昼間はまるで死んでいた風が、日のかたむくころになってようやく肌に感じられるようになった。
「ああ、ようやくこれで命がつながった」
せわしなく団扇を使いながら広沢が呻くと、隣でやはり襟をくつろげてしきりに風を入れていた木戸が、声をたてて笑った。
「まったくお互い暑苦しいな」
「俺が暑苦しいんじゃない、実際暑いんだ」
その夏の暑さは、譬喩ではなくうだるようだった。御一新このかた、空家ばかり増えてがらんと静かになった山の手の風情は、たださえ夢か魔のようであるのに、ありとある景色をゆがませる蜃気楼と、ずるりと体の皮の崩れ落ちそうな熱気とが、御用繁多で疲れきっている広沢の心を、彼らしくもなく妙に不安にさせたりした。
「寝苦しくてかなわん」
いつからできたのだったか、目の下に灰色の隈がうかんでいる。近頃は深更にようやくとろとろとまどろむばかりで、そのため昼間も一体自分が醒めているのかあるいは眠っているのか、ふとうたがわしいような気がすることがあった。
(夢なのかもしれない)
と、気弱に――その深刻でない気弱さは、彼自身のふしぎな快感を誘うところがあった――考えてみたりする。なるほど、癸丑以来十余年のことは、なにもかもみな白昼夢なのかもしれなかった。
(俺はお城の溜りの間で昼寝でもしているのかもしれない)
こんなふうに――と、その夕、久しぶりに体の空いた広沢は、近頃手に入れた麹町の邸の居室で、ごろりと手足を投げ出した。うそのような値で得たその邸はもとが大身の旗本の持ち物であっただけにだだっ広く、いまだ国元に妻も親類も置いたままの暮らしは万事が手軽ですかすかとして、やはり夢のなかのようにおもえた。
「殿様殿様、」
と年老いた下女に来客を告げられたのはそのときだった。若い頃からこの界隈で奉公しているというこの老婆は、お旗本のお屋敷に住んでいるのだからやっぱりお旗本のようなものだろうとひとり合点をきめて、何度教えてやっても山の手風に広沢をそう呼ぶ。
「お隣の殿様がおいででございますよ」
そう言ったとき老婆は、すでに客を上げてしまっていた。痩せて小さな老婆の後ろから、
「なんだ。退屈そうだな」
にょっきりと木戸が顔を出した。顔の横に大きな徳利をかかげて、ぷらぷらと揺らして見せている。
木戸の邸は、下女がいったように広沢のすぐ隣である。もっとも互いにひろい家だから軒を接するような近さではないが、それでも木戸はきわめて気軽に、ときどきこうして着流し姿で、勝手からぶらりとやって来る。彼もまたわずかな使用人だけが同居人であり、夏の短夜とはいえ、ときには無聊をかこつことがあるらしい。
広沢は心安だてに、寝転んだまま「ああ」と曖昧にうなずいて木戸を見上げた。木戸も心得ていて、かまわなくていい、と下女にことわると、鉄色の絽の単衣の尻を、どっかと広沢の横に下ろした。
「うちの井戸で冷やしておいた。やらないか」
と目の前に徳利を置く。広沢の上戸としての生理がひとりでに反応して喉が鳴ったが、彼の意識はあいかわらず昼の余熱と半覚醒のけだるさのなかを漂っていた。そういう自分の風景に木戸は似合いだと思った。彼もまた、癸丑以来の白昼夢のなかの人であった。あれほど鮮烈で異常な十余年間を、しかしふりかえってみればその輪郭は意外なほど漠として、ぬったりと油がながれるような倦怠感があることを、彼ならばおそらくわかっているだろう。そうして彼はいかにもその風景の一部にふさわしく、淡あわとして、しかし時折劇しい色彩でもって広沢の記憶の場面を塗りつぶした。
(妙な男だ)
と広沢は目のはしでわずかに笑った。といって、木戸はその性格も挙措もどこといって奇矯な男ではなかった。しかしその長者風の温容ににあわぬめぐりあわせの数奇さが、彼の印象にふしぎな陰翳と、それ以上に光彩をあたえていた。それは広沢には妙としかみえなかった。
「暑い」
広沢は顔へとまろうとした蚊を振りはらいながら言った。
「その図体でそんなところへ座られちゃ、風が通らん」
「ずいぶんだな」
木戸が苦笑する。
「ちょっと、あれだ、そっちへ行ってろ」
ううん、と重い体をひきずるように起こして、縁先を指さした。
「ばあさんに言ってなにか肴をつくらせてくるから」
木戸は広沢に差されたほうを振り向くと、
「ああ、夾竹桃が」
暮れなずむ陽が薄橙ににじむ庭に咲きこぼれる白い花に、嬉しそうな声をあげた。
「鱚がございますよ」
ちょうど今しがた魚屋から求めたのだといって、ばあさんはさっさとそれを塩焼きにしてくれた。
「なんです、ええお猪口はその棚の左……それはお使いなすっちゃいけませんよ、欠けてるんですから。なんで取っておくんだッて、五つ揃いで買ったんですから、ひとつ失くなしちゃ四つになっちまうじゃありませんか。験が悪うござんすよ。四つはいけませ……ああ、殿様がお運びなさらなくっても、この婆がいたしますよ」
給仕に出てこようとするのを広沢がとめた。ばあさんは陽気でおしゃべりで、ざっかけないいいやつである。しかしばあさんを呼んではどうも座があかるくなりすぎる。暑さと不眠で疲れている広沢には、ばあさんのぴんしゃんした陽気さがどうもかえって気鬱におもわれた。
座にもどると、木戸は広沢にいわれたように縁先に出ていた。うしろに両手をついて胡座の膝をさらにくずし、庭を眺めながらひくく端唄かなにかを唄っている。
「ほれ」
鱚の載った皿を、広沢はじかに縁に置いた。魚の脇に寄せられた箸をとって、木戸はためらいなく、そのままつつきはじめる。ひとたび廟堂へあがれば互いにことごとしい官名がついているが、余人をまじえぬ酒の前には、雑駁な書生の頃にたやすく戻れた。
冷えた酒が、喉に沁みた。
庭のそこここの繁みで虫のすだく音が聞こえる。草の匂いのする風が肌を撫で、広沢は胃の中の蒸れた空気を逃がすように、長い溜息をついた。
「よくぞ男に生まれけり、か」
夕日が最後の光芒を地にはなっている。しかしそれはもう熱くはなく、広沢のやすらかな酔い心地をすこしもさまたげはしなかった。
ふ、と猪口をふくんだまま、木戸が笑う。
「そんなに生まれ甲斐のある夕涼みでもないだろう」
「いい酒だぞ、これ」
旨いじゃないか、と猪口をかかげてみせると、
「まあな」
魚も旨い、と木戸は言った。
「旨いがむさくるしいじゃないか。何がかなしくて男二人……」
「俺は呼んでないからな。お前が勝手に来たんだろう」
「そうだったな。次は向島にでも呼んでくれ」
――あの、よくぞ男に生まれけり、なんていうときの夕涼みは、そういうところでなきゃいかんだろう。
木戸は広沢の団扇をとりあげて、自分の胸元に風を入れた。酒のせいでまた暑くなりだしたのか、襟を大きくくつろげている。
「舟を泛べて、声のいい女に『夕暮』でも唄わせてな。それで、あれだ、『ねぇ旦那、お座敷着は暑くてあたしいやになっちまう』――」
「気色わるい声を出すな」
「うん、本当に気色わるいな。どうして大入道とふたりでさしつさされつなんかしなきゃならないんだ」
「人のことが言えた義理か。何度もいうがお前が勝手に押し掛けてきたんだからな」
「ああ、大入道の仏頂面は暑苦しくていかんな。目がまわりそうだ」
「いやなら帰れ」
「この鱚は旨いな。今度その魚屋にうちにも持ってくるように言ってくれ」
「お前は河豚のはらわたでも喰わされろ」
昔からそうだったが、どうしてこの男は酒を飲むとこう遠慮がないのだろう。べつに暴れたりはしないが、勝手に酔っ払って、勝手に愉快になっている。もっとも、国にはそれどころではない悪い酒の連中がいくらもいたから誰も木戸の酒を非難しなかったようだが、これはこれで充分に傍迷惑であると思う。
「どこへ行く」
木戸の持ってきた酒はとうになくなって、広沢の家のと、さらに下男に買いに行かせた酒を二人は飲んでいる。広沢は木戸をいい加減にあしらって、しかし飲むことももてなすこともやめなかった。
そうして不意に立ち上がった広沢に、木戸が呂律のあやしい舌で尋ねたのである。
「どこへ行くんだ。いいところか。俺も行くぞ」
「厠だ馬鹿」
「なんだ。じゃあひとりで行け」
「誰がついて来いと言った」
まったくどうしようもないな、と溜息をついて、広沢はずんずんと縁廊下を去った。
帰ってきてみると、木戸は寝ていた。
昔から酒を飲むと寝る男だった。天皇陛下からの賜杯があったときも、退下する途中で小御所の御廊下にひっくりかえって寝ていた。今さら広沢の家の縁先で寝ることぐらい屁とも思っていないだろう。
それにしても。
(これはひどい)
広沢は横に屈みこんで、木戸の寝相をながめた。
仰向けになった木戸はその長身を縁からはみ出させて、肩から上を仰け反るように外へ垂れていた。馬鹿みたように開いた口から、時折かるいいびきが洩れている。
「おい、」
広沢は木戸の首の後ろに手をやって、頭を持ち上げてやった。
「起きろ。寝ちがえるぞ」
否、寝ちがえるぐらいのことはどうでもいいのだ。しかし万一このまま頭から落ちて、頸の骨を折って死なれでもしたらおおごとである。大官が死ぬには馬鹿馬鹿しすぎる死に方であるうえに、せめて自邸で死んでくれればまだしも、こんなところで死なれては、あとあと広沢が世間でなにを言われるかわかったものではない。
「ほら、起きろ」
「んん……」
揺さぶられて、木戸が不機嫌な呻き声をあげる。
「はいはい、どうぞおかまいなく……」
「好きでかまっているんじゃない。とにかく変な格好で寝るな」
「うるさいな……肥池にはまってるんじゃなかったのか」
「厠に行っただけだこの馬鹿」
「案外臭わないな。しかしちゃんと風呂には入れよ。おやすみ」
「おやすみじゃない。それから俺は肥池にになんぞ行っとらん」
とにかくおかしな寝かたをするな。木戸をひっぱりあげると板目の方向とおなじに体を長く伸ばさせて、
「そんなに眠ければ布団を貸してやるから。たのむからちゃんと座敷で寝てくれ」
ほら、と腕を引っ張ったが、木戸は子供のような仕草でそれを払いのけて、
「いやだ。ここで寝る」
もう動かすな、とむずかった。
「もう、立てないからな……」
「それなら這って行け」
「気持わるいんだ」
木戸は昇りはじめた月から顔をかくすように片腕を額の上に載せ、もう片方の手で自分の胸のあたりをそろそろとさすった。
「この馬鹿が」
広沢は溜息をついた。
「どうしてそんなになるまで飲むんだ」
そもそもこの夏のはじめ、木戸は頭痛を訴えて長く引っ込んでいた。海水浴が効いたのだとかいってだいぶん顔色もましになって出てきたが、ちょうど版籍奉還や兵制問題のことで彼は多忙であり、病後の体をいたわるゆとりはなかった。疲れた体に、深酒が祟るのはあたりまえだろう。
広沢は木戸の酒を途中でやめさせなかったことを、いまいましい思いで悔いた。
が、
「いいじゃないか……」
木戸はうるさそうに鼻を鳴らした。
「楽しかったんだ」
腕の下から、物憂げな、甘ったれたような眼が広沢を見上げる。
「楽しかった。久しぶりで」
苦々しいような、こそばゆいような感覚に皮膚の下を掻かれて、広沢は思いきり顔をしかめた。
「酒なんかいつでも飲めるだろう」
「そうでもないさ」
木戸が手を伸ばす。指先が、広沢の膝に触れた。
「いつ何があるかわからんだろう、俺もお前も」
今まで、またいつでもと簡単に思って、そういうときにかぎってそれきりになるんだ。そうやって別れてきたんだ。何人も――――。
半ばうわごとのように、木戸はそう言った。
「お前だって、そうだったろう……?」
向けられた眼を、広沢はわざと無感動に見返した。
「忘れたな」
雲が月の上にかかり、また過ぎていく。木戸の顔が黒く翳り、また淡く照らされた。
広沢は膝に置かれた木戸の手をはずし、彼の胸の上へそっと返してやった。
「待っていろ」
どこへ行く、とは、木戸は今度は訊かなかった。ただゆっくりとまばたきをして、その睫毛の翳だけで淡く微笑んだ。
水を汲んで戻ってみると、木戸はまたうつらうつら眠ってしまっていた。
その口の上にそっと手をかざして彼の寝息をたしかめると、広沢はほっと安堵の溜息をついた。
(俺もずいぶん――)
のせられやすくできている、とひそかに苦笑した。
木戸はただだらしなく酔って寝ているだけなのに、ふとその呼吸をたしかめてみる気になったのは、
『いつ何があるかわからんだろう』
彼のそんな言葉を聞いたせいだったかもしれない。
(馬鹿馬鹿しい)
自分も思ったより、酔っているのかもしれない。
まず自分が一杯飲もうと、水差しの水を盃についでいると、ガラスどうしのかちりとふれあう音に、木戸がうっすらと眼をあけた。
「大丈夫か」
訊いてやると、だまってうなずいた。
「飲むか」
盃を突きだしてみせる。
「水か」
「あたりまえだ。誰がもう酒を飲ませるもんか」
「そうか」
ふ、と木戸は笑って、目顔で水をねだった。
広沢が盃からかたむけてやった水は、木戸の口に半分ほども入らなかった。
「ああ、悪かったな」
唇の端からこぼれた水を手でぬぐってやる。と、木戸が首をこころもちひねって、広沢の濡れた指に口づけた。紅い、熱い舌がゆっくりと指の間を這う。
広沢はおどろき、しかしどうしたわけか、手をひっこめようとは思わなかった。ものもいわず木戸の顔を見つめた。
木戸は虚ろに目をあけて、広沢を見ていた。その顔は戯れるでも媚びるでもなく、ただ広沢を見ていた。そうしてゆっくりと腕をあげて、白い指先で広沢の唇を差した。それから今度は自分の唇を、声をたてずに動かしてみせた。広沢の指をくわえたままの唇が、
『み、ず』
と伝えていた。
意味は、すぐにわかった。
広沢は毛虫でも喰わされたような表情になって、しばらくはなにもいわず、ただ舐められた指を木戸の唇に強く押しあてた。そういう広沢を、やはり木戸はじっと眺めていた。
「お前は……」
ややあって、広沢は喉の奥からようやく絞りだすようにして言った。
「そういうことをするから妙な噂を立てられるんだぞ」
木戸の眼が笑う。
「なんだ、妙な噂って」
広沢は答えず、水差しからじかに水をあおると、噛みつくように木戸に口づけた。
(馬鹿が――)
誰が馬鹿なのか、広沢にもよくわからなかった。ただわけもなく悔しく、そうしてすこし恐ろしかった。
木戸の喉が、く、く、と小さく音をたてて、広沢に注がれた水を嚥みくだす。広沢は吸いよせられるようにその喉へ手をやって、喉仏のふるえるさまをたしかめた。
木戸が唇をとじようとするのを感じて、広沢も口を離した。そのまま互いの息がかかるほどの距離で、広沢は木戸の中のなにかを見さだめようとするように、その眼を見つめた。木戸は微笑で受けた。
と、
「ただの噂だと思ったか?」
濡れた唇でそう言った。涼しく甘く、美しい声その声に、広沢は目を見ひらいたまま沈黙した。
(やはり知っていたのか)
それはそうだろう。あの頃同志のあいだでさえ面白がってそういうことを言う者があって、広沢も二、三発殴ってやったことがある。
否、ひょっとすると、はじめは同志のなかから出た、たちの悪い冗談だったのかもしれない。木戸の周旋はどうも軟弱で、迂遠でいけない。そう不平を鳴らす過激の徒が、旧藩の頃は――いまもだが――いくらでもいた。あちらを顧み、こちらへ気をまわして、八方まるくおさめようとするのが彼の流儀だが、そんな気の長いことで天下が動くものではない。敵は斬りふせてしまいさえすればよいのだ。木戸はなにをぐずぐず、商家の番頭か手代のようにして、ひとの機嫌をとって歩いているのか、一体それで事が成るのか――そういう非難を陰で、ときには面とむかって木戸はあびせられていた。
「いや、あれはあれで秘策があるんだろう」
そういうときに、木戸を皮肉っていう男がいたのである。
「あの仁にはどんな男も手懐ける自信があるんだろうぜ」
つまり木戸が男娼の真似事をして政敵を籠絡するのだと、かれらは下卑た笑いとともにそう言ったのである。
(よくもまあふざけたことを)
広沢はあきれた。広沢だけでなく、大抵の反応はそうだったろう。一体あの頃何人が本気で、その噂を聞いていたものか。
実際、艶話としてもたちのよくないものだった。木戸の名誉のためにどうこうというのではなく、木戸の体つきで男娼をさせようというのは、いくら考えても無理がありすぎる。
(顔は悪くはないが……)
五尺七寸の男娼など、客がつくものだろうか。
馬鹿だ、まったく馬鹿げていると、そう思いながらしかし、さも楽しげにその噂を吹聴していた男を、むきになって殴りつけたのはなぜだったろうか。
(そういうこともあるいは……――――)
そうおもわせるある殆うさを、木戸はたしかにもっていた。というよりも、もっているのだと思った自分の心のなさけなさを、広沢は血まみれるほど殴り倒してしまいたかったのかもしれない。
(知っていたか)
誰が耳に入れたのか知らないが、自分のそういう不名誉な噂を、木戸もやはり承知していたのだろう。
そうして。
「ただの噂だと思っていたのか。お前はそのご面相のわりにはずいぶんお人好しだな」
挑発的な言葉を、しかしやっぱり木戸は涼やかにいった。
「じゃあ、お前――――」
広沢は息をのんだ。
「本当だったのか」
「さあ、どうだろうな。俺だって何を言われていたか、正確には知らないんだ」
だから、どこからどこまでか本当かなんて――。そう言って木戸は微笑んだ。彼は悪びれもせず、自嘲するでもなく、ただすこし嬉しそうに広沢を見つめていた。
「じゃあ――」
と広沢はもう一度おなじことをつぶやいた。自分は何も知らなかったが、癸丑以来、今までどれほどの折衝が、その成功が、木戸の体であがなわれてきたのだろうか。
「いいじゃないか」
顔をこわばらせていた広沢に、木戸は微笑んだまま言った。
「俺はただ、俺のしたいことを楽しんだんだ」
それより、と、長い指が広沢の頬を撫でた。
「水を、もっと――」
やわらかに目をほそめたその表情が、ひどくなつかしいものに思えた。
口移しで水をあたえてやりながら、広沢の手は木戸の首筋をたどり、胸元へ辷りこんだ。
「兵助……」
注がれた水を飲んだ木戸が、淡く靄のかかったような声で名を呼ぶ。
「兵助、もっと……」
広沢はさらに水を含んで口づけ、襟を引いて木戸の肩を抜いた。木戸の手が、広沢の首に回される。
「もっと……」
広沢はもう水は摂らなかった。かわりに深く舌を絡ませ、膝で木戸の裾を割った。ん、と木戸が小さく声をあげる。
一体、それは欲情だったろうか。
広沢の体はすでに、木戸を欲して熱を帯びている。しかし自分の意識としてはどこまでも、積極的に木戸を抱きたいというつもりはなかった。
そのときはただ、そうするのが自然だったのである。
いいのか、とか、どういうつもりなのか、とか、そんなことは互いにひとことも口にしなかった。かわりに、
「体は平気なのか」
下唇に歯を立てながら訊いてやると、こくりとうなずいた。
「兵助、」
広沢の手からためらいが消える。内股を撫でると、木戸は嬉しそうに頬ずりをした。
もう、止まろうとは思わない。
それでも本当は、(未練だが)彼に訊きたいことはいくらもあった。体のことも心配がないわけではない。しかしそれらはこうして触れている肌の熱さにくらべれば、どれもこれもくだらないことだった。
(次はいつあるか知れないのだ)
広沢は、さっきの木戸の言葉を思い出していた。それから、これが最後というつもりで見渡せば、人の世はなんと不要なものに満ちているのだろうと思った。あれも要らぬ、これもくだらぬ、そうして棄てていって、残ったものが今夜のこういうことなのかもしれなかった。
月が、沖天にさしかかろうとしている。
ふと目をあげると、なんということのない庭が月明かりのせいでふしぎに美しく、なんだか知らない場所へ迷い込んだような気分になった。妙なものだと思って下を見おろすと、これも月明かりのせいなのか、自分に組み敷かれている木戸が美しく、それでもやっぱりその木戸は、広沢のよく知っている木戸だった。
こんな角度で彼を見つめたこともなければ、ましてや着物の下の肌をさぐったことなどないのに、木戸の素肌の感触も、わずかに身じろぎするしぐさも、時折低く洩れる声も、広沢の記憶によく馴染んだもののような気がした。
その記憶をたしかめるように、ゆっくりと木戸の全身に触れる。広沢の節くれだった手の下で、木戸の体が甘くふるえた。
「お前は、優しいな」
すべて終わったあとで、乱れた裾を直しながら木戸が言った。
「そうか」
広沢はみじかく返事をして、木戸の手が解けた帯を結び直してゆくさまを見ていた。
「よかったか?」
と訊かれたので、
「わかるだろう」
と答えてやった。体のそこここに、まだ木戸の感触が残っている。
「まあ、な」
木戸は情火の名残が気怠く匂うような顔で、
「お前のように無口でおわる男を知らなかったから」
と笑った。広沢はなるべく無心でそれを聞いた。
「みんな何だか色々喋るんだよ。うるさいな、といつも思っていた」
「そりゃその連中が気の毒だろう」
多分その「色々喋る」というのは、皆木戸の体の感想を言ったのだろう。つい歎声を洩らしたくなる気持は、たった今それを味わった広沢にはよくわかる。それをうるさいといわれては――可哀相な男どもの顔を、知った顔であれこれ想像しそうになって、広沢はあわててそれを振りはらった。
それは臆病なのではない。くだらぬからやめたのだ。
――そうとも、皆くだらない。
油かすを積みあげたような、べとべととしつこいばかりでまるきりつまらぬ日常の――それは広沢ひとりの日常ではなくあらゆる日常というものの常の姿だったが――風景のなかで、木戸だけが――木戸に触れた感覚だけがあざやかだった。
「お前は、体は」
「よかったよ」
「そうじゃない」
手をのばして、額に落ちかかった毛をすくいあげてやった。顔色は、悪くはない。
「大丈夫だ」
その手に木戸の指が絡む。
「ただ、すこし背中が痛い」
「だから布団で寝ていろと言ったんだ」
木戸の手を引きよせて指先に歯を立てた。木戸はわずかに眉を寄せながら、
「どうしてこんなことになったと思う?」
虫の名を尋ねる子供のような口吻で言った。
「いいだろう、どうだって」
広沢はその問いにもべつにひるまなかった。最前までの木戸のいい加減さがうつったように、そう言い捨てた。
――そう、どうでもいい。
どうして理由など、つきとめる必要があるものか。第一、そんな余裕は自分にはないのだ。自分にも、誰にも。
「そんなことをいちいち考えている暇はないだろう。俺にも、お前にも」
――そんなことをぐずぐず考えているうちに、ひょっとすると……だから……――
「そうだな」
いくらかまぶしそうに、木戸は笑った。
「じゃあ、寝ようか。布団で」
手を差し出しながら、彼は立ち上がった。その立ち姿が、だらしなくもあり、またそうでもないようであり、月に青白く照らし出されて、美しかった。
広沢はしばしだまったまま木戸を見上げた。月はそうしているあいだにも次から次と庭に縁に、かれらの上に降りこぼれて、音がしそうなほどだった。
「来るだろう?」
それが当然だというように、木戸はかさねて広沢を誘った。
「俺の家だぞ」
広沢は顔をしかめてみせながら、差し出された手を取って腰をあげた。
そのまま抱き寄せると、いつの間に冷えたのか木戸の体はすこしつめたくなっていた。それがわけもなく胸をかきむしり、骨の鳴りそうなその焦燥に、突きあげられるようにして広沢はあわただしく木戸の口を貪った。
突き飛ばすように木戸の体を敷居のむこうへ押しやると、
「布団、」
と言うのも聞かずに、畳の上へ押し倒した。
[28回]
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