弦歌のさわぎをあとに、月の翳りがちな表へ出ると、秋風が酒に火照った頬をなぶった。颶風が近づいているのか、湿った泥のような臭いがぬらりと鼻先をかすめ、その心持のわるさに高杉は思わず懐へ手をやって胸をさすった。
いくぶん悪酔いの気味であるが、さほどに飲んだわけではない。理由ははっきりしている。このところ、眠れていなかった。
寝つけないのではない。つとめて眠らないようにしているのだった。
眠れば、夢を見てしまう。
もう何度もうなされたそのおなじ夢を見るのが怖さに、高杉は夜ごと紅灯の巷ではげしく遊び、あるいは膝をつねりながら読書して、ほんのわずかまどろんではすぐに醒める、という暮らしをつづけていた。酒も受けつけなくなろうというものである。
あの夢をはじめて見たのは、ひと月ほど前、二度目の江戸出府からまもなくだったろう。本当はその日付まで――風の加減までおぼえている。あの日は……――――高杉はそこまで考えて、大きく頭を振った。今そんなことを思い出せば、また今夜にでも夢に出ぬものでもあるまい。たかが夢、ではある。高杉は迷信を好かない。夢なぞ半覚半醒の頭がつくりだした絵空事、とそれしきのわきまえは無論もっているが、しかしその絵空事は、まぎれもなく自分の頭が描きだしたことで、だからこそ彼は、あの悪夢が恐ろしかった。
否、それは一体、悪夢だったろうか。
悪夢であればよかったのだ。しかし夢寐のうちにあじわった感覚はあまりにも甘美で、そのことが高杉を絶望させた。気の迷いだとも思ってみたが、そう思えば思うほど、おなじ夢を繰りかえし、しかもより濃い甘美さをともなって見るはめになった。
(俺にどうしろというんだ)
いつまでも睡眠をこらえているわけにはいかないが、といって今のところ、この苦痛をのがれる妙案を、高杉はいっこうに思いつかなかった。
藩邸の灯りはすでに落ちていた。
門前の不寝番の黙礼をかるく頷いてうけながし、高杉は眉宇のあたりに不機嫌さを漂わせながら、市井の無頼者のように体をゆすって玄関をくぐった。秋の夜の静寂のなかにひっそりと涼しげな闇をつくっている桜田屋敷のたたずまいが、高杉にはひどく気ぶっせいに、それどころかさらにいやな緊張を誘うものにおもわれた。
式台に腰掛けて、袂から出した手拭いでかるく足の塵をはらっていると、やはりこの時間に外から戻ったのか、ぬっと敷居を跨いできた影があった。相手も、そこではじめて高杉がいるのに気がついたのだろう、
「あ、これは失礼」
小腰をかがめる気配があった。しかし気配よりも何よりも、高杉はその声に、思わず手拭いを取り落とした。
「桂さん――――」
「ああ、」
男がひょいとその場にしゃがんだ。
「なんだ、晋作か」
雲が切れ、彼の背のうしろから差しこんだ月に、二人のいる土間が明るくなった。桂の顔は逆光でよく見えなかったが、桂には、ぶざまに狼狽した高杉がよく見えたらしい。
「そんなにおどろかなくてもいいだろう」
彼は笑って、
「お前、まだ天狗の面やら暗闇やらがこわいのか」
とからかった。
「いつの話をしてるんです」
「ついこの間じゃないか。……ああ、そうでもないのか。あの頃のお前はこんな時間に外で悪さなんかしなかったものな」
「悪さはお互いさまです」
桂を避けようと体をずらすと、彼のほうは無遠慮に横に腰を下ろしてきた。もっとも、それはべつに不自然な動作ではないのだが、今日の――近頃の高杉には迷惑だった。
「おしろいのにおいがするな」
桂が顔を近づけてくる。彼も酔っているのだろう、酒のにおいの吐息が、高杉の襟首にふれる。瞬間、高杉はものもいわずに立ちあがった。
「おい、」
あぶない、と桂がいうのが耳に届いたとき、高杉はすでに半身をしたたか廊下に打ちつけていた。
一体、ふらついたのが先だったのか、式台の段差に足をとられたのが先か、高杉はよくおぼえていない。ともかくも、原因はやはりこのところの不眠なのだろう。急に立ち上がったところを不覚にも派手に倒れ、体を打ったことは打ったが、それよりもこうして覚醒しつづけていることに体力が限界を迎え、みっともないと思いながら、容易に起きあがれなかった。愕いた桂に抱え起こされて、肩を担がれて運ばれたのが彼の部屋である。
支えられて歩いている間、高杉はじっと息を詰めていなければならなかった。酒のせいか、着物ごしの桂の体温が熱い。その熱さをつとめて感じないように、冷えた床板を踏む足に意識を逃がして歩いた。十間ばかりの距離が、ひどく長く感ぜられた。
桂の部屋は、かねて思っていたとおり、女手もないのにきれいに片付いていた。
どこか悪いのではないか、医者を呼ぼうか、という彼の顔は、自分よりよほど蒼くなっている。いいんですよ、と高杉は目をそらして笑った。自嘲に似ていたかもしれない。
「遊び疲れなんです」
めでたくひとりで江戸に来てからというもの――前に出府したときはうるさい父のお供だった――関東の女がめずらしくて夜ごと遊んでばかりいる、とうとう疲労でひっくり返ったと弁解すると、ぴしゃりと額を叩かれた。
「ほどほどにしておけ。病気でもうつされると面倒だぞ」
「うつされたことがあるんですか」
「馬鹿を言え。俺の武運を見くびるな」
とにかく、すこし眠れ、と桂はいう。高杉にすればたまったものではない。自分の部屋で寝るからと逃げようとしたが、
「まだ朝までずいぶんあるじゃないか。今お解き放ちにしたらまたぞろどこかへ出かけるだろう」
そういって桂は諾(き)かず、とうとう彼の布団までのべて、そこへ無理やり高杉を寝かせた。
「今日だけでもきちんと眠ってくれ、頼むから。そうでないとあとで小忠太殿にどう申し開きをしたものか……」
「あっ、親父のやつ、また……」
また桂さんに何か言ったんですか、と言いかけたところで、ふたたび額を叩かれる。
「俺なんぞに言葉をつくしてお前のことを頼んでこられる、もったいない話じゃないか。ありがたく拝承しないと罰があたるぞ。今に病気をもらって鼻がもげるからな」
「親父はそんなこと言いません」
結局、こうして桂に監視されては、朝まで横になっているほかないだろう。
(形ばかり、目をとじていればいいのだ)
胸のうちで、それが救いの呪文ででもあるかのように、何度も繰りかえしつぶやいた。
桂は、すぐ隣で長くなって、綿入れを肩から引っかけている。酒のせいか、彼はすぐに寝入ったらしい。ゆったりとした、いかにも心地よさげな寝息が聞こえて、高杉は布団の中で身をこわばらせた。彼に背を向けて両膝を曲げ、耳をふさぐ。
苦しい。
そこまでしても、消せない声が、姿が、ただ高杉の瞼の裡にだけ、あった。
はじめてあの夢を見たのは、高杉の江戸到着のちょうど同じ頃、なにかの用事で二、三日藩邸を空けていた桂が帰ってきた日だった。もうずいぶん長く国元にいなかった桂と、その日高杉は久しぶりで対面したのである。
「晋作か」
懐かしげに肩を叩いた彼の顔は、記憶にある面影よりも精悍になっていた。麹町の斎藤道場の塾頭として剣名漸く壮んであり、また藩の少壮官僚としても活躍をはじめつつある桂の姿は、いかにもまぶしく、しかしその挙措や言葉つきには高杉のよく知った気どりのなさとやさしさがそのままに残っていて、なにか一人前らしい挨拶をするつもりでいた高杉は、それだけで変に訥弁になってしまい、ほかに人がいたためもあって、あまり話もしなかった。あとは酒宴になり、端近のほうでしんねりと手酌で飲んでいる高杉からは桂の席は遠かったが、彼は時折そっと高杉が座にいるのをたしかめるように視線を送ってよこし、目があうとやわらかく微笑んだ。高杉はそのたびひょこっと首を突きだして会釈し、やっぱり黙って酒を飲んでいた。
それだけだったのに――――
旅の疲れが残る体に、深酒が効いた。宴が果て、ひとりになって床に入ると、濃く靄がかかったような意識の底に、いつのまにか白い影がゆれていた。目を凝らすとそれは人間の体で、さらによく見ると男の体だった。しかも衣服をまとっていないその体を、自分は――
(何、)
おどろいて離れようとすると、
『ん……』
苦しげな声が洩れる。その声は高杉の鼓膜の奥で桂の声になり、白い肩の上で乱れた髪に半分隠れている顔は、やはりまぎれもない桂の顔になった。
――――桂を。
自分は、桂を犯しているのだ。
馬鹿な、と思うのに、腰をとらえている手を離せない。そのまま乱暴に突き上げて、感触などわからなかった。ただ桂の体――太い骨と堅い肉でできた正真正銘の男の体が、高杉があたえる刺激にしだいにうす紅く染まって、わずかにひらいた唇から、切なげな溜息が洩れていた。
「桂さん」
夢中で名を呼ぶと、涙に濡れた目が救いを乞うようにこちらを見上げて、なにかいおうと――――……
そこで目がさめ、高杉は撥ねおきた。思わず裾に手をやったが、下着は汚していなかった。かわりに、背中がじっとりと冷たい汗に濡れている。
(何を――――)
ともかくも、夢なのだ。
今、自分はよほど疲れている。江戸が近づいてからはほとんど強行軍で歩きぬいてきたし、だからおのずと夜はひとりで寝た。その慾が溜まっているのだろう。くわえて今日ひさしぶりで桂に会って、ひどく懐かしかった。それは間違いない。そのふたつの感情が、疲労で泥のように混濁した意識のなかで、おかしな具合にまじりあったのだろう。それだけのことだ。
(そうにきまっている)
高杉は、薄暗い部屋でひとりはげしく点頭した。
そうでなくてたまるものか。馬鹿馬鹿しい。
(そういえば、犬のしっぽが降る夢をみたことがある)
犬の尾ばかり、白いのも赤いのも、短いのも長いのも、雪でも舞うようにして空からわさわさ降ってくるのだ。それをなぜか自分は夢中で集めていた。まったく馬鹿げた夢だが、人間はときにそういう埒もない夢を見ることがある。今夜の夢も、そういう夢のひとつに数えていいだろう。
数えねばならぬ。
そう思いきめると、汗に濡れた夜着を脱ぎ捨て、下帯だけになって、頭まですっぽりと布団をかぶった。団子虫のように体を固く丸めて目を閉じたが、朝まで二度と眠りは訪れなかった。
その夢を。
一度きりの迷いと思ったその夢に、しかしそれから自分は何度もうなされた。慣れはしなかった。繰り返すごとに苦痛がつのった。なぜならば自分は、はじめてその夢魔に襲われたときから、それがかりそめのいたずらではすまないことを、知っていたのだから――……
桂の表情が、回をかさねるごとに鮮明になる。
組み敷いている体の熱さを、夢のうちにも感じる。汗に湿った肌の、熟れるような悦楽のにおい、額に貼りついた髪の筋がえがきだす、美しい淫慾の模様……それらはもはや、疲労や錯乱の見せる無意味な幻だとは、とても弁明しようもないものだった。自分はその夢の中で、あきらかに桂に欲情していた。
(夢の、中で――か?)
そう自問して、いつもそこで高杉は深くうなだれた。
その問いに自ら答えて、それでどうなるというのか。
(だから)
だからもう見たくはないのだ。
桂の隣でやはりあの夜のように固く身を丸めて、高杉は骨を搾られるような思いでそうねがった。
これ以上あの夢を見てしまえば――あの夢のことを、あの夢のようなことを考えてしまえば、自分はきっと気が狂う。気が狂って、そのときは桂を――――
(桂さん――)
桂の寝息が聞こえる。
あたたかくて安らかな、それは幸福の音色だった。
眠ってはならないと思うのに、その音色の、天上の乙女の胸に抱かれるような甘さに、高杉はいつしかとろとろとまどろんでいた。
そうして、夢を見た。
その夢は、いつものあの夢ではなかった。初めて見る夢なのに、しかしその夢のなかの光景を、高杉はよく知っていた。
桂に手を引かれて、夏の終わりの城下の道を、長い影をひいて歩いている。桂の肩のむこうに夕焼けの大きな空があり、むくむくと緑のわきあがるような城山がある。自分と桂のあいだを、とんぼのつがいが何組も行き交っている。
桂の腕は、今よりもまだずいぶん細く、その背も広くはない。彼はまだ前髪を落としていなかった。しかし幼くとも、形ばかりとはいえ彼はすでに一家の主で、そのせいか年よりはずっと大人びて見えた。桂はその一家の当主としての資格で、時折高杉の父のもとへも挨拶に来ていた。今日も、おそらくはそんな日だったのだろう。
「九郎兵衛どのもお喜びでござろう」
父は、亡くなった桂の養父の名をもちだして、この幼い跡継ぎのことをしきりに褒めた。
「畏れいりまする」
両手をついた桂の所作は子供の目にも美しく、常々父が「利発なお子だ」と言っているのもうなずけた。父は、桂相手には無論むつかしい話はまだしなかったろうが、それでも桂よりうんと子供の自分には、二人の話はよくわからなかった。が、その日の自分はめずらしく、下座におとなしくちょこなんと座って、二人のようすをかわるがわる見つめていた。
そのうちに、もうひとり客が来た。その男のことは思い出せない。ただ桂は新来の客にも鄭重に挨拶して、おそらくその男は父と懇意の同僚かなにかだったのだろう、桂は遠慮したのか、座をさがろうとした。
その辞去の挨拶だけが、はっきりと自分にも理解できた。
桂はその頃から律儀な男で、家格を慮ってか自分にまで丁寧に頭を下げて、これで帰る旨を告げた。
「晋作、何とかご返答いたさぬか」
ぼんやりと口をあいている――あとで聞くとそういうふうに見えたらしい――自分を父が叱り、客が鷹揚に笑った。それで、自分がぐずりだしたのだと、これもやっぱりあとで父が母にこぼしていた。
「あれめはまったく気位が高くて困る」
しかし、そのとき自分はなにも、父に叱られたり客に笑われたことに臍を曲げたのではない。腹をたててすらいなかった。
ただ、桂が帰ってしまうと聞いて、その瞬間、ひどく不安になったのである。
子供心に、おかしなことだとおもった。桂に会ったのはそのときが初めてではない。今まで何度もこうして別れてきたのに、どうしてこうも、急に悲しく、いたたまれなくなったのか。
胃の腑がきゅうきゅうとするようなその不安を桂に訴えたかったが、子供の自分はまだそれを伝えるだけの言葉をもたず、それ以前に不安の正体すら、うけとめきれてはいなかった。
もどかしさで胸がつかえているところを父に叱られて、限界まで溜まったものがその針穴から一度に噴き出したのである。
「なんだ、お前は、お客人の前でみっともない」
父はおろおろするばかりで、あとから来た客のほうも、もてあましぎみに苦笑していた。次第に自分が大きな声で泣きだしたので、もう用談どころではない。退がれ、と父にいわれたが、疳の虫に火がついた自分はいよいよ聞かない。父が手を叩き、母が呼ばれようとしたそのとき。
桂が不意に、おずおずと声をかけたのである。
「あの、こちら様へ参る途中に大きな楓の木が……」
「ん?」
父は毒気をぬかれた顔で首をかしげた。桂がつづける。
「青紅葉が見事でございました」
「そう……かね」
「秋になればまたさぞ美しかろうと存じますが」
「そう、だったかな」
「不躾ではございますが」
と、桂は慇懃に頭を下げた。
「その、紅葉のようすなどもお伺いしたく、ぜひ案内をいただけますれば……」
自分のほうを見た。しゃっくりがやむように、おもわず涙がとまった。
「おお、」
父は一瞬おどろいた顔で、それから大いに感心し、また喜ばしそうに、
「それはそれは、ぜひに」
ご案内いたせ、と自分にいいつけると、自ら玄関まで送りに出て、
「いや、ありがたい。わがままを言うたら張りつけてくだすって結構ですのでな」
顎で自分を差し、それからこれでもかというほど目尻を下げて、
「また遊びにおいでなされ。菓子はなにがお好きです。いや、またごゆっくり」
手をとらんばかりにして桂を送り出した。
あのときの桂のやりようは、今になって高杉が思うに、少々こまっしゃくれすぎていて可愛げがない。今の桂ならばあんな気障なことはしないが、そこは彼も子供だったのだろう。しかし少しばかり芝居気がすぎていたにもせよ、あの気配りは見事なほどで、
(やっぱり双葉より芳しかったのかねえ)
八方気をまわして誰彼なく面倒を見ている今の桂と思いあわせて、感心するような、呆れるような思いでもある。
(結局、楓は見たんだっけかな)
夢のなかで、高杉はその記憶を追っている。わざわざ見に行くほどの枝ぶりの木など、そもそもあのあたりにあっただろうか。
第一、桂の家はごく近所である。そんな木があれば高杉の家に来る途中でなくでもどこかで気がつくはずで、やっぱりあの場でそれを言い出すには、不自然さが勝ちすぎていた。
もっとも不自然だったからこそ、父はすぐに桂の意図に思いあたって、あれほど感心したのだろうが。
あのあと、自分は桂に手を引かれて、四半時ばかり夕焼けから暮れ方に移る空の下をぶらぶらと歩いた。その間おとなたちの用談はとどこおりなく済んだのだろう。
あれほどぐずっていた自分は、桂と歩いているあいだ、一度も泣かなかった。会話は、とくにしなかったように思う。ただ、幼い自分の足にきつくないようにゆったりと歩く桂の背中を、夕日が城山のくろぐろした緑に熔けて、あたりがうす暗くなるまで、飽きもせずにずっと、眺めていた。
そう、この背中だ。
夢だとわかっているのに、夏羽織の皺のひとつひとつまでがひどくあざやかで、その懐かしさが目に痛いほどだった。
時折、桂がうしろをふりかえる。
逆光でしかとは見えないその表情を、どうにかとらえようとして、高杉は目を凝らした。
秋茜が、自分と桂の顔のあいだを、すいすいと行き過ぎる。
『桂さん』
呼びかけたのは、子供の日の自分だったか、それとも――――。
まぶしい、しかしあたたかな光を背に微笑んだ桂のまなざしに、すぐそこまで近づいた秋が匂うようだった。
あの匂いを、まだ、
『桂さん』
俺は――…………
夢のなかの、子供の自分はいざしらず、今の自分はもうそのあとをつづける言葉を知っている。だから、言いさしてやめたのは、表現するすべをもたなかったのではない。思わず叫びだしそうになったその言葉が、ただ自分ながら恐ろしかったのだ。
(桂さん……)
桂が帰ると聞いた最前よりももっと濃い不安と寂しさが高杉を襲い、その寒々しいおどろきのなかで、彼は眠りから覚めた。
あたりには夕焼けの空も、あの日の風のざわめきもなく、かわりに桂のかすかな寝息が聞こえていた。
ふりかえって桂の顔を見たかったが、もしも桂が起きたらと思うと、動けなかった。
闇のなかでうつろにあけている自分の目から、だらしなく流れるものがある。枕の横に投げだした腕を滲んで映しだしているその目は、さっきまぎれもなく少年の日の桂を見つめていた目だった。
あんなにもあざやかに、憶えている。
(そうとも)
耶蘇教徒が祈りを捧げるときのように、両手の指をきつく噛みあわせた。
(あの頃から……)
遁れられないかなしみに、自分はとうに捕まっていたのだった。そうか、と高杉は口のうちでつぶやいた。
(今さら、もう……)
背後で桂が寝返りをうつ気配がする。んん、と溜息に似た小さな声が聞こえて、その甘さに高杉の胸が軋む。
(もう……)
あきらめるように目をとじた。その瞼の裡に、あの日の秋茜が、赤い尾をあざやかに揺らして舞っていた。
今年もひと夜ごとに、秋が深まさってゆく。長くつめたいその夜を、自分はどうして越えてゆこうか。こごった憂いの上をひらりと飛びこしてゆく蜻蛉の尾の先に、高杉ははかない問いをそっと結わえつけて見送った。
[27回]
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