ロンドンの日暮れは早い。
それでも夕食後に散歩へ出ることもままあったが、気候のきびしさで有名だというこの街の冬は雪や氷雨の降る夜も多く、今日もやはり、外は雨だった。
白く冷たい霧にけぶった窓外の景色に外出を見合わせた木戸は、就寝までのつれづれを、部屋に客を招いて過ごした。
「一国の法律が、民法も商法もすべてあわせてまあ、数百条としようか。それらを束ねる根本立法があるようにね、」
卓に両肘をつき、組みあわせた指のうえに顎をのせて、木戸はこころもち首をかしげながら話した。固い話ではあるが、相手にめぐまれたことで、木戸の気持はむしろ軽く、朗らかでさえあった。向かい合った椅子に掛けているのは久米と、文部理事官の田中不二麿である。
「教育にも……」
言いかけてすこし考える。さっきからこんなふうにして、考え考え、話している。ときに自分で何事か思いついて手近の用箋に控えたり、深く頭を垂れて沈黙したりした。二人はその間ともに考えこんだり、木戸の考えをたすけるべく、自分の腹案を述べたりした。いずれもこちらの呼吸をよく呑み込んで、焦らさず急かさず、よく相手になってくれる。
「無論教育は実学を重んじていくんだが……どうだろう、私らの時分は四書五経と、あとは少しの詩文をひねくりまわしていればよかったから、頭がこう、混乱するようなことはなかったが、これからはずいぶん多岐に渡って学ばねばならないじゃないか。その、まあたとえば英語なり数学なり物理学なりと、こう色々に学んで、それがてんでばらばらの方角を向いているようでは、学んだ当人の、一個の人格の中に学問がひとつ柱として根づくということは、なかなか難しいのじゃないか」
ゆっくりと言葉をさがしながら、だから、と木戸は両手の指を組みかえて、
「一国の法に根本律があるように、一国の教育にも、各方面各学科を貫く学業の本義が、明確に示されねばならないだろう」
「それは実にごもっともなことです」
田中が大きく頷く。彼は特に省命をうけて、欧米の教育制度を視察・研究していた。その間、木戸となにか似たような感慨をもったものだろう。
「本邦では道徳といえばもう腐儒の手垢のついた不合理・迷妄の説教ばかりで、開化の世には適(あ)わないものと考えがちですが、却ってこちらでは徳育ということによほど力を入れています。そうでなければお説のとおり、とうてい百技百科に血が通って、ひとりの人格の内に大きく珠を成すものではありません」
「しかし、こちらの徳育というものは」
と、久米が口を挟む。田中よりいくらか年長の彼は熱することなく、一度木戸に目礼すると、しずかに自説を述べた。
「こちらの徳育というものは、すべて耶蘇教の教えによるものです。泰西では徳も人倫も理知さえも、神の教えが握っています。これをそのまま本邦に移し植えるわけにはまいりますまい」
「そこだなあ」
木戸は溜息をついた。実に自分の心にかかっていた箇所を、両人はよく理解してくれる。
「根本律を樹てるにあたっても、結局はそこで躓かざるをえない。西洋では政治家は教典に手を置いて神に誓う。とすれば我々は何に誓えばいいのか。まさか経書や祭文にむかって臣ナニガシ謹ンデ……とやるわけにもいくまい。日本では宗教は人倫と明智の府ではない。ただの迷信、鰯の頭さ。庶民が信心するのを妨げてはいけないが、政府が推奨するようなことじゃない」
「それでは、公はこの春できたあの、教部省は……」
若い田中が遠慮無く質問する。
「まるで悪いとはいわないよ。だが坊主と神主が出てきて御新政の新教育もないんじゃないか」
木戸が苦笑する。田中と久米も、つねづね同感だったのであろう、安心したようにその笑いにならった。それから、なんとなく三人そろって沈黙する。木戸はいまの議題について思案をつづけていたし、あとの二人もおそらくはそうだったろう。
ややあって、田中が口をひらいた。
「徳育のこと、いま一度研究が必要かと存じます」
席を立ち、一礼する。
「いずれまた、そのことがまとまりましたら、御報告にあがります。今はまだ、御参考になりますようなことは……」
「まあ、それは、」
そうだろう、と木戸は微笑んだ。今日のところは、格別に意見を叩いたというのではない、ただなんとなく雑談のうちに見えてくるものでもあればと思っていたにすぎないのだが、しかし田中の若者らしい生一本な熱心さは、木戸の快とするところだった。
「そうと決めましたうえは、少々読むものもございますので」
夜は、まだ長い。名残惜しかったが、そのまま田中を見送った。
「若いなあ」
久米を振り返ると、彼は眼だけでそっと笑った。いつでも彼は、かるがるしくものをいわず、といって無愛想というのでもなく、こうしておだやかに、向けられる視線に対して微笑んでいる。
(いつでも――――)
ふと、あらぬ方向へ連想がおよびそうになって、木戸は咄嗟に目をそらした。急に、田中のいなくなった部屋が広く、ここ数日の滞在で馴染んだ部屋の調度も、曇った窓硝子から覗く景色も、皆知らぬ他人のように感ぜられた。久米と自分だけが、このつめたい空間にいる。洋燈の側で、ふたつの大きな影になって――
ぱち、と暖炉の火がはぜた。さして大きくもないその音に、木戸はびくりと肩をふるわせる。
と、久米が立ち上がる。彼は木戸のほうは見ず、真っ直ぐに入口の扉へ向かった。
「あ、君も……」
もう寝むのだろうか。わずかの間とはいえ、馬鹿なことを考えていた。木戸はあわてて立ち上がり、久米の痩せた背中を追った。
「久米君」
呼びかけたのと、かちりと小さな金属音がしたのとが同時だった。数秒の間をおいて、木戸は音の正体を悟った。久米の手が、扉に施錠したのである。
「久米君……」
自分の声に滲んだ愕きの色が、ひどく白々しいものにおもえた。いつかまたこうなることをずっと予感し――――期待していたのではなかったか。
久米が悲しいような情けないような、そして何より深いやさしさを湛えた眼で、こちらを見つめている。その眼に答える表情に迷った瞬間、ものもいわず抱き寄せられた。
深く口づけられながら、寝台の際まで追いつめられて、尻餅をつくようにどん、と腰を下ろす。
追い上げられる熱にいつしか朦朧としている頭の奥に、
『あんまり、さあ……』
よく馴染んだ男の声がよみがえる。
『あんまり若い奴は誘ってやるなよ。あとが祟るぜ』
あのときの、苦いものを嚥み下したような、それでいてはにかんだ風の笑い。あの男独特の、入日が斜めに差すような光と温度が、木戸の目を眩しさに細めさせた。
(おまえのいうとおりだったよ)
記憶の中のその顔に、木戸は苦笑しつつ語りつけた。
横浜港で、ほかの大勢の見送り客とともに別れてきた男。あの男の、おそらく嫉妬だけではないやさしい忠告を、なぜ自分はまもれなかったのか。
(久米君は、いくつだったろう)
とりたてて若いというほどではないが、自分よりは幾つも下だろう。それに彼のぎこちない、しかし性急な求め方は、何より彼の若さを伝えている。
と、久米の唇が離れ、寝台に乗り上げていた膝が滑り降り、木戸の目の前でまっすぐに伸びた。頭の上で、彼の荒い息がする。
両手が、体の正面でせわしなく動いていた。
吊りベルトの金具が解かれ、釦が外され、毟り取るように引き下ろされた衣の下から、勃ちあがった彼の雄がこちらに向けられる。
「木戸さん……」
呼ばれて木戸はゆっくりと手をのばした。彼のそれへ指先をそえると、見せつけるように舌を出して唇を濡らし、彼の先端へ近づけた。
「木戸さん、」
もう一度、今度はあわてたように名前をよばれる。
「あの……」
彼の手が、自分の指に絡む。久米の声は既に、情事の艶をうしなっていた。
「そ、そういう、意味では……」
「え?」
「あの、横に、なってくだされば……」
最後は消え入るように言う。
――前のように、したかったのです。
と。
「尋常、に……」
「――――あ、」
久米のいう意味を、ようやく木戸も理解した。途端にかっと体が熱くなる。
「す、すまない、てっきり――」
「いえ……」
久米は首を振り、
「そういう、もの、なのでしょうか……?」
顔を赧らめ、眼を伏せて訊いた。
「私は、その、こういうことは、よく……」
わからないのですが。そういわれると、木戸もずいぶん気まずい。
(そういうものかどうかは知らないが……)
木戸にもそれほど口淫の経験があるわけではない。彼を抱いたどの男も、愛撫よりもとにかく早く繋がりたがった。木戸の中がたまらない、とにかく具合がいいのだと、木戸自身にはよくわからないが、皆そう言った。それでもたまに口でするのを望むとき、たとえば井上などは、木戸の鼻先にそれを突きつけた。それを合図に銜えた。その癖がつい、出た。
「あの……」
少年のように、久米は頬を染めていた。それを見た途端、ひどく彼に悪いことをしているような気がしてきた。
『可哀相じゃねえか』
というあの男の――井上の声が、ふたたびよみがえる。
『あんたが惚れてやるっていうなら別だが……どうだね』
久米の手を振り払い、汗の滲んだ掌にそこを握った。
「木戸さん……!」
「このまま、してみないか……?」
久米の目が愕きに見ひらかれる。なだめるように、そっとあまえるように木戸は微笑んだ。
「君さえ、嫌いでなければ」
そもそも、あの夜自分が久米を誘った。誘ったようなものだった。誘っておいて、抱かれておいて――悦んでおいて、あとでひたすら詫びた。いかにも卑怯だった。
「気持ち良く……してあげられると思う」
わざと淫蕩な眼つきで、木戸は久米を見上げた。久米がわずかに身じろぎする。
(いっそ――)
せめて精一杯、久米の欲に応えようと思った。
根もとを手で擦り、吸い上げながら舌を動かす。久米が息を呑む気配がする。わざと大きく音を立てると、口の中のそれが、苦しいほどに怒張した。
(あの日は……)
と、別の男のことを考える。
(最後まで、させてくれなかったな)
もうすぐ海濤万浬を隔てて顔を見なくなるという頃――つまり木戸の出立もさしせまった、今から一年ちかくも前だったろうか。染井の別邸の離れでほぼ一昼夜、ほとんど飲まず喰わずで井上に抱かれた。
当初半年を予定した洋行、それでも全身で井上を憶えておこうと、木戸は彼を口に含んだが、いい加減なところで突き放された。
「もう――」
脚、ひらけよ。乱暴に言って、井上は木戸を押し倒し、中に入ってきた。
「ああ、いい」
可笑しいほどにしみじみと、井上は洩らした。
「惜しいなあ」
「ん……っ。な、何……」
何が、惜しいというのか。尋ねたかったが、すぐに井上が動きだし、そのきつい律動のせいで息がつづかない。が、井上は井上でそれを言っておきたかったのだろう、木戸が最後まで問わないうちに、勝手に喋りだした。
「誰にも、触らせたくねえなあ」
井上の雄が、木戸の好きな場所を押しあげる。背をしならせて啼くと、いいな、ともう一度言って井上は笑った。からかっているのではない、真実嬉しそうな微笑みだった。そうして少しだけ、しかし木戸がはっとしたほどの翳りを帯びていた。
「あんた、向こう半年の間、大久保ひとりじゃとても体がおさまらねえだろ」
なあ、と呼びかけながら奥を突かれる。
「や……、あ」
「だから、仕方ないんだけどさ」
井上の指が、短くなった木戸の髪に絡む。毛の先まで、彼の熱を感じていた。触れられた瞬間、ぞくりと血が泡立って、井上の皮膚を透き通って彼の中へ融けてゆく気がする。
仕方ないとは思っちゃいるんだが、と井上は繰り返した。
「俺に操を立てろだとか、そんなことがいえた義理じゃないのはわかってるんだけどな。だけど、それでもやっぱり本当のところは、あんまりいろんな男には触れさせたくねえよ」
「聞多、」
「なあ、さわらせんなよ」
木戸の頬を、井上の指が撫でてゆく。その指先はすこし、冷たかった。
「まったく誰にもとはいわねえから、なるべく、さ」
唇が、降りてくる。彼には似合わずやわらかでやさしいそれは、木戸の唇をとらえて軽く吸い、すぐに離れた。
「あんたが我慢したぶんだけ、あとでうんと可愛がってやるから」
最後は、冗談にまぎらして笑った。その顔にもやっぱり、昼のおわりのような翳がさしていた。秋の、せいだったろうか。
「第一さ」
と井上は角度を変え、体重をかけて攻めてきた。おもわず鋭く声をあげると、あやすように頭を撫でられる。
「相手の男が気の毒じゃねえか。今までそこそこの女郎かなにかの体で満足してきたものを、世の中にこんな佳肴のあるのを突然知っちまうんだぜ。それであと、どうするよ」
「ど、どうする、って……」
「あんたが惚れてくれるなら格別、そうじゃなけりゃこれはもう地獄だぜ。夜ごとあんたの体の夢に魘される」
「そんな、こと……」
「大久保みたいな海千山千の妖怪ならそれも上手に愉しめるだろうが、相手が若い奴だった日には、とことんあんたに迷っちまうだろうさ」
だから、やめておけと井上は言う。木戸はわかったようなわからないような、ただもう井上にあたえられる感覚の切なさに、夢中で頷いた。気の毒だからな、と念を押すように言った井上の声を、夢うつつに聞いた。
………………………………………………
(久米君は、いくつだろうか)
口いっぱいに彼を頬張りながら、さっきとおなじことを考えた。
その間も、淫猥な舌の動きで男を追い立てる。片手でひきちぎるように上着を脱ぎ、襯衣(シャツ)を寛げた。さらに洋袴(ズボン)の前をあけて、既に硬くなった自分のそれを取り出す。片手と口で久米を味わいながら、もう一方の手で自身を慰めた。久米にも、きっと見えているだろう。頭の上に聞こえる彼の息はいよいよ荒く乱れて、それがまた木戸の痴情を煽りたてる。
「んっ……、ん、」
襯衣の肩を抜き、久米の視線の下に肌を晒す。手の中で屹立したそれの先端からは、期待のしるしが溢れ出ていた。その蜜を塗りつけて、さらに扱く。口を動かす速度と、手のそれとを合わせると、久米のものと自分のとがひとつになった気がして、その想像の卑猥さに、木戸はだらしなく声を洩らした。
直接的にうける刺戟のためか、視界にひろがる淫らな光景のためか――おそらくその両者なのだろう、久米も駆けるように昇りつめていく。
髪の間に手を入れられ、ぐっと後頭部を押しつけられた。
「ぅん……っ」
おもわず噎せかえりそうなほどに苦しかったが、木戸は喉をひろげるようにして、久米を根もとまで呑み込んだ。そのまま久米の手に抑えられて、二度、三度と深く抜き差しを繰り返す。
「木戸さん……!」
喉の奥で、久米の熱い慾が弾けた。
「…………、」
飲みほすつもりでいたのに、久米の放ったものの量は予想外だった。無理に飲もうとして、飲みきれない粘液が、変なところにひっかかる。木戸は喉元に手をやり、大きく咳き込んだ。
「あ、」
久米が膝を折った。
「木戸さん」
わずかにふるえる手が、背中に降りてくる。
「大丈夫ですか」
すみません、と狼狽して詫びる彼の胸に顔をうずめて、呼吸をととのえた。
「心、配ない……ちょっと、びっくりして……」
愕きの意味は、久米には伝わらないようだったが。
「ああ、」
ようやく息のおちついた木戸は、口のはしを手で拭い、それからちょっと下を向いて、久米のそれを浴びた自分の胸から腹のあたりを確認した。
「こぼしてしまった……」
指先で掬いとり、口にはこぶ。指の股に溜まっているのを舌で舐め、そのまま指先へゆっくりと舐め上げると、青臭い、淫慾の味がした。もっと、と思う。が、その痴戯に耽る間もなく、久米に体ごとぶつかられ、視界が反転した。
「久米、君……」
ぞくりと身を慄わせる。久米の瞳は、おそらく彼自身も知らないであろうほどの、荒々しいかがやきに盈ちていた。
「欲しい、です……」
低い声で囁かれる。
「ん……?」
「あなたが、欲しい」
その眼に射抜かれることを、不覚にも悦びに感じた。
「今だけ、私にあなたをください」
――全部。
耳朶に唇を押しあてて、肚にこたえるような声を、体の中に注ぎ込まれた。木戸の体が大きく撓み、寝台が軋む。覆いかぶさってきた久米の体に、硬さを感じる。彼の中心が、早くも再び存在を主張しはじめているのだった。
久米ももう抑えがきかないのだろう。馴らしきらないうちに挿れられた。
狭い肉の襞をいっぱいに押しひろげられて、木戸の全身から、情火のためばかりではない汗が噴きだす。それでも、
「痛いですか……?」
と気遣わしげに訊かれたとき、迷わず首を横に振った。
苦痛は、たしかにある。けれどすぐに、熟れた体はわずかな快感をひろいあげて、さらに深いところへ溺れられる。久米にはわからなくとも、木戸自身はそのことをよく知っていた。
(ああ、それに――)
と、ふと前回の夜のことを思う。
初めて久米と体をかさねたいつかの夜は、大久保に馴らされ、高められたあとだった。それを思うと今夜は本当に初めて、何もかも最初から久米に抱かれるのだ。――そう気がついて木戸は、あらためての気羞ずかしさと淫らな期待に、体の芯が烈しくわななくのを感じた。
「狭い……」
と久米が呟く。彼はかならずしも苦しそうではなかったが、木戸はいつも井上にいわれてそうするように、どうにかゆるめようとゆっくりと深呼吸をくりかえす。その間も、粘膜のそこかしこにはっきりと久米の形を感じていた。
(熱い……)
灼けた楔を打ち込まれたように、体の奥がじくじくと疼く。その感覚を逃がそうと、顫える胸をおさえて、ゆるゆると熱を吐きだす。
何度目かの息を吐いたあとにつづいて、久米が動きだした。
「あ……あ、」
濡れた音が耳を犯す。痛みのやわらぐ合間を縫って、徐々に快感を追ってゆく。
――が。
「あぁ、」
不意に久米が悲痛な声を洩らした。どうしたのか、と思う間もなく、自分の中に彼の精が迸るのを感じた。
「――――あ……」
飛沫を打ちつけられる感触に、体がふるえる。久米は、何とか押しとどめようとしたのだろう、歯を喰いしばっていたが、やがてそれが悲しげな顔に変わり、ついにはその表情も消えて、恍惚として木戸の体へ倒れこんできた。二度、三度と久米におこる痙攣に眉を寄せ、息を詰めながら、木戸は彼の重みをゆったりと受けとめる。
「ん……」
完全には硬さを喪っていない久米に、穿たれたままの体がもどかしい。それでも、喘ぐように息をしている彼の背を、ゆっくりとさすってやった。
「すみま、せん……」
木戸に体重をあずけたまま、久米が謝罪のことばを口にする。鎖骨のあたりにうけた彼の吐息がしっとりと湿っていて、木戸はまた体をこわばらせる。
「こんなに、」
久米の声は悔恨にみちていた。そうしてまるで処女のように、可憐なほどの羞恥を滲ませていた。
「こんなに早く……私だけ……」
「久米君、」
そっと彼の乱れた髪をかきあげてやる。その手にうながされるように、久米が顔をあげる。おずおずと木戸の表情を窺うような、その眼。
(そんな顔をしなくてもいいのに)
久米が恥じることなど何もない。
(むしろ、愧ずべきは――……)
久米を受け容れたままのそこが、切なげに収縮する。久米も、気づいているだろう。気づいていて彼は――気づいているからこそ、この体に置いてけぼりを喰わせて果てたことを詫びているのだ。
(大久保だけではおさまらない――か)
出立前に井上にいわれたことを思い出す。
(大久保までは、譲歩するんだな)
なるべく他人に肌を触れさせるなと言った井上も、大久保とのことだけは別物と心得ているようだった。
たしかに、木戸には大久保が必要だった。そうしてその必要であるということ、その複雑さがときに死ぬよりもつらいので、木戸はいっそ、体で繋がってしまうことにした。肉欲によってもとめあうのだと、自己を瞞着してしまうために。
それをとりたてて説明した覚えはないが(したくもなかった)、井上は井上なりに、木戸の心を――、木戸の体の主であるところの魂――西洋風にいえば――のかたちを忖度もすれば、ある程度同情もしてくれているようだった。井上のその粗けずりなやさしさと、彼のまったく彼一個のなまな感情とのぎりぎりの交点が、
『大久保だけなら』
ということなのだろう。
『それでも、その体じゃなあ』
とあの男は言った。
『しょうがねえんだろうけど、なあ……』
できるかぎり、誰にもさわらせたくない、と。
そのとき彼の顔に差した翳を、まだ憶えている。誰にも――当の井上にすらついに言うつもりのないことだが、あの日祖国を離れる船が港を遠ざかり、はるか海霧のむこうに陸影が消えるころ、急に、芝居の書割が順番を間違えてとびだすように、井上のその顔が木戸の脳裡にまったくちぐはぐに、しかし鮮やかに映り込んだ。そのとき木戸は、何の理由もないことながら、井上の言ったとおりにしようと思った。この洋行の間、大久保以外の肌は知るまい、と――。
(それを)
その誓いを、こんなにも早く、たやすく破った自分ではないか。そもそも久米は木戸に何もそれらしいそぶりは見せなかったのに、木戸が彼を誘った。大久保に煽られた体が辛いからと、自分勝手な言い訳をして――。
『惚れてやるわけでもないくせに』
井上の声が――あのときは熱っぽく言っていたはずのそのことばが、冷えびえと体の中を通りぬける。
『若い奴を迷わせちゃあ気の毒だろう』
その声の記憶を追い出してしまうように、はあ、と大きく息をつく。そのわずかな刺戟に、すこし熱があがった。
じっと抱き合っているうちに、木戸の中で久米が恢復している。
「久米君、」
汗ばんだ背をするりと撫でおろして、
「君は、齢(とし)はいくつだったかな」
ずっと考えていたことを尋ねた。久米は木戸のその問いにいくらか面食らったらしく、一瞬首をかしげて、
「取って……四、でしょうか」
「若いな」
「そうでしょうか」
「若いさ。私などもう不惑だからね」
もっとも、と木戸は唇のはしで笑った。
「惑ってばかりいるがね」
「あなたは――」
と、久米の指先が頬に添えられる。つづいてささやかれた言葉は、木戸にはひどく意外だった。
「美しい、方です――――」
木戸の中のやわらかさをたしかめるように、ゆっくりと、しかし弾力を感じさせる動きかたで、久米が抽挿をはじめる。すでに二回放ったとは思えないほど彼は力強く、熱かった。
「っ……」
何度か脚を抱えなおされ、微妙に違った角度を試される。そのうちに、久米はその一点をさぐり当て、ぐっと突き上げてきた。
「あ――」
「ここ、でしたね」
「久、米く……、」
「あとは、奥」
「あぁ……っ」
びくりと体が跳ねあがり、背がひとりでにしなる。ぎこちなかった前回よりも、久米は確実に木戸の弱点を狙い、巧みに緩急をつけてきた。
「あ……あ、」
「いいですか?」
それでも、どこか遠慮がちなその顔。
(久米仙人、か……)
誰が言いだしたのかしらないが、久米につけられたあだなのことを思い出す。およそ険というもののない温容と、謹直な性格で知られた彼の、こんなときにも決してうしなわれないその美質を、木戸はどこかさびしい思いで眺めた。我を忘れて耽ってほしいというのではない。むしろ――――
(彼は、本来そうあるべきだのに)
甘酸っぱい罪悪感が、木戸の胸を占める。
「久米君、」
胸から押し出された吐息が、縋るような声になって彼の名を呼ぶ。
「君は、今まで男は……?」
わかりきっていたのに、なぜそんなことを訊いたのだろう。
果たして久米は、首を横に振った。
「あなただけです」
背中に手をまわされ、持ち上げるようにして抱き締められた。
「あ……」
「これからも」
あなただけです、と久米は絞りだすように言って、唇を噛んだ。その表情に堪ええずにそっと唇をかさねたのは、卑怯というものだったろう。
「木戸さん」
貪るように、久米の舌が絡む。
「今だけ、です……」
強く、やさしく穿たれる。あまり近くにある久米の顔は、熱に霞む眼にはよく見えないが、耳許に囁かれる彼の声は苦しげで、苦しいぶんだけ甘く、背筋が痺れた。
「大使閣下以下、遠く邦家を去って、あおぎ見るような文明の威容に接しています」
久米は木戸を揺さぶりながら、唐突にそう言いだした。木戸がわずかにおどろいて見上げると、彼はしずかに笑い、はにかんだような、また泣いているような顔で眼をふせた。
「ひところをおもえば、何もかも夢のようです」
「夢……」
「いずれ帰朝しても、やはり夢だったと思うのではないでしょうか」
「…………」
久米のいうことは断片的で精確にはわからないながら、その空気のようなものは、ともに洋行の途上にある木戸には、なんとなく察することができた。
(今のままではな――)
なるほど、夢だったということになるのかもしれない。
こうして西欧を歴訪しても、なにしろ本国との間にはその国力と政治基盤の堅牢さにおいて懸絶がありすぎる。内地の連中は、それをわかっているかどうか。もし大使以下、自分たちにして帰朝後なすところ薄ければ、結局はただ長ながと物見遊山に来ただけのことに終わるだろう。
しかし、今の今、なぜ久米がそんなことを言い出したのか。久米の表情の奥にあるものを読みとろうとするように、ぼやけた視界のなかで眼をこらしていると、ふ、と彼の笑う声が聞こえ、
「木戸さん」
もう一度名前を呼ばれ、頭を抱かれた。
「その、夢であることに、甘えてみたいのです」
耳朶をやわらかく噛まれ、唇は徐々に降りていって、首筋を啄まれる。震える背を、なだめるように撫でられた。
「異邦にあるこのひとときは、夢なのだと――」
「久米君……」
「どうか今だけ、夢を見させてください」
久米の腕が、きつく木戸の体を抱いた。その力強さがひどく切なく思えて、体の奥で彼を締めつける。
「今だけです……」
と久米はくりかえす。
「帰朝したらきっと、あちらでお待ちの方に返してさしあげますから」
――その方を、お好きなのでしょう?
いつかも言ったことを、久米は細くひとり歎くようにささやいた。なぜそう思うのかと問い返すことすら憚られるほど、彼の声は甘ぐるしい痛みに盈ちていた。
「今だけ、私にください」
言いおわると同時に、久米が激しく動き出す。木戸は眼を閉じ、久米の背に腕をまわした。肉の薄い彼の体を、しっかりと抱きとめる。
久米はあとはなにもいわなかった。沈黙の中で、息遣いとともに感じる彼の情熱の濃さが、息苦しいほどだった。名前を呼びたかったが、彼を傷つける気がして、木戸は唇をきつく噛んだ。その唇を、久米に啄まれ、うすくひらいたところを深く吸われる。彼は多分、こちらの言いたかったことばを知っていたろう。
最後の瞬間、瞼の裡に井上の顔がうかんだ。白く弾けてゆく体の感覚とともにそれは消え、あとには汗みずくの体と、久米の重みが残った。
[27回]
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