「これ」
と、蝿の頭のような字で書かれた報告書のうちの、ある一行を木戸の指はあやまたずさした。
「民部のほうで予算の見積りはできているのか」
「それが」
伊藤はひやりとして首をすくめた。
「実は試算に少々手違いができまして。概算書をつくり直させていますが、遅れています」
上がり次第お持ちしますので、と言うと木戸はふんふんと気軽にうなずいて、
「いや、勅裁をいただくまでに間に合えばいいさ。大隈がやると言ったんだから、やるんだろう。あとは……」
ふたたび目をふせて、書類の束を繰りだした。
いかにも無造作なそのしぐさに、しかし、伊藤はかえって舌を巻いた。
(かなわないな)
木戸に今日見せるとかねて約束した報告書だから、それなりの体裁をととのえている。おおかたどこへ出しても、これなら判をついてもらえそうな出来だった。そのなかで、唯一さっき木戸が指し示した箇所にだけ、わずかなほころびがあった。伊藤は別にごまかしてしまうつもりがあったわけではないが、木戸がなにもいわなければ、それはそれで特に問題のあるというほどの欠陥ではない。
しかし、木戸は気がついた。
今はじめて渡された書類で、しかもこれほど何気ないふうに目をとおしていて、である。
(各省の卿でもじゅうぶん務まるな)
ふつう木戸ほどの立場になれば、実務のいちいちに細かく目配りはしないし、またそれを必要とされる世代ではなかったため、そもそも実務の才腕をもたない者も多い。ところが木戸は、普段は決して才子づらをしないが、その実相当な切れ者である。今の場合にしたところで、伊藤が正直に、かつそつなく答えたればこそ、書類の穴にはあまり頓着しないような返事だったが、いい加減なことを言っていればきっと叱られたにちがいない。伊藤のような才ばしった、しかも自ら大いにそれを恃んでいる年少者には木戸のそういう聡明さはときに煙たくも思えるのだが、しかし煙たいぶんだけその真価を知りもし、かつ尊敬していた。
それは、いい。
渡した書類に、あとは拙(まず)いところはないはずである。木戸もいちいち頷きながら読んでいる。何も心配することはない。伊藤がさっきから気になっているのはそんなことではなく、右手で書類の綴りを繰っている木戸の、あまった左手がしきりと襟のあたりをさわっていることである。はじめは、襦袢の襟でも折れているのかと思ったが――。
「あの、木戸さん」
「うん?」
木戸は書類に目を落としたままこたえた。
「気になるのでしたら、もうすこし詰めてお召しになってはいかがです」
「うん?」
仕事の話だと思っていたにちがいない彼は、伊藤の言ったことが意外だったのだろう。小首をかしげながら顔をあげた。
「詰めて……?」
「こう、あの、襟を……」
伊藤は自分の襟もとに手をやって、身ぶりでしめした。そうして、
「見えます、それでは」
部屋には木戸と伊藤のほか誰もいないのに、つい声をひそめてささやいた。
木戸の首筋、さっきから彼の指先がしきりにふれているあたりに、まだあざやかな赤い色の痕がある。木戸はおそらく無意識にふれていたのだろうが、目立つ位置にそれがあることを、彼自身気にしているにちがいない。
しかし。
「これが、見えたらまずいのか?」
彼はいたって屈託なく、ふしぎそうに問い返した。
「まずい、といいますか……」
それは、上の御用とはかかわりないですし、司直になにかいわれる筋のことではないでしょうが、しかし、道義上の……――。伊藤はきわめて不得要領に、唇のうちでぶつぶつ言った。と、木戸がくすりと笑った。
「馬鹿だな」
道義もなにもあるもんか。ぐい、と襟を引き、そこをあらわにした。さっき見えたののほかにも、赤い痣と、引っ掻き傷のような痕が、そこここに散っている。伊藤はおもわず目をそらした。が、木戸は、
「女じゃないぞ」
呆れたように言った。
「夜鷹かなにかならともかく、まともな妓(おんな)が客の困るようなことをするかね」
「え……はあ……」
「第一お前に女のことでとやかく言われたくはないな」
「いえ、あの、」
それはそうですが、と思わず言ったのは、我ながらみっともなかった。あわてて首を振り、言葉をつないだ。
「女なら、結構ですが」
「いいのか」
「まあ、比較的、と申しますか……」
「西欧はずいぶん買色のことにかけてはやかましいそうじゃないか」
「それは、おいおい日本もそうなるでしょうが、今のところは艶福はさほどの疵には……」
「じゃあ何がまずいんだ」
「それは……」
あっけらかんとした木戸のようすがいっそ小憎らしい。自分にそれを言えというのだろうか。どう返答したものかわからずに口ごもっていると、
「俊輔」
木戸は、なにか獲物をとらえたといった顔で笑った。
「お前、妙なことを考えてるだろう」
「妙なことって……」
「これなあ、」
見せつけるように、首筋の痣を指ししめした。
「聞多じゃないぞ」
「え……」
伊藤はおもわず首をつきだした。
「なんだ、やっぱりそう思ったのか」
はじけるように木戸が笑いだした。
「そんなことにまで気を揉むとは、お前も苦労なことだな。だから俺はよけいなことは話さないほうがいいと聞多に言ったんだ」
だけど、しゃべるんだろう、あいつは。さも面白そうに、木戸は伊藤の顔をのぞきこむ。
「で、どこまで聞いた」
「言いたくありません」
「あははははは」
あーあ、と、木戸は目尻からこぼれた涙をぬぐった。伊藤はすこしも面白くない。
それは、井上のせいだとも思うではないか。
かならずそうだとまでは思わなくても、もしそうであったらと案じはする。当然だろう。
相手が女なら、誰に知れたところで「まあほどほどに」で済む話だが、男、それも同じ政府の、さらに同藩の親しい後輩ときては、世間に――それ以前に政府のほかの連中になにをいわれるか知れたものではない。特に政敵にとってはこれほどの攻撃材料はないわけで、たださえ自分や井上のような少壮客気の連中の重用をよく思っていない人間が多い折柄、「木戸は情夫を朝官に引き上げているのだ」とか、「長州は木戸に女郎の真似をさせて人を籠絡する」などといわれれば、政府の屋台骨がゆらぎかねない話ではないか。
しかし、伊藤のそうした心配を、木戸は意にも介さないらしい。
「聞多なんて、お前、」
いかにも伊藤の間が抜けているとでもいいたげに、
「いま大阪へ出ているじゃないか」
「はあ」
伊藤はむくれた。
「しかし東京においでの方もおられるでしょう。大久保さんとか」
「よく知ってるなあ」
木戸が目をまるくする。その表情は、どうも心から感心しているふうで、
(人の気も知らないで)
伊藤はもう木戸の前もはばからず、思いきり溜息をついてやった。
「大久保が、お前にそんなことを言うのか」
「言うわけないじゃありませんか」
そんなことをべらべらしゃべるあの人なんか、想像したくもない。口をとがらせると、まあ、なあ、と木戸は腕組みしてちょっと上を見あげた。
「不気味だよな、それは」
そうして、
「じゃあなんだ、やっぱり聞多に聞いたのか」
なんでもしゃべるんだなあいつは。しょうがないやつだ、とひとごとのように言うので、
「そもそも木戸さんが話して聞かせるからでしょう。ほかにもまだ、」
つい勢いで言いかけた。
「まだ?」
木戸が問いかえす。一瞬、しまった、と思ったのを振り払って、ままよ、と息を吸い込んだ。いくら旧恩があるとはいえ、この件に関しては木戸がよくない。この際しっかり釘をさしておいたほうがいいのだ。
「まだ知ってるんです。広沢さんとか……」
「広沢?」
木戸が首をひねる。
「広沢、ねぇ……」
「ちがうんですか」
「ちがわないが、広沢のことなんて俺は言わないはずだけどな。誰に聞いたんだろうな。広沢……が、自分でそんなこと言うと思うか?」
「知りませんよそんなの……」
(聞多、お前馬鹿だろう)
がっくりとその場に膝をつきたい思いで、伊藤は胸のうちで井上へ呼びかけた。
(向島のなんとかいう妓が、近頃お前に熱を上げてたじゃないか。もうあれでいいだろう、あれで)
なんだってわざわざ男に、しかもこんな不実な人に惚れるんだ。かわいそうに、本物の馬鹿だなお前は。
『まァ、あの人はあれが性分みたいなもんだろうから、しゃあねえわなあ』
いつか井上がそう言って頭をかいていたことを思い出す。
『俺が知ってるだけでも、大久保さんに広沢さん、土佐の容堂公ともなんだかあるみたいだし、それにちょっとつまみ食いをしたやつらを加えたら……。しかしなんだ、妓だって浮気するくらい甲斐性のある妓じゃなけりゃ面白くねえだろう』
まあ、しゃあないやねえ、と繰り返しながら、井上の顔にはあきらかに苦いものが浮かんでいた。浮き草家業の玄人女だってもうちょっと身持ちがいいだろう、と伊藤は思ったが、言えば井上が自身でかろうじて保っているものを奪ってしまう気がして、口にはだせなかった。
(ばーか)
つくづく馬鹿らしいやら気の毒やらで、伊藤は子供のように節をつけて、井上を罵ってやる。
(何がいいんだかなあ)
もちろん木戸は洪量で情も厚く、人にはだいたい好かれるほうである。まして一緒に仕事をしているとなれば、そういう性質上の美点にくわえて、彼の才覚、識見に畏敬の念をいだかない者はないだろう。
しかし、だからといって惚れるかというと、それとこれとの間にはずいぶん巨きな隔たりがあるように思われる。羽根筆を愛蔵している男にむかって、ではそれで空を飛べと言っているようなものだろう。
『それはな、お前』
いつぞやにたりと笑ってあの男は言っていた。
『ものすごくいいんだよ、あの人』
そのときは詳しくは言わなかった――言わせなかったが、井上はまずまちがいなく卑猥な意味で言ったのだろう。
『いいも悪いも、まずどうこうしようという気にならないといってるんだ』
そう言ってやったら、
『そんなの、俺にだってわかんねえよ』
本気でむくれていた。あいつはもう、どうしようもない。
(本気で惚れやがって)
案外あっさり口説き落としたと思ったら、こんなふうにひどい(と伊藤は思うのだが)仕打ちばかりされている。
(だいたい、「いい」ってどう――……)
そこまで考えて、伊藤はあわててその先の想像をふりはらった。
「俊輔」
木戸が噴き出す。どうやら自分は、実際に頭を振っていたらしい。
「そうびくびくしなくても、俺はお前を誘ったりしないよ」
「べつにそんなこと考えてません」
「でもお前は妙な思案ばかりしてるじゃないか」
お前、これなあ、と、木戸は両手でゆっくりと襟をくつろげた。わざと挑発的な、気だるげな眼をしている。露わになった肌の、胸のあたりまで爪痕と痣が点々と刻印されていて、伊藤はばっと顔をそむけた。
「これ、なにも、」
木戸の声が笑っている。お前が考えてるようなことじゃないぞ、と彼は愉しげに言った。
「かぶれたんだ」
「は?」
素っ頓狂な声が出た。
「子供みたいだろう? みっともないから隠していたかったんだが」
「あの……」
「浴衣を新調したら、仕立屋が糊をきかせすぎたんだな。襟ががちがちになっていて、それが変な具合に膚(はだ)にこすれるんだ」
一回洗ったら平気になったけどな。なんのことはない、というふうに、木戸は肩をすくめてみせた。
「え、じゃあ……」
「聞多でも大久保でも広沢でも、ほかの誰かでもない」
かぶれて、それを俺が爪で引っ掻いただけのことだ。あっさりと木戸は言った。
「お前の考えすぎだ」
「そんな……」
そうなのか。伊藤は全身から力のぬける思いがした。
いや、それならそうとさっさと言ったらいいじゃないか。面白がってた。俺があれこれ思いわずらうのを、絶対に面白がってただろうこの人。
腹の立つような、かなしいような、なんだかわけがわからなくなって、伊藤はこういうときいつでもそうするように、情けない、無意味な笑いをうかべた。
それにこたえるように木戸もにっと笑う。立ち上がり、伊藤の耳許に顔を寄せると、
「助平」
ひとこと、囁いた。なまあたたかい息が、伊藤の耳朶をくすぐった。
「き、木戸さん……!」
「お前が俺を何だと思ってるのか知らないがな、少なくとも仕事中はお前よりよっぽど真面目にやってるぞ」
「僕だって真面目です!」
「どうだかな。おおかたさっきみたようなことばかり考えてるんだろう。だから数字を間違えるんだ」
「えっ……」
なんのことか、と口をあけた伊藤の前に、さっきまで木戸が見ていた書類がつきだされる。首をかしげながら、両手にうけとった。
「それの、いちばん最後の工部の資料、イギリスで同程度の工事をおこなった場合の平均支出額の項だ。桁がちがってるぞ」
「え……」
「まさか二百じゃないだろう」
「あっ」
おもわず声をあげて、それから目を近づけてもう一度確かめ、また「あ……」と情けない溜息を洩らした。たしかに、間違えている。
「二千、だな」
「二千です……」
今度こそへなへなと腰が抜けそうになるのを、膝だけでどうにか保って、伊藤はがっくりとうなだれた。
「ぬるい」
してやったりという顔で、木戸が笑っている。悔しいが、怒るわけにもいかない。完全に伊藤の手抜かりである。迂闊だった。
「すみません……」
それにしても、よく気がついたものだ。
(まったくかなわないな)
いやだなあ、この人。と、あきれと畏れと、それ以上にやっぱり慕わしさとが入りまじる思いで、伊藤は木戸の前に頭を垂れた。そういう伊藤の複雑な落胆をほったらかしに、
「じゃあ、俺はもう帰るから」
木戸はくるくると身支度しながら、自分の座っていた席を指ししめした。
「使っていいぞ。お前のところは狭いだろう」
「あ、はい……」
さからう気力もなく、伊藤はもそもそと礼を言って、素直にそこへ座った。木戸の体温が残っていて、おかしな感じだった。
「さて、」
木戸が伸びをした。
「妓ならいいそうだから、今日はちょっと羽をのばすかな。知ってるか、近頃売り出し中ので、深川に上玉がいるんだ」
「そうですか……」
「お前も、今のそれ……その数字だけ直して、計算がおわったら来るといい。空いてるだろう?」
奢るから、と言いのこして、伊藤が返事するのも待たずに、愉しそうに木戸は出ていった。ほとんど茫然とその後ろ姿を見送りながら、
(聞多……)
もう一度、いまは大阪にいるはずの悪友に呼びかけた。
(よかったな、今日は木戸さんは男のところへは行かないとさ)
そして明日からも当分、そういうことはないだろう。なぜならば今日木戸に見せた――今直している報告書の案件は、明日からそれに基づいた立案、審議がはじまるはずで、そうすれば木戸はほとんど夜っぴて議論に追われるだろうからだ。
(まあたいがい、俺が一緒にいることになるんだろうしな)
だからお前、よかったな、と、かわいそうな井上を、せめて祝福してやる。
だが――――……
(だけどお前、早く帰ってこなけりゃ、あるいは……)
無意識に胸にうかんだそのことばに、伊藤ははっと身を起こし、あわててぶんぶんと首を振った。
木戸の笑い声が聞こえた気がした。
[34回]
PR