深更にはいって風が死んだ。
木戸の右手はくつろげたシャツの襟元へあてられ、ひっきりなしに扇子を動かしている。かなりくだけたその動作さえ、一種の風韻のようなものがあって、あまり不作法さを感じさせない。さすがに剣客の容儀だと井上は思う。
「氷菓子でも持って来させましょうか」
木戸が欧州から帰朝してからまだいくばくもない。疲れているであろう体の、暑さでさらに消耗することを思いやってそう言ったが、木戸はかるく首を振った。
「もう皆寝ているだろう」
「じゃあ、俺が手ずから」
おどけて言ってみせると、木戸は笑いながら、
「お前にまかせたら何を出されるかわからんじゃないか」
「あ、ひでえなあ」
「この間もとんだ目に遭ったと市がこぼしてたぞ」
「あいつ……」
小さく舌打ちした。趣味の手料理がなぜかあまり好評でないのが、井上には納得がいかない。まずいの何のと、伊藤などは心安だてな仲だけにいつもさんざんに言ってくれるが、山田までその一味だとは知らなかった。
「あいつ、義父上にむかって……」
きっと唇を噛むと、木戸はますます可笑しそうにして、
「まあ仕方ないだろ」
とからりと言った。
「何にせよ今日は遠慮しておくよ。私はこっちのほうがいい」
氷菓子じゃ酒に合わんだろう、と、木戸は盃を持った左手を掲げた。
「ま、そうですけどね」
なおもむくれてみせる井上に、
「世外先生の御馳走はまた今度ふるまってくれ」
と笑いかける。その、いかにも自然なやわらかさ。
(こういうところが、ずるい人だよなあ)
木戸に酌をしながら、俯いた顔をそっと苦笑のかたちにゆがめた。
井上の莫逆の友である伊藤は周旋上手で聞こえた男だが、木戸だって旧藩時代は公務として京都周旋役に就き、維新回天のために八面六臂の活躍をした手練れだけに、その道にかけてはなまなかなものではない。伊藤は性格がやや軽操なために、どうも調子が好すぎる、まるで幇間のようだなどと陰口されることも多かったが、木戸にはそういうところのないがゆえに、その「周旋」には、いっそ身を削るような悽愴さがときに潜んでいた。木戸自身がそのために幾度となく傷つき、見えぬ血を流していたことを井上は知っている。木戸はたしかに人心を攬ることにかけて第一流であったが、同時にそれは彼の痛所でもあるのだった。
(身内にまで気を遣うことはないだろう)
井上は歯痒くもあるが、また木戸のそういうところに、離れがたい愛(かな)しさを感じてもいた。
とぷ、と小さな音を立てて、銚子がまたひとつ空になった。
風は相変わらずない。
「八月だというのに、暑いな」
開け放った障子の外の、夏草が黒々と茂る庭を見やって、木戸がつぶやいた。
「八月だから、ですよ」
「そうなんだな」
ほっと、酒気に熱した溜息が木戸の唇から洩れる。
「俺はまだどうも慣れん。市井でも混乱しているだろう」
「祭礼だの農事だのの暦と、実際の暦が合わなくなりますからね。当分は、生活は実質旧暦のままでしょう」
「不便をかけることになるな」
木戸はそっと眉根を寄せた。
八月といえば、去年までは秋のはじめのはずであった。
太陰暦から太陽暦への改暦がおこなわれたのは、今年の年明け、木戸はまだ外遊中であった。西欧に伍していくため、かれらとおなじ暦を用い、交際を簡便にするというのが根本の目的ではあったが、同時に昨年閏十二月分の官員の給与を全額切り上げ、財政難を緩和するための離れ業でもあった。後者の事情がなければ、これほど急激に断行することはなかったであろう。人民には寝耳に水の話で、実際迷惑しているとも聞く。
「ずいぶん思い切ったことをしたものだ」
「反対でしたか、木戸さんは」
「べつに反対というのでもないさ。いずれは太陽暦にすることになったろうが……」
「衆庶を顧みぬ急進は百害をなす、と」
「まあ、そうだな」
木戸は空になっているであろう盃を口にふくんだまま、低い声で言った。
「なにも改暦にかぎったことじゃない。近頃は諸事急進に傾いて、どうも国の基(もとい)も立たんうちから危なっかしいことだと思うのだが……そういう考え方は、若い連中には固陋に聞こえて、馬鹿馬鹿しくて仕方ないらしい」
若手というのはいつもそうしたものだがな、と木戸はすこし笑った。郷党の少壮客気の連中の、ずいぶん乱暴な運動の始末を、百方頭を下げ策を練り、大汗かいてしてまわった昔を思い出したのかもしれない。あの頃木戸も若かったはずだが、彼はいつでも大人の役をしていた。そういう彼に、皆甘えていた。あの頃の仲間も、多くが鬼籍に入った。
「私の杞憂なら、それでいいんだがな」
はっとするほどさびしげな声で、木戸はつぶやいた。
「私が嗤われてそれでしまいなら、それはそれでいいんだ。だが若い連中が進取、進取で玉石の弁えもなく野放図な欧化をやっているうちに国が傾くとしたら、上は陛下に対し奉っては勿論、下人民にも、鴻業に斃れた先人達にも相すまないじゃないか」
「耳が痛いな」
井上は腕組みして天井を見上げた。井上は木戸と二つしか違わないが、木戸と同世代というよりも、むしろ「若手」として、自身もまわりも認めている。多分に性格的なものであろう。井上には木戸の沈着さがないかわり、瞬発力にはすぐれていた。が、裏を返せばそれは、小僧らしい軽操さでもありうる。
「べつにお前のことを言ったのじゃない」
「俺のことじゃなくても、まあ俺のまわりでしょう」
「うん?」
木戸はあざやかに切れた二皮眼のはしでちらと井上を見返し、その眼だけで苦く笑って、
「俊輔、か」
と言った。
「俊輔のことならもう、心配してもらうようなことは何もない」
「らしいですな」
「やっぱりお前に色々言ったんだな」
「腐れ縁だもんで。でも俺は何も手を貸したりしてませんよ」
「ふうん」
「疑うんですか」
「昔からお前だの俊輔だの高杉だの、あつまると碌なことがなかったろう」
「そいつはあんまりだなあ」
井上はわざとからからと哄笑した。それからふと真面目な顔になって、
「よっぽど俺が間に立とうかと思ったんですよ」
盃を舐めながらぼつりと言った。木戸は応えない。
「だけど、面倒ですからね。あべこべに『俺はとりもたんぞ』と言ったんです。恩を着せてやろうと思って。ところが、そうしたらあいつ、」
――あたりまえじゃないか。誰が頼むかそんなこと。
あのときたぶん、伊藤は本気で憤っていた。子供のように頬をふくらませて、つつけば飛び上がりそうにびりびりして。
――いいから放っておいてくれ。
さすがに井上もむっとしたが、「そうかよ」とだけ言ってひきさがった。ほかのことなら掴みかかっているところだったが、ことこの件に関しては、なるほどなと思うものがあった。
原因はおそらく無数にあった。きっかけは宗教問題と聞いているが、そのことがなくても、いつかそういう日は来ていただろう。
洋行中、中興の青写真をめぐって木戸と伊藤の見解はすれ違い、両者の間は面白くないものになった。伊藤は大いに木戸の不興を買い、ふたりは一時はついに口もきかないほどになったから、その件は関係者の間で面白半分に、種々取り沙汰された。
井上も内地にいながらにして、いつしかそういう消息を知った。
(ついに来たか)
と思った。
伊藤の撥条仕掛けのような行動力と、小気味よいまでの楽観主義は井上もよく知っている。ただこのところそれが暴走ぎみであった。
伊藤はなにもただのお調子者ではなく、根は現実的な合理主義者なのだが、なにしろ今はまだ若い。彼の勘案する「現実」は、木戸にくらべれば重厚さに欠けていた。目の前の現象に、判断がふれ動かされすぎるのである。それが木戸には、彼のきらう「皮相の生開化」論にうつる。自然、小才子のすることと、にがにがしくおもわざるをえない。伊藤は伊藤で、そういう木戸が煙たくなる。今回の不和はそれこれのちいさな齟齬が積もり積もって、ついにきたるべきものがきた、という感じを、井上はまずうけた。
(しかし、まずい)
どうも文教政策というのは自分には苦手だが、どちらの言い分ももっともなことだと思う。ここは議論して良案を練るべきで、ふたりがそっぽをむきあっていてよいときではない。なにもかも新造のこの国に、そんな余裕はないのである。いかにもして和解させたかったが、しかし一方で、どうにも踏み込みたくないという思いが、井上にはある。
伊藤とは莫逆の、刎頸のという枕詞のつく仲だし、木戸とは同志としてほぼ対等にものが言えるという、それぞれに親しい立場にいる井上だが、そういう関係とは別に、木戸と伊藤の間柄にもまた、ひととおりでない因縁があり、余人にはわからない感情がかよっているのだと知っていた。だから、あえて自分は喙を容れたくない。もしも両者の間がこじれているなら、当事者同士で解決させたい――木戸には気恥ずかしさから「面倒だから」といったが、井上が伊藤に、仲裁はしないとあらかじめ宣言したのは、そういう思惑があってのことだった。
が、当の伊藤は、井上が思ったよりもずっとしっかりしていた。
――誰が頼むかそんなこと。
憤然として言うのを聞いたとき、井上はおもわずにんまりとした。
(そう、それでいい)
ほどなくして伊藤が木戸を訪ね、心事を明かし、詫びるべきは詫びて、両者の交際は旧に復したと、これは伊藤本人から聞いた。
「そうか」
井上はことさら興うすげに答えたが、なぜか維新前後の国難に斃れていった同志たちの顔が、つぎつぎとうかんでは消えて、柄にもなく目頭が熱くなったのを憶えている。
「あいつはね、」
と井上は、詳しい経緯は木戸にはやはり語らないが、
「歯を剥いて喰ってかかりやがって」
と、伊藤が仲裁を憤然として断った、そのくだりだけを話して聞かせた。
「ふうん……」
木戸はべつに面白くもなさそうな返事をして、顔も上げずに、手の中で盃を弄んでいる。だがこころもち伏せられた眼に、息苦しくなるほどのやさしさが灯っているのを、井上ははっきりと見てとることができた。
(あんたは、これだから……)
木戸に知られないように、そっと苦笑する。
「まァ、よかった」
誰にいうでもなく、井上はつぶやいた。木戸もその意味がわかるのかそうでないのか、ただ沈黙している。
(とりあえずよかったんだ)
と井上は思う。
ゆらい、木戸には気鬱の種が多すぎる。
自分もそれを蒔いているのだからあまり大きなことはいえないが、国家の前途を思い、斃れた先人達への慰めを考えるとき、もうそれだけで木戸は身も世もないほど苦しく嘆かわしく、悲しくなるらしい。彼は弱くはなかった。しかし孤独だった。彼のまわりにはいつでも人があつまっていたが、暮夜ひとりでこしかたゆくすえを案ずるとき、かれは無明の闇にぽつねんとただひとり坐っている気がするらしかった。
その憂いをともにできる相手に、彼はあまりに飢(かつ)えていた。
(だから、せめて)
伊藤との和解はたしかに彼の不安と寂しさを、一半以上拭いさったにちがいなかった。
そう思ったとき、
「おまえたちは、いいな」
と、ふと木戸が言った。
「お互いがいて、いいな」
ことばはいかにものんびりしていたが、無限の寂寥をたたえたその声は、井上の耳朶をつめたく打った。
この人の物想いは、永遠に霽れることはないのだろうか。
ゆるやかに、しかしかたくなに閉じていこうとする木戸のさびしさに、井上は掻き抱くように縋りついた。
「俺と木戸さんも、よくはないんですか」
半ば本気でなげかけた問いは、木戸の微笑にいなされて、縁をこぼれる闇に消えた。
どこかで溜息するように鳥が啼いて、それをしおに二人はだまりこんだ。
あたりの街路は、暗くひっそりとしている。それでも夏の夜は闇の色もなんとなくあでやかで、昼間の殷賑が遠くこだまするようである。御一新このかた、とみにそう感じる。
その蒸れかえるような闇のなかで、静かに、ひいやりと蟠る志士の彫像を、甘苦しいさびしさで眺めながら、井上はそっと盃のふちを舐めた。
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