあえかな花のひとつ、ふたつが時折そっと舞い込む座敷で、桂の膝に手をかけた。
抱かせてほしい、と言うと、彼はひどくおどろいた顔をしていた。当然だろう。彼の目にうつる自分は、まだ子供の面ざしをしているにちがいない。ずいぶん若い頃から国元にいることの少なかった桂と、何年かぶりに江戸で再会したのもつい数日前のことである。大きくなったな、だとか彼は言っていた。親戚の子供にでも会ったかのような感想である。そういう相手に抱かせろといわれて、当惑しないほうがおかしい。
第一、自分たちのくには、男が男をどうこうするような士風の藩ではない。仮にそういう藩だったとしても、ふつう、成人した男はおんなにしないものだろう。また万一手を出すにしても、そういう男は、腰が手でくびれそうな、骨のほそい優男ときまっている。桂とはずいぶんちがう。
「晋作……」
桂は首をかしげ、苦笑しながらなにかいいかけた。その顔の上を覆っている分別くさいゆとりが、ひどく業腹だった。
言わせたくない。
何を言うつもりか、だいたいわかっている。気の迷いだとか何だとか、適当な理屈をつけていなしてしまおうというのだろう。そうして最後には、江戸にはいい女がいるからこれで遊んで来いだとか言って、小遣いのひとつも握らせる。桂のやりそうなことは、高杉にはもうおおよそ検討がついた。
困ったようにつくであろう溜息の温度まで、自分にはわかる。それくらいさしせまった思いで、ずっと桂を見、会えない間もその面影をしのんできた。
わかっている。
こういうとき、桂はどこまでもものわかりのいい大人になりきるのだ。そうして明日には、何事もなかった顔で自分に話しかけるにちがいない。
(させるかよ)
ぐいと桂の手をとった。
「このままでは、あなたを殺してしまう」
咄嗟にそんな言葉がほとばしった。え、という顔で桂が目を見ひらく。あとはなにも考えるゆとりがなかった。言ったことばはめちゃくちゃだったが、今までぐるぐると考えていたどの言葉よりも真実だった。
ほとんど脅迫するように、桂に押し迫った。
「今にきっと僕は気が違って、あなたを殺してしまう。それでも――」
あきらかに困惑している、それでも彼自身よりもなお、高杉を案じているような、不安げな表情。その美しい皮膚をつき破ろうとするように、高杉は声を荒げた。
「それでもあなたはかまわないというんでしょう。しかしあなたを殺しては俺だって生きてはいない。俺を惜しんでくれる気があるのなら」
抱かせてください。どうか黙って俺に抱かれてくださいと、その措辞は哀願にちかいのに、まるでなじってでもいるように、高杉は眦を裂いて詰め寄った。
「さあ、いかがです」
「晋作、」
桂が苦しげな顔で後ずさる。その膝をとらえ、裾を割った。
「どうするんです。あなたに僕を殺せますか」
桂の瞳が、悲しげに揺れた。それから、じっとなにかを問いかけるように高杉を見つめていたその眼は、やがて長い睫毛の影にふせられた。深い憂いにしっとりと濡れたその姿に、たまらず強く抱きしめた。一瞬、桂の体がこわばり、やがて力が抜ける。
あとは、夢中だった。
桂の肉が、泣きじゃくるような動きで自分を締めつける。揺すりあげるごとに肌が熱さを増し、甘い溜息が洩れる。
(初めてじゃあ、ないんだな)
着物を剥ぐだけで桂は慄えていたが、交わってからの悦びようは、男を知らない体のそれではなかった。
(そのくせ――)
「あんた、あったかいね」
そう言っただけで、桂はひどくおどろいた顔をした。
「桂さん?」
髪を撫でてやると、柔らかな肉の奥がさらに締まった。
「ああ、いい」
いいよ。ねえあんたは? 訊いても桂は答えない。敷布をきつく握り締めて、声を堪えている。
「感じられるんなら、感じなよ」
つらいだろ、と言いながら、さらに奥へ入りこみ、桂の体を布団からひき剥がすように、背中へ手をまわして、強く抱いた。
「ん……っ、」
抱きしめたまま奥を突き上げていると、桂の手がそっと持ちあがり、指先が高杉の二の腕にふれた。ためらうようにそのまま膚の上で顫えていたが、やがてあきらめたように布団へ下ろされた。
「なんで」
その腕をつかむ。
「つかまってなよ。こうしてさ」
「あ……」
びくりと手を引っ込めようとするが、高杉は離さず、桂の両腕を自分の肩に回させた。
「くっついて、しよう」
桂の胸に唇を寄せて言うと、彼が息をのむ気配がし、繋がっている部分がふたたび反応した。顔をのぞきこむと、ひどくとまどった表情をしていた。
さっきから、意外な反応がつづいている。
「桂さん……?」
そっと目をそらされる。
「どうしたんです。俺、なんか変なことしたかな」
ねえ、と、ほつれて額にかかった彼の髪をかきあげた。
「青臭いかもしれないけど、あんたが好きだから」
「……っ……」
桂が、かすかに悲鳴のような声をあげた。きゅうきゅうと彼の中が狭くなる。
「桂さん?」
「や……」
長い睫毛が、涙に濡れている。
(ああ……)
なるほどな、とぼんやりと思った。
桂の体は、男の慾に狃れている。抱かれた経験は、一度や二度ではないだろう。だが、丁寧に慈しまれ、情を通わせたことは、ひょっとするとなかったのではないか。それは、つまり――……。
(世の中には、ろくでもねえ男がいやがるな)
そういう自分だって、半ば強引に言うことをきかせたのだが。
(しかし、それならせめて――)
桂の肉を犯すのが目的だったのではないと――否、たしかに桂を抱きたかったのだが、それで満足というわけではないのだと、彼に伝えようと思った。
「あんたを、好いている」
耳の中へ舌を入れ、湿った息でささやいた。
「やめ……、」
聞くことをおそれるように、桂が激しくかぶりを振る。しずまれ、というかわりに、腰を深く突きあげた。
「ひ……っ」
「好きです」
「晋作、」
「あんたが、好きだよ」
ねえ、あんたは。さっきと同じように訊いてみたが、桂はそれには答えず、情慾でけぶるような色をした目から、ぼろぼろと涙を溢れさせて達した。
その日は、そのまま桂を抱いて眠った。
まわりに捨てられた着物に手をのばし、布団を出ていこうとする桂に、このまま寝よう、というと困った顔をしていたが、抱き寄せるとおとなしく腕のなかにおさまった。遠慮がちに胸にふれる手を、しっかりと握ってやる。
果てる瞬間の彼の顔は、なんだか悲しそうに見えた。それでも必死で高杉の背にすがりついていた手はあたたかく、不覚にも声を洩らしたほどの中の収縮の淫靡さよりも、高杉はそのことが嬉しかった。
夜が明けるまで、何度か醒めては腕の中で眠る桂の顔を見た。安らかで、微笑んでさえいるようなその顔に、切ないほどの幸福感をおぼえ、何度もその頬に、瞼に、唇に口づけた。
それから毎夜、求めた。
床をのべる間さえもどかしく、畳の上に押し倒すと、桂は腕を突っ張ってあらがったが、
「欲しい。どうしても欲しい」
目をあわせて低くささやくと、わずかにふるえながらおとなしくなった。
桂の体はいつでも快楽に従順で、男の慾によく馴染み、たまらなくよかった。狭い肉の隙間を犯し、擦りあげてやるだけでひどく感じるくせに、彼はいつもそれを愧じるように、悲しそうにしていた。
悦びの深い体。それはべつに悪いことではないのに、桂は彼自身の何を悔い、何を匿そうとしているのか。
――彼の体の上をすぎていった男たちは、どんな連中だったのだろう。桂はどんなふうに、男の体を教え込まれたのだろう。
気がかりではあったが、それを桂にたしかめる気にはなれなかった。訊いても彼は答えまい。
高杉は何も気がつかないふりをして、ただ桂の肌を貪った。蒸れるような情慾が座をほの白く照らしている部屋の外では、桜が闇にほろほろと散っていた。
明け方には寝かせていたはずだが、それでも体がつらいというのは道理だろう。わかってはいるが、どうしても手離してやる気にならない。今交わることをやすめば、なんだか永遠にふれられなくなる気がした。健気なほどの仕草で哀訴し、今日はいやだという桂をゆるさず、高杉は明るい日の差しこむ座敷で彼を押し倒した。
「よせ、いやだ」
「だから夜は寝かせてあげますって」
首筋の薄い皮膚を吸い、
「桂さんとしたい」
ねえ、とすでに硬くなったそこを彼の下腹に押しつけると、彼は目許をうす紅く染めて、唇を噛んだ。
明るい部屋で体を暴き、両膝を抱えて大きく腰を打ち込むと、桂の眉根にいびつな皺が刻まれ、その下の黒く潤んだ瞳から涙が流れた。
しかし、
「痛いですか」
と尋ねると、首を振って否定した。
急に、桂のいじらしさに胸がつまった。
「泣かせたいわけじゃない」
ひとりごとのように、高杉はつぶやいた。ただ、桂が欲しい。青くて愚かしい自分は、こうする以外に彼を手に入れる方法を知らないのだ。本当はもっと、ゆったりと抱きしめあって、睦みあいたい。
だが、桂は顫えている。拒絶とはちがうようだが、その体のいかにも悲しげな反応を抑えるために、強くのしかかることしか知らない自分だった。
「やっぱり、嫌だったか……」
はじめから、桂の優しさに――子供をあまやかすのによく似たそれに、つけこんだも同然だった。動きを止め、彼の額の汗を指先でぬぐってやる。
「つらいですか。……俺と、こうするの」
もうよそうか、と思ったとき、桂の手がそっと高杉のそれに重ねられた。
「わからないんだ……」
いつものやわらかな声に、なにか形容しがたいさびしさのようなものを滲ませて、桂はぼんやりと口にした。
「どうしていいか、わからない」
と。
「嫌じゃ、ないんだ」
「桂さん……」
「つらくないから……」
彼の白い、長い指が高杉の手をやさしく撫でる。
「好きにしてくれて、いいんだ」
「だけど、」
言いかけた高杉の言葉をさえぎって、桂の両腕がきゅっと背を抱く。
「お前の胸は、心地いい」
「…………――」
日だまりのなかで、桂の乱れた黒髪がきらきらとかがやいている。
咄嗟にことばが見つからず、高杉は黙ったまま桂を抱きかえした。その肌が、しっとりと潤って、あたたかい。
「ただ――」
と、首筋のあたりで声がする。彼の甘い吐息が香った。
「お前が与えてくれる以上に求めてしまいそうで、それが、情けない話だが……」
――怖い。
最後は消え入りそうな声で言った。
「そんなの――!」
灼けるような熱いものが胸にこみあげて、その感覚がたまらず、腕のなかの体を絞るように抱きしめた。桂を貫いているものがより深く潜り込み、彼がちいさな悲鳴をあげる。
「馬鹿だなあ、あんた」
痛いほどに、彼の頬に頬をすりよせた。彼の零したあたたかな涙が、熱く滾った肌をやさしく濡らした。
「俺だって、どうしていいんだか」
白い体を揺さぶった。桂の唇から、切なげな声が洩れる。
「あんたが好きで――」
甘い肉がふるえる。痺れるような快楽が背筋を走り、おもわず奥歯を喰いしめる。
「……子供の頃みたいに甘ったれてみたいけど、俺はもう、こんなことを知っちまったからさ」
桂のすべてを自分のなかに取り込んでしまおうとするように、夢中でかき抱く。
「こんなふうにしか、あんたにさわれない」
だけど、好きなんだよ――。絞りだすように喀(は)いたことばを、吐息ごと受けとめるように、桂が唇を寄せ、高杉の口を吸う。その仕草に熱が上がり、貪るように舌をからめた。
「桂さん、」
荒々しく音を立てて、彼の痴情が熟れて滴る場所を――彼の体のうちで唯一柔らかにできている肉を責め苛んだ。
「あ、……はぁっ」
背中を爪が傷つける、その痛みすら愛おしい。
「晋作、晋作……」
自分の名を呼びながら昇りつめていく彼を、いっそ喰って胃で溶かして、自分の一部にしてしまいたい。限界まで募った切なさが凶暴さを呼びおこし、その衝動にまかせて桂の喉元を強く噛んだ。
汗と愛慾のしるしにまみれてぐったりと横たわる桂は、しかし、高杉がおそるおそる頬にふれると、目をあげて微笑んだ。まだ紅潮したままの目許がふっとやわらかに細められるさまは、これほど激しい交歓のあとであるのに、なにか清らかな幸福の香がたちのぼるようで、高杉は喉奥がぐっと痛む感じをおぼえた。
(もっと――)
もっと、もっと欲しい。
それでも、夕刻には出かけねばならない桂を、高杉は精一杯おとなぶって、笑って解放してやった。
もう、無理に組み敷かなくともいい。
自分は桂を待っていられるし、桂も自分の愛撫を――情が濃すぎるほどの営みを、こわがりはしないだろう。
だが。
「宵には、戻るんでしょう」
井戸を使いに出て行こうとする桂の背中へ呼びかけた。
目顔でうなずきながら、桂がふりかえる。じゃあ、やっぱり、と高杉は首筋を掻きながら言った。
「一緒に寝てもいいですか」
焦っているわけではないけれど。
「ひどくしないから」
最初の夜とおなじことを言った。
やっぱりどこまでも、自分は青臭くて、わがままで、桂に甘ったれていた。彼が苦しくても、それでも、できうるかぎり長くたくさん、彼にふれていたい。
さすがに勝手がすぎるか、と上目遣いに彼を見上げると、彼はようやくそれとわかるほどにかすかに笑って、
「明日は、何も用事がないから」
深く、甘いものに凪いだ眼で言った。
「朝寝してもかまわない」
「うん」
子供のように、高杉は大きく首を振って頷いた。自分でも馬鹿らしいほどに胸がさわぎ、そのくせ変に落ちついて、深くしずまりかえっている。
「うん」
桂の返事を反芻するように、もう一度頷く。手をとって口づけたかったが、それは今夜のたのしみにのこしておくことにした。
桂はだまって微笑むと、ふたたび背をむけ、縁廊下につながる障子を開けた。瞬間、ざあっと風が吹いて、最後の桜を捲きあげた。高杉はちょっと袂をかざしてそれをふせいだが、すぐに手をおろして、薄紅の風の中に立つ桂の背中を見うしなわないように、じっと眉根をよせて両の瞼の力をたもちつづけた。
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